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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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17/37

神装

 夜の終わりは、音より先に色で分かった。

 東の空が、わずかに白んでいる。


 まだ朝と呼ぶには早い。

 森の輪郭は黒く、清隆が作った拠点にも夜の色が残っていた。

 枝葉の間を抜けてくる風には夜の名残があるものの、肌を刺すほど冷たいわけではない。

 夏の盛りなら、この時間でもまとわりついていたはずの暑さが、少しだけ遠ざかっている。


 彰人は屋根の上に座り、その変化をぼんやりと眺めていた。

 眠れなかったわけではない。

 数時間はきちんと眠ったし、身体にも昨日の疲労はほとんど残っていない。ただ、いつもより早く目が覚めて、そのまま二度寝する気にならなかった。

 外へ出て、空を見上げて。

 気づけば、ここまで登っていた。

 高いところなら何か見えると思ったわけでもない。

 ヴァルネシア軍が布陣している場所は遠く、その間には意図的に広い緩衝地帯が置かれている。木々にも遮られ、ここから目を凝らしたところで敵陣が見えるわけではなかった。


 それでも。

 向こうにいる。

 昨日まで戦った兵士たちも。

 十三将も、八傑も。

 そして、おそらくは三柱も。


 彰人は立てた膝へ腕を置いた。

 考えようとしなくても、一人だけ顔が浮かぶ。

 昨日の昼間。

 話して、笑って。

 自分たちのことを知ろうとしていた少女。

 セレスティア。

 今日、彼女が前に出てきたら。

 自分はどうするのか。

 彰人はしばらく考えてから、鼻から短く息を吐いた。


「……無理やな」

「何が?」

「うわっ」


 背後から唐突に声が降ってきた。

 振り返ると、屋根の縁から優斗の顔だけが覗いている。


「何してんねん」

「登ってる」

「見たら分かるわ」


 優斗は屋根へ身体を持ち上げると、彰人から少し離れた場所に腰を下ろした。

 すぐに何かを聞こうとはせず、同じように東の空を見る。

 橙色が、少しずつ濃くなっていた。


「綺麗だねえ」

「せやな」


 しばらく二人とも黙った。

 夜の間とは違う鳥の声が、森のあちこちから聞こえ始めている。

 人間たちが何をしていても関係なく、この世界の朝はいつも通り始まろうとしていた。

 やがて優斗が横目で彰人を見る。


「黄昏れてた?」

「朝や」

「雰囲気の話」

「朝に黄昏れられへんやろ」

「そうかなあ」

「そうやろ」


 優斗が小さく笑う。

 彰人も釣られて口元を緩めた。

 何を考えていたのかまでは聞いてこない。

 その距離感が、今はありがたかった。


「見張り?」

「うん。ちょうど目が覚めたし、このまま交代しようかなって」

「向こうは?」

「まだ動いてないよ」


 優斗の視線が、森の向こうへ移る。


「ただ、人は起き始めてると思う」

「分かるん?」

「なんとなくね」


 彰人も意識を向けた。

 音が聞こえるわけではない。

 姿が見えるわけでもない。

 それでも、何もない森とは明らかに違う。

 大勢の人間。

 その中に混じる、ひときわ濃い気配。

 昨日より増えている。


 そして。


 こちらを意識している。

 警戒している。

 それだけではない。

 強い者ほど、こちらを恐れている。

 そんな感覚が微かに伝わってくる。


「……今日も来るんかな」

「たぶん」

「やろなあ」


 来なければ、それでいい。

 けれど、来る可能性が高いからここにいる。

 彰人は屋根の上で立ち上がった。


「腹減った」

「急に戻ってきたね」

「何が?」

「現実に」

「朝やで?」

「さっきまで黄昏れてたのに」

「せやから黄昏れてへんって」


 二人が屋根を下りる頃には、東の空から夜の色がほとんど消えていた。


     ◇


 朝食が終わる頃には、全員が起きていた。

 怜司と行人を除いて。


 二人分の寝床は最初から使われていない。

 その代わり、拠点の一角には二人の装具がまとめて置かれていた。

 いつ戻ってきても、そのまま手に取れるようにしてある。

 洋一はそれを一度確認してから、集まった面々へ視線を戻した。


「昨日確認した通り、停戦が終わってもこちらからは動きません。ヴァルネシア側が進軍を再開した場合だけ、昨日と同じ位置で止めます」


 机の上には周辺の地図が広げられている。


「ただし、今日は八傑が最初から出てくると考えておいてください」


 誰も驚かなかった。

 昨日、十三将が退いたあとに現れた八傑。

 彼らが次に出てくることは、昨夜の時点で全員が想定している。

 彰人は椅子へ座ったまま、自分の両手を持ち上げた。

 昨日まで使っていたものとは違う手甲が、手首から拳までを覆っている。


 指を握る。

 開く。

 もう一度握って、今度は指を一本ずつ動かしたあと、手首を左右へ軽く回す。


「……こっちの方がええな」


 その様子を見ていた優斗が首を傾げた。


「昨日のと違う?」

「違うで」

「どこが?」

「使いやすい」

「それだけ?」

「大事やろ」

「そうだけど」


 彰人はもう一度、拳を握った。

 手甲そのものは初めて使うものではない。

 ただ、昨日まで持ち出していたものよりも、受けた力を扱うことに向いている。

 正面から止めるのではなく、力の流れを拾い、別の方向へ導く。

 彰人が元々得意としているやり方を、より正確に補助してくれる装具だった。


「まあ、使ったら分かるわ」

「ワシは使わないと思うけどね」

「ほな聞くなや」

「気になるじゃない」


 少し離れたところでは、雅史が片脚を上げて足元を確かめていた。

 膝の少し下から脛を覆う金属質の装甲が、そのまま足首を包み、足の甲まで続いている。

 形だけを見れば西洋の甲冑にも近い。

 ただ、脛を覆う部分の重なり方や、足首から甲へ繋がる造りには、日本の具足を思わせるところもあった。


 通称――宿禰。


 地面へ力を伝えるための足甲。

 履いた者を重くするわけではない。

 足裏で捉えたものを、より深いところへ繋げる。

 土。

 その下の岩。

 さらに、その先。

 雅史自身が大地の一部になるための装具に近い。


 桜子がしゃがみ込み、横から覗く。


「それ、ごっついな」

「そう?」

「膝から下だけ別人やで」


 雅史が片足を上げたまま、足首を回してみせる。


「見た目ほど重くないよ」

「名前なんやった?」

「宿禰」

「急に和風やな」

「僕が付けたわけじゃないからね」

「洋風っぽいのに宿禰」

「そう言われても」

「でも似合ってるで」

「ありがとう」

「褒めたんかな、今」


 雅史が笑う。

 そのすぐ近くでは、智臣が一本の細長い棍を手にしていた。

 黒を基調とした細身の形状。

 余計な装飾は少なく、両端までほぼ同じ太さで伸びている。

 桜子がそれを見る。

 一度視線を外す。

 もう一度見る。

 今度は少し首を傾けた。


「智兄」

「なんだ」

「それ、キューやろ」

「棍だ」

「いや、キューやって」


 智臣は答えず、棍を片手で回した。

 手首を軸に滑らかに半回転し、そのまま反対の手へ渡る。重心が中央にあるのか、長さの割に動きは軽い。

 桜子の目が、その軌道を追う。


「……キューやな」

「今ので何を見てたんだ」

「長い棒」

「棍だ」

「先っちょ見せて」

「なぜだ」

「タップ付いてへんか確認する」

「付いてない」

「撞いてみたら分かるやん」

「何を撞くんだ」


 桜子の視線が室内を彷徨い、少し離れたところにいる清隆で止まった。

 智臣もその視線を追う。


「やめろ」

「まだ何も言うてへんやん」

「清隆に球を作らせるつもりだろ」

「何で分かったん」

「分かる」


 話を聞いていた清隆が顔を上げた。


「作れるよ」

「作らなくていい」

「何ミリ?」

「具体的に考えるな」

「ビリヤードなら直径五十七ミリくらい?」

「清隆」

「うん」

「忘れろ」

「分かった」


 返事だけは素直だった。

 桜子が吹き出す。

 張り詰めていたわけではない室内の空気が、さらに少し緩んだ。

 洋一はそれを止めずに時計を見る。

 時刻は近い。


「そろそろ行きましょう」


 その一言で、それぞれの表情が自然に切り替わった。


「前衛の三人は先行してください。優斗と清隆は予定位置へ。ほかは昨日と同じです」

「了解です」


 彰人が立ち上がる。

 雅史も宿禰で床を確かめるように一度踏み、智臣は棍を手に外へ向かった。

 拠点の外ではメーダが待っている。

 雅史を見ると、巨体をゆっくりと下げた。


『乗るか』

「ありがとう」


 彰人が横から見る。


「俺も乗ってええ?」

『構わぬ』

「ほな――」

「走らないの?」


 優斗の声が後ろから飛んできた。

 彰人が振り返る。


「何で走らなあかんねん」

「さっきダッシュする雰囲気だったから」

「いつの話や」

「なんとなく」

「メーダおるのに走る意味ないやろ」


 雅史が笑いながら手を差し出した。


「乗る?」

「乗ります」

「最初からそうすればいいのに」

「せやな」


 智臣もメーダの横まで来た。


「俺もいいか?」

『構わぬ』

「ありがとうございます」

「智臣さん普通に乗るんや」

「歩く理由がないだろ」

「正論やな」


 三人を乗せたメーダが立ち上がる。

 その背を見送りながら、優斗も弓を手にした。

 上空ではナギが翼を広げる。

 清隆は地面へ置いていた小槌を拾った。

 手のひらより少し大きい程度。

 柄も長くない。

 ただし、昔話に出てくるような木製の小槌ではなく、頭部は鈍い光沢を持つ金属でできている。片側は平らな打面になっており、反対側はわずかに細い。

 清隆はその重さを確かめるように一度持ち直した。

 昨日と同じ陣。

 同じ場所。

 けれど、今日ここに立つ者たちは、昨日より一段深いところまで準備を整えていた。


     ◇


 前線へ到着した時には、ヴァルネシア側もすでに布陣を終えていた。

 メーダの背から降りた彰人は、森の向こうへ続く開けた場所を見渡した。


「……最初からおるな」

「昨日みたいに後から出てくる気はないみたいだね」


 雅史も同じ場所を見る。

 十三将がいる。

 だが、彼らより前に立つ者たちがいた。

 昨日、十三将を引き取りに現れた八傑。

 彰人たちにとって、まったく知らない相手ではない。

 蜘蛛の下半身を持つアルネアは、昨日同じ車に乗り、言葉も交わした。さらに、その横にいる女性たちにも見覚えがある。


 戦いが始まるより前。

 敵と呼ぶ必要すらなかった頃に見た顔。

 名前までは知らない者もいる。

 だが、向こうも同じだった。

 彰人たちの姿を確認した瞬間、女性たちの表情が僅かに変わる。

 その中でアルネアだけは、彰人と目が合った。


「……おはようさん」


 声が届く距離ではない。

 それでも彰人は小さく言った。

 アルネアの脚が、ほんの僅かに動く。

 前へ出たわけではない。

 むしろ、踏み出しかけたものを止めたように見えた。


「やりにくいね」


 雅史が言う。


「ですね」


 彰人は手甲を一度合わせた。


「まあ、来んかったらええんですけど」


 その願いが叶う可能性は低かった。

 女性たちに代わるように、四人が前へ出る。

 大型猫科の獣人。

 大柄な犀人。

 髭を蓄えたドワーフ。

 そして、水棲種の男。

 誰が何者なのか。

 すべての名前までは知らない。

 ただ、その立ち方を見れば分かる。


 十三将とは違う。

 こちらの力を理解している。

 だからこそ、無造作には踏み込んでこない。

 互いの距離を測り、仲間の位置を確認し、三人の視線がどこへ向いているのかまで見ている。


 後方で動きがあった。

 アルディウスが軍勢の前へ進み出る。

 昨日、親書を持ってきた時とは違う。

 今日は王の言葉を届けに来たのではない。

 軍を動かす者として立っている。


『休戦の刻限は終わった』


 静かな声だった。

 それでも。

 周囲の兵が一斉に姿勢を変える。


『我らは進む』


 昨日と同じ目的。

 裂け目。

 その先にある日本。


『阻むならば、押し通る』


 彰人は息を吐いた。


「ほな」


 両手を軽く開き、手甲の位置を確かめる。


「今日も止めよか」


 最初に地面を蹴ったのは、猫科の獣人だった。

 速い。

 昨日の十三将にも速さを得意とする者はいた。

 だが、目の前の男は踏み込みの質が違う。

 直線的に彰人へ向かいながら、肩も視線も次の動きを隠している。拳が来ると分かった時には、すでに間合いの内側だった。

 彰人は左の手甲を差し入れた。

 拳そのものを止めない。

 前腕へ触れ、身体を半歩ずらしながら力の向きを外側へ逃がす。

 衝撃が肩を抜けた。

 重い。

 それでも、昨日までより流れが分かりやすい。


『……その手』


 男が一度離れる。

 手甲を見ている。


『昨日と違うな』

「よう見てんな」


 答えた瞬間、横から金属音が走った。

 彰人は反射的に腕を上げる。

 ドワーフの振るった武器が手甲へ当たり、重い衝撃が肘から肩まで抜けた。


「っと」


 足を一歩引く。

 そこへ猫科の男が再び踏み込む。

 一人が正面。

 一人が横。

 同時ではない。

 彰人が一つ目を処理した、その直後へ二つ目が入るように僅かにずらしている。


「十三将より面倒やな……」

『比べるな!』


 ドワーフが叫ぶ。


「聞こえてたん?」

『聞こえるようにしてある!』

「ああ、そうやった」


 彰人が拳を避け、そのまま武器の軌道から身体を外す。

 余裕がないわけではない。

 ただ、昨日のように相手の動きをまとめて一度に処理するわけにはいかなかった。

 八傑は、こちらが何をしているのかを見ている。

 そして、次から変えてくる。


 少し離れたところでは、ゴルガが雅史へ向かっていた。

 名前はまだ知らない。

 だが、その身体を見れば何をするつもりなのかは想像できる。

 犀人は十分な距離を取った。

 地面を蹴る。

 一歩ごとに速度が上がり、巨体の下で土が弾ける。


「真正面なんだ」


 雅史は苦笑しながらも逃げなかった。

 宿禰で地面を踏む。

 足裏の感覚が、普段よりも深い。

 自分の体重が土の上に乗っているのではなく、足元から下へ一本の軸が伸びていくようだった。

 ゴルガが突っ込んでくる。

 雅史は両腕を前へ出した。

 衝突。

 低い音が腹の底まで響いた。


「っ……!」


 足が下がる。

 一歩。

 さらに一歩。

 宿禰が土を噛み、そのたびに地面が深く抉れた。

 三歩目。

 そこで止まる。

 雅史は巨体を両腕で押さえたまま、ゆっくり息を吐いた。


「……すごいね」

『止めたお前が言うな!』

「いや、結構下がったよ」

『三歩だろうが!』

「三歩も、だよ」


 ゴルガは一度身体を離した。

 雅史の足元を見る。

 抉れた地面。

 その中心で、宿禰だけはしっかりと大地を捉えている。


『それ、妙な足甲だな』

「僕もそう思う」

『自分のだろ!?』


 その頃には、智臣のところでも戦いが始まっていた。

 水棲種の男が、魔力で生み出した水流を身体へまとわせる。

 水のない陸上。

 それでも流れが生まれる。

 勢いに乗った身体が智臣へ迫った。

 智臣は棍を両手で持ち、半身になる。

 真正面から受けることはしない。

 男の腕が伸びた瞬間、その手首へ棍の中央を触れさせた。

 押すのではなく、円を描く。

 腕の軌道が変わる。

 同時に智臣自身も半歩横へ動いた。


『おっ――』


 水流に乗っていた男の身体が、智臣の横を通り過ぎる。

 止まろうとしたところへ、棍の端が肩へ添えられた。

 軽く押される。


『うおっ!?』


 足がもつれた。

 だが、倒れる直前で踏ん張る。


『お前、何した!?』

「軌道を変えた」

『それだけか!?』

「それだけだ」


 水棲種の男は自分の腕を見る。

 痛くない。

 打たれてもいない。

 それなのに、まともに攻撃できなかった。


『もう一回だ!』

「好きにしろ」


 男が再び水流をまとった。

 智臣は棍を構え直す。

 その背後では、ラギアが空中を泳いでいる。

 水棲種の男が一瞬だけそちらを見た。

 黒と白の巨大な身体。

 その周囲に漂う、海の底を思わせる気配。

 視線が戻る。

 もう一度ラギアへ向く。


『……なあ』

「なんだ」

『あれ、ずっといるのか?』

「いるな」


 ラギアがゆっくり顔を向けた。


『我が気になるか』


 男の身体が僅かに強張る。


『喋るのかよ!』

『喋る』

『そうじゃねえ!』


 智臣が棍を構えたまま男を見る。


「来ないのか?」

『行く! 行くが、後ろの奴をこっちに寄越すなよ!』

『なぜだ』

『お前は黙ってろ!』


 戦場の最前線とは思えない声が響いた。

 それでも。

 三人の意識が八傑へ向いたことで、その後ろでは別の動きが始まっていた。

 十三将。

 さらに一般兵。

 八傑が三人を倒せなくてもいい。

 その場へ留めておくだけで、昨日までは存在しなかった隙間が生まれる。

 そこへ兵が流れ込んだ。


     ◇


 上空から見れば、その変化はさらに分かりやすかった。


「やっぱり来るよねえ」


 ナギの背で、優斗は弓を持ち直した。

 昨日までとは違い、兵士たちは最初から散開している。

 盾を持つ者を外側へ。

 遮蔽物として使える岩や木の位置も意識している。

 何より、何度も空を見る。

 昨日の経験がある。

 上から矢が来る。

 それを知っている。


「ちゃんと考えてるなあ」

『当然だ』

「困るね」

『嬉しそうだな』

「そう?」

『そう見える』


 優斗は少し笑い、一本の矢をつがえた。


「じゃあ、違うことしようか」


 弦を引く。

 狙ったのは兵ではない。

 集団のさらに先。

 最初の一矢が地面へ突き立つ。

 兵の一部が反応し、その地点を避ける。

 そこへ二射目。

 逃げた先へ落ちる。

 さらに三射目。

 射られた兵ではなく、その周囲の者が進路を変える。

 優斗は彼らがどこへ動くのかを見ていた。


「清隆、右に流れるよ」


 通信へ声を送る。


『分かった』


 地上で待っていた清隆が、小槌を持ったまましゃがむ。

 鈍い金属光沢を持つ打面を、地面へ軽く当てた。


 コツン。


 音は小さい。

 その数十メートル先。

 兵が向かおうとしていた場所の地面が、ゆっくりと持ち上がった。


 壁ではない。

 越えられない高さでもない。

 ただ、隊列を保ったまま進むには嫌な傾斜。

 兵は避ける。

 自然に別の場所へ向かう。

 その先には、優斗の矢がある。


「そっち行くと思った」

『誘導できてる』

「清隆の方が性格悪いけどね」

『僕は地面を動かしただけだよ』

「そういうところだよ」


 それでも。

 昨日ほど簡単ではなかった。

 ヴァルネシア軍も学んでいる。

 矢が来れば、全員が一斉に同じ方向へ逃げることはない。

 地形が変われば、一部はあえて悪い足場を選ぶ。

 止められることを前提に、複数の経路へ兵を分けている。


 さらに。


 前線の後ろにいた女性たちが動いた。

 アルネア。

 彰人たちと昨日言葉を交わした彼女が、最初に手を上げる。

 自分から前へ出ようとはしない。

 代わりに、地面や木々へ細い糸を張り巡らせ、兵たちが進むための足場と経路を作り始めた。

 その横では、蛇の下半身を持つ女性が術を広げている。

 上空へ飛んだ鳥人の女性は、優斗の位置を探りながら地上へ合図を送る。

 小柄な兎人の少女も、戦列の外側を高速で移動し、崩れかけた隊列を繋いでいた。

 昨日、同じ場所で話した者たち。

 敵意を剥き出しにしているわけではない。

 それでも。

 ヴァルネシアの側に立っている。


「……そりゃ、手伝うよね」


 優斗は責めるでもなく呟いた。

 前線の三人へ八傑。

 中衛へ十三将と一般兵。

 さらに後方支援。

 少しずつ。

 本当に少しずつ。

 処理しきれない兵が出始める。


     ◇


 最初の一人が中衛を抜けた時。

 桜子は大盾の柄を握った。


「来たな」


 嬉しそうではない。

 かといって、焦ってもいない。

 今まで出番がなかっただけだ。

 ここからが、自分の担当だった。

 桜子は大盾を持ち上げると、地面へ深く突き立てた。

 重い音が響く。

 盾を中心に神威が広がった。

 目に見える壁が立ち上がったわけではない。

 だが。

 走ってきた兵士が、何もない空間へぶつかったように止まった。


『な――』


 横へ走る。

 まだ壁がある。

 さらに横。

 そこにも。

 桜子は盾へ両手を置いたまま、兵士の動きを目で追った。


「そっちは無理やで」


 障壁は左右へ長く伸びている。

 地形に沿いながら。

 軍勢が横へ回り込もうとしても、簡単には端へ辿り着けないほど長く。

 ただし。

 空までは覆っていない。

 高い壁でもない。

 まして、全体を包み込むドームでもない。

 地上を進む者を止めるための、横に長い壁。

 兵士が増える。

 剣、槍、盾。

 何人かがまとまって押す。

 それでも障壁は動かない。


「そこは通されへんよ」


 桜子の声は穏やかだった。

 だからこそ。

 兵士たちには余計に理解できなかった。

 何人で押しても動かない壁を、目の前の女性が一人で支えている。

 後方で弩が上を向いた。

 障壁そのものを越えるため。

 桜子がそれに気づく。


「そっちはあかん」


 放たれた矢が弧を描く。

 桜子は盾を握る手へ力を込めた。

 障壁の一部が僅かに持ち上がり、矢の軌道へ触れる。

 完全に覆うのではない。

 必要な場所だけ。

 矢が弾かれ、横へ落ちる。

 次は投石。

 さらに弩。

 地上の兵を止めながら、上を越えてくるものだけを個別に処理する。

 一つなら簡単だった。

 十でも問題ない。

 だが。

 数が増える。

 止まらない。

 額に薄く汗が浮かぶ。


「……めっちゃ来るやん」


 桜子はぼやきながらも、障壁を緩めない。

 洋一はその少し後ろで、戦線全体を見ていた。

 前衛は崩れていない。

 中衛もまだ持つ。

 桜子も突破されていない。

 それでも。

 八傑が入っただけで、昨日とは明らかに違う。

 誰か一人が押されているわけではない。

 全員の手数を、少しずつ奪われている。

 その積み重ねが後ろへ流れている。

 洋一は通信へ手を伸ばした。


「前衛、中衛」


 返事を待つ。


「神装を許可します」


     ◇


 夜明け前。

 戦線から遠く離れた場所では、行人が目を覚ましていた。

 昨夜は移動を諦め、偶然見つけた洞窟を使った。

 奥まで入る必要はない。

 雨風を避けられ、外から見つかりにくい場所があれば十分だった。

 簡単な食事を済ませ。

 火を落とし。

 数時間だけ身体を休める。

 目を開けた時には、洞窟の入口が薄く明るくなり始めていた。


「怜司さん」

「んー」

「朝です」

「うん」

「起きてます?」

「起きてる」


 目は閉じている。


「それ寝てますよね」

「起きてるで」

「じゃあ目を開けてください」


 数秒。

 怜司が片目だけ開いた。


「起きてる」

「確認しました」


 行人は立ち上がった。

 外ではカグラとアルガスが待っている。

 昨日、三つ目の概念体と別れたあとも移動を続けた。

 残る気配は一つ。

 しかも遠い。

 今日中に辿り着けるかどうか。


「行きましょう」

「飯は?」

「食べたでしょう」

「もう?」

「昨日の夜」

「朝飯」

「移動しながらにしてください」

「厳しいな」

「急ぐって言ったの怜司さんですからね」

「せやった」


 外へ出る。

 カグラが翼を広げた。


     ◇


 高度を上げるほど、空気が変わった。

 地上では過ごしやすかったはずの朝が、上へ行くだけで別の季節になる。


「寒っ……」


 行人は肩を縮めた。

 すぐにカグラの首元へ身体を寄せる。

 厚い羽毛の間へ腕を差し込み、できるだけ風に当たる面積を減らした。


「……あったかい」

『当然だ』

「最初からこうすればよかった」

『そうだな』

「教えてよ」

『自分で気づいたではないか』

「そうだけど……」


 行人は羽毛へ頬まで埋めた。

 そこで、ふと後ろを見る。

 怜司がいない。


「え?」


 身体を捻る。

 いた。

 アルガスの身体へ半分預けるようにして。

 寝ていた。


「怜司さん?」


 返事はない。

 片腕だけはアルガスの身体をしっかり掴んでいる。

 揺れても離れない。


「寝てます?」

『寝ているな』


 アルガスが答えた。


「落ちない?」

『我がいる』

「そういう問題かな……」


 カグラが高度を維持したまま前を見る。


『放っておけ』

「慣れてる?」

『知らん』


 行人はもう一度怜司を見る。

 高度、寒さ、飛行。

 その全部を無視して寝ている。


「……すごいな」

『何がだ』

「僕にも分からない」


 そのまま飛行を続ける。

 太陽が高くなり。

 地上の景色が何度も変わった。

 そして、行人は顔を上げた。


「近い」


 今までとは違う。

 探している自分へ、向こうから意識が触れてきた。

 呼んでいるわけではない。

 ただ。

 こちらが来ることを知っている。


「待ってる?」


 怜司が目を開けた。


「着いた?」

「起きてたんですか?」

「今起きた」

「正直ですね」


 カグラが高度を下げ始める。


     ◇


 そこには、大きな石があった。

 周囲より僅かに開けた場所。

 長い年月をそこにあったのだろう。

 表面は風雨に削られ、ところどころ苔に覆われている。

 その上に一人の老人が座っていた。


 白い髪。

 長い髭。

 深い皺。

 人間の老人に見える。

 もちろん、本当にそういう姿をしているわけではない。

 行人が理解できる形。

 概念体が、こちらと話すために見せている姿。

 老人は二人を見ると、穏やかに目を細めた。


『おや。ようやく来たね』


 行人は少し驚いた。

 これまでの概念体とは明らかに違う。

 言葉が滑らかだった。


「僕たちが来るの、分かってたんですか?」

『君たち自身を知っていたわけではないよ。ただ、下にいる子たちが随分と騒がしくてね』

「下?」

『君たちが会ってきた者たちのことだ』


 老人は膝の上へ両手を置いた。


『長く在るものは、それより新しいものとの繋がりを持つことがある。すべてではないが、あの子たちが見たもの、感じたもの、その一部はこちらにも届く』

「じゃあ、僕たちのことも?」

『ある程度はな』


 老人の視線が怜司へ向く。


『特に君のことは、随分と』

「俺?」

『大丈夫だ、と』

「何が?」

『それは私にもよく分からない』


 老人が笑った。


『ただ、皆がそう感じたらしい』


 怜司は首を傾げる。

 行人は少しだけ笑った。


「何となく分かります」

「何が?」

「こっちの話です」

『さて』


 老人は二人を見渡した。


『君たちが知りたいのは、星堕としのことだろう?』


 行人の表情が変わった。


「はい」

『なら、私が知っている範囲で話そう』


 老人は急がない。

 目の前の二人が理解する時間まで含めるように、ゆっくりと言葉を選ぶ。


『星堕としが追っているのは、我々だ』

「概念体を?」

『そう考えていい』


 行人の中で、これまで聞いた話が繋がっていく。

 逃げていた概念体。

 眠っていた概念体。

 起きれば世界へ干渉できる。

 だが、見つかる。


「狙われる順番ってあるんですか?」

『あるようだね。若いもの。まだ世界へ深く根を張っていないもの。その中でも、より弱いものから狙われる傾向がある』

「弱い方が消しやすいから?」

『おそらくは』

「何で概念体を消す必要があるんでしょう」

『そこまでは分からん』


 老人は素直に首を振った。


『私も、星を落としている者を見たわけではないからな』

「でも、誰かがいると思ってる?」


 怜司が訊いた。


『ああ』


 老人は空を見上げた。


『空から大きな石が落ちること自体は、不思議ではない。世界が十分に長く続けば、そういうこともあるだろう』


 視線が二人へ戻る。


『けれどね。あまりにも多すぎる』


 行人も頷いた。


「自然現象なら、もっと間隔が開いてもいい」

『そういうことだ。数千年どころではない。数万年、数十万年。あるいは、それより長い間、何も起こらないことがあっても不思議ではない』

「なのに、こっちでは繰り返されてる」

『世界が立ち直るより早く…な』


 偶然。

 自然。

 そう考えるには、あまりにも都合よく概念体を追い、あまりにも頻繁に繰り返されている。

 行人は顎へ手を添えた。


「概念体の位置を把握して、そこへ落としてる何かがいる……?」

『私は、そう考えている』

「目的は分からない」

『分からない』

「正体も」

『残念ながらな』


 行人が考える。

 怜司は数秒だけ黙っていた。


「ほな、そいつ止めたらええんやな」


 行人が顔を上げた。


「早いですね」

「何が?」

「結論」

「落としてる奴がおるんやろ?」

「可能性です」

「おったら止める。おらんかったら、また考えたらええやん」

「……まあ、そうですけど」


 老人が声を立てずに笑う。


『聞いていた通りだ』

「何を聞いてんの?」

『だから、大丈夫なのだろうな』

「?」


 怜司はやはり分かっていない。

 老人はそれ以上説明しなかった。


『それから、君たちが急いだ方がいい理由がもう一つある』


 行人が老人を見る。


『新しく生まれた子がいる』

「概念体?」

『そうだ。まだ、とても若い』


 老人の表情から、笑みが少しだけ薄くなった。


『次に狙われるとすれば、おそらくその子だ』

「場所は?」

『ヴァルネシアの領内だ。人の暮らす、小さな村がある』


 行人の思考が一気に先へ進む。


「時期は分かりますか?」

『正確には難しい。ただ、これまでの兆候から考えれば――一月ほどだろう』

「一月……」


 短い。

 今続いている戦いを、何週間も続けている余裕はない。

 怜司も同じところへ辿り着いたらしい。


「戻らなあかんな」

「ですね」

『場所は伝えられる』

「どうやって?」


 老人の視線がカグラへ向いた。


『あの子を少し借りよう』


 カグラが老人を見る。


『何をする』

『私との道を作るだけだよ。嫌なら無理にはしない』


 カグラは少しだけ老人を見つめた。


『害はないのか』

『ない』

『ならば構わん』


 老人が微笑む。


『ありがとう』


 行人には、何が起きたのか完全には見えなかった。

 ただ、老人とカグラの間に、細い繋がりが生まれる。

 距離が離れても。

 完全ではないにせよ、意思を交わせる程度の道。


「念話みたいなものですか?」

『君たちの言葉なら、それが近いな』

「便利ですね」

『必要だから繋いだだけだ』


 行人は一瞬考えた。


「清隆さんみたい」

「似てるな」

『誰だい?』

「知り合いです。必要なら作る人」

『それは頼もしい』


 老人は楽しそうに笑った。


『場所については、カグラを通して伝えよう。君たちは戻った方がいい』

「ありがとうございます」

『礼はいらないよ。止めようとしてくれているのだろう?』


 怜司が頷く。


「せやね」

『なら、私たちもできることをしよう』


 接続が解ける。

 大石も。

 老人も。

 ゆっくりと行人の認識から遠ざかっていった。


     ◇


 現実へ戻った時には、太陽がかなり傾いていた。


「……結構話してましたね」

「そうなん?」

「感覚ないです?」

「ない」

「でしょうね」


 行人は空を見る。

 今から移動を始めても、すぐに夜になる。

 できるだけ早く戻りたい。

 ただ、夜通し高空を飛び続けて、明日まともに動けなくなっては意味がない。


『近くに休める場所がある』


 カグラが言った。


「もう分かるの?」

『先ほど教えられた』

「早いなあ」


 怜司が感心する。


『それから、川があるそうだ』

「また魚ですか?」


 行人が苦笑する。

 ここ数日、川魚を食べる機会が多い。


『大型のものがいる』

「でかい魚?」

『昔から食用にされている。味も良いそうだ』


 怜司の目が僅かに変わる。


「それにしよ」

「食いつき早いですね」

「うまいんやろ?」

『そう聞いている』

「ほな決まり」

「まあ、僕も魚が嫌いなわけじゃないですけど」


 行人は一度ため息をつき、それから笑った。


「今日はそこで休んで、明日の朝一で戻りましょう」

「せやな」


 アルガスが身体を起こす。


『魚は我が捕る』


 怜司がそちらを見る。


「勝負する?」

『何の勝負だ』

「どっちがでかいの捕るか」

『食料を得るのが目的だろう』

「勝負しながらでも捕れるやん」

『……好きにしろ』

「負けるん怖い?」


 アルガスが止まった。


『言ったな』

「言うた」

「煽らないでくださいよ」


 行人が二人を見る。

 世界へ星を落としている何者かがいるかもしれない。

 一月後には、一つの村がその標的になるかもしれない。

 持ち帰らなければならない情報は、一気に増えた。

 それでも。

 今夜の食事は必要だった。


「僕、火の準備してますからね」

「任せた」

『任せよう』

「魚はちゃんと持って帰ってきてくださいよ」


 二人――正確には一人と一頭が川へ向かう。

 行人はその背中を見送り、肩を落とした。


「……本当に大丈夫かな」


 何について言ったのか。

 自分でもよく分からなかった。


     ◇


 彰人の耳へ洋一の許可が届いた。


 その瞬間。

 手甲を構える位置が、僅かに下がった。

 力を抜いたわけではない。

 これまでとは違うものを使うために、意識を内側へ向けただけだった。

 目の前にいる猫科の男が、その変化を見逃さない。


『何をする』

「ちょっとな」


 彰人は答えながら、意識の奥へ触れた。

 そこにいる存在を探す必要はない。

 ケルガンは、すでに彰人の傍らにいる。

 巨大な神蟹が脚を持ち上げた。


 その瞬間。


 周囲の空気が重くなる。

 ゼグが初めて、明確に一歩下がった。

 強い者ほど分かる。

 昨日から目の前にいた男が。

 まだ、すべてを見せていなかった。


「――神装」


 彰人の声に、ケルガンが応えた。

 神威が広がる。

 光だけではない。

 神蟹の甲殻を思わせる硬質な気配が、彰人の周囲へ幾重にも重なる。

 最初に現れたのは両腕だった。

 空間の中へ輪郭だけが浮かび。

 次の瞬間には、甲殻を思わせる装甲片が実体を持つ。


 手甲へ重なる。

 噛み合う。

 腕、肘、肩。

 一枚ずつ現れた鎧が、彰人の身体へ収まっていく。

 胸部、腰、脚。

 ただ身体を覆う防具ではない。

 ケルガンの神威を、人の身体で扱うための鎧。

 神獣と人間。

 二つの存在を繋ぐもの。

 最後の装甲が定位置へ収まった時。

 彰人の姿は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

 全身を覆う神話の鎧。

 それでも、中にいるのは彰人だった。


「……こんなもんかな」


 腕を一度回す。


『彰人』


 ケルガンが低く呼ぶ。


「分かってるって」


 何を言われたのか。

 ゼグには分からない。

 だが。

 先ほどまでとは違うことだけは、嫌というほど分かった。


 少し離れた場所では、雅史が宿禰で大地を踏みしめていた。

 メーダがその背後へ立つ。

 巨大な白象が鼻を上げる。

 音にならないほど低い震えが、地面を通して広がった。

 雅史が目を閉じる。


 足元から、淡い光が立ち上がった。

 宿禰へ重なるように装甲が現れる。

 脛、膝、腿、腰。

 彰人とは逆に、大地から身体を支えるように。

 一つずつ。

 下から。

 確実に。

 鎧が雅史の身体へ重なっていく。

 胸部を覆う装甲は厚い。

 だが、威圧的ではない。

 巨大なものが、ただそこに在る。

 動かない、揺らがない。

 その安定そのものを形にしたような神装だった。

 ゴルガが目を見開く。


『……さっきより重い』

「体重は変わってないと思うよ」

『だから、そういう意味じゃねえ!』

「分かってるよ」


 雅史が笑う。


「もう一回来る?」


 ゴルガの鼻息が荒くなる。


『当然だ!』


 そして。

 智臣。

 ラギアがその周囲を大きく泳いだ。

 空気が変わる。

 水はない。

 それなのに、そこだけが海の底へ沈んでいくような圧迫感が生まれた。

 ヴォルグの表情が固まる。


『おい』


 智臣は答えない。

 棍を地面へ軽く立てる。

 その周囲へ、暗い神威が広がった。

 黒ではない。

 光が届かないほど深い海。

 その底から浮かび上がるように、装甲が現れる。


 脚、腰、胸、腕。

 深淵から一つずつ拾い上げられたような鎧が、智臣の身体へ収まっていく。

 ラギアの巨体が、その背後を横切った。

 神獣の輪郭と神装が一瞬だけ重なる。

 最後に棍へ神威が走った。

 ただの細長い棒にしか見えなかった装具が、ようやく本来の存在感を露わにする。

 ヴォルグは、完全に止まっていた。


『……駄目だろ、それ』


 智臣が顔を上げる。


「何がだ」

『何か知らんが、それは駄目だ』


 背後からラギアが顔を寄せる。


『何が駄目なのだ』


 ヴォルグの鰭が大きく跳ねた。


『近い!』


 ラギアが止まる。


『近づいただけだ』

『それが嫌なんだよ!』

「失礼だぞ」

『お前は何で平気なんだ!』

「ラギアだからな」

『答えになってねえ!』


 少し離れた場所で、アルネアがそのやり取りを見ている。

 智臣を見る。

 ラギアを見る。

 また智臣へ戻る。

 そして、そっと一歩下がった。

 ヴォルグが見逃さない。


『おい! 何でお前まで下がる!』

『……怖いから』

『だろ!?』


 智臣は棍を持ち上げた。


「来ないなら、こっちからは行かないぞ」


 ヴォルグが黙る。

 数秒。


『……本当だな?』

「ああ」

『絶対だぞ?』

「しつこい」


 それでも。

 八傑は退かなかった。

 ゼグが前へ出る、ベルンも続く。

 後ろにいたミリアが迷った末、二人の外側へ回った。

 彰人は三人を見る。


「三人か」


 ゼグが踏み込む。

 先ほどと同じ速さ、同じ拳。

 彰人は避けなかった。

 右の手甲を添える。

 拳と手甲が触れる。

 ただ、それだけだった。


『――っ?』


 彰人の身体は動かない。

 腕だけが、ゼグの前進に沿って円を描く。

 受け止めてもいない。

 引っ張ってもいない。

 それなのに、ゼグの身体が自分の力で回り始めた。


「ほい」


 彰人が最後に手首を返す。

 巨体が宙へ浮いた。


『な――』


 そのまま横へ投げ出される。

 飛んだ先でベルンが慌てて武器を引いた。


『おい!』

『俺に言うな!』


 二人が地面を転がる。

 彰人は自分の手を見る。


「……全然ちゃうな」


 昨日までなら、今朝までなら。

 身体全体を使って流していた。

 今は、触れた場所だけで足りる。

 その背後へ。

 ミリアが入った。

 速い。

 目で追うより先に位置が変わる。

 だが、彰人は振り向いた。


「見えてるで」

『ひっ!』


 ミリアが急停止する。

 彰人は何もしていない。


「何で止まんねん」

『絶対何かする顔だった!』

「どんな顔や!」


 少し離れたところで。

 ゴルガが走り始めていた。

 先ほどと同じ。

 いや、さらに速い。

 雅史はその姿を見ながら、右腕だけを前へ出した。

 ゴルガが気づく。


『片手!?』

「やってみようかなって」

『舐めるなよ!』


 更に足に力を込めた、全力の突進。

 その巨体が雅史へ激突する。

 雅史の右掌が、その額へ触れた。

 衝撃が走る。

 足元の土が僅かに沈む。

 それだけだった。

 雅史の身体は。

 一歩も。

 いや。

 指一本分すら後ろへ動いていない。


 その足が大地を捉えている。

 神装を通して伝わった衝撃は雅史の身体で止まらず、そのまま地面へ。

 土へ、さらに深い岩盤へ。

 広く、薄く、散っていく。

 ゴルガが顔を上げた。


『……嘘だろ』

「さっきより強かったね」

『そこじゃねえ!』


 横からナーシャの術が飛ぶ。

 雅史はゴルガを片手で止めたまま、左手をそちらへ向けた。

 術が掌へ触れた瞬間、光が弾ける。

 それでも雅史は手を引かない。


「これも……力には違いないよね」

『は?』


 足の神装が僅かに光る。

 掌へ届いた力が腕を抜け、身体を通り、足元へ落ちる。

 地面が低く震えた。

 術が消える。

 ナーシャの表情が固まった。


『……何をしたの?』

「受けただけだよ」

『それを受けたとは言わないわよ!』


 上空からフィルネが攻撃を重ねる。

 雅史はようやくゴルガから手を離し、一歩だけ位置を変えた。

 それだけで攻撃が外れる。


 そして智臣の前では。

 ヴォルグがまだ迷っていた。


『行け!』


 アルネアが言う。


『何で俺なんだ!』

『私、近づきたくない』

『俺もだよ!』

「相談は終わったか?」


 智臣が訊くと、二人は同時に黙った。

 ラギアが智臣の後ろから顔を出す。


『我は待っているぞ』

『待たなくていい!』


 戦場の空気が。

 明らかに変わっていた。


     ◇


 その変化は、中衛からでも分かった。

 優斗が上空で目を細める。


「……すごいねえ」


 前線。

 八傑が増えている。

 人数だけなら、彰人たちの方が少ない。

 なのに、先ほどまであった余裕の差が、さらに広がっている。


『優斗』


 ナギが呼ぶ。


「うん」


 下を見る。

 十三将が来ている。

 昨日、自分たちより前にいた三人へ挑み。

 敗れ、それでも今日は軍勢とともに進んできた。


「ワシらもやろうか」

『承知した』


 ナギが翼を広げる。

 優斗はその背で立ち上がった。

 普段と変わらない。

 柔らかな表情。

 穏やかな声。

 ただ。

 その背後にいるものが違う。

 八咫烏。

 三本の脚を持つ神鳥。

 ナギの黒い翼が大きく広がった瞬間、その羽が一斉に光を帯びる。

 風へ散った、黒い羽。

 一枚、また一枚。

 優斗の周囲を回り始める。

 羽が身体へ触れるたび、その形が変わる。

 柔らかなものから、硬質な装甲へ。


 肩、腕、胸、腰、脚。

 黒を基調とした鎧が、優斗の身体へ静かに重なっていく。

 派手な音はない、威圧する動きもない。

 それでも。

 完成へ近づくほど、上空にいるものが本当に人間なのか分からなくなる。

 黒い神装。

 その背後に巨大な八咫烏。

 そして。

 中央にいる優斗だけが、いつもと同じ顔で笑っている。


「じゃ、行こうか」


 その声が、かえって不気味だった。


 地上では、清隆も小槌を持ち直す。

 彼の周囲に現れたものは、優斗とは正反対だった。

 白い。

 ただ明るいのではない。

 澄んでいる。

 水が濁りを失っていくように、周囲の空気から余計なものが消えていく。

 清隆の背後に麒麟の姿が浮かぶ。


 静か、清浄、神聖。

 普段の清隆を知る者ほど、その落差に違和感を覚えるほどに。

 光の中から、鎧が現れる。

 肩、胸、腕、腰、脚。

 一つ一つが清らかな光をまといながら身体へ収まっていく。

 清隆本人だけは。

 完成しても特に感想を言わなかった。

 自分の手を見る、小槌を見る。

 そして。


「これで範囲を広げられる」


 それだけだった。

 優斗が上から笑う。


「清隆らしいねえ」

「何が?」

「何でもない」


 十三将は二人を見上げていた。

 昨日、彰人たち三人を相手にした時とは違う。

 目の前にいる二人は、最初から自分たちを倒そうとしていない。

 そのことが、余計に不気味だった。


 優斗が一本の矢をつがえる。

 弓を水平には構えない。

 鏃を上へ、空へ向ける。

 十三将の一人がそれを見る。

 昨日とは違う、だからこそ警戒する。


 優斗が弦を放した。

 矢が高く昇る。

 鏑矢を思わせる軌道。

 兵たちの頭上を越え、さらに高く。

 そして、頂点で矢が分かれた。

 一つが十へ。

 十が百へ。

 空を覆う。

 兵士たちが見上げる。

 逃げる方向を探す。

 だが、矢はそこから落ちてきた。

 雨のように。

 ただし、誰にも当たらない。

 足元、武器の横、進路、逃げようとした先。

 地面へ次々と突き立ち、軍勢を細かく分断していく。

 昨日までのように。

 上から来ると分かってから散るのではない。

 散った先へ降ってくる。

 優斗は上から全体を見ていた。

 十三人が連携する。

 だからこそ。

 一人が動けば、次に誰が動くのか分かる。


「ちゃんとしてるから、分かりやすいんだよねえ」


 優斗が呟く。

 十三将には聞こえない。

 その下では清隆が小槌を地面へ軽く当てる。

 コツン。

 大地が応える。

 優斗の矢を避けた先の地面が盛り上がる。

 別の場所は沈む。

 軍勢を飲み込むほどではない。

 そんなことをする必要もない。

 人が進めない程度、隊列を保てない程度。

 必要な分だけ、清隆は地形を作り替える。

 十三将が止まる。

 一般兵も止まる。

 たった二人。

 それだけで。

 中衛から先へ流れていた兵が、ほとんど消えた。


     ◇


 それでも、桜子の障壁へ辿り着いた者はいた。

 息を切らし、泥にまみれ。

 それでも裂け目へ向かおうとする。

 桜子は盾の横から、その兵士を見る。


「よう来たなあ」


 兵士が武器を構える。

 桜子も大盾の柄を握り直した。


「でも」


 障壁へ込める力を、ほんの少しだけ増やす。


「ここまでや」


 見えない壁が前へ膨らんだ。


『うわっ!?』


 兵士の身体が押し返される。

 飛ばす。

 だが、高くはない。

 後ろには柔らかい土。

 怪我をしない位置を確認してから力を抜く。

 兵士が尻から落ちる。


「……よし」


 桜子は無事を確認してから、もう一度前を見る。


「まだいけるな」


 洋一が横から言う。


「できれば、そのままでお願いします」

「何でや」

「あなたまで神装すると、後ろに残る人が減ります」

「うちが暴れる前提で言うてへん?」

「言ってません」

「顔が言うてる」

「気のせいです」


 桜子は少し睨んだ。

 だが、すぐに前へ視線を戻す。

 ヴァルネシア軍は、まだ退いていない。


     ◇


 前線では、八傑が距離を取っていた。

 誰か一人が命じたわけではない。

 それでも、同じ判断へ辿り着いた。

 個別では無理だ。

 ヴォルグが大きく息を吐く。


『……無理だろ、これ』


 隣にいたミリアが耳を立てる。


『早くない?』

『早くねえよ! 俺はさっきから何回行ったと思ってる!』


 フィルネが上空から降りてくる。

 着地すると、少し考えるように首を傾げた。


『いっぱい?』

『数えてねえよ!』

『じゃあ分からないじゃん』

『そういう問題じゃねえ!』


 アルネアは智臣の方を見た。

 ちょうどラギアと目が合う。

 すぐに逸らす。


『……私は、あっちは嫌』

『俺だって嫌だ!』


 ベルンは寸劇に加わらず、彰人の神装を見ていた。

 特に腕、手甲、その上から重なった神蟹の装甲。

 職人として、技術者として。

 恐怖より先に、構造を知りたいという顔をしている。


『ベルン』


 ゼグが呼ぶ。


『分かっている』


 ようやく彰人から視線を外す。


『一人ずつでは突破できん』


 ナーシャが腕を組んだ。


『そんなこと、もう全員分かってるでしょう』


 ゴルガが雅史を見る。

 先ほど全力で突っ込み、片手で止められた。


『でも、行くしかねえ』


 声に迷いはない。

 ミリアの耳が少し伏せる。

 アルネアも前へ出たい顔ではない。

 フィルネの笑顔も、先ほどより薄い。

 それでも、誰も後ろへ戻ろうとはしなかった。

 ゼグが全員を見る。


『なら、合わせるぞ』


 その一言で、八人の立ち位置が変わり始めた。

 十三将のように同時に攻撃するためではない。

 誰かが誰かに合わせるのでもない。

 一人が動けば、その結果を見て次が動く。

 相手が対応すれば、その対応そのものを、別の一人が利用する。

 八つの異なる能力。

 八つの異なる戦い方。

 それらを一つの流れへ変えるための配置。

 彰人がそれを見る。

 先ほどまでとは違う。

 ゼグだけを見ても意味がない。

 ベルンだけでも、ミリアだけでもない。


「……なんか来るな」


 雅史も姿勢を変えた。


「そうだね」


 智臣は棍を肩から下ろす。

 ラギアも、先ほどまでの寸劇が嘘だったように前を向いた。

 ヴァルネシアが誇る八傑。

 八人が、初めて一つの戦い方を選ぶ。

 神装した三人を倒すためではない。


 その向こうへ。

 ただ一歩でも進むために。

 戦場の空気が、もう一度変わった。


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