開戦
翌日。
昼を過ぎても、何も起きなかった。
昨夜までとは違う。
静かであることそのものは同じでも、今はもう、その静けさの向こう側に何があるのかを全員が知っている。
ヴァルネシアの軍がいる。
森と、その向こうに続く緩やかな起伏に遮られて、ここから姿を見ることはできない。けれど、昨日までに智臣が確認した位置と、雅史が残された痕跡から推測した動き、その両方を重ねれば、軍が消えたわけではないことだけは分かっていた。
距離を取っている。
こちらを見ている。
そして、まだ来ていない。
その状態が、朝からずっと続いていた。
清隆が作った拠点には、昨日まで存在しなかった生活感がすでに馴染み始めている。
会議に使う建物。
良澄が準備した救護場所。
優斗が周囲を見渡すための高所。
男女別のトイレ。
少し離れた場所には、どう考えても戦争前日に作る規模ではない露天風呂まである。
昨夜そこへ入った人間たちが、今日になればその近くで戦争を待っている。
改めて考えれば妙な話だった。
「まだ?」
拠点の中で、桜子が訊いた。
誰に、とは言わなかった。
長机の上へ地図を広げていた洋一が顔を上げる。
「まだです」
「暇やな」
「暇でいてください」
「朝からそれしか言うてへんで、自分」
「それで済んでいるなら理想的です」
洋一はそう返して、再び地図へ視線を落とした。
桜子も本気で不満があるわけではない。
自分が動く時が来ていないということは、前で止まっているということだ。
そもそも、まだ誰も戦ってすらいない。
それでも、何もせずに待つ時間は長かった。
「なんか手伝うことないん?」
「ありません」
「即答やな」
「桜子が担当する場所を他の作業に使う方が困ります」
「それ、うちが邪魔みたいやん」
「そういう意味では――」
洋一が言葉を選ぼうとしたところで、清隆が顔を上げた。
「今は邪魔だと思う」
「清隆」
「何?」
「後で覚えときや」
「何を?」
「そういうとこやで」
清隆は少し考えた。
何が問題だったのか、本当に分かっていないらしい。
その様子を見ていた洋一は、説明するべきか迷った末に口を閉じた。
今ここで清隆へ人間関係の機微を説明し始めると、おそらく戦争より長くなる。
桜子も同じ結論に至ったらしく、それ以上は追及しなかった。
「まあええわ。暇なんが仕事なら暇しとく」
「お願いします」
「ほんまに何もせんで?」
「何もしなくて済むようにしてください」
「それ、うちに言われても困るやろ」
もっともだった。
少し離れたところでは、恭平が靴紐を結び直していた。
昨日も確認していた。
今朝も確認した。
そして、昼を過ぎた今になって、もう一度見ている。
靴そのものに異常があるわけではない。
紐も切れていない。ソールも問題ない。足首の動きも邪魔していない。
それでも、恭平は一度立ち上がると、軽く踵を浮かせてから地面へ戻した。
土の感触が靴底から返ってくる。
昨日まで日本で履いていたのと同じ靴なのに、これから走る場所を意識した途端、確かめる意味が変わっていた。
「まだ見てるの?」
横を通りかかった智希が足を止めた。
「念のためっす」
「昨日も見てなかった?」
「見ましたよ」
「朝も」
「見ました」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「だから、大丈夫か確認してるんすよ」
恭平は立ったまま片足ずつ体重を乗せ、最後に軽く屈伸する。
智希はその様子をしばらく眺めていたが、やがて自分の靴へ視線を落とした。
つられたらしい。
「……俺も見とこうかな」
「見た方がいいっすよ」
「恭平に言われると、急に不安になるんだよね」
「何でっすか」
「だって三回目でしょ?」
「四回目です」
「増えてるじゃん」
智希が笑う。
恭平もつられて口元を緩めた。
これから走る可能性がある。
全力で。
人間の脚だけでは出せない速度で。
普段なら気にもしない小さな傷みが、その時には致命的な違いになるかもしれない。
だから確認している。
それを二人とも分かっているからこそ、会話の内容ほど軽くはなかった。
けれど、重くする必要もなかった。
準備はしてある。
なら、あとは必要になった時に走ればいい。
智希がその場を離れようとした時だった。
「……動いたな」
低い声が落ちた。
大きな声ではない。
それでも、拠点にいた何人かが同時に顔を上げた。
智臣だった。
前線へ向かう準備を整えたまま、森の向こうを見ている。
当然、ここから軍勢が見えるわけではない。
木々がある。
清隆が作った起伏もある。
その向こう側を肉眼で見通すことはできない。
それでも智臣の視線は迷わなかった。
「来る?」
雅史が訊く。
「ああ」
「数は?」
「まだ分からない。けど、昨日までとは違う」
点ではない。
昨日まで感じていた斥候のような、限られた存在でもない。
広い。
いくつもの動きが重なり、それが一つの方向へ揃い始めている。
智臣にとって、それは目で見るより先に分かった。
「優斗」
洋一の声が変わった。
先ほどまで桜子と話していた時の柔らかさが消えたわけではない。
ただ、何を確認し、誰へ渡すのかが明確になる。
「見える範囲で確認してください」
「うん」
優斗はすぐに高所へ向かった。
その近くにいたナギも、主の動きを見て身体を起こす。
羽を畳んでいても、人間と変わらないほどの高さがある。黒い身体は細身に見えるが、翼を開けばその印象は一変する。
優斗が高所へ上がるのに合わせ、ナギも一度地面を蹴った。
その三本の足で地面をとらえ、広げた羽根に空気を含ませる。
大きく羽ばたく必要はない。
空気を一度掴んだだけで、その身体が優斗より高い位置へ浮かぶ。
優斗が目を細めた。
森。
稜線。
その向こう。
最初に見えたのは、人ではなかった。
揺れだった。
木々の間から覗く色が増えている。
金属が陽を返す。
一本なら見落とす程度の光が、別の場所でも瞬き、その数が少しずつ増えていく。
「……いる」
優斗の声が、通信機器を通して拠点へ届いた。
昨日までの準備で、前線と拠点、高所の間には連絡手段を確保してある。
魔術でも神獣の力でもない。
日本から持ち込んだ、普通の通信機器だった。
異世界で使うことになるとは、買った人間も想定していなかっただろう。
「かなり多いよ」
「進行方向は?」
「こっち」
優斗は少し間を置いた。
見えているものを、そのまま言葉にする。
「止まってない。隊列も崩れてない。昨日まで見てた人たちとは全然違う」
洋一が地図へ視線を落とす。
もう一度確認する必要はなかった。
「彰人、雅史、智臣。予定位置へ」
「了解」
「分かったよ」
「ああ」
三人が動く。
返事の形は違っても、向かう先は決まっている。
昨日までに何度も確認した場所。
清隆が地形を整え、洋一が配置を決めた最初の防衛線。
その先へ敵を通さない。
けれど、傷つけることも目的ではない。
矛盾しているようで、その条件を成立させるために選ばれた三人だった。
彰人が先に歩き出す。
その横では、巨大な神蟹が脚を動かした。
ケルガン。
甲羅だけでも人間の頭上にあり、長い脚まで伸ばせばさらに高い。
横へ広がる身体は数人の人間が並んだ程度では収まらず、彰人の隣にいるというより、彰人の横に一つの壁が動いているように見える。
雅史の後ろでは、六本の牙を持つ白象メーダが続く。
肩の高さだけでも人間を遥かに超える。
巨体が一歩進むたび、重量をそのまま地面へ預けているなら土が沈んでもおかしくない。
けれど、今は足元に浅い跡を残すだけだった。
そして智臣の後ろ。
そこだけは、地上の生き物として見ようとすると理解が追いつかない。
ラギアがいる。
黒と白の巨体。
尾まで含めれば十メートル近い鯱が、何もない空中をゆっくりと泳いでいる。
水はない。
胸鰭が動いても、草は揺れない。
尾鰭が大きく振られても、土埃一つ舞わない。
それでもラギアの身体は、まるでそこに海があることを疑っていないかのように、智臣の斜め後ろを進んでいく。
三人と三体。
それだけが前へ出る。
残った者たちは動かなかった。
まだ、その必要がない。
◇
ヴァルネシア軍の進行は、途中で何度か揺れた。
「右に動いてる」
高所から優斗が伝える。
洋一は地図上の位置を確認した。
右へ行けないわけではない。
道もある。
森を抜ければ、前線を迂回することも不可能ではない。
ただし、その先は視界が悪い。
地面にも高低差があり、大人数で進むには隊列を崩す必要がある。
敵はしばらく右へ寄った。
だが、やがて中央へ戻ってくる。
「今度は左」
少し経って、優斗が言った。
洋一が地図の左側を見る。
こちらも通れる。
けれど、右とは別の理由で選びにくい。
足場が悪い。
その先に何があるのかも、中央から見た時ほど分かりやすくない。
軍が進む道として考えれば、選ぶ理由が少ない。
結果として、左へ寄った動きも戻ってきた。
最終的に、大きな流れは中央へ集まり始める。
「清隆」
洋一が地図から顔を上げた。
「何?」
清隆は少し離れた場所で、実際の地形と手元の図を見比べていた。
「最初から中央へ来るように作りました?」
「作ってないよ」
「……作ってない?」
「中央を一番進みやすくしただけ」
清隆は不思議そうに答えた。
「右も通れるし、左も通れる。森の中も行こうと思えば行ける。だから、どこも塞いでない」
「でも、軍として進もうとすると中央が一番安全に見える」
「うん」
「それを狙ったんですよね?」
「そうだよ」
洋一は一度、言葉を止めた。
清隆の中では、おそらく矛盾していない。
道を一本に限定したわけではない。
壁を作ったわけでもない。
敵の選択肢を奪ってもいない。
ただ、複数ある選択肢の中で、中央を選ぶ理由だけを増やした。
それだけ。
「……そういうところです」
「何が?」
「いえ」
「気になるんだけど」
「後で説明します」
「今じゃ駄目?」
「軍が来ています」
「ああ」
清隆は納得した。
その会話を近くで聞いていた桜子が、地図を覗き込む。
「要するに、向こうが勝手に真ん中選んだってこと?」
「そう」
「でも選ぶようにしたんやろ?」
「選びやすくした」
「一緒ちゃうん?」
「違うよ」
「何が?」
「選んだのは向こうだから」
桜子は清隆を見る。
清隆も桜子を見る。
数秒。
「……洋一」
「はい」
「こいつ、たまに怜司と同じ種類のこと言わん?」
「僕に振らないでください」
「似てないよ」
「そこ否定するんや」
「怜司なら、もっと適当にやる」
「否定するとこそこなん?」
戦争が始まろうとしている。
その事実は誰も忘れていない。
それでも、清隆が作った地形の上を、ヴァルネシア軍は自分たちの判断で中央へ向かっていた。
誰かに押し込まれたわけではない。
道を閉ざされたわけでもない。
ただ、進めば進むほど、選びやすい場所が一つに絞られていく。
その先で待っているのが三人だということを、軍の先頭にいる者たちが知っているかどうかまでは分からなかった。
◇
智希の傍らで、何かがわずかに身じろぎした。
大型の狼ほどの体躯を持つ狐。その背後で、九本の尾がゆるく扇状に広がる。
智希と行動を共にする神獣――クオンが、森の奥へ鼻先を向けていた。
「ん?」
智希も同じ方向を見る。
クオンが何かを見つけたというより、そこにいる生き物の気配を拾ったらしい。
人とは違う動きがある。
昨日見つけた、鹿に似た動物たちだった。
軍の接近によって落ち着きを失ったのか、何頭かが森の奥から開けた場所へ出ようとしている。
「洋一さん」
「どうしました?」
「昨日の鹿っぽいやつ、こっち来そう」
洋一が地図を見る。
そこには昨日、智希と智臣から聞いた情報をもとに印が付けてある。
できるだけ戦場として使わない場所。
人間同士の事情に、ここで暮らしている動物を巻き込む理由はない。
「戻せそうですか?」
「やってみる」
「無理に追わなくて構いません。戦場から離れれば十分です」
「分かった」
智希は走り出した。
その後を追おうとしたクオンへ、片手を上げる。
「大丈夫。ここはオレだけでいいよ」
クオンは足を止めた。
智希は姿勢を低くし、動物たちから見て正面にならないよう大きく回り込む。
鹿に似ていても、本当に鹿と同じ習性なのかは分からない。
だから追い立てない。
近づき過ぎない。
進んでほしくない方向だけを塞ぐ。
一頭が智希に気づいて首を上げた。
他の個体も続く。
耳のような器官が動き、こちらを警戒する。
智希はそこで止まった。
それ以上近づかない。
数秒。
先頭の一頭が向きを変える。
別の個体も続いた。
群れは、戦場になる予定の場所とは反対側の森へ戻っていく。
「よし」
智希が小さく息を吐く。
走り出すために踏み込んだ足は、地面をしっかり捉えていた。
靴に違和感はない。
朝から恭平が何度も確認していた理由を、今になって少しだけ理解した。
「……帰ったらもう一回見とこ」
誰にも聞こえない声で呟き、智希は拠点へ戻った。
◇
最初に姿を見せた兵士は、一人ではなかった。
森の向こうから金属の光が増え、やがて人の形として認識できる数になる。
槍。
剣。
盾。
武器の種類は一つではない。
装備も完全に統一されているわけではなかったが、少なくとも集団として訓練されていることは、進み方を見れば分かった。
足並みが揃っている。
前にいる者が止まれば後ろも速度を落とす。
左右へ広がりながら、それでも互いの位置を見失わない。
昨日まで遠くからこちらを見ていた者たちとは違う。
戦うために来た軍だった。
彰人は、その先頭を見ながら息を吐いた。
「ほんまに来たな」
「来たね」
隣で雅史が答える。
「まだ戻るかもしれないけど」
「ここまで来て?」
「可能性はあるよ」
「雅史さんらしいな」
「そう?」
「最後まで決めつけへんとこ」
雅史は少し笑った。
智臣は会話に入らない。
軍の全体を見ている。
正確には、見えている範囲だけを見ているわけではない。
前。
左右。
その後ろ。
兵士同士の間隔。
集団が占める範囲。
視界の外へ続いている動き。
今、この場所に何人いるのか。
次にどこへ動こうとしているのか。
それらを一つずつ数えるのではなく、全体として捉えている。
「止まるぞ」
智臣が言った。
直後。
ヴァルネシア軍の先頭が速度を落とした。
彰人たちとの距離が残った状態で、動きが止まる。
武器は下ろさない。
だが、すぐに攻撃もしてこない。
前に立っている三人を見る。
その横と後ろにいる神獣を見る。
巨大な蟹。
六本の牙を持つ白象。
そして、空中を泳ぐ巨大な鯱。
こちら側にとっては、見慣れた光景だった。
ヴァルネシア側にとってどう見えているのかは分からない。
ただ、先頭にいた何人かの足が止まった理由が、命令だけではないことくらいは彰人にも見て取れた。
「……そら怖いか」
小さく呟く。
昨日、雅史が言った言葉を思い出す。
僕らが怖いんだと思う。
その時は、軍全体の判断として聞いていた。
今、目の前にいるのは軍ではない。
一人一人の人間だった。
その中の一人が、前へ出た。
剣を構える。
彰人を見る。
ケルガンではない。
明確に彰人本人を見ていた。
「来るで」
「うん」
雅史が少し下がる。
智臣は動かない。
彰人だけが半歩前へ出た。
剣を持った兵士が走る。
速い。
少なくとも普通の人間が鎧を着たまま走る速度ではない。
身体強化なのか、別の何かなのか。
今は判別する必要がない。
彰人は相手の足を見る。
腰。
肩。
剣を握る腕。
踏み込む瞬間に力がどこへ流れるのか。
それが分かれば十分だった。
剣が振り下ろされる。
彰人は避けなかった。
彰人は避けず、手甲に覆われた腕を上げた。
刃を受け止めるためではない。振り下ろされる剣の軌道へ、横から触れるためだった。
攻撃が完成する直前、その力の向きへ触れる。
わずかにずらす。
それだけだった。
金属音が響く。
次の瞬間、兵士の身体が彰人の横を通り過ぎた。
本人が想定していた方向とは違う。
勢いを殺しきれず、数歩。
それでも転ばない。
彰人が、転ばない程度に流した。
兵士はようやく止まり、振り返った。
剣はまだ持っている。
怪我もしていない。
ただ、すぐにもう一度向かってくることはできなかった。
何をされたのか理解できていない。
その表情を見て、彰人も少しだけ肩の力を抜いた。
「……これならいけるか」
傷つけずに止める。
言葉にすれば簡単だった。
けれど、相手が本気でこちらを傷つけようとしている以上、加減を間違えれば逆に大きな怪我をさせる。
最初の一人。
少なくとも、できた。
その事実が次の動きを少しだけ軽くする。
ただ、その瞬間。
別の顔が頭に浮かんだ。
銀色の髪。
昨日、自分の前に立っていた少女。
セレスティア。
同じように止められるか。
考えた途端、答えが出なかった。
「彰人」
雅史の声で意識が戻る。
今は目の前だ。
「分かってる」
次の兵士が動いた。
◇
彰人のところで最初の攻撃が止まったのと、ほぼ同じ頃。
雅史の前にも複数の兵士が進み出ていた。
こちらは一人ではない。
盾を持った者たちが横に並び、その後ろからさらに人が続く。
正面から押し切るつもりらしい。
「僕か」
雅史は少し困ったように笑った。
メーダが後ろで鼻を揺らす。
巨大な白象から見れば、前に並んだ人間たちはあまりに小さい。
だが、雅史はメーダへ任せなかった。
自分が一歩前へ出る。
盾の列が近づく。
速度を上げる。
複数人の足音が重なり、土が細かく震える。
雅史は避けない。
構えらしい構えも取らなかった。
ただ、両足を地面につける。
「ごめん」
誰に対しての言葉なのか。
先頭の兵士が聞き取れたかどうかも分からない。
「これ、押し返すよ」
盾が雅史へぶつかった。
鈍い音が重なる。
後ろの兵士も押す。
さらにその後ろからも力が加わる。
普通なら、一人の人間が受け止められるものではない。
だが。
雅史の位置は変わらなかった。
足が滑かない。
膝も曲がらない。
上体すらほとんど揺れない。
押している側だけが、少しずつ姿勢を崩していく。
雅史は目の前の盾へ手を添えた。
強く押したわけではない。
急に力を返せば、後ろにいる者までまとめて転ぶ。
だからゆっくり。
相手が足を動かせる速度で。
一歩。
盾の列が下がる。
さらに一歩。
また下がる。
押していたはずの兵士たちが、自分たちの足で後退していく。
『雅史、もう少し速くできますか』
通信機器から洋一の声が聞こえた。
雅史は前を見たまま答える。
「できるけど、たぶん後ろの人が転ぶよ」
少し間があった。
『では、そのままで』
「うん」
雅史はまた一歩進む。
盾の列も一歩下がった。
戦闘というより、妙にゆっくりした押し合いになっている。
その後ろで、メーダが鼻を持ち上げた。
手伝う必要がないことを理解しているらしい。
もし本当に力比べをするのであれば、そもそも相手が悪い。
雅史だけでも動かない。
その後ろには、六牙の白象までいる。
兵士たちがそれをどこまで理解しているのかは分からない。
ただ、押しても押しても位置が変わらない人間を前にして、最初にあった勢いだけが少しずつ失われていった。
◇
智臣の前では、まだ誰も攻撃していなかった。
正確には。
攻撃するために近づこうとした者はいた。
何人も。
けれど、一定の距離を越える前に足が止まる。
智臣は構えていない。
武器も持っていない。
ただ立っている。
その斜め後ろを、ラギアが泳いでいる。
巨大な身体がゆっくりと向きを変える。
胸鰭が空を掻く。
そこには水などない。
なのに、見ているうちに、本当にそうなのか分からなくなる。
智臣の周囲だけ、空気の質が違って見える。
何かが見えるわけではない。
色が変わるわけでもない。
それでも、前へ出ようとした兵士の呼吸が浅くなった。
一人。
また一人。
足が止まる。
視線だけが智臣へ向いている。
智臣自身は、その理由を正確には理解していなかった。
「……何だ?」
自分の身体を見ても何も変わっていない。
いつも通りだ。
少し意識を広げているだけ。
前にいる者。
その後ろ。
さらに外側。
空間全体を捉えようとしている。
それだけだった。
だが、向かい側にいる兵士たちの身体は、別のものを感じ取っていた。
目の前には人間がいる。
足元には地面がある。
空には陽がある。
頭では、それが分かっている。
なのに身体の方が、そこを陸上だと認めなくなる。
息を吸っているはずなのに、胸の奥へ十分な空気が入ってこない。
耳の奥に圧力を感じる。
足元にあるはずの地面が遠い。
上を見れば空があるのに、そこへ戻れる気がしない。
陽の光が届いている。
それなのに、さらに一歩進めば、その光さえ届かない場所へ沈む。
そんな錯覚だけが、理由もなく身体へ広がっていく。
海。
ただし、水面から見える海ではない。
もっと深い。
人間が自分の身体のまま入ることを想定していない場所。
上も下も分からなくなり、音も光も遠ざかり、ただ圧力だけが増していく。
深海。
その先にある、底を想像することさえできない暗さ。
兵士の一人が、一歩下がった。
それをきっかけに、隣にいた者も足を引く。
智臣は眉を寄せた。
「……まだ何もしてないんだけどな」
ラギアが巨体を傾けた。
『其方は昔からそうだ』
「何がだよ」
『我には心地よい』
「お前が基準だからだろ」
『海は良いぞ』
「深すぎるんだよ」
ラギアがゆっくり尾を振る。
智臣には、それが機嫌よく泳いでいるように見えた。
向こう側の兵士たちには、そうは見えなかったらしい。
また二人、下がった。
「……俺、何か抑えた方がいいのか?」
『何をだ』
「それが分からないから聞いてる」
『ならば分からぬ』
「だよな」
本人たちの会話だけは、ひどく普通だった。
◇
前線で起きていることを、優斗は高所から見ていた。
戦いが始まった。
そう報告するつもりだった。
実際、ヴァルネシア側から攻撃はあった。
剣が振られた。
盾を持った集団が突っ込んだ。
別の場所では槍を持った者たちも前へ出ようとしている。
けれど。
「……洋一」
『どうしました?』
「これ、戦ってるって言っていいのかな」
優斗自身、言葉にしてから妙だと思った。
戦場にいる。
敵軍もいる。
攻撃もされている。
なのに、戦闘として見た時に何かがおかしい。
彰人へ攻撃した者は、横へ流される。
雅史を押そうとした者は、自分の足で後ろへ戻っていく。
智臣へ近づこうとした者は、そもそも届かない。
倒れている兵士は、ほとんどいなかった。
負傷して地面へ伏している者も見えない。
それどころか、三人の側には、踏ん張るために膝を沈めた者すらいない。
前線の位置そのものが、最初に三人が立った場所からほとんど変わっていなかった。
『状況は?』
「止まってる」
『前線が?』
「ううん」
優斗は少し考える。
何を見ているのか。
「向こうが」
それが一番近かった。
十二神承が押しているのではない。
ヴァルネシア軍が、前へ進めない。
「彰人のところは攻撃してる。でも、当たってないっていうか……当たっても違う方向に行ってる」
『雅史は?』
「押されてる」
一拍。
「ように見えるけど、動いてない」
『智臣は?』
優斗は智臣の方を見る。
そこだけ兵士との距離が妙に広い。
「……立ってる」
『それだけですか?』
「うん。立ってるだけ」
優斗自身、それ以上の説明ができなかった。
その周囲だけ、人が寄らない。
前へ出た兵士が途中で止まり、後ろへ下がっていく。
何をされたのか、高所から見ても分からない。
「でも、智臣の前が一番空いてる」
通信の向こうで、洋一が短く息を吐いた。
『分かりました。三人とも、そのまま維持してください』
指示を受けた彰人が、目の前の兵士をまた一人横へ流した。
『これ、いつまでやるん?』
『向こうが止まるまでです』
『長ない?』
『始まったばかりです』
『そうやけど』
彰人は返事をしながらも、次の兵士の動きを見ている。
言葉ほど余裕がないわけではない。
むしろ逆だった。
余裕があるから話せる。
その事実を、優斗は高所から見て初めて実感した。
まだ、三人しか前に出ていない。
自分は観測しているだけ。
清隆は地形を維持している。
智希と恭平は抜けた者が出た時のために待っている。
良澄も救護場所にいる。
桜子は、さらにその後ろ。
前線を突破された時に初めて立つ場所から、ほとんど動いていない。
戦争は始まった。
なのに十二神承側は、まだ最初に決めた役割の一部しか使っていなかった。
◇
しばらくして、地形の一部が崩れた。
軍が意図的に壊したわけではない。
人数が集中したことで、清隆が作った斜面の一部が踏み固められ、土が落ちただけだった。
「あ」
清隆が顔を上げる。
遠くを見る。
少し考える。
そして、そちらへ片手を向けた。
崩れた土が動いた。
大きく地形が変わるわけではない。
流れた分が戻り、窪んだ場所が埋まる。
進路として成立する状態へ戻っただけだった。
隣で見ていた桜子が眉を寄せる。
「……何してんの?」
「直した」
「戦場を?」
「うん」
「今?」
「今壊れたから」
「戦争中やで?」
「だからじゃない?」
清隆は逆に不思議そうだった。
「壊れたままだと、予定してない方向に人が流れるかもしれない」
「……ああ」
言われてみれば正しい。
正しいのだが。
「戦場って途中で修理するもんなん?」
「必要なら」
「道路工事みたいやな」
「似たようなものだよ」
「似てへんと思うで」
桜子はそう言いながら、少し笑った。
朝からずっと待っている。
戦争が始まっても、まだ待っている。
「洋一」
「はい」
「まだうちいらん?」
「まだです」
「ほんま暇やな」
「良いことです」
「分かってるけどな」
今度は、それ以上言わなかった。
前で三人が止めている。
なら、自分はここにいる。
暇であることが役割なら、それでいい。
ただし。
「使う時はちゃんと言いや」
「もちろんです」
「気ぃ遣って温存とかいらんで」
「していません」
「即答すんなや」
「桜子を出す状況になっていないだけです」
桜子は少しだけ目を細めた。
その答えならいい。
「ほな暇しとくわ」
「お願いします」
「牛乳でも買ってくればよかったな」
「何でです?」
「風呂上がり用」
「今その話します?」
「暇や言うてるやろ」
洋一は返事を諦めた。
◇
その頃。
戦場から離れた場所では、別の対話が続いていた。
行人は目の前にいるものへ意識を向けていた。
姿があるようで、ない。
存在している場所は分かる。
こちらを認識していることも、昨日よりは分かる。
それでも、人間同士のように顔を見て話すことはできない。
声もない。
表情もない。
だから、相手から返ってくるものを、人間が理解できる形へ置き換える。
昨日作ったのは、そのための経路だった。
道。
そう呼ぶのが一番近いだけで、実際に何かが地面へ伸びているわけではない。
相手が持つ認識と、行人が受け取れる認識。
本来なら直接繋がらない二つの間に、一度別の形へ置き換えるための経路を作った。
昨日より、その経路は安定している。
カグラも少し離れたところから状態を見ていた。
怜司は、行人の横でしゃがんでいる。
「どう?」
「昨日より分かります」
「何言うてる?」
「待ってください」
行人は目を閉じた。
言葉として聞こうとすると駄目だ。
相手は言葉を使っていない。
だから、先に意味がある。
その意味を、後から言葉へ置き換える。
最初に来たのは、昨日と同じものだった。
恐怖。
逃げる。
何かが来る。
そこまでは変わらない。
けれど、今日はその先にわずかな違いがある。
方向。
距離。
場所。
まだ曖昧だが、昨日より輪郭がある。
「……怖い」
行人が呟く。
怜司は黙って待つ。
「来る」
「何が?」
「そこまでは分かりません」
行人はさらに意識を寄せる。
概念体の認識を、自分の言葉へ無理に押し込めない。
分からないものは、分からないままにする。
ただ、その中で繰り返されるものだけを拾う。
「方向があります」
行人が顔を上げた。
指を向ける。
その先。
大きく見れば、ヴァルネシア側だった。
怜司もそちらを見る。
「向こう?」
「……そう見えます」
行人はすぐには断定しなかった。
もう一度確認する。
怖い。
来る。
逃げる。
方向。
確かに、ヴァルネシア側へ重なる。
「軍が怖いんかな」
怜司が言う。
「それなら……」
行人は眉を寄せた。
違和感がある。
軍がいる方向と完全には重ならない。
もっと遠い。
あるいは、同じ方向に見えるだけで別の位置を示している。
「違うと思います」
「人?」
行人が、その認識を相手へ送る。
人。
返ってくるものは弱い。
肯定ではない。
「反応が薄いです」
「軍?」
今度は軍という概念を、できるだけ単純な形へ崩して送る。
大勢の人間。
武器。
集団。
こちらも違う。
「軍でもないと思います」
「ほな別の何かやな」
怜司は簡単に言った。
行人は少し笑う。
「簡単に言いますね」
「違うんやったら違うやろ」
「そうですけど」
もう一度、方向を確認する。
ヴァルネシアから来る。
そう受け取ることもできる。
けれど。
ヴァルネシアへ来る。
その途中に、この存在がいる。
そう考えても意味が通る。
今の情報だけでは、どちらなのか分からない。
行人はそこで止めた。
分からないものを、分かったことにしない。
「まだ、これ以上は難しいです」
「十分ちゃう?」
「昨日よりは」
行人は目の前の存在へ意識を戻す。
伝えてくれた。
少なくとも、昨日より多く。
それなら、返したいものがある。
行人は言葉そのものではなく、意味を整えた。
受け取った。
分かった。
全部ではない。
それでも、伝えようとしてくれたことは受け取った。
そして。
ありがとう。
その意図を、昨日作った経路へ乗せる。
概念体の認識がわずかに揺れた。
昨日より明確だった。
拒絶ではない。
「伝わりました」
「よかったやん」
怜司が言う。
そのまま、怜司も概念体へ意識を向けた。
「怜司さん?」
「ん?」
「何かします?」
「うん」
怜司は少し考えた。
行人のように複雑な経路を作ることはできない。
そもそも、細かく説明するつもりもなかった。
何が怖いのか。
何から逃げているのか。
まだ分からない。
だから、助けるとも言わない。
絶対に大丈夫だとも約束できない。
それでも。
怖がっている相手へ、自分が今持っている認識だけを向ける。
怜司の中では、言葉になる前から決まっていた。
怖い。
それは分かった。
何が来るのかは知らない。
何が起きるのかも知らない。
だからといって、今ここで一緒に怯える理由にはならない。
何かが来るなら、その時に見ればいい。
危ないなら止めればいい。
困っているなら考えればいい。
そういう、怜司にとっては特別でも何でもない認識。
行人が作った経路を通した瞬間、それは一つの意味へ収束した。
――大丈夫。
単語を送ったわけではない。
その言葉になる前の、怜司の認識そのものだった。
概念体が止まった。
動いていたわけではない。
それでも、行人にはそう感じられた。
先ほどまで絶えず揺れていた恐怖が、ほんの少しだけ弱くなる。
「……怜司さん」
「何?」
「今、安心しました」
「そらよかった」
怜司はそれだけだった。
理由を訊かない。
どうして伝わったのかも気にしない。
行人は苦笑する。
「たぶん、普通はもうちょっと驚くところですよ」
「何に?」
「……いいです」
「なんやねん」
行人はもう一度、概念体へ意識を向けた。
「また来ます」
意味を送る。
昨日も似たことを伝えた。
今日は、それに対する反応が少しだけはっきりしていた。
拒まない。
待つ、というほど強くもない。
ただ、こちらが再び来ることを嫌がってはいない。
「大丈夫そうです」
「ほな次行こか」
「はい」
行人が立ち上がる。
少し離れたところで待っていたカグラが翼を動かした。
白金の獅子も身体を起こす。
最初の場所へ来る時は、行人と怜司はカグラに乗って移動してきた。
だが、次に反応を感じる場所はここからそれほど離れていない。
空へ上がるほどでもない。
「歩きます?」
行人が訊く。
「それでもええけど」
怜司が白金の獅子を見る。
獅子も怜司を見る。
肩の高さだけでも怜司の胸元近くまである。
鬣まで含めれば、頭の位置は人間より高い。
現実のライオンとは比べものにならない大きさだった。
『乗るか』
「ええの?」
『構わぬ』
「ほな乗る」
「怜司さん、そっちなんですね」
「近いし」
「近いなら歩いてもいいのでは?」
「乗ってええ言うてるやん」
「そうですけど」
怜司は獅子の背へ手をかけた。
高さはあるが、乗れないほどではない。
少し身体を持ち上げ、そのまま背へ跨がる。
「行人も乗る?」
「僕はカグラがいます」
『当然だ』
カグラが答える。
「張り合ってる?」
『張り合ってはいない』
行人は少しだけ間を置いた。
「そういうことにしておきます」
『行人』
「はい」
『聞こえているぞ』
「知ってます」
カグラの背へ乗る。
今度は高く飛ぶ必要はない。
地面から少し高度を取り、木々の間を抜けられる程度に速度を落とす。
白金の獅子は地上を進む。
距離は短い。
だからこそ、二つの移動方法に大きな差は出なかった。
しばらくして、行人が顔を上げる。
「います」
「分かる?」
「さっきのとは違います」
「何が?」
「……感じが」
自分で言ってから、曖昧だと思った。
けれど、それ以上の表現がまだない。
存在の仕方。
こちらへ返ってくる認識。
反応の速さ。
最初の概念体とは、何かが違う。
行人はカグラから降りた。
怜司も獅子の背から降りる。
目の前には、何も見えない。
それでも。
いる。
「やってみます」
「うん」
行人は、昨日作ったものと同じ形をそのまま使わなかった。
相手が違う。
なら、同じ方法で通じるとは限らない。
まず、自分がここにいること。
敵意がないこと。
話したいこと。
一つずつ、相手がどこへ反応するのかを確かめながら経路を作っていく。
そして。
最初の概念体より早く。
何かが、行人の側を向いた。
◇
前線では、まだ三人が立っていた。
時間が経つにつれて、ヴァルネシア側の人数は増えている。
後ろから到着した兵士が加わり、横へ広がる。
けれど、最初に止められた位置から大きく前へ進むことはできていなかった。
彰人の前では、攻撃の数が増えていた。
一人ずつではない。
左右から同時に来る。
さらに後ろから槍が伸びる。
彰人は最初の剣を流し、その兵士が横へ抜ける先を確認する。
そこへ二人目が入らないよう身体の向きを変え、槍の軌道だけを上へ逸らす。
攻撃してきた三人が互いにぶつからない位置へ移動するまでを見てから、ようやく自分の足を戻す。
「……人数増えるとめんどいな」
倒すだけなら簡単だった。
吹き飛ばすだけでもいい。
だが、それをしないと決めている。
攻撃してきた本人だけではなく、その後ろにいる者まで怪我をさせない。
その条件を加えると、見るものが増える。
それでも彰人の身体には、まだ余裕があった。
ケルガンが横にいる。
巨大な身体があるだけで、敵が一度に回り込める方向は限られる。
『右だ』
「見えてる」
『後ろも来るぞ』
「それも」
『ならよい』
「自分も分かってへんやろ」
『何がだ』
「いや、ええわ」
説明している暇はない。
彰人はまた一人の腕へ触れ、攻撃の方向だけを変えた。
雅史の前でも状況は似ている。
押し合いを諦めたらしい。
今度は左右へ分かれようとしている。
雅史はそれを見て、自分の位置を少しだけ変えた。
相手の進路を塞ぐ。
速く動く必要はない。
行きたい場所へ先に立つ。
それだけで、兵士たちはまた足を止める。
メーダの巨体まで含めれば、正面を抜けるために使える空間そのものが狭い。
それでも無理に進もうとした者には、雅史が身体を合わせる。
肩がぶつかる。
兵士の方だけが止まる。
雅史は動かない。
「痛くない?」
思わず訊いた。
相手が何を言われたのか理解したかは分からない。
ただ、目を見開いている。
「大丈夫そうだね」
雅史は少し安心した。
そして智臣の前。
そこだけは、最初よりさらに距離が広がっていた。
智臣は相変わらず立っている。
ラギアも相変わらず空を泳いでいる。
何も変わっていない。
なのに、近づく兵士の数だけが減っている。
「彰人」
智臣が声をかけた。
「何?」
「俺の方、来なくなった」
「そらそうやろ」
「何でだ?」
「知らんの?」
「分からん」
「自分、後ろ見てみ」
智臣が振り返る。
巨大なラギアがいる。
「ラギア?」
『何だ』
「いや」
智臣は前へ向き直る。
「いつも通りだろ」
「それがあかんのちゃう?」
「意味分からん」
「俺も分からんけど」
彰人は目の前の剣を横へ流した。
「ちょっと抑えられへんの?」
「何を?」
「深淵」
「意味分からないぞ」
「俺も言うてて分からん」
通信を聞いていた優斗が、思わず笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
高所から見える景色が、少しずつ変わり始めていたからだ。
最初は、智臣の前だけだった。
近づいた兵士が止まる。
下がる。
その様子を、後ろの兵士が見る。
次に前へ出る者は、最初から速度が遅い。
彰人の前でも同じことが起き始める。
何人で攻撃しても倒れない。
それどころか、自分たちだけが位置を変えられる。
雅史の前では、もっと分かりやすい。
押せない。
何人増えても動かない。
そして、その三人の後ろにはまだ人がいる。
戦っていない者が。
前へ出てすらいない者が。
ヴァルネシアの兵士たちが、十二神承の役割を知っているわけではない。
誰が強いのか。
誰が何をするのか。
どこまでが戦力なのか。
そんなことは分からない。
だからこそ、目の前で起きていることだけが判断材料になる。
三人を突破できない。
その三人の後ろに、まだ何人もいる。
高所には巨大な八咫烏と一人。
さらに奥にも人影がある。
前にいる三人が切り札なのかどうかすら分からない。
優斗は、その変化を見ていた。
「洋一」
『はい』
「向こう、ちょっと変」
『どのあたりです?』
「前じゃなくて、後ろ」
優斗は目を凝らす。
最前列ではない。
まだ彰人たちと直接接触していない兵士。
その一人が、後ろを見た。
次に、横を見る。
武器は持っている。
怪我もしていない。
それでも、一歩下がった。
「下がってる人がいる」
『命令によるものですか?』
「分からない」
優斗はしばらく見た。
「……違うと思う」
隊列として下がっていない。
一人だけ。
その隣にいる者は前を向いたまま。
さらに別の場所でも、一人が下がる。
命令なら、こんな崩れ方はしない。
やがて。
一人が背を向けた。
走った。
「逃げた」
優斗が言う。
その一人を、十二神承側の誰も追わなかった。
彰人は見えていたが、追わない。
雅史も同じ。
智臣は最初から動かない。
拠点にいる智希と恭平も、洋一から指示がない限り動かない。
日本へ向かうわけでもない。
仲間を攻撃するわけでもない。
ただ、戦場から離れていく。
なら、止める理由がない。
『追わなくていいです』
洋一の声が前線へ届く。
『戦線から離脱するだけなら、そのまま通してください』
「了解」
彰人が答える。
最初の一人が走ったことで、何かが変わった。
次の一人。
さらに一人。
今度は別の場所から二人。
後ろへ向かう者が増える。
それでも、すぐに全軍が崩れたわけではない。
残る者もいる。
前へ進もうとする者もいる。
上官らしき者が何かを叫び、兵士を戻そうとしている。
けれど、一度生まれた流れは簡単には消えなかった。
恐怖は、傷のように目で見えるものではない。
それでも、一人の行動が次の一人へ理由を与える。
逃げてもいい。
逃げられる。
逃げた者を、あの三人は追ってこない。
その事実まで伝わった時、動きはさらに大きくなった。
武器を捨てる者はいない。
仲間を押し倒して逃げる者も、今のところ見えない。
ただ、前線から離れる。
来た道を戻る。
走る。
その数が増えていく。
「……半分くらい、行ったかも」
優斗が呟いた。
正確に数えたわけではない。
それでも、最初に見えた密度と比べれば明らかに薄くなっている。
桜子も拠点からその流れを見ていた。
「帰れるんなら、帰った方がええ」
声に怒りはなかった。
敵だから逃がしたくない、という発想もない。
戦わなくて済むなら、それでいい。
「追わんでええんやろ?」
「ええ」
洋一が答える。
「日本側へ向かわない限り、止める必要はありません」
「ほなええわ」
桜子はまた元の位置へ戻る。
「……で」
「はい」
「まだうちいらん?」
「まだです」
「ほんま使わんなあ」
口ではそう言いながら、桜子は笑っていた。
不満ではない。
むしろ、まだ自分が出なくていいことを確認しただけだった。
「最後まで使わんかったら一番ええんやろ?」
「そうですね」
「なら暇しとくわ」
さっきと同じ結論へ戻る。
それでよかった。
◇
恐怖は、全員を同じ方向へ動かさなかった。
逃げる者がいる。
立ち尽くす者がいる。
それでも命令に従おうとする者もいる。
そして。
「……あれ?」
最初に気づいたのは優斗だった。
大きな流れが後ろへ向かっている。
その中で。
逆方向へ進む者たちがいる。
「洋一」
『何です?』
「残ってる人たち」
優斗は身体を少し前へ傾けた。
高所からでも分かる。
逃げていく兵士たちの間を抜けるように、前へ進んでくる者がいる。
周囲の兵士とは動きが違う。
急いでいるわけではない。
逃げる者を押し退けもしない。
それでも、止まらない。
「違う」
『何が違います?』
「逃げてない」
優斗は数える。
一人。
二人。
さらに。
「こっちに来てる」
前線にいる智臣も気づいた。
視界へ入るより先に、空間の中にある動きとして捉える。
これまで前へ出てきた兵士とは違う。
周囲が下がっているのに、その動きだけが逆を向いている。
「十三」
智臣が言った。
彰人が目の前の兵士を流しながら聞き返す。
「何が?」
「来る人数」
雅史もそちらを見る。
逃げる兵士の間から、少しずつ姿が見え始める。
十三人。
装備も同じではない。
体格も違う。
それでも、周囲の兵士と同じには見えなかった。
理由は一つではない。
歩き方。
視線。
武器の持ち方。
そして何より。
前にいる三人を見て、それでも歩いてくる。
智臣が目を細めた。
「……怖がってるな」
「え?」
彰人が見る。
「分かるん?」
「ああ」
智臣には、彼らの動きが見えていた。
恐怖がないわけではない。
むしろ、前へ来た普通の兵士より強くこちらを認識している。
彰人。
雅史。
智臣。
その横にいる三体の神獣。
さらに後方に残っている者たち。
何が危険なのか。
どこまで危険なのか。
普通の兵士より、ずっと正確に感じ取っている。
だから怖い。
それでも。
足を止めない。
「怖いのに来るん?」
彰人が訊く。
「来るな」
智臣は短く答えた。
雅史が十三人を見る。
「役目があるんだろうね」
「軍人やから?」
「たぶん、それだけじゃないと思う」
まだ分からない。
だから、雅史はそこで止めた。
十三人との距離が縮まっていく。
先ほどまで前にいた兵士たちは、彼らのために道を空けるように左右へ分かれ始めていた。
意図しているのか。
ただ近づきたくないだけなのか。
高所から見ている優斗にも判別できない。
ただ一つ。
これまでとは違うものが来る。
それだけは分かった。
「洋一」
『はい』
「十三人」
『確認しています』
「前の人たちより、たぶん強い」
『根拠は?』
優斗は少し考えた。
見た目ではない。
武器でもない。
「……逃げてる人の中を、普通にこっちへ歩いてる」
通信の向こうで、洋一が黙った。
それで十分だった。
『彰人、雅史、智臣』
三人がそれぞれ通信へ意識を向ける。
『無理に前へ出ないでください。今の位置を維持。相手の能力が分かるまでは、これまでと同じです』
「了解」
「分かった」
「ああ」
彰人が肩を回した。
雅史が足元を確認する。
智臣は動かない。
ケルガンが巨大な脚を地面へ置く。
メーダがゆっくりと鼻を下ろす。
ラギアが空中で大きく身体を返した。
黒と白の巨体が、見えない海を泳ぐように十三人の方へ頭を向ける。
「……次は、ちょっと違うな」
智臣が言った。
「強そう?」
彰人が訊く。
「たぶん」
雅史が答えた。
「まあ」
彰人は十三人を見る。
昨日までなら、相手が強いかどうかを気にしたかもしれない。
今は違う。
強いから困るわけではない。
問題は。
「怪我させんようにできるかな」
「そこだね」
雅史も同じだった。
倒せるかどうかではない。
止められるか。
傷つけずに。
十三人は、それでも前へ進む。
後ろでは多くの兵士が逃げている。
前には、最初からほとんど位置を変えていない三人がいる。
互いの距離が縮まる。
ヴァルネシア軍の第一の流れは、そこで止まった。
誰も追わなかった。
誰も倒す必要がなかった。
それでも、戦いそのものが終わったわけではない。
逃げる者たちとは逆方向へ。
恐怖を感じながら。
その恐怖が何を意味するのかを、おそらく普通の兵士たちより正確に理解しながら。
十三人が、前へ進んでいた。




