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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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15/37

十三人

 十三人が、前へ進んでいた。

 退き始めた兵たちの流れを割るように進む姿に、急いでいる様子はない。

 走しかけた兵を怒鳴りつける者も、無理に押し戻そうとする者もいなかった。

 ただ、自分たちは逆へ行くのだと示すように、一定の速度でこちらへ向かってくる。

 それだけで周囲の流れが変わった。


 前にいた兵たちが左右へ分かれ、自然と道を空けていく。

 誰かが命令したわけではない。

 それでも、彼らが近づいてくれば、自分たちがその場所にいてはいけないとでもいうように兵たちは退いた。


 彰人はその様子を見ながら、近づいてくる十三人へ視線を戻した。


「……あの人ら、さっきまでとちゃいますね」

「そうだね」


 雅史も同じものを見ていた。

 まだ何もしていない。

 武器を振るってもいなければ、魔術らしいものを使ったわけでもない。


 それでも、一般兵とは違う。


 歩き方だけではなかった。こちらを見る目も違う。

 ここまで前へ出てきた兵たちは、目の前で起きていることを理解できないまま、それでも命令に従って進もうとしていた。

 攻撃すれば止められる。

 押しても進めない。

 近づけば、自分たちの理解できない何かに阻まれる。

 何が起きているのか分からないまま結果だけを積み重ね、それがやがて警戒や恐怖へ変わっていった。

 だが、近づいてくる十三人には、少なくとも今のところそれがない。

 目の前にいる三人が普通ではないことには気づいている。それでも、自分たちなら対処できると考えている者の目だった。


「偉い人らかな」


 彰人が呟く。


「たぶんね。装備も違うし、周りの人たちの反応も違う。何より、あれだけ兵が退いてるのに前へ来るってことは――」


 雅史はそこで一度言葉を切った。

 十三人は立ち止まらない。


「少なくとも、自分たちなら何とかできると思ってるんじゃないかな」

「なるほど」


 彰人も、その認識なら納得できた。


「ほんなら、ちょっと強いんかな」

「どうだろうね」


 雅史は柔らかく笑う。


「やってみないと分からないかな」

「お前ら、もう少し緊張感持てよ」


 智臣が横から口を挟んだ。


「持ってますよ」

「そうは見えないんだが」

「智臣さんよりは持ってるつもりですけど」

「どこを見てそう思ったんだ」


 その間にも、十三人との距離は縮まっていく。

 やがて、その中から五人が前へ出た。


 最初に目についたのは、二メートルを大きく超える熊人の男だった。

 黒褐色の毛皮に覆われた肩から腕は、人間の倍近い厚みがあり、鎧を着込んでいるというより身体そのものが鎧のように見える。


 その隣には、熊人より僅かに背が低い代わりに、さらに横幅のある猪人の男。

 前へ突き出した二本の牙の下から荒い息を吐くたび、厚い胸板を覆う革鎧が大きく上下していた。


 三人目は鰐人。

 長い口吻の奥から覗く牙と、首から腕へ連なる暗緑色の厚い鱗。

 熊人ほどではないにせよ十分に大柄で、片手には剣というより鉈に近い、分厚く幅のある刃を持っている。


 残る二人は、その三人に比べれば細身だった。

 一人は額から二本の角を伸ばした鬼人の女。

 人間より一回り大きい程度の身体だが、露出した腕には見た目以上の筋肉が乗り、両手には拳を覆う金属具が装着されている。


 最後の一人は蜥蜴人の男だった。

 首筋から頬、腕の外側まで濃い緑色の鱗が重なり、腰の後ろから伸びた太い尾が地面すれすれの位置をゆっくり左右へ動いている。


 残る八人は後方で足を止めた。

 最初から十三人全員で来るつもりはないらしい。

 こちらは三人。

 向こうから出てきたのは五人。

 数を合わせる必要もない。

 それでも十三人全員を出さないということは、まず五人で十分だと判断しているのだろう。

 その判断に、彰人は不快感を覚えなかった。

 むしろ自然だと思った。

 向こうからすれば、こちらが何者なのかは分からない。それでも、十三人全員で相手をする必要があるようには見えないはずだ。


 鬼人の女が一歩前へ出た。


『聞く』


 日本語だった。

 彰人は内容より先に、その事実へ反応した。


「……喋れんの?」


 鬼人の女――キリカの眉が僅かに動く。


『何がおかしい』

「いや、今まで全然喋られへんかったから」


 昼間に会ったセレスティアとは会話できた。

 だが、ここまで戦ってきた兵たちとは、まともに言葉を交わせていない。

 言葉を交わす余裕がなかっただけではなく、こちらの言葉そのものが通じていない様子だった。

 彰人が雅史を見る。

 雅史も同じことを考えたらしい。


「セレスティアさんかな」

「ああ」


 それなら彰人にも納得できた。

 あの少女ならやりそうだった。

 こちらと彼らが接触する可能性を考えて、会話が成立するよう何かをしておいたとしても不思議ではない。

 もっとも、言葉が通じることと、戦わずに済むことは別の話らしい。


『お前たちが、あの者たちか』


 キリカが改めて問う。


「たぶん、そうやと思うけど」

『道を開けろ』

「それは無理やな」


 考える必要はなかった。

 彰人の返答に、キリカの目が細くなる。


『我らは、この先へ進む』

「それも無理」

『ならば退かせる』

「うん」


 彰人は頷いた。


「それやったら、やってみるしかないな」


 挑発したつもりはない。

 話して退いてくれるなら、その方がいい。

 退かないなら止める。

 彰人にとっては、それだけの確認だった。

 だが、キリカには違う意味に聞こえたらしい。

 腰を落とす。

 その隣で蜥蜴人――ギルも姿勢を変えた。

 先ほどまで静かに揺れていた尾が止まり、地面を掴む足へ力が入る。その変化を見た瞬間、彰人にも、次に何が起きるのかが分かった。


「彰人」


 雅史の声が届く。


「はい」

「来るよ」

「ですね」


 返事が終わるより早く、キリカが地面を蹴った。

 一般兵とは踏み込みから違った。

 地面を蹴った瞬間に身体全体が前へ運ばれ、距離が一気に消える。腰の回転から肩、腕へと力を繋いだ拳が彰人の顔面へ伸びてきた。

 彰人は半歩だけ身体をずらした。

 拳が頬の横を抜け、押し出された空気が耳元を鳴らす。

 それで終わらない。

 キリカは外れた拳を引かず、そのまま肘を折り畳んだ。至近距離から側頭部へ向かってくる肘を、彰人は左腕を上げて受ける。

 金属同士が触れたような硬い音がした。

 正面から止める必要はない。

 接触した場所を支点に、キリカの腕が進もうとしている方向へ手甲を滑らせる。

 ほんの僅かに角度を変えるだけで、肘は彰人の横へ抜けた。

 そこで右手をキリカの肩へ添える。


 押さない。

 掴まない。

 勢いが続く方向を、少し変える。


 それだけでキリカの身体が彰人の横を通り過ぎた。

 転ばせることもできた。

 地面へ落とすことも難しくない。

 だが、その必要はない。

 キリカは二歩進んだところで体勢を立て直し、すぐに振り返った。

 攻撃を避けられたことより、自分が想定した場所とは違うところへ身体を運ばれたことに戸惑っているように見える。


「速いな」


 彰人は素直に口にした。


「さっきまでと全然ちゃうわ」

『貴様――』


 キリカが何かを言おうとしたところへ、低い位置からギルが入った。

 キリカのような爆発的な踏み込みではない。身体を地面へ近づけ、滑るように距離を詰めながら彰人の足元を狙う。

 彰人が右足を引く。

 蹴りが空を切った。

 ギルはその勢いを止めずに身体を回した。

 腰から伸びた太い尾が、回転に合わせて加速する。

 彰人は今度は避けず、両腕を前へ出した。

 尾が手甲へ叩きつけられる。

 衝撃が金属を通して前腕まで走った。

 身体が押される。


 一歩。

 さらにもう一歩。

 二歩目で止めたとき、右腕には細かな痺れが残っていた。

 骨や筋肉を傷めるほどではない。

 指も問題なく動く。

 それでも、ここまで一般兵の武器を受けたときにはなかった感覚だった。

 生身でまともに受ければ、笑って済ませられる威力ではない。

 彰人は右手を一度開き、ゆっくり握り直した。


「……これ、結構重いな」


 ギルの目が僅かに変わる。

 自分の一撃が通じた。

 少なくとも、何も感じない相手ではない。

 そう認識したように見えた。


 彰人の方でも、相手への認識が一つ変わっていた。

 この五人は、ちゃんと強い。

 ならば、雑に扱わない方がいい。

 強い者ほど、自分の身体を限界に近いところまで使う。

 こちらが力の向きを不用意に変えれば、自分で生み出した力によって身体を壊す可能性もある。


「ちょっとちゃんと見なあかんな」


 彰人が二人へ向き直った。



 その少し横では、熊人の男――ドルガが雅史へ向かっていた。

 走るだけで地面へ重い振動が伝わる。

 あの質量と速度なら、正面から受け止められる者などほとんどいなかったはずだ。

 雅史は逃げなかった。


「これは、受けるしかないかな」


 右足を半歩引き、腰を落として両手を前へ出す。

 ドルガの肩が掌へぶつかった。

 空気が震え、雅史の靴底が土へ沈む。

 だが、身体そのものは後ろへ運ばれなかった。


『……何?』


 ドルガが低く声を漏らす。

 雅史は足元を一度確認してから、目の前の巨体を見る。


「かなり強いね」


 その言葉を聞いた瞬間、横から猪人――グランが動いた。

 ドルガが押しても動かない。

 ならば二人ならどうか。

 判断に迷いがない。


『ドルガ、そのままだ!』


 グランが肩から突っ込む。

 二つの巨体から別々の方向へ力が掛かり、雅史の足元から亀裂が伸びた。

 それでも雅史は動かない。

 むしろ気になったのは自分ではなく、足元だった。


「これ、地面の方が先に壊れそうだね」

『押せ!』

『分かっている!』


 二人の力がさらに増す。

 雅史は困ったように息を吐いた。

 清隆が整えた場所だ。

 あとで直せるとしても、わざわざ壊す必要はない。


「ごめんね」


 雅史が一歩前へ出る。

 押していたはずのドルガとグランが、その一歩分だけ後ろへ下がった。

 二人とも力を抜いていない。

 それでも雅史はもう一歩進み、足元を確かめる。


「うん。この辺なら大丈夫かな」

『ふざけているのか……?』

「え?」


 雅史は本気で分からない顔をした。


「何が?」



 そのさらに横では、鰐人の男――ザグが智臣と向き合っていた。

 まだ互いに動いていない。

 ザグは分厚い大鉈を片手に持っている。

 智臣は何も持っていない。

 その後ろでは、六メートルを優に超えるラギアが空中をゆっくり泳いでいた。


『貴様、なぜ戦わない』

「戦ってるけど」

『動いていない』

「動く必要がないからな」


 挑発したつもりはない。

 進んでくるなら止める。

 止まっているなら、自分から殴りに行く理由もない。

 智臣にとっては、それだけだった。

 ザグが地面を蹴る。

 巨体から想像するより遥かに速い。

 大鉈が振り上げられ、智臣へ向かって落ちてくる。

 智臣は相手の身体だけを見てはいなかった。


 足元。

 距離。

 武器の長さ。

 自分とザグの間にある空間。


 それらを一つのものとして捉えながら半歩横へ動く。

 大鉈が地面を叩き、土が大きく抉れた。

 ザグはすぐに刃を返す。

 横薙ぎ。

 智臣は一歩下がる。

 刃が胸の前を通り過ぎた。

 そこからさらに踏み込もうとしたザグの足が止まった。

 地面はある。

 穴もない。

 それでも、その先が異様に深く感じられる。

 一歩進むだけの距離が、自分の身体を呑み込むほどの深さを持っている。

 ザグはその違和感を恐怖だけでは処理しなかった。

 足を止めたまま、地面と智臣を見比べる。


『術か』

「似たようなもんだ」

『幻覚か』

「それとも違うな」


 智臣は淡々と答える。


「そこはもう深い」

『何を言っている』

「来るなら来ればいい。止めはしない」


 後ろを泳いでいたラギアが、ザグへ顔を向けた。


『深いぞ』

「ラギは黙ってろ」

『海は深い方が良い』

「だから黙ってろ」


 ザグの表情に困惑が混ざった。

 目の前の男だけでも理解しにくい。

 その後ろを巨大な鯱が空中で泳ぎ、普通に会話へ参加している。


『……何なのだ、お前たちは』


 智臣は少し考えた。


「大学院生」

『…………』

「正確には、俺とあっちが大学院生だな」


 雅史の方を示す。


『そういうことを聞いているのではない』

「なら、聞き方を変えてくれ」


 ラギアが後ろで身体を傾けた。


『智臣』

「なんだ」

『増えるぞ』


 その言葉で、智臣の視線が動いた。

 後方に残っていた八人が、それぞれ位置を変え始めている。

 最初にこちらへ来たのは鳥人の男だった。

 名をネイルというらしい。

 茶褐色の大きな翼を持つ細身の男で、手には長い槍を持っている。地面を数歩蹴っただけで翼が風を掴み、瞬く間に上空へ舞い上がった。

 ザグが地面から進めないなら、上から行く。

 その判断なのだろう。

 少し遅れて、蝶人の女――シェリアも智臣の側へ移動する。

 背中から伸びた薄い翅の周囲には淡い光が集まり始め、その後ろでは山羊人の男――バルクが長い杖を地面へ突き立てた。


 最後に残ったエルフの女――エルナだけは前へ出ない。

 長い淡色の髪を背へ流し、細身の杖を手にしたまま戦場全体を見渡している。

 攻撃ではなく、何か別の役割を担っている。

 智臣にはそう見えた。


「五人か。多くないか」

『人気者だな』

「嬉しくないな」


 彰人のところにも、新たな二人が向かっていた。


 一人は猫人の女――レイナ。

 人間よりやや小柄で、しなやかな身体を軽装の防具で覆っている。

 頭上の耳を伏せ、上体をほとんど揺らさず地面を滑るように走る姿は、キリカの直線的な速さとは違い、次にどちらへ身体が流れるのかを読ませない。


 もう一人は人間の男だった。

 ルクス。

 十三人の中では、外見だけなら最も一般兵に近い。

 中肉中背で、短く整えた黒髪。右手には細身の剣を持っているが、目立つような重装備もない。


 ただし、彼は彰人だけを見ていなかった。

 キリカ。

 ギル。

 レイナ。

 自分より先に戦っている三人を順に見て、それぞれが何をしようとしているのかを確認している。

 彰人はその視線の動きに気づいた。


「……この人、ちょっと違うな」


 キリカが踏み込む。

 彰人の胸へ拳が伸びる。

 先ほどと同じように左手を添え、軌道を外そうとした瞬間だった。

 ルクスの剣が入る。

 彰人の手とキリカの拳、その接点になるはずだった場所へ、細い刃が正確に置かれた。


「おっと」


 彰人は手を引く。

 初めて、いつもと同じ処理を選べなかった。

 ルクス自身の力が強いわけではない。

 速さも、キリカやレイナほどではない。

 それでも彼が一人加わっただけで、他の三人の攻撃が別のものに変わる。


「なるほどなあ」

『何がおかしい』


 ルクスが問う。


「一人増えただけで、だいぶ変わるなと思って」

『余裕を見せられるのも今のうちだ』

「余裕っていうか、ちょっと忙しなった感じかな」


 その横からレイナが入る。

 キリカへ向いていた彰人の意識、その外側を正確に使うように爪が脇腹へ伸びてきた。

 彰人が腰を引く。

 爪先が服を掠める。

 レイナはそこで止まらず、身体を沈めて片手を地面へつき、反転しながら彰人の足首へ踵を向けた。

 避ける方向にはギルがいる。

 太い尾が既に地面を離れていた。

 彰人は右足を上げ、レイナの蹴りを下へ通した。

 その足を後ろへ逃がさず、前へ置く。

 キリカとの距離が消える。


『な――』


 彰人は拳を振り切った直後のキリカの懐へ入り、身体を寄せた。

 ぶつからない。

 ただ、そこへ立つ。

 結果として、横から迫っていたギルの尾の先にキリカが入った。


『ギル!』


 ギルは身体を捻り、尾を地面へ叩きつけることで無理やり軌道を変えた。

 土が大きく弾ける。


「やっぱ、それ結構痛いやつやな」

『貴様がそこへ入ったのだろう!』

「せやけど、仲間には当てへんかったやろ」


 彰人はキリカから離れながら答えた。


「ちゃんと見えてるなと思って」


 キリカの表情が変わる。

 単に攻撃を避けているわけではない。

 自分たちの位置と、力の向きまで見ている。

 そこまでは理解したらしい。


『我らを使っているのか』

「使ってるっていうか……そっちも仲間には当てたないやろ?」


 キリカは答えない。

 答える必要もない。

 先ほどギルが無理に尾の軌道を変えたこと自体が、その答えだった。


「ほんなら、そこにおったら攻撃来えへんから便利やなって」

『貴様――』

「彰人」


 雅史の声が届いた。


「何ですか、雅史さん」

「たぶん、それ言うと怒ると思うよ」

「あ」


 キリカを見る。

 明らかに先ほどより怒っている。


「……ごめん」

『ふざけるな!』

「やっぱり怒った」


 雅史はそのやり取りを聞きながらも、彰人の方は見ていなかった。

 自分のところにも、新しい相手が増えている。


 犬人の男――ラグ。


 体格だけなら雅史と大きく変わらない。短い灰色の毛に覆われ、腰には短剣を差しているが、まだ手を掛けていない。

 代わりに見ている。

 雅史の足元。

 重心。

 ドルガとグランが押した跡。

 地面に残った亀裂。

 時折、何かを確かめるように鼻が動く。


「この人は、二人とは違いそうだね」

『何がだ』


 ドルガが問う。


「二人は僕を動かそうとしてるけど、あの人は、どうして僕が動かないのか見てる気がする」


 ラグの耳が僅かに動いた。

 その反応を見て、雅史は自分の認識が大きく外れてはいないと判断した。

 グランが再び正面から踏み込んでくる。

 雅史は身体をずらそうとした。

 その瞬間、細い紐が足元へ走った。

 先端に小さな重りを付けた紐が右足首へ絡みつく。

 強く引くわけではない。

 動こうとした瞬間だけを狙って、足の位置をずらす。

 そこへグランの肩が入った。

 雅史の上体が僅かに後ろへ傾く。

 初めて生まれた変化を見逃さず、ドルガが左肩を掴んだ。

 押しても動かない。

 ならば、重心が崩れた瞬間に持ち上げる。


「なるほど」


 雅史の左足が、ほんの数センチだけ地面から浮いた。

 三人の表情が変わる。

 動いた。

 ならば、もう少し。

 右足を拘束し、左側を持ち上げ、正面から押す。

 三方向から掛かる力が、一つの目的へ揃っていく。

 雅史はそれを一度受け入れた。


 どこから。

 どの程度。

 何を崩そうとしているのか。

 別々の攻撃に見えても、狙っているものは同じだった。


「なるほどね」


 浮いていた左足を下ろす。

 地面へ触れた瞬間、ドルガの腕が止まった。

 グランの足が土を滑り、ラグの紐が張り詰める。

 雅史は足首へ絡んだ紐を見た。


「これ、無理に切ると危ないかな」

『何を――』

「引っ張ってる人が飛んでいきそうだから」


 右足を僅かに引く。

 ラグの腕が伸び切らない程度に力を返すと、張力に負けてラグが一歩前へ出た。

 そこで紐が緩む。

 雅史は足首を回して外し、拾い上げた。


「はい」


 ラグへ差し出す。


「返すね」


 ラグはすぐには受け取らなかった。


「……いらない?」

『貴様は何なのだ』

「大学院生だけど」

『そういう意味ではない!』


 少し離れたところで智臣が聞いていた。


「雅史、お前もそれ言うのか」

「え?」

「俺もさっき言った」

「ああ。智臣も大学院生だもんね」

「そこじゃない」


 そんなやり取りの間にも、雅史のところへ最後の一人が近づいてきた。


 ドワーフの男――ノルド。

 身長だけなら雅史の胸ほどしかないが、横幅は広い。岩を削り出したような胴体に短い手足。顔の下半分を覆う濃い髭は胸元まで伸びている。

 両手に持っているのは、柄の短い大槌だった。

 ノルドは雅史の前まで来ると、槌の頭を地面へ置いた。

 鈍い音が響く。


『動かぬのだな』

「そうみたいだね」

『ならば、動かしてみたい』

「……僕を?」

『他に誰がおる』


 ノルドが笑う。

 その声に、ドルガとグランが反応した。

 二人がノルドを見る目には、明確な期待がある。

 単純な力比べなら、自分たちが劣っているとは思っていない。

 それでも、この男なら別の方法を持っている。

 雅史にはそう見えた。


「これは少し気をつけた方がよさそうだね」

「雅史さん、大丈夫です?」


 彰人の声が届く。


「うん。たぶん」

「たぶんなんですか」

「まだ何するか分からないからね」

「それはそうですけど」


 智臣も二人の会話を聞いていた。


「お前ら、余裕あるな」

「智臣さんも喋ってるやないですか」

「俺は状況確認だ」

「俺もですよ」

「絶対違うだろ」


 三人の声は普段と大きく変わらない。

 ただし、目の前にいる十三人への認識は、最初とはもう違っていた。


 強い。


 一般兵とは比較にならない。

 身体能力だけではない。

 一度通じなかった方法を捨て、別の方法を試す。仲間が得た情報を見て、自分の役割を変える。

 それでも彼らの中には、まだ自分たちが突破できないという認識はないようだった。

 目の前にいる三人が常識から外れていることには気づいている。

 ならば、その理由を探せばいい。

 方法を変えればいい。

 人数を増やせばいい。

 そうすれば突破できる。

 少なくとも、その確信は十三人の動きから消えていなかった。


 そして、その姿を見ている一般兵たちにも、別の認識が生まれ始めていた。

 先ほどまで中央を塞いでいた三人が、十三人によって完全に引きつけられている。

 ならば、その横を抜けられる。

 一人が走る。

 それに気づいた別の兵も続く。

 彰人はルクスたちを見ながら、そのさらに向こうで動き始めた兵にも気づいていた。


「……やっぱ行くか」


 止めに行く必要がある。

 そう考えたところで、彰人は動かなかった。

 自分たち三人だけで、この場所を守っているわけではない。


「優斗、頼むで」


 届く距離ではない。

 返事も聞こえない。

 それでも、任せる相手が誰なのかは決まっていた。


     ◇


 少し高くなった場所から戦場を見下ろしていた優斗は、彰人より先に動き始めた兵を捉えていた。


「……来たね」


 隣にいるナギが三本の脚で地面を掴み直す。


『撃つか』

「うん」


 優斗は短く答えた。

 見るのは一人ではない。

 何人いるのか。

 どこへ向かっているのか。


 速度。

 装備。

 互いの距離。

 その先にある木々や岩。

 さらに奥にいる者。


 全部を一つの景色として見ながら、撃つ場所を決める。

 優斗が右手を横へ伸ばした。

 何もなかった空間へ淡い光が集まり、輪郭を作る。


 弓。


 神装ではない。

 八咫烏の神威を完全に開いたときに現れるものとも違う。

 それでも、人の手で作られた普通の弓ではなかった。

 優斗はそれを握り、三本の矢を弦へ掛ける。

 一度に放つ本数を増やせば、それだけ一本ごとの精度は落ちる。

 だから、三本を同じようには扱わない。

 先頭の兵は中央より僅かに右。盾を持っているが、走るため身体の横へ寄せている。

 その後ろに二人。さらに左側から木々へ向かう者がいる。


 人を射る必要はない。


 必要なのは、進めなくすること。

 弦から指を離す。

 三本の矢がほとんど同時に放たれ、直後からそれぞれ違う軌道を描いた。

 一本目が、先頭を走る兵の右足より半歩前へ刺さる。

 驚いて足を止めた兵を避けようとした二人目。その進行方向へ二本目が落ちる。

 三本目は、さらに左へ逃れようとした兵の足元。

 誰にも当たっていない。

 それでも三人の動きは止まった。


『上だ!』

『散れ!』


 兵たちの反応も早かった。

 空から矢が来ると分かれば、まとまって走る必要はない。

 左右へ散り、岩や木を遮蔽物として使い始める。


「慣れてるなあ」


 優斗は次の矢を作りながら、その動きを追う。

 右へ走った兵は岩陰へ。

 左側の数人は森へ入る。

 問題はそちらだった。


 幹。

 枝。

 葉。


 上から見下ろせる優位は大きいが、何でも透かして見えるわけではない。

 森へ入った兵が木の陰へ消える。

 次の木へ移る瞬間だけ姿が見える。

 優斗は弦を引いた。

 矢が放たれ、兵が次の木へ到達するより先に、その幹の横へ刺さる。

 兵は身体を引いた。

 それでも諦めず、反対側へ回ってさらに奥へ進む。


『射らぬのか』


 ナギが問う。


「見えてるなら射てるよ」

『ならば』

「当てないように射るのと、見えないところへ射るのは違うから」


 そこにいることは分かる。

 位置も、おおよそなら推測できる。

 それでも撃たない。

 足を狙ったつもりで相手が姿勢を変えれば胴へ入る。

 装備を狙っても、枝に触れれば軌道が変わる。

 優斗にとって、射てることと、射っていいことは別だった。


「清隆さん」


 少し離れた場所へ声を飛ばす。


「森の中、何人か入った」

「見えてる」


 返事はすぐに来た。

 清隆は兵よりも地面を見ていた。

 どこを通ろうとしているのか。

 どこなら動かしても崩れないか。

 木の根がどう伸びているのか。

 地中に水の流れはあるか。

 この場所へ来た時点で確認しているものも多い。

 だからといって、森の地面を適当に隆起させるわけにはいかなかった。

 人だけを止めればいいわけではない。


「木は倒したくないな」


 優斗が矢で誘導したことで、兵たちの進路はある程度絞られている。

 ならば、大きな壁を作る必要はない。


「こっちかな」


 清隆が右手を地面へ向ける。

 森の中を走っていた兵には、最初は何が起きたのか分からなかった。

 次の木へ向かって踏み出した、その先。

 地面がゆっくり高くなっていく。

 土だけを盛り上げているのではない。

 根を引き千切らないよう、木を生えている状態のまま周囲の地面ごと持ち上げている。


 突然、目の前に坂が生まれた。

 登れない高さではない。

 だから兵は左へ向かう。

 そちらも上がる。


 右へ。


 今度は地面が下がった。

 深さは腰ほど。

 落ちても大怪我はしない。

 だが、武器を持ったまま勢いよく走り抜けられる地形ではない。

 兵が止まる。

 周囲の者もようやく気づく。

 自分たちが進もうとした方向だけ、地形が変わっている。


「清隆さん、左から二人」

「うん」

「もう一人、岩の方」

「そっちは?」

「まだ隠れてる」

「じゃあ、そのままでいいか」


 二人のやり取りは淡々としていた。

 兵たちに見えているのは、空から正確に矢を落としてくる少年と、自分たちの進路に合わせて地形を変えていく青年だけ。

 その事実だけでも、十分に異常だった。


『まだだ!』


 兵の一人が声を上げる。


『あの方々がいる!』


 前を見る。

 十三人はまだ戦っている。

 負けてはいない。

 中央の三人を相手に、確実に攻撃を重ねている。

 ならば、自分たちにもまだやれることがある。

 再び走り始める兵を見て、優斗は弓を構え直した。


『諦めぬな』


 ナギの声に、優斗は僅かに笑う。


「うん。強いね」


 敵だからではない。

 何度止められても、前にいる者たちが戦っている限り、自分たちが負けたとは考えない。

 その信頼は、少し羨ましいくらいだった。


「でも、通せないんだよね」


 新しい矢が生まれる。

 優斗は再び弦を引いた。


     ◇ ◇ ◇


 何かが、行人の側を向いた。

 視線があるわけではない。

 目の前には、変わらず何も見えていない。

 それでも、自分がこちらから触れようとしているだけだった感覚が、そこで変わった。

 向こうもまた、自分を認識している。

 昨日、最初の概念体と接触したときには、ここまで辿り着くのにも時間が掛かった。

 こちらが何者なのか。

 何をしようとしているのか。

 そもそも、自分という存在を相手が認識できるのか。

 一つずつ探りながら経路を作り、ようやく届いた。

 だが、今度は違う。

 行人が伸ばしたものへ、向こうから触れてきた。


「……反応、早いです」

「昨日のより?」

「はい。たぶん、向こうも僕を見てます」

「見えてへんけどな」

「僕にも見えてません」

「ほな一緒やな」


 何が一緒なのかは分からなかったが、怜司は特に気にした様子もなく、何もない空間を見ている。

 行人は意識を戻した。

 反応があるからといって、急ぐ必要はない。

 むしろ、向こうから接触してきたのなら、その反応が何を意味しているのかを確かめた方がいい。


 敵意。

 拒絶。

 興味。

 助けを求めている可能性もある。

 こちらの知っている感情へ無理に当てはめず、返ってくるものをそのまま受け取ろうとする。


 その瞬間だった。

 行人の中へ、強い感覚が流れ込んだ。


「――っ」


 思わず息が詰まる。


「行人?」

「大丈夫です」


 痛みではない。

 攻撃されたわけでもない。

 ただ、一度に入ってきたものが大きかった。

 行人はすぐにそれを理解しようとする。

 最初に感じたのは、焦りだった。

 落ち着かない。

 止まっていられない。

 ここではない場所へ行かなければならない。

 その理由までは分からない。

 それでも、そこに含まれている方向だけは明確だった。


 ――逃げる。


 行人が目を開く。


「……逃げてる?」


 返事の代わりに、もう一度何かが流れ込んできた。

 今度は先ほどよりも具体的だった。

 暗い場所。

 木々のようなものが次々と後ろへ流れていく。

 自分が走っている。

 何度も後ろを振り返る。

 だが、そこに何がいるのかは見えない。

 何もいないのではない。

 行人へ届いている認識の中に、追ってくるものの姿が含まれていなかった。

 それでも。


 ――来る。

 ――離れる。

 ――捕まる。


 意味だけが続けて届く。

 行人は眉を寄せた。


「何かに……追われてるみたいです」

「なんかおるん?」

「分かりません。姿は見えないです」

「そいつから逃げてる?」

「たぶん」


 言い切らずに答える。

 行人自身が、まだ受け取ったものを完全には理解できていない。

 怜司も、それ以上は聞かなかった。


「ほな、もうちょい聞いてみよか」

「はい」


 行人は再び接触へ意識を向ける。

 先ほどまでより、経路ははっきりしていた。

 こちらから一方的に伸ばしているものではない。

 向こうもまた、何かを伝えようとしている。

 ならば。


「もう少し、近づいてみます」

「おう」


 行人は、その経路を少しだけ広げた。

 相手の中へ踏み込むのではない。

 こちらへ流れ込んでくるものを、受け取れる範囲だけ広げる。

 すると、目の前の景色が揺れた。


「……あ」


 何もなかったはずの空間に、薄い輪郭が生まれる。

 最初は色だけだった。

 白。

 その周囲に、緑。

 足元には茶色。

 それぞれが次第に意味を持ち始める。

 木々。

 土。

 葉。

 風が抜ける音まで、遅れて形を持った。

 気づけば、二人の周囲から先ほどまでいた場所が消えていた。


「入った?」


 怜司が周囲を見る。


「……みたいです」

「昨日と一緒?」

「似てますけど、ちょっと違います」


 昨日は、こちらから接触するために作った経路を辿って、相手の認識へ近づいていった。

 今回は逆だった。

 行人が作った経路を使って、相手の方から自分の持つものを見せてきた。

 その違いなのか、周囲の景色も昨日よりはっきりしている。

 風が頬へ触れる。

 土を踏めば、靴底へ硬さが返ってくる。

 葉が擦れる音も、遠くにある木々の輪郭も曖昧ではない。


「昨日のより、はっきりしてんな」

「はい。こっちの方が、自分から伝えようとしてるのかもしれません」

「話早そうやな」

「だといいんですけど」


 行人は周囲を見回した。

 そして、少し離れた場所に白いものを見つける。


「……あれかな」


 怜司も同じ方向を見る。


「犬?」

「分かりません」

「狐?」

「それも分かりません」

「鹿?」

「増やしても分かりませんよ」

「なんやねん」


 そこにいるものは、犬より少し大きい程度の四足の姿をしていた。

 白い毛に覆われている。

 そう見える。

 だが、形を捉えようとすると輪郭が僅かに揺れた。

 狐に見えた頭部が、次には鹿のように細くなる。

 身体の線は狼にも近い。

 どれか一つが正しいのではない。

 おそらく、どれも違う。

 生き物の形をしているのではなく、人が理解できる生物の外形を借りている。

 昨日見たものと同じ。

 概念が、生き物のガワを被っている。

 ただし、昨日のものより意思はずっと明確だった。

 白いものが行人を見る。

 少なくとも、行人にはそう感じられた。

 こちらを認識している。

 そして、その視線が隣へ移る。

 怜司へ向いた。

 白い毛が、一斉に逆立った。


「……怜司さん」

「なんや」

「めちゃくちゃ警戒されてません?」

「なんでやねん」


 怜司は自分の身体を見る。

 当然、何もしていない。


「俺、立ってるだけやで」

「知ってますけど」

「行人には普通なん?」

「たぶん」

「ほな俺やん」

「そうなりますね」

「なんでやねん」


 理由は分からない。

 怜司は白いものをしばらく見たあと、それ以上考えるのをやめた。

 分からないものは分からない。

 少なくとも、今のところ襲ってくる様子はない。


「まあええわ。行人、聞いて」

「はい」


 行人が一歩前へ出る。


「僕たちは、あなたを傷つけに来たわけじゃありません」


 白いものは逃げない。

 警戒はしている。

 それでも、接触そのものを拒絶してはいなかった。


「何から逃げているのか、教えてもらえますか?」


 しばらく待つ。

 やがて、また認識が流れ込んできた。


 ――来る。

 ――逃げる。

 ――離れる。


 先ほどと同じ。

 行人はそこから、もう一つだけ確かめる。


「追っているのは、ヴァルネシアの人たちですか?」


 今度の反応は速かった。


 ――違う。


 それまで届いていたものとは違い、ほとんど迷いがない。

 行人は怜司を見る。


「違います」

「ヴァルネシアちゃうん?」

「はい。これは、かなりはっきりしてます」

「ほな、あいつらに追い出されたわけでもないんやな」

「少なくとも、この子の認識では違うみたいです」


 怜司は少し考えた。


「でも、あっちから来てるんやろ?」

「そうですね」

「ほんなら……」


 怜司が、来た方向を見る。

 もちろん、この空間の中で現実の方角がそのまま意味を持つのかは分からない。


「ヴァルネシアから逃げてるんやなくて、ヴァルネシアの方から離れようとしてる?」


 行人はすぐには答えなかった。

 受け取ったものを思い返す。


 逃げる。

 離れる。

 追われている。

 そして、ヴァルネシアではないという明確な否定。


「……その可能性はありそうです」

「追ってるやつが、向こう側におるとか?」

「そこまでは分からないです」

「ほな、それは分からんままでええか」

「はい」


 推測を事実にする必要はない。

 今分かったのは、この概念体が何かから逃げていること。

 その何かはヴァルネシアではないこと。

 今は、それだけで十分だった。

 怜司は白いものを見る。

 相変わらず自分だけ妙に警戒されている。


「ほな、逃げんでええんちゃう?」

「え?」


 行人が怜司を見る。

 白いものも、動きを止めた。


「追ってくるんやったら、そっち止めたらええやろ」


 行人は一瞬、返す言葉を探した。


「……それができないから、逃げてるんだと思いますけど」

「今はな」


 怜司の声は普段と変わらなかった。


「逃げたいんやったら逃げたらええけど、逃げたないんやったら、別にずっと逃げる必要ないやろ」


 何に追われているのか。

 どれほど危険なのか。

 まだ何も分からない。

 怜司も、それを軽く見ているわけではなかった。


 ただ。


 追ってくるものがいる。

 だから、追われる側が逃げ続けなければならない。

 その形を、そのまま受け入れる必要はないと思っただけだった。


「ここにおりたいんやったら、おったらええやん」


 白いものが怜司を見る。

 警戒は消えていない。

 それでも先ほどまでとは違うものが、行人へ流れ込んできた。


 ――分からない。


「……分からない、みたいです」

「何が?」

「怜司さんの言ってることが」

「なんでやねん」

「普通、追われてる相手に『追ってくる方を止めればいい』とは言わないですから」

「でも、追ってくる方が原因なんやろ?」

「まあ……そうなんですけど」


 行人は少し笑った。

 怜司はまだ納得していないようだったが、相手に理解させようとはしなかった。

 自分がそう考えることと、相手が同じように考えることは別だった。


「まあ、今決めんでもええわ」


 怜司が言う。


「嫌やったら逃げたらええし。ここにおりたかったら、その時考えよ」


 白いものから答えは返ってこない。

 ただ、逃げなかった。

 行人はそれを確認してから、静かに問いかける。


「また来てもいいですか?」


 明確な肯定はない。

 拒絶もない。

 まだ警戒している。

 まだ分からない。

 それでも、最初に触れたときのような切迫した「逃げる」という認識は返ってこなかった。


「……嫌ではない、と思います」

「ほな、また来たらええやん」

「そうですね」


 行人が頷いたところで、周囲の景色が薄れ始めた。

 木々の輪郭が透ける。

 足元の土から感触が消えていく。

 風の音も遠ざかり、最後まで残った白い姿も、ゆっくりと輪郭を失った。

 最後まで、その視線は二人へ向いていた。


 特に、怜司へ。

 警戒したまま。


 現実の景色が戻る。

 目の前には、先ほどと同じ何もない空間。

 少し離れた場所では、白金の獅子とカグラが二人を待っていた。

 行人は一度息を吐き、自分の状態を確かめる。


「……大丈夫そうです」

「疲れた?」

「少しだけ。でも、昨日よりは楽です」

「慣れたんかな」

「それもあるかもしれません」


 行人はそこで会話を止めた。

 別の感覚があった。

 今の接触によって経路の作り方が分かったからなのか。

 それとも、最初からそこにあったものへ、ようやく気づけるようになったのか。

 少し離れた場所に、もう一つ。


「……怜司さん」

「おった?」

「はい」


 行人はその方向を見る。

 ただ、今までの二つとは違った。

 近づいてくる感じがない。

 逃げている感じもない。

 存在していることだけは分かるのに、そこから何も返ってこない。


「なんか違います」

「どんな?」

「……古い、のかな」

「概念体に新しいとか古いとかあるん?」

「分かりません」

「分からんのかい」

「でも、そんな感じなんです」


 ずっと前からそこにある。

 動かない。

 何かを探しているわけでも、逃げているわけでもない。

 ただ、その場所に留まり続けている。

 行人は少し考えてから、その感覚に最も近い言葉を選んだ。


「……寝てるみたいです」

「寝んの?」

「だから僕に聞かれても分かりませんって」

「ほな見に行こか」

「起こすんですか?」

「話聞きたいんやろ?」

「そうですけど」

「ほな一緒やん」


 怜司は獅子の方へ歩き始める。


「起こして怒られても知りませんからね」

「そん時は謝ったらええやろ」

「怜司さんが?」

「起こすん行人やん」

「怜司さんが行こうって言ったんでしょう」

「俺、場所分からへんもん」

「そういう問題じゃないです」


 行人もカグラのもとへ戻る。

 次に待つものが何なのかは、まだ分からない。


 ただ。


 今までの二つとは違う。

 それだけは、はっきりしていた。


     ◇ ◇ ◇


 戦場では、四人に囲まれた彰人が、先ほどまでとは少し違う動きをしていた。

 キリカの拳。

 ギルの尾。

 レイナの速度。

 そして、それらを繋ぐルクス。

 一つずつなら、もう分かる。

 だが、ルクスが加わってから、同じ攻撃が同じ意味を持たなくなった。


『レイナ、右へ』


 短い指示でレイナが動く。


『ギル、待て』


 振ろうとしていた尾が止まる。


『キリカ、今だ』


 その瞬間だけ、キリカが踏み込む。

 彰人が拳へ触れようとすれば、ルクスの剣がその場所へ入る。

 彰人を直接斬るためではない。

 彰人が何をしようとしているのかを見て、それを選べない状況を作る。

 この男自身が一番強いわけではない。

 それでも、四人の中で最も面倒なのは誰かと聞かれれば、彰人はルクスを選んだ。


「この人がおると、やりにくいな」

『聞こえているぞ』

「聞こえるように言うたし」

『ならば黙って戦え』

「喋った方が分かりやすいやろ?」

『何がだ!』

「色々」


 キリカの拳が来る。

 彰人は受けず、身体をずらした。

 その先でレイナが爪を振るう。

 さらにギル。

 ルクスの指示で三人の攻撃が途切れない。


 彰人は一つずつを見る。

 何を狙っている。

 次に誰へ繋ぐ。

 どこを塞ぐ。

 自分を傷つけるための攻撃だけを見ていては足りない。

 攻撃と攻撃の間にある意図まで拾う。

 その認識を重ねるほど、彰人の動きから無駄が減っていった。



 雅史の周囲でも、四人が方法を変えている。

 ドルガとグランが押しても動かない。

 ラグが足を取っても崩れない。

 ならば、立っている場所そのものを安定させなければいい。


『もう一度だ』


 ノルドが槌を振り上げた。

 地面へ叩きつける。

 衝撃が雅史の身体ではなく、その足元を揺らした。

 立っている場所そのものが動けば、どれほど踏ん張れても意味がない。

 雅史の膝が僅かに曲がる。

 そこへラグの紐が飛び、今度は右腕へ絡みつく。

 左右からドルガとグラン。

 雅史は二人の肩へそれぞれ掌を当てた。

 大きな衝撃が両腕を通して身体へ届く。

 さらに後ろからラグが引く。


 ノルドが二度目の槌を振り上げる。

 四方向。

 だが、別々に処理する必要はない。

 全員が狙っているのは同じもの。

 自分の姿勢を崩し、ここから動かすこと。

 ならば、その一つだけを守ればいい。


「みんな、色々考えるね」

『楽しそうに言うな!』


 グランが声を上げる。


「いや、さっきと違うから」


 雅史は本当に感心していた。


「次に何するのかなって」

『我らを試しているのか!』

「そんなつもりはないんだけど」


 説明しても、たぶん納得してもらえない。

 雅史はそれ以上言わず、足元へ意識を戻した。



 智臣のところでは、五人がようやく一つの集団として動き始めていた。

 ザグが正面から距離を詰める。

 上空にはネイル。

 シェリアは離れた位置から光を操り、バルクは杖を使って地面から岩を伸ばす。

 エルナだけは後方。

 直接攻撃には加わらず、四人と周囲の兵を見ている。


 ザグが智臣の作った「深さ」を越えようとする。

 足が止まる。

 そこへバルクが岩を伸ばした。

 深さの中へ、新しい足場を作る。


「そう来るか」


 ザグが岩へ足を掛ける。

 一歩。

 もう一つ岩が伸びる。

 さらに一歩。

 上空からネイルの槍が落ちてくる。

 智臣が身体をずらす。

 その先へシェリアの光。

 逃げる方向を限定している。

 ザグだけを止めればいい状況ではなくなった。


「できるじゃないか」

『我らを何だと思っている』


 ザグが低く返す。


「まだ知らないから見てるんだよ」


 智臣は淡々と答えた。

 ザグがさらに踏み込む。

 バルクの足場。

 ネイルの牽制。

 シェリアが進路を塞ぐ。

 それらを使って、ついに智臣の目の前まで届いた。

 大鉈は先ほど投げたまま地面へ刺さっている。

 ザグは素手の拳を智臣の胸へ放った。

 智臣は避けず、掌で受ける。

 重い衝撃が腕を抜け、身体が半歩だけ後ろへ動いた。

 ザグの目が見開かれる。


『動いた』

「そりゃ動く」


 ザグがさらに踏み込む。

 智臣はその手首を掴んだ。


「でも、捕まえた」


 後ろでラギアが口を開く。


『食うか』

「食うな」

『残念だ』

「思ってないだろ」


 ザグは腕を引かない。

 逆に距離が近いことを利用し、額を智臣へ向ける。

 硬い鰐人の頭部が迫るのを見て、智臣は顔を僅かに逸らした。

 頭突きが頬の横を抜ける。


「危ないな」

『戦場だぞ』

「知ってる」


 智臣はザグの腕を離した。

 互いに一歩ずつ距離を取る。

 そこで攻防が一度途切れた。


 強い。


 三人とも、その認識は共有していた。

 目の前の十三人は、間違いなく強い。

 工夫すれば近づいてくる。

 動かすこともできる。

 それまで通じなかった攻撃を通す方法も見つける。

 しかし、その先がない。

 四人で彰人を囲んでも、四人で雅史を崩そうとしても、五人で智臣の領域を攻略しようとしても、決定的なところへ届かない。

 方法が悪いのではない。

 それぞれが弱いわけでもない。

 ただ、相手との間にある差を、まだ埋められていなかった。


 後方にいたエルナも、その事実を見ていた。

 攻撃へ参加しない代わりに、彼女は戦場全体を見ている。

 十三人のうち誰かが傷つけば動けるように。

 一般兵に大きな負傷者が出れば、すぐ治療できるように。

 今のところ、命に関わる怪我をした者はいない。

 それ自体が不自然だった。

 これだけの規模で戦っている。

 強力な攻撃も飛び交っている。

 地形まで変わっている。

 それなのに、相手側の攻撃で致命傷を負った者が一人もいない。


 偶然ではない。

 狙っている。

 相手は、こちらを殺さないように戦っている。

 その認識に至ったとき、エルナはもう一度前を見た。

 だから弱いわけではない。

 むしろ逆だった。

 殺さないという制約を自分たちへ課したまま、それでも十三人を止め続けている。

 その事実をどう捉えるべきなのか。

 まだ答えは出ない。


 やがて。

 十三人が一度、距離を取った。


 逃げたわけではない。

 諦めたわけでもない。

 彰人たちも追わない。

 目的は倒すことではない。

 向こうが進まないなら、それでいい。


「腕、大丈夫?」


 雅史が彰人を見る。


「はい。最初ちょっと痺れましたけど、もう大丈夫です」

「怪我は?」

「ないです」


 雅史も自分の服を見る。

 土が付いている程度だった。


「僕も大丈夫かな」


 智臣は肩を軽く回す。


「俺も問題ない」


 彰人は向こうを見る。

 十三人も大きな怪我はない。

 息は上がっている。

 特にドルガとグランは、雅史を動かそうとしてかなり体力を使ったらしい。

 それでも、戦意は消えていない。


「まだ来ますね」

「来るだろうな」


 智臣が答える。


「まだ負けたとは思ってない」

「実際、まだ負けてませんしね」


 勝敗を決める戦いではない。

 向こうは突破したい。

 こちらは通したくない。

 今のところ、目的を達成しているのはこちら側というだけだ。

 方法がまだ残っているなら、向こうは試す。

 彰人はそう考えていた。


「……何するんやろ」


 十三人が集まっている。

 今までとは違う。


 四人、四人、五人。

 その組み合わせを崩している。

 そして、その中央にいるのはルクスだった。

 キリカが何かを言う。

 ルクスが答える。

 ザグが首を振り、ノルドが槌を地面へ置く。

 ネイルも地上へ降りている。

 エルナまで後方から合流した。

 何を話しているのかまでは聞こえない。

 それでも、彰人には中心が誰なのか分かった。


「……あの人やな」

「ルクスって呼ばれてた人?」


 雅史が聞く。


「はい。さっきもあの人が入ってから、急に四人の動き変わったんですよ」


 自分が攻撃するより、他の者を繋ぐ。

 誰かの攻撃が通らないなら、通るように次の一手を置く。

 彰人自身も、先ほどそれを経験している。

 やがて話がまとまったのか、十三人が散り始めた。

 ただし、先ほどの四・四・五には戻らない。

 もっと広い。

 十三人全員で、大きな一つの形を作るように位置を取っていく。

 彰人の表情から、僅かに軽さが消えた。


「これ……さっきとちゃうな」

「うん」


 雅史も十三人を順に見る。


「僕らを一人ずつ倒すつもりじゃなさそうだね」


 智臣も正面だけでなく、左右から上空、さらに後方まで順に視線を巡らせた。

 十三人は大きく距離を取り、配置だけを見れば先ほどまでより散開している。

 それなのに、不思議なことに、今の方が一つの集団として強く結びついて見える。


「面倒なのが来そうだな」


 ルクスが中央。

 その左右にキリカとザグ。

 ドルガとグランが前へ。

 ネイルが再び上空へ上がる。

 シェリアとバルクの周囲には魔力が集まり、ノルドが槌を構える。

 ラグは低く身体を沈め、レイナとギルは左右へ大きく開く。

 エルナは最後尾。


 それぞれが別のことをしようとしている。

 それでも、彰人には一つに見えた。

 一人が外されても、次が繋ぐ。

 受ければ別の方向から力が加わる。

 避ければ、その先に別の攻撃がある。

 今まで四人や五人で試していたことを、十三人全員で成立させようとしている。

 そして、その全体を繋ぐ位置にルクスがいる。


「雅史さん、智臣さん」


 彰人の声から、いつもの軽さが少しだけ消えた。


「俺、多分あれ返します」


 雅史は十三人を見たまま、彰人の言葉を受け取った。

 何を、とは聞かない。

 これから来るもの。

 十三人が一つにまとめようとしているもの。


「そのまま返すの?」

「まだ分からへんです」


 彰人自身、何が来るのかをまだ見ていない。

 だから、どう返すのかも決められない。


「でも、あれが一個にまとまるんやったら、その方が早いと思います」


 智臣が十三人の配置を見ながら、僅かに眉を寄せた。


「向こうに返ったら、あいつらも巻き込むぞ」

「せやから」


 彰人は十三人から目を離さない。


「怪我せんように、フォローお願いしてええです?」

「分かった」


 雅史が答える。

 智臣も、攻撃が返った場合にどこへ力が流れるのかを考えるように周囲を見渡した。


「そのつもりで見ておく」

「お願いします」


 これでいい。

 彰人は両手を軽く開き、もう一度握る。

 何が来る。

 どこから始まる。

 誰が起点になる。

 何と何を繋ぐ。

 どこへ集める。

 まだ答えを出す必要はない。

 先に答えを決めれば、見えるものまでその答えに合わせてしまう。


 だから、まず見る。


 十三人が何を作ろうとしているのか。

 全部見てから決めればいい。

 中央に立つルクスが剣を掲げた。

 十三人の視線が、一斉に動く。

 今まで別々に存在していた力が、初めて同じ目的へ向かい始める。

 彰人はその変化を見逃さなかった。

 十三人が強くなったわけではない。

 誰か一人の力が突然増えたわけでもない。


 それでも。


 さっきまでとは、まるで違う。

 十三個あったものが、一つになろうとしていた。


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