八人の戦い方
最初に動いたのは、ゼグだった。
彰人へ向かって地面を蹴った巨体は、昨日までと変わらず真正面から迫ってくる。
だが、その背後で動き始めた七人を見た瞬間、彰人は同じ攻撃ではないことに気づいた。
ベルンがゼグとは反対側へ回り込み、ミリアは一度大きく外へ膨らんで視界から消える。上空ではフィルネが翼を広げ、アルネアは地面へ指先を触れながら、木々や岩の間へ細い糸を張り巡らせていた。
さらに離れた場所では、ナーシャの術が地面を変色させ、その隣でヴォルグが水を操っている。
八人が同じ場所へ集まっているのに、誰一人として同じことをしていない。
「……そういうやつか」
昨日、十三将が見せた連携とは違う。
十三人は、それぞれの役割を一つの目的へ向け、決められた流れを寸分違わず繋いできた。
対して八傑の動きには、最初から完成した一つの形が見えない。
ゼグが何をするか。
それを彰人がどう処理するか。
その結果を見て、次の誰かが動く。
攻撃そのものではなく、彰人の反応までを含めて連携が組み替わっていく。
『行くぞ!』
ゼグの拳が迫った。
神装した今なら、昨日のように身体全体を使わなくても流せる。
彰人は右の手甲を拳へ添え、その勢いを外側へ逃がそうとした。
だが、身体を捻りかけたところで足が止まった。
流した先の地面に、細い糸が張られている。
「そこか」
完全に流し切る直前で手を離すと、処理しきれなかった衝撃が右腕を抜けた。
痛みというほどではないものの、手甲の内側で指先が僅かに痺れる。
それを確認する暇もなく、反対側からベルンが迫った。
『そこだ!』
横薙ぎの一撃を上体を反らして避ける。
そのまま後方へ距離を取ろうとした彰人の足元へ、水が走った。
「うおっ」
地面を薄く覆った水へ靴底が触れ、僅かに滑る。
体勢を立て直そうと踏み込めば、その先にはアルネアの糸。
反対側にはナーシャの術で色を変えた地面があり、上空ではフィルネが次の攻撃へ入っている。
彰人は舌打ちする代わりに、前へ出た。
後ろにも横にも行けないなら、ゼグのいる方向しかない。
『なっ――』
「そこ借りるで!」
ゼグの肩へ手を置き、その巨体を軸に身体を半回転させる。
直後、フィルネの攻撃が彰人のいた場所へ落ち、地面から土が弾けた。
着地した先へ、小さな影が飛び込んでくる。
ミリア。
「おった!」
『いるよ!』
「知ってるわ!」
ミリアの蹴りを手甲で受ける。
軽い。
だが、受けた瞬間にはミリア自身がもうそこにいない。
彰人がその姿を追おうとしたところへ、今度はナーシャの術が伸びる。
避けた方向へアルネアの糸が張られ、さらにヴォルグが流した水が足場を変えていく。
一人を見ていては間に合わない。
八人全員を同時に見ることもできない。
だから彰人は、攻撃そのものではなく、八人が作っている流れを見ることにした。
ゼグが押す。
ベルンが逃げ道を削る。
アルネアとナーシャが、選べる場所を減らす。
ヴォルグが足場を変え、フィルネが上から視線を散らし、ミリアが生まれた死角へ潜り込む。
そしてゴルガは、まだ来ない。
その巨体だけが、少し離れた場所で彰人を見ている。
「……最後がお前か」
呟いた直後。
ゼグが踏み込んだ。
彰人は拳を受け流す。
次にベルン。
身体を沈めて避ける。
水を踏まない。
糸は跨ぐ。
ナーシャの術を見て半歩だけ戻る。
そこへミリアが来た。
「はいはい!」
『何で分かるの!?』
「そこしかないからや!」
蹴りを受けた腕を、そのまま押し返す。
ミリアの軽い身体が後方へ跳び、彰人の正面が開いた。
同時に、地面が鳴った。
ゴルガだ。
最初から狙っていたのは、この瞬間だった。
「やっぱり来るんかい!」
避けられる場所は少ない。
それ自体が八傑の狙いなのだろう。
彰人は逃げず、両腕を前へ出した。
ゴルガの巨体がぶつかる。
神装の手甲が受け止めた瞬間、腕だけでなく肩から背中まで衝撃が抜けた。
「っ……重っ!」
足元の土が削れる。
一歩分。
それでも止まらず、彰人は腰を捻った。
真正面から止める必要はない。
押し寄せる力の向きを拾い、円を描くように横へ逃がす。
ゴルガの身体が傾いた。
その先にいたゼグが目を見開く。
『おい!』
『避けろ!』
二人とも動いた。
だが、間に合わない。
肩と肩が激しくぶつかり、ゼグが地面へ転がった。ゴルガも数歩よろめき、そのまま片膝をつく。
彰人は追わなかった。
八傑の残りも、すぐには動かない。
数秒だけ、戦場の流れが止まる。
彰人はゆっくり右腕を下ろすと、手甲の中で指を握った。
動く。
怪我もない。
それでも、腕から肩にかけて妙な重さが残っている。
「……神装しててこれか」
小さく呟き、ゼグを見る。
「大丈夫か?」
『敵に聞くな!』
「いや、今のは痛いやろ」
『お前がやったんだろうが!』
「せやけど」
立ち上がろうとしたゼグが、右脚へ力を掛けたところで僅かに顔を歪めた。
隣ではゴルガが肩を回そうとして、途中で動きを止めている。
大怪我ではない。
だが。
『二人とも下がれ』
ベルンが言った。
『まだ動ける!』
ゼグが即座に返す。
『動けるかどうかの話じゃない。今のお前らを入れたまま続ければ、次は連携が崩れる』
ゼグが言葉を止めた。
八人で彰人を囲み、相手の反応に合わせて攻撃を繋いでいた。
そこへ僅かでも遅れが出れば、彰人に隙を与えるだけでは済まない。
今のように、味方同士が衝突する危険さえある。
ゴルガも自分の肩を確かめると、悔しそうに息を吐いた。
『治して戻る』
「いや、戻ってこんでええよ」
『戻る』
「何でそこだけ即答やねん」
ゴルガはもう答えず、ゼグとともに接敵していた位置から後方へ下がっていった。
八人が六人になる。
それでも戦いをやめる気配はない。
ただし。
彰人一人へ八傑の戦力を集中させた代償は、別の場所にはっきり現れていた。
◇
雅史は、目の前から八傑がいなくなったことで、周囲を見る余裕ができていた。
向かってくる一般兵の槍を横へ払い、踏み込んできた身体の向きだけを変える。
兵士は勢いのまま横へ数歩走り、別の兵士とぶつかりそうになって慌てて足を止めた。
「危ないよ」
『お前がやったんだろう!』
「だから止めたんだけど」
兵士が何か言い返そうとした時には、雅史はもう次の二人へ向いていた。
昨日までなら、その間にも八傑から攻撃が来た。
今日は来ない。
足元の装具で地面を踏み、左右から来た二人の盾へ順番に掌を当てる。
片方の力を僅かにずらし、もう一人の進路へ重ねるだけで、二人は互いに邪魔をする形で止まった。
倒す必要はない。
通さなければいい。
八傑が彰人へ集中したことで、その単純な仕事へ使える時間が増えていた。
少し離れた場所では、智臣も同じ状況になっている。
智臣は棍を構えたまま、しばらく前を見ていた。
来ない。
昨日まで対峙していたヴォルグも、今日は彰人を囲む八人の中へ加わっている。
『来ぬな』
背後から低い声がした。
「ああ」
『避けられたのではないか』
「誰が?」
『お前が』
智臣は少し考えた。
「……あり得るな」
『認めるのか』
「昨日の様子を見る限り、否定する材料がない」
ラギアはしばらく黙ったあと、どこか満足そうに喉を鳴らした。
その間にも一般兵は来る。
智臣は棍の先を槍へ添え、押す方向を僅かに変えた。兵士の身体が横へ流れ、後ろから来た者の進路を塞ぐ。
盾を構えた者には、棍を下から差し込んで持ち上げる。
開いた身体へ一歩近づき、肩へ手を添えて後方へ向きを変えた。
『何をしている!』
「通していない」
『そういう意味ではない!』
「なら質問が曖昧だ」
『くっ……!』
兵士が悔しそうに下がる。
ラギアがそれを眺めてから言った。
『やはり、お前は嫌われるのではないか』
「なぜそうなる」
◇
前線から抜ける兵の数は、八傑が彰人へ集中したことで明らかに減っていた。
だが、ヴァルネシア側も昨日までと同じ戦い方を続けてはいない。
優斗は少し高い場所から戦場を見渡し、十三将が一か所へ集まり始めていることに気づいた。
「……今度はまとめて来るんだ」
隣で翼を休めていたナギも、その流れを追っている。
『そのようだな』
清隆が作った陣は、道を一本に限定しているわけではない。
斜面の角度、木々の位置、足場の硬さ。
遠くまで見通せる場所と、死角になる場所。
進む側が危険を避けようと判断するほど、自然と同じ方向へ足を向けてしまう。
昨日から何度もそこを通ったヴァルネシア軍は、ようやくその性質を理解し始めていた。
回避できないのなら、利用する。
兵が最も集まりやすい場所へ、十三将もまとめて投入する。
「清隆」
『見えてる』
「地形、変えられる?」
『変えられるよ』
「たぶん、待ってるよねえ」
優斗が弓へ矢を番えながら言うと、清隆は少しだけ間を置いた。
『変えたところを使うつもり?』
「たぶん」
『じゃあ変えない』
「うん。その方がいいと思う」
十三将の前を一般兵が進んでいる。
優斗が矢を放てば、兵はすぐに散った。
昨日の経験がある。
空を見る者もいる。
盾を構える者もいる。
その動きによって生まれた隙間を、十三将が前へ進んだ。
「ちゃんと覚えてるなあ」
優斗は感心したように呟き、一本の矢を空へ放つ。
高く。
十三将の視線も上がった。
矢が頂点へ達したところで分かれる。
降り注ぐ無数の矢。
狙うのは人ではない。
足元、進路、武器。
矢が地面へ突き刺さるたびに進める場所が削られていく。
それでも、十三将は止まらなかった。
前で伏せた兵士の背へ足を掛け、盾を足場にして跳ぶ。
踏まれる側もそれを理解して身体を低くし、後続を前へ送り出していた。
「そこまでやるかあ」
優斗の声から、僅かに笑いが消える。
清隆が小さな金属製の槌で地面を叩いた。
乾いた音が響き、その先の地面が盛り上がる。
十三将の一人が跳んだ。
越える。
着地した先で次の者が続く。
昨日までなら止まっていた場所を、少しずつ抜けてくる。
優斗と清隆が押されているわけではない。
ただ、相手の数が多い。
誰も傷つけず、全員を止めようとすれば、どうしても僅かな隙間が生まれる。
その隙間を。
ヴァルネシア側も、ようやく使い始めていた。
◇
桜子は、大盾を地面へ立てたまま前を見ていた。
中衛を抜けてきた人数は多くない。
だが、昨日より確実に増えている。
「よう来たなあ」
地面を塞ぐように伸ばした障壁の前で、兵士たちが止まる。
横へ走る者もいた。
しばらく進み。
まだ続く障壁を見て、足を止める。
『どこまであるんだ、これは!』
「結構あるで」
『結構とはどれくらいだ!』
「知らん」
『お前が作ったんだろう!』
「長めにしよ思ただけやからなあ」
兵士は何とも言えない顔をした。
その時。
空気を裂く音が聞こえた。
桜子が顔を上げる。
大型の弩から放たれた矢が弧を描き、その後ろから投石器の岩塊が飛んでくる。
さらに遠くでは、大人数の魔術部隊が術式を組み始めていた。
「増やしてきたなあ……」
横へ伸ばした障壁は、地上を進む相手には強い。
だが、空まで覆っているわけではない。
桜子は大盾を握り直し、必要な場所だけ障壁を上へ伸ばした。
矢が弾かれる。
投石器から飛来した岩塊が障壁へ当たり、軌道を変えて誰もいない地面へ落ちる。
魔術の光が重なり、障壁の表面で散った。
一度では終わらない。
次の弩が来る。
別の投石器が動く。
魔術部隊も術式を組み直している。
「いや、多いわ!」
桜子は大盾の位置をずらし、次に来る攻撃へ意識を向ける。
防げないわけではない。
地上の兵も止められている。
ただ、攻撃の数が増えるほど、自分一人で見なければならない範囲も広がっていく。
その様子を後ろから見ていた洋一は、前線から後方まで一度視線を巡らせた。
彰人たちは崩れていない。
優斗と清隆も同じ。
桜子も、まだ余裕はある。
それでも戦線全体では、人数の差が少しずつ形になって表れている。
誰も殺さない。
必要以上に傷つけない。
そのうえで、一人も裂け目へ通さない。
十人で軍勢を相手にする以上、強さだけでは埋められない部分があった。
「桜子さん」
「何や!」
「少しだけ任せてもらえますか」
「何する気や?」
「押し戻します」
桜子は一瞬だけ洋一を見た。
「……派手にやりすぎなや」
「そのつもりです」
「その返事が怖いねんけど」
洋一は小さく笑うと、前へ出た。
その歩みに合わせるように、背後の空気が揺らぐ。
「テンレイ」
呼びかけに応じ、龍が姿を現した。
長い身体を空中へ巡らせながら洋一の背後へ回り、その大きな頭をゆっくりと持ち上げる。
風が変わった。
先ほどまで森を抜けていた風とは違う。
洋一を中心として空気が巡り始め、その流れに呼応するように装甲が現れる。
肩、胸、腕、腰から脚へ。
龍の鱗を思わせる意匠を持つ鎧が身体へ重なり、最後の装甲が収まった時には、周囲の草木まで同じ方向へ靡いていた。
洋一は長柄の装具を握り、障壁の向こうにいる兵たちを見る。
「下がってください」
声は穏やかだった。
当然、それだけで軍勢が退くことはない。
洋一も分かっていたのだろう。
「ですよね」
長柄を横へ振る。
最初に動いたのは、足元の草だった。
次いで土埃が地面を這い、兵士たちの衣服が大きくはためく。
さらに風が厚みを増した。
上へ巻き上げない。
地面へ叩きつけない。
刃のように身体を切ることもない。
ただ、前へ進もうとするすべてのものを、巨大な壁で押し返すような風だった。
兵士の足が滑る。
盾を地面へ立てても、身体ごと後ろへ押されていく。
大型弩から放たれた矢は風に煽られて進路を外れ、投石器から飛んできた岩塊も勢いを失って手前へ落ちた。
魔術の光さえ軌道を乱され、桜子の障壁へ届く前に地面を穿つ。
障壁の後ろから顔を出した桜子が、その光景を眺めた。
「……でっかい扇風機やな」
洋一が一瞬だけ振り返る。
「もう少し何かありません?」
「ほなドライヤー」
「もういいです」
「何でや」
緊張の抜けたやり取りとは裏腹に、風は戦場を確実に押し返していた。
前へ出ていた兵が下がり、その後ろにいた者も押される。
中衛まで届こうとしていた流れそのものが崩れ、戦線は僅かながらヴァルネシア側へ戻っていった。
◇
その変化を、ガルディオはヴァルネシア側の後方から見ていた。
八傑を投入した。
十三将もいる。
一般兵だけでなく、大型弩や投石器、魔術部隊まで加えた。
それでも裂け目へ近づけない。
むしろ今は、押し戻されている。
『……行く』
ガルディオの低い声に、隣のアルディウスが視線を向けた。
『八傑はまだ退いていない』
『だからだ』
前線から目を離さないまま、ガルディオは続ける。
『あれだけの者を八傑が相手にして、それでも後ろを通せぬ。これ以上、兵だけを増やしても消耗する』
アルディウスは止めなかった。
ガルディオが歩き出す。
前方の兵士たちが、その姿に気づいた。
誰かが道を空ける。
隣の者も続く。
命令が伝わったわけではないのに、兵の列が左右へ分かれていった。
やがて八傑も気づいた。
ベルンの視線が、彰人ではなく、その向こうへ向く。
ナーシャが動きを止める。
ミリアも距離を取った。
それまで自分へ向けられていた意識が一斉に外れたことで、彰人も異変に気づいた。
八傑の視線を辿る。
ヴァルネシア軍の中を。
一人の男が歩いてくる。
「……来たか」
彰人はその姿を知っている。
王都でも見た。
三柱の一人。
ヴァルネシア軍を預かる男。
ガルディオ。
遠目に見た時とは違う。
近づくほど、周囲の兵士が自然に道を空けていく理由が分かる。
大柄だからではない。
武器を振り上げているわけでもない。
ただ歩いているだけなのに、その身体に蓄えられた力を、彰人の感覚が先に拾っていた。
「……さすがに八傑とはちゃうか」
ガルディオは六人の前を通り、彰人と向き合える距離で止まった。
『八代彰人』
「覚えてたんやな」
『当然だ』
短い返事だった。
彰人もそれ以上は聞かない。
手甲を構える。
ガルディオが腰を落とした。
それだけで、彰人の意識が目の前へ絞られていく。
来る。
そう思った時には、ガルディオが地面を蹴っていた。
「っ!」
拳と手甲が衝突する。
彰人は受けた瞬間に力を横へ流そうとした。
だが。
重い。
方向を変えるより先に、押し込まれる。
靴底が土を削り、身体が後ろへ滑った。
一歩。
さらに半歩。
ようやく止まる。
「……ほんまに重いな」
腕は動く、怪我もない。
それでも、八傑の誰か一人から受けた時とは明らかに違う感触が残っている。
ガルディオは追った。
二撃目。
今度は受けない。
彰人は半身になり、拳へ手甲を添えた瞬間に身体ごと回った。
ガルディオの拳が横へ抜ける。
風圧が頬を打つ。
彰人も一歩離れる。
ガルディオも追わなかった。
二人の間に、僅かな距離ができる。
互いに相手を見る。
八傑も、雅史も、智臣も。
すぐには動かなかった。
戦場そのものはまだ騒がしい。
それなのに、前線の中心だけが妙に静かに感じられた。
ガルディオがもう一度重心を落とす。
彰人も両腕を上げた。
その時だった。
『そこまでだ』
遠くから届いた声に、ガルディオの動きが止まった。
アルディウス。
彰人も視線だけを向ける。
いつの間にか、日は大きく傾いていた。
長く伸びた木々の影が戦場へ入り込み、朝から動き続けていた兵士たちにも疲労が見えている。
負傷者を後方へ運ぶ姿もあり、大型弩や投石器の周囲では次の攻撃に必要な準備が遅れ始めていた。
八傑も同じだった。
六人はまだ立っている。
だが、朝と同じ状態ではない。
戦えることと、戦い続けるべきことは別だった。
『全軍、退け』
アルディウスの命令が戦場へ伝わる。
『負傷者を収容し、補給を行う。前線に残る必要はない』
停戦を申し入れたわけではない。
明日まで攻撃しないと約束したわけでもない。
ただ、このまま続けても得るものより失うものの方が大きい。
そう判断した撤退だった。
ガルディオはしばらく彰人を見ていたが、やがて構えを解いた。
『命令だ』
「せやな」
彰人も腕を下ろす。
ガルディオが背を向ける。
数歩進んだところで、一度だけ止まった。
『次は、もう少し続けたいものだ』
「次あんの?」
彰人が眉を寄せる。
『あるだろう』
「なくてええんやけど……」
ガルディオは答えず、そのまま歩いていった。
横を通り過ぎたベルンが、ぼそりと言う。
『お前も大概だぞ』
「何がや!」
返事はない。
八傑も続く。
十三将が兵をまとめ、前へ出ていた部隊から順に後退していく。
すぐに追える距離から姿が消えても、洋一は帰還の指示を出さなかった。
誰も武器を下ろさない。
森の向こうへ人影が消えても。
気配が遠ざかっても。
しばらく待つ。
彰人も神装を解かず、ヴァルネシア側を見ていた。
やがて智臣が静かに言った。
「十分離れた」
優斗も上空を確認していたナギから情報を受け、頷く。
「戻ってるねえ。今のところ引き返してくる感じもないよ」
そこで初めて。
洋一が長柄の装具を下ろした。
「こちらも戻りましょう」
◇
戦場から拠点へ戻る道は、来た時よりも長く感じられた。
危険があるからではない。
張り詰めていたものが解け始めたせいだった。
彰人は歩きながら神装を解く。
身体を覆っていた装甲が消え、いつもの服へ戻ると、それまで意識していなかった重さが肩から腕へ残っていることに気づいた。
右手を握る。
開く。
もう一度握る。
「……あれ?」
隣を歩いていた雅史が気づいた。
「どうしたの?」
「いや」
彰人は肩を回した。
痛いわけではない。
動かせないわけでもない。
ただ、長時間身体を使った後のような重さがある。
「これ明日、筋肉痛なるんちゃう……?」
雅史が少し笑う。
「神装しててもなるの?」
「俺が聞きたいわ」
後ろを歩いていた智臣が言う。
「筋肉を使っていないわけではないんだろう」
「夢ないこと言わんといてくれる?」
「事実だ」
「神様パワーで何とかならんの?」
「知らない」
「そこは何とかなる言うてや」
誰も大きな怪我をしていない。
それを確認できたからこそ、そんな会話ができた。
拠点の灯りが木々の向こうに見え始める。
戦場では感じなかった匂いもした。
食事の支度、湯気、人が戻る場所の匂い。
先に拠点へ残っていた智希と恭平が、戻ってくる一行に気づいた。
「おかえりー」
「お疲れさまっす」
「ただいま……」
彰人の返事だけが妙に疲れている。
智希が首を傾げた。
「負けた?」
「勝ち負けちゃうわ!」
「元気じゃん」
「お前なあ!」
反射的に突っ込んだ彰人は、その勢いで右肩を動かし、僅かに顔をしかめた。
智希が見逃さない。
「あ」
「何や」
「痛い?」
「痛ない」
「今、痛そうだった」
「重いだけや」
「筋肉痛?」
「まだちゃう!」
「明日だね」
「嬉しそうに言うな!」
恭平が苦笑しながら、彰人の手元を見る。
「装具、大丈夫っすか?」
「そっちは何ともないで。俺の身体の方や」
「じゃあ、靴も大丈夫だったんすね」
「靴?」
「昨日見たやつっす」
「ああ。全然問題なかったわ」
恭平の表情が少し明るくなる。
「よかったっす」
桜子が横から覗き込む。
「ほな今日、恭平仕事したやん」
「昨日っすけどね」
「今日役に立ったんやから今日の仕事でもええやろ」
「そういう数え方なんすか?」
「細かいこと気にしたらあかん」
「桜子さんが雑なだけじゃないっすか?」
「何やて?」
戻ってきたばかりの空気が、少しずつ普段のものへ戻っていく。
それでも。
洋一はすぐに解散とは言わなかった。
全員が揃ったところで、今日の戦況だけは共有しておく必要がある。
前衛では、八傑が彰人へ集中したことで雅史と智臣が一般兵を止めやすくなった。
中衛では、十三将が地形を理解し始め、数を利用して何人かが突破した。
その先は桜子が止めた。
結果だけを見れば。
誰一人として裂け目へは到達していない。
こちらにも大きな負傷者はいない。
だが。
「問題は三柱ですね」
洋一の言葉で、少しだけ空気が戻った。
彰人が肩を回しながら頷く。
「ガルディオ、八傑とは明らかにちゃうかったで」
「神装していて?」
雅史が確認する。
今まで、神装を使うことすら稀ではあったが、まったく使わなかったわけではない。
しかし、自分の記憶の限り、神装していて少しでも苦戦することなどなかったのだ。
「普通に受けられる。でも、雑には無理。八傑みたいに何人も相手しながら適当に流す、はたぶん危ない」
「適当にやってたんだ」
智希が悪気なく言う。
「言い方!」
彰人が睨む。
悪気がない智希を見て、言い方を変えることにした。
「余裕あったって意味や!」
「なるほど」
「絶対分かって言うたやろ」
智希は笑っている。
洋一もそれを見てから、話を続けた。
「一人なら対応できるとしても、三柱が同時に出てくる場合は今の配置を維持できない可能性があります」
「八傑もおるしな」
桜子が腕を組む。
「せやけど、今日の感じやと向こうも無茶苦茶に突っ込んでくる気はなさそうやな」
「そうですね」
撤退の判断も早かった。
負傷した八傑も、無理に戦わせなかった。
敵ではある。
だが、命を投げ捨ててでも進む軍ではない。
それは今日一日で、よりはっきりした。
洋一は時計を見た。
「続きは明日の朝にしましょう」
桜子が待っていたように立ち上がる。
「ほな飯や!」
「はい」
「今日は何?」
「そこからですか?」
「大事やろ!」
張りつめていた空気が、今度こそ緩んだ。
◇
食卓へ料理が並び始めると、戦場の話は自然と減っていった。
誰かが箸を伸ばし。
別の誰かが料理を取る。
足りなくなれば追加する。
桜子は食べながらも隣の皿へ手を伸ばし、智希がそれを見て自分の分を先に確保した。
「取らないでよ」
「誰が取る言うた」
「見てた」
「そっちの皿見ただけや」
「信用できない」
「失礼なやっちゃな!」
恭平が笑いながらご飯を口へ運ぶ。
雅史は温かい茶を淹れ、智臣は食後のコーヒーを確保していた。
戦場では十人で軍勢を止めていた。
今は。
ただの学生たちが、遅い夕食を囲んでいる。
食事が終わる頃には、外は完全に夜になっていた。
片付けを手伝っていた桜子が最後の食器を置くと、満足そうに腰へ手を当てる。
「ほな、風呂行こか」
「行く」
智希が即答した。
「返事早いな」
「温泉だし」
「せやろ?」
拠点の近くには、清隆が使えるように整えた温泉がある。
戦闘の後、夕食の後。
行かない理由を探す方が難しかった。
◇
湯気の向こうで。
「……あ゛ー……」
彰人の声が響いた。
肩まで湯へ沈み、岩へ背中を預ける。
熱が皮膚から身体の奥へ入り、重かった肩や腕が少しずつ緩んでいく。
智希が隣から見る。
「おっさん」
「うるさい」
「二十歳だよね?」
「二十歳でも出るわ、これは」
彰人は湯の中で右腕をゆっくり伸ばした。
戦っている時には気にならなかった。
拠点へ戻る途中で重さを感じた。
今、温まったせいなのか、逆にはっきり分かる。
「……明日、絶対筋肉痛やん」
雅史が少し離れた場所で笑った。
「神装してたのに?」
「俺もそこ納得いってへんねん」
「でも、ずっと八傑の攻撃を流してたからね」
「最後ガルディオまで来たしな」
彰人は肩を揉む。
「神装ってもっとこう、全部神獣側で何とかしてくれるもんちゃうの?」
清隆が答える。
「身体は彰人のままだよ」
「知っとるけど、今はそういう正論いらんねん」
「じゃあ何て言えばいい?」
「明日には治ってる、とか」
「分からない」
「夢ないなあ!」
湯気の中に笑いが広がった。
智臣は少し離れたところで肩まで湯に浸かり、目を閉じている。
優斗がそちらを見る。
「智臣は疲れてないの?」
「多少は」
「今日、後半暇そうだったけど」
「一般兵は止めていた」
「ヴォルグ来なかったねえ」
「ああ」
彰人が笑う。
「完全に避けられてたんちゃう?」
「ラギアも同じことを言っていた」
「本人も認めとるやん」
「可能性は否定できない」
「真面目に答えるとこちゃうやろ」
また笑いが起きる。
昼間まで。
この身体で戦っていた。
明日になれば、また同じ場所へ立つかもしれない。
それでも今は、湯の流れる音と森の虫の声しか聞こえない。
彰人は岩へ頭を預け、目を閉じた。
「……もう今日終わりでええやろ」
「終わりだよ」
雅史が言う。
「明日まではね」
「最後の一言いらんかったわ……」
◇
同じ夜。
前線から遠く離れた山中で、行人は乾いた薪を探していた。
老師から教えられた休憩場所は、風を避けられ、水も近い。
野営地として考えれば十分だったが、夜を越すなら火が欲しい。
行人は戻る方向を見失わないよう、木の幹や地面へ目印を残しながら周囲を探した。
少し進んだところで木々が途切れる。
その向こうに。
建物があった。
「……こっちか」
足を止める。
山小屋と呼ぶには、随分としっかりしている。
木造の壁も屋根も大きく傷んではおらず、窓もある。
扉を開ければ、長く使われていなかったらしい埃の匂いが鼻へ入ったものの、床も寝台も残っていた。
奥へ進んだ行人は、さらに足を止めた。
「キッチンまである……」
簡素ではある。
それでも調理台があり、水を扱える場所があり、火を使う設備まで整っている。
山小屋というより、古いコテージに近い。
行人は外を振り返った。
「最初からここを言ってたのか……」
誰も答えない。
少しだけ虚しくなりながら、窓を開ける。
淀んだ空気を入れ替え、寝台の埃を払い、使える設備を確認していく。
裏手へ回ると、薪そのものではなく、切り出された丸木と斧まで残されていた。
「なるほど」
行人は斧を手に取る。
「割れってことね」
今日は洞窟で寝なくていい。
それだけでも十分だった。
◇
その頃。
怜司は川岸に立っていた。
老師からは、近くの川に大きな魚がいると聞いている。
確かに川はあった。
ただ。
怜司が想像していたものとは規模が違う。
対岸まで距離があり、水量も多い。
山中を流れる小川というより、日本なら一級河川と言われても納得できそうな幅だった。
「……でか」
『川がか』
「うん」
隣に立つ白金の獅子が、水面へ視線を向ける。
『魚も大きいと言っていた』
「釣る?」
『好きにしろ』
怜司は川岸へ腰を下ろし、持っている道具と現地で使えるものを組み合わせて仕掛けを作った。
白金の獅子は、その様子をしばらく見ている。
「やらんの?」
『待つのは好かん』
「そっか」
怜司は気にせず糸を垂らした。
川の音が続く。
鳥の声。
木々を抜ける風。
しばらくすると、竿先が揺れた。
怜司が竿を上げる。
水面が弾け、魚が一匹上がった。
「釣れた」
『小さいな』
「食えるやろ」
『そうか』
白金の獅子は水面を見る。
次の瞬間。
川へ入った。
「……」
大きな水音。
少しして戻ってきた口には、怜司が釣ったものより一回り大きな魚が咥えられている。
獅子はそれを地面へ置いた。
怜司は自分の魚を見る。
次に、獅子の魚を見る。
「……釣りちゃうやん」
『獲った』
「勝負ならんやん」
『勝負とは聞いていない』
怜司は少し考えた。
「今から勝負な」
『断る』
「そっか」
また糸を垂らす。
獅子もまた川を見る。
数匹が集まる頃には、明らかに獅子の方が多かった。
怜司はそれを数えようともせず、次の魚を狙っていた。
その時。
水面が大きく揺れた。
普通の魚とは違う。
水面下を進む影が長い。
鰻にも、鯰にも見える。
ただ、大きさだけがどちらとも違った。
白金の獅子も気づいたらしく、頭を上げる。
『あれだろう』
「たぶんな」
老師が言っていた。
この川には主のような大魚がいる。
怜司は仕掛けを確認した。
「俺釣るわ」
『好きにしろ』
「獲ったらあかんで」
『……』
「今、獲ろうとしたやろ」
『していない』
獅子の前脚が、少しだけ川へ近づいている。
怜司はそれを見てから、もう一度水面へ視線を戻した。
「待っといて」
『早くしろ』
「ん」
餌を変える。
糸を落とす。
長い影がゆっくり近づいてきた。
竿先が沈む。
怜司の目が僅かに細くなる。
「来た」
次の瞬間、竿が大きくしなった。
腕へ伝わる力が、先ほどまでとはまるで違う。
怜司は立ち上がり、川沿いへ数歩移動した。
魚が走れば無理に止めず。
緩んだところで引く。
再び走る。
待つ。
水面から巨大な身体が跳ねた。
濡れた背が夜の光を反射し、再び川へ沈む。
『大きいな』
「うん」
『手伝うか』
「いらん」
『そうか』
獅子はその場へ座った。
怜司は黙ったまま魚とのやり取りを続ける。
急がない。
無理に引かない。
相手が弱るまで待つ。
しばらくして。
巨大な魚が、ようやく岸へ寄った。
◇
行人が小屋の掃除を終え、割った薪を中へ運んでいると、外から重い足音が聞こえた。
扉を開けると、白金の獅子が歩いてきている。
その背には、巨大な魚が載っていた。
「……何それ」
後ろから怜司も来る。
両手には、普通の大きさの魚が何匹か。
「主」
「主を持って帰ってきたんですか?」
「釣れた」
行人は魚を見る。
次に獅子を見る。
『こいつが釣った』
「本当に釣ったんだ……」
「何で疑うん?」
「サイズがおかしいからですよ」
怜司は巨大な魚を見た。
「うまいらしいで」
「老師が言ってたんですか?」
「うん」
行人は小屋の中を見る。
せっかく調理設備まである。
魚もある。
それも。
食べ切れるのか不安になるほどある。
「じゃあ、ちゃんと料理しましょうか」
「蒲焼き」
「それだけじゃ余りますよ」
「白焼き」
「まだ余ります」
「汁?」
「そうしましょう」
怜司が頷いた。
◇
大魚を捌いてみると、鰻に似た脂のある部分と、鯰のように淡白な身が混在していた。
もちろん。
地球の魚ではない。
二人とも料理はできるが、正解の調理法までは分からない。
だから試すことにした。
脂の多い部分は蒲焼きに。
別の部分は白焼き。
淡白な身は塩を振って焼き、一部は野菜と一緒に汁物へ入れる。
火が通るにつれて、古い山小屋の中へ香ばしい匂いが広がっていった。
怜司が焼いている身へ手を伸ばす。
「まだですよ」
「味見」
「さっきしましたよね」
「違うとこ」
行人は怜司の手元を見る。
確かに先ほどとは別の部位だった。
「……一個だけですよ」
「ん」
怜司が食べる。
少し噛む。
「うま」
「よかったですね」
行人も一切れ取った。
脂はあるが、しつこくない。
臭みもほとんどなかった。
「これ、本当に美味しいですね」
「やろ」
「怜司さんが育てたわけじゃないですけどね」
「釣ったし」
「そこは重要なんだ……」
料理が揃う頃には、山小屋とは思えない食卓になっていた。
外は暗い。
森の音しか聞こえない。
前線が今どうなっているのかも分からない。
だからこそ。
食べ始めて少し経ったところで、行人は今日までに得た情報を頭の中で並べ直した。
「整理しておきましょうか」
「ん」
「まず、概念体は星堕としに狙われている可能性が高い」
「うん」
怜司は蒲焼きを一口食べる。
「狙われやすいのは、まだ弱い概念体。生まれて間もないものも含まれる」
「うん」
今度は返事の前に、箸が一瞬だけ止まった。
「次に狙われる可能性が高いのは、新しく生まれた概念体」
「うん」
「場所はヴァルネシア領内の小さな村」
怜司が顔を上げた。
「うん」
「時期は、一月くらい」
「うん」
同じ返事。
だが。
聞き流しているわけではないことを、行人は知っている。
怜司の中では、話を聞きながら必要なものだけが繋がっていく。
「それと」
行人は汁物へ箸を入れながら続ける。
「星堕としの頻度は、自然に起きているものとしては多すぎる」
怜司の箸が止まった。
「落としてる奴がおる」
「可能性が高い、です」
「一緒やろ」
「まだ断定はできません」
怜司は少し考えた。
「おったら止める」
「そこは僕も同じです」
「ほな一緒やん」
「結論だけは」
行人は苦笑した。
しばらく二人とも食事を続ける。
次に口を開いたのは行人だった。
「問題は、村ですね」
「逃がす?」
「それが一番です。ただ、今の僕たちはヴァルネシアと戦ってる側です」
「うん」
「戻って、一月後にそっちの村へ星が落ちるって言って、すぐ信じてもらえるかどうか」
怜司は汁を飲みながら考えた。
それほど長い時間ではない。
「セレスティアおるやん」
行人の箸が止まる。
「……あ」
「概念体のこと知ってるかもしれんし」
「どこまで知っているかは分かりませんけど、話を通す相手としては一番よさそうですね」
「うん」
怜司はまた食べ始めた。
行人も続ける。
少なくとも、戻らなければならない理由は増えた。
前線のこと、村のこと、新しく生まれた概念体。
そして、その向こうにいるかもしれない、星を落としている何者か。
「明日は急ぎましょう」
「ん」
「今日は寝ますけど」
「魚まだある?」
「ありますよ」
「食べる」
「……食べてから寝ましょう」
「うん」
その返事だけは、少し早かった。
◇
翌朝。
山の空気がまだ静かなうちに、行人は小屋の外へ出た。
カグラはすでに起きている。
昨日までと同じ速度で戻ることもできる。
だが、前線がどうなっているのか分からない以上、時間を掛ける理由はなかった。
「カグラ」
『何だ』
「もっと速く飛べる?」
『飛べる』
「僕たちがいても?」
カグラは一度、怜司と白金の獅子を見る。
『限度はある』
「なら、少し手伝う」
行人は目を閉じた。
全身を覆う必要はない。
欲しいのは、自分が戦うための力ではなく、カグラがより速く、より長く飛ぶための補助だった。
鳳凰の神威を引き出す。
熱が身体を巡り、必要な箇所だけに装甲が現れていく。
脚から腰、背中へと力が繋がり、全身を覆わないまま神装が途中で形を止めた。
部分神装。
行人はその力を自分の中だけで完結させず、目の前のカグラへ意識を重ねる。
カグラが翼を広げた。
神威が触れる。
混ざるのではなく、互いの力が、同じ方向を向く。
翼の周囲で空気が震えた。
『これなら行ける』
「どれくらい?」
『飛んでみれば分かる』
「カグラも割と雑だよね」
『急ぐのだろう』
「そうだけど」
怜司が二人を見ている。
「乗る?」
行人は首を振った。
「この速度だと、背中に乗る方が危ないと思います」
「ほなどうする?」
「掴んでもらいます」
「カグラに?」
「はい」
怜司はカグラの脚を見る。
次に。
白金の獅子を見る。
獅子もカグラを見上げている。
『我もか』
「たぶん」
『……』
白金の獅子はしばらく黙った。
『不本意だ』
「速いで?」
『そういう問題ではない』
怜司は少し考える。
「俺も一緒やし」
『慰めにならん』
「そっか」
怜司が他意もなく適当に返したところで、行人が吹き出した。
「二人とも掴んでもらいましょう。たぶん、それが一番速いです」
『落とすなよ』
獅子がカグラへ言う。
『落とさん』
「俺もな」
『お前は少しくらいなら構わん』
「何で?」
『知らん』
「ひどない?」
「怜司さん、急ぎますよ」
「頼むわ」
行人がカグラへ乗る。
カグラの両脚が、それぞれ怜司と白金の獅子を掴む。
絵面だけを見れば。
あまり格好よくはない。
だが、速い。
それで十分だった。
行人が前を見る。
戻る先には仲間たちがいる。
ヴァルネシア軍が今どう動いているのかは分からない。
それでも、伝えなければならない情報がある。
一月後。
ヴァルネシア領内の村。
そこにいる、新しく生まれた概念体。
そして、空から落ちてくるもの。
「行こう、カグラ」
『ああ』
翼が大きく開いた。
次の瞬間。
地面へ叩きつけられた風が、草木を一斉に伏せさせる。
カグラの身体が浮いた。
一度、大きく羽ばたく。
高度が上がる。
二度目で山小屋が急速に小さくなった。
「……速っ」
下から怜司の声が聞こえた。
『口を閉じろ。舌を噛むぞ』
「おー」
『返事もするな』
行人は前を向いたまま、思わず笑った。
朝の山々が。
凄まじい速度で後ろへ流れていった。




