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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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13/37

静かな夜

 昼を回って、もうしばらく経っていた。

 裂け目を越えてから、周囲の調査をして、地形を確認して、その一部を作り替えた。何もなかった場所に人の通る経路ができ、低い丘ができ、さらにその上には周囲を見渡すための高台まで作られている。

 それだけのことをしていれば、当然時間も過ぎる。

 陽はまだ高いものの、午前中の鋭さはもうない。日本の九月末よりも少し涼しい空気が森から流れ込み、動いていればちょうどいいが、じっとしていると肌に薄い冷たさを感じる程度だった。

 そんな場所の中央で、洋一はしばらく言葉を失っていた。


「……清隆」

「何?」

「何を作っているんですか?」

「会議室」


 返事は、あまりにも普通だった。

 洋一はもう一度、目の前を見る。

 壁がある。

 屋根もある。

 窓まである。

 午前中には存在しなかった四角い建物が、今では最初からそこに建っていたかのように地面の上へ収まっていた。

 仮設の小屋というには妙にしっかりしている。外壁は現地の土や石を使っているらしく、周囲の景色から大きく浮いてはいない。それでも壁面は平らに整えられ、平たい屋根は人が乗っても問題なさそうな厚みがあり、入口には扉までついている。


「雨が降るかもしれないから」


 清隆は、洋一が何を疑問に思っているのか分からないように続けた。


「外で地図広げてたら濡れるでしょ。電子機器もあるし」

「それは分かります」


 理屈そのものに反論する余地はない。

 この世界の気候を、日本と同じ感覚で考えていい保証はない。雨が降れば紙の地図は使いにくくなるし、ノートパソコンやタブレットも扱い辛くなる。


「風も防げるし、夜はもう少し冷えるかもしれない」

「……そうですね」

「だから壁もいる」

「はい」


 全部正しい。

 それが困る。


「洋一、諦めた?」


 少し離れたところから優斗が声を掛けてきた。


「諦めたわけではありません」

「でも、そんな顔してるよ」

「合理的ではありますから」

「ほな、ええんちゃう?」


 桜子まで話に加わり、洋一はそちらへ顔を向ける。


「桜子さんまで」

「雨降ってから作るよりええやろ。うちも濡れんの嫌やで」

「それはそうですが」


 そう言われれば、やはり反論できない。

 洋一は小さく息を吐き、建物へ近づいた。

 そこで、もう一つ気づく。


「清隆」

「何?」

「これは?」

「ガラス」

「それは見れば分かります」


 透明だった。

 しかも、かなり透明だった。

 窓越しに外を見ると、少し離れた場所にいる恭平の姿が歪みもなく見える。厚みも十分にありそうなのに、普通の建物に使われている窓とほとんど変わらない。


「砂から?」

「主成分は」

「その説明はいいです」

「そう?」

「なぜこんなに綺麗なんですか」


 清隆は窓を見る。

 少し考えてから、洋一へ視線を戻した。


「透明な方が外見えるから」

「用途を聞いているのではありません」

「強度も上げてあるよ」

「そこです」


 洋一は眉間を押さえた。

 清隆が作ったものだから使える。それはもう分かっている。

 問題は、それがこの世界の文明から見てどうなのかという話だった。


「これ、ヴァルネシアの人に見せていい加工精度なんですか?」

「材料はここのものだけど」

「そういう意味ではなく」

「洋一」


 桜子が肩を叩く。


「もうええやろ」


 戦争が始まるかもしれない場所で、窓ガラスの加工精度について議論している場合ではない。

 洋一にも、それくらいは分かっている。


「……そうですね」

「必要だから作っただけだよ」


 予想通りの言葉を清隆が口にし、傍らにいたリンゼンも当然のように頷いている。

 洋一は、それ以上考えるのをやめた。


     ◇


 会議室の中央には、大きな机まで作られていた。

 椅子もある。

 誰がそこまで頼んだのかは分からないが、清隆に聞けばまた「必要だから」と返される気がしたので、洋一は黙って紙の地図を広げた。

 午前中までの調査結果。

 裂け目。

 周囲の地形。

 清隆とリンゼンが手を入れた範囲。

 その一つ一つを確認していく。


「ここ、変わりました?」

「少し」


 清隆が地図を覗き込む。


「どのくらい?」

「二メートルくらい」

「高さが?」

「そう」


 洋一は地図へ書き込む。


「ここは?」

「谷を浅くした。四メートルくらい」

「……それを少しと呼ぶのは、もう諦めます」

「そう?」

「ここは?」

「そこは触ってない」


 ようやく安心できる答えが返ってきた。


「雅史が見ると思ったから」


 その理由を聞いて、洋一は地図から顔を上げた。

 地面そのものが、雅史にとっては資料になる。

 人が通った跡、荷物を運んだ跡、野営した痕跡。地形を自由に作り替えられるからといって、それらを全部消してしまえば、過去を辿る手掛かりまで失われる。

 清隆は必要な場所だけを変えながら、必要な過去は残している。


「本当に考えてるんだね」


 優斗が感心したように言った。


「考えてるよ」

「温泉作ってた人と同じとは思えないっすね」


 恭平が続ける。


「あれも必要だから」

「必要なんすか?」

「長くいるなら」

「まだ長くいるって決まってないっすよ」

「必要になってから作るより先に作った方がいい」

「……正論っすね」


 恭平が引いた。

 洋一は地図へ視線を戻す。

 午前中と比べれば、陣地はかなり形になっている。

 侵入経路を限定する起伏があり、高所から全体を確認できる場所があり、負傷者を下げるための経路も確保されている。

 壁で塞いでいるわけではない。

 進める場所を残しながら、進む方向を選ばせる。

 ここにいる全員が相手を倒すためではなく、止めるために動く。その前提が、地形そのものへ反映されていた。


「洋一」


 入口から声がした。

 顔を上げると、智臣が戻ってきていた。

 歩き方にも表情にも切迫したものはない。それだけで、少なくとも今すぐ何かが始まるわけではないと分かる。


「どうでした?」

「いるな」


 短い答えだった。

 それでも部屋の空気は変わり、優斗も恭平も、自然に智臣へ顔を向けた。


「ヴァルネシア軍?」

「たぶん」


 智臣は机まで来ると、地図の一点へ指を置いた。


「この辺りより、もう少し向こう。ここからじゃ目では見えない」

「規模は?」

「そこまでは分からない。ただ、人が集まってるのは間違いない」


 指先が少し動く。


「斥候もいる」

「近づいてきてる?」


 優斗が訊いた。


「いや。こっちを見てるだけだ」

「朝からいた者と同じでしょうか」

「位置は変わってる。交代したのかもしれないし、別の奴かもしれない」

「攻撃の兆候は?」

「ないな」


 智臣はそこで一度言葉を止め、窓の外へ視線を向けた。

 自分が見てきた方向を、もう一度確かめるように。


「むしろ、近づきたくなさそうだ」


 洋一は地図の向こう側を見た。

 目には見えない相手。

 それでも、こちらを見ている。


「こちらを警戒している」

「かなりな」

「まあ、そらそうやろ」


 桜子が腕を組む。


「自分らでも警戒するわ」

「姐さんが言うと説得力あるっすね」

「なんでや」

「最後の壁なんすよね?」

「せやけど」

「姐さん突破しないと日本行けないんすよね?」

「……まあ」

「俺なら帰るっす」


 桜子は何か返そうとして、やめた。


「帰れるならな」


 それだけを言った。

 恭平の顔から笑いが消える。

 帰れないから来る。

 それが、今回の問題だった。


「それと」


 智臣が続ける。


「人以外も結構いる」

「人以外?」


 智希がすぐに反応した。


「普通の動物だよ。たぶん」

「たぶん?」

「この世界の生き物だからな。俺が見て分かる範囲では普通だ」


 智臣は地図の別の場所を指す。


「この辺りに小さい群れ。鹿に近いのがいる。森の奥にはもっと小さいのもいるな。鳥も多い」

「へえ」


 智希が机へ寄ってくる。


「こっち?」

「ああ。ただ、驚かすなよ」

「分かってるって」

「お前が一番追いかけそうだから言ってる」

「追いかけないよ」


 少し不満そうに言い返す智希を横目に、智臣はさらに指を動かした。

 森の中に動物が多い場所。

 水の流れ。

 逆に、生き物の気配が薄い場所。

 目に見えるものだけではなく、その空間に何が存在していたのかまで拾い上げるように説明していく。

 戦場として考えるなら、それも地形情報の一つでしかない。

 けれど、そこには十二神承が来るより前から生きているものがいる。

 ヴァルネシアが軍を置くより前から、そこで生きていたものがいる。


「この辺りは、できるだけ使わない方がよさそうですね」


 洋一は地図へ印を加えた。


「戦闘になった場合も、追い込む方向から外しましょう」

「そうだな」


 智臣が頷く。

 人を傷つけない。

 それだけでは足りない。

 自分たちが戦った結果、何を壊すのか。

 そこまで考えなければ、守ったことにはならない。

 考えるものは増えていく。

 それでも、知らないままよりはいい。

 洋一が新しい印を書き込んだところで、外から足音が近づいてきた。


     ◇


「戻りました」


 雅史だった。

 手にも服にも少し土がついている。膝にも汚れがあり、何度も地面へしゃがみ込んで痕跡を確認していたことが窺えた。


「どうでした?」

「たぶん、僕が見た範囲だけでも分かることがある」


 雅史は室内へ入り、机の地図を見る。

 その途中で、ふと足を止めた。


「……建物できたんだ」

「清隆が」

「なるほど」


 それだけで納得する。


「雅史は何も言わないんですか」


 洋一が思わず訊いた。


「何を?」

「いえ……いいです」


 雅史は少し首を傾げたものの、それ以上は追わずに地図へ視線を戻した。


「清隆」

「何?」

「僕が通ったところ、わざと残した?」

「そのつもり」

「やっぱり。ありがとう、かなり助かった」


 雅史は地図の上へ指を置く。

 そこから先は、先ほどまでの柔らかい空気とは少し違った。


「前に使われていた道がいくつかある」


 全員の意識が自然に集まる。


「今は?」

「ほとんど使われてない。少なくとも最近は、裂け目に近いところほど人の往来が減ってる」

「撤退した?」


 優斗が訊く。


「それに近いと思う」


 雅史の指が地図を辿った。


「十二神承が来る前は、もっと裂け目に近いところまで使ってたんだと思う。ここ。それからこっち。物資を運んだ跡も残ってる。ずっと前じゃない。比較的新しい」

「でも今はいない」


 智臣が言う。

 雅史は一度頷き、その言葉を受け取ってから続けた。


「攻めるために前を空けた可能性も考えた。でも、今の智臣の話まで合わせるなら、その可能性は低いと思う」

「理由は?」


 洋一が訊く。

 雅史はすぐには答えなかった。


 見たもの。

 過去の事例。

 智臣が今見てきたもの。


 自分の中ではすでに一つの形になっていたが、それを全員へ渡すために、もう一度順番を組み直す。


「怖いんだと思う。僕らが」


 部屋が静かになった。

 智臣が壁へ身体を預ける。


「今の配置を見る限り、その可能性は高いな」


 過去と現在。

 別々の方向から見ていた二人の情報が、そこで初めて十二神承全体へ共有された。


「こっちへ来る気配はない。斥候も距離を保ってる。見つからないようにしてるというより、近づきたくない感じだ」

「でも監視は続けている」


 洋一が言う。


「ああ」

「放棄はしていない」

「してない」


 離れたい。

 けれど、離れるわけにはいかない。

 その矛盾した状態だけでも、向こうが置かれている状況の一端は見えた。


「……嫌やな」


 桜子が呟いた。


「何が?」


 智希が訊く。


「怖がられてんの。別に怖がらせたいわけちゃうし」


 地図を見たまま答える。

 力の差を見せれば、戦わずに済むかもしれない。

 理屈だけなら、それでいい。

 圧倒的な相手だと理解させれば、無謀な攻撃を思い止まらせることもできる。

 だが、相手を怯えさせること自体を目的にしている者は、ここにはいなかった。


「でも」


 優斗がゆっくり言う。


「怖いなら、攻めてこない可能性もあるよね」

「軍だけなら」


 雅史の声が少し低くなった。


「軍だけ?」

「国全体で考えると、別だと思う」


 雅史は机の端へ手を置いた。


「今、ヴァルネシアの人たちがどこまで知ってるのか分からない。星堕としの規模も、日本との裂け目のことも、十二神承のことも」

「情報が広まったら?」

「広まり方による」


 正確な情報だけが、全員へ同じ形で伝わるとは限らない。


 災害。

 戦争。

 飢饉。

 国家の崩壊。


 雅史が調べてきた過去の中には、恐怖によって人の流れそのものが制御できなくなった例もいくつもある。


「星が落ちてくる。自分たちの土地が危ない。国がどうなるかも分からない。その時に、別の世界へ繋がる道があるって知ったら」

「逃げようとする人も出る」


 良澄が言った。


「そうなると思う」

「でも、そこに俺らがおる」


 桜子が地図を見る。

 自分が立つことになる場所。

 裂け目へ続く最後の道。


「ものすごく強い何かが道を塞いでる、ってだけ伝わったら」


 雅史は、その先を口にしなかった。


「暴動か」


 智臣が言った。


「可能性はあると思う」

「軍が止めても?」

「軍が止めるから起きることもある」


 逃げたい人間と、秩序を守らなければならない側。

 どちらかが悪いとは限らない。

 それでも、恐怖が積み重なれば人は動く。


「噂だけ広がることもあるし、誰かが先に逃げたって話が出れば、それだけで人が動くこともある。そうなったら、軍が全部制御できるとは限らない」

「……一般人がここまで来たら」


 桜子の視線が、地図の上をゆっくりと裂け目まで辿った。

 武器を持った兵士なら止められる。

 相手がどれほど多くても、ここを通さないと決めれば通さない。

 けれど、そこへ押し寄せるのが兵士ではなかったら。

 逃げ場を求めて走る人間の群れ。

 その中には、きっと子供もいる。

 老人も、怪我をした者もいる。

 恐怖に駆られた人の流れが大きくなれば、十二神承が何もしなくても、前へ進めない者から押し潰される。


「……止められへんで」


 小さな声だった。

 誰も、それを能力の話だとは受け取らなかった。


「うちが止めたら、その後ろで潰れるやつ出るやろ。子供とか、走られへん人とか」


 桜子の指が地図の一点に止まる。


「それ、守ったことにならへんやん」


 答えられる者はいなかった。

 桜子なら止められる。

 だからこそ、止めるだけでは駄目だった。


「軍を止めれば終わる、ではありませんね」


 洋一が静かに言った。


「最初から分かってたつもりだったけどな」


 智臣が腕を組む。


「こうやって形になると違うな」

「そうだね」


 雅史も地図を見た。


「止めた後の方が、大変かもしれない」


 戦争なら、方法はいくらでも考えられる。

 傷つけずに止める。

 武器を奪う。

 進路を塞ぐ。

 指揮系統を止める。

 十二神承には、そのための力がある。


 だが、恐怖は殴って止められない。

 不安も、飢えも、逃げたいという意思も。


 会議室の中から言葉がなくなった。

 窓の外では、森の葉が風に揺れている。

 ほんの少し前まで気になっていたガラスの透明さも、今は誰も見ていなかった。


「……何この空気」


 入口から声がした。

 全員が振り向く。

 彰人が立っていた。


     ◇


「俺なんか悪いことした?」

「まだしてへん」

「まだってなんやねん」


 桜子の返事に、彰人が眉を寄せる。


「おかえり」


 優斗が笑った。


「ただいま。で、何?」

「ヴァルネシア側の話をしていました」


 洋一が答える。


「なんかあった?」

「いくつか」


 彰人は室内へ入り、地図を覗き込んだ。

 午前中より増えた印を目で追いながら、智臣と雅史から今分かっていることを聞く。

 遠くに軍が布陣していること。

 監視は続けていること。

 裂け目近くからは、以前より人を引いていること。

 そして、十二神承を恐れている可能性が高いこと。


「……まあ、そら怖いやろな」


 彰人の視線が少し落ちる。

 初めて怜司の本気に近いものを見た時のことを思えば、そうなるのも分かる。

 自分たちはもう慣れてしまった。

 だが、知らない側から見ればどう見えるのか。


「でも、怖いから来ないで済むならいいんだけど」


 優斗が言う。


「それだけでもなさそうって話」


 智臣が続ける。


「一般人まで動いたら、もっと面倒になる」

「……ああ」


 彰人にも意味が分かった。


 星堕とし。

 逃げ場。

 裂け目。

 日本。


 そこまで繋がれば、昼間に聞いた言葉が蘇る。


――『私が止めたいと思うだけでは、ヴァルネシアの民は救われません』――


「セレスティアさんも」


 彰人が口を開いた。

 名前が出た瞬間、皆の意識がそちらへ向く。


「会ったの?」


 良澄が訊いた。


「うん」

「やっぱりいたんだ」

「フィルネさんと一緒に」

「何か話した?」


 優斗の問いに、彰人は一瞬考えた。

 何から話すべきか。

 今の空気のまま重い話を重ねても仕方がない。


「フィルネさんに気ぃ遣われた」


 だから、最初に別のところから話した。


「なんで?」


 智希がすぐに食いつく。


「知らん」

「何したの?」

「俺なんもしてへんって」

「ほんと?」

「なんで疑われんねん」


 優斗が笑う。

 桜子も口元を緩めた。


「セレスティアさん出てきて、話し始めたらな。『周囲を確認してまいります』言うて飛んでった」

「二人にしたんだ」


 良澄が言う。


「たぶん」

「気ぃ遣われとるやん」


 桜子が笑った。


「せやから言うたやろ」

「何の気やろな」


 智臣が口元だけで笑う。


「知らんわ!」


 彰人の声が少し大きくなり、さっきまで机の上へ溜まっていた重さが少しだけ薄れた。

 問題がなくなったわけではない。

 それでも、一度息を吐くくらいの余白はできた。


「で」


 彰人は表情を戻した。


「話はした」


 その一言で、笑いの余韻も静かに引いていく。


「誰も殺す気ないって言った」


 驚く者はいない。

 それは全員で決めたことだった。


「向こうは?」


 洋一が訊く。


「……分かってた」

「分かってた?」

「俺らやったら、本気でそうしようとするんやろうって」


 疑っていなかった。

 できるのかと問われたから、できるとは言わなかった。

 やってみなければ分からない。

 それでも、最初から殺すつもりではやらない。


「セレスティアさん自身は、止めたいって」


 再び室内が静かになる。


「でも、自分が止めたい言うただけじゃ、ヴァルネシアの人らは助からんって」

「同じだね」


 雅史が呟いた。

 彰人がそちらを見る。


「何が?」

「今、僕らが考えてたこと」


 軍を止めればいいわけではない。

 戦争を止めればいいわけでもない。

 その後も、人は生きなければならない。

 違う場所に立っているセレスティアも、同じところで立ち止まっている。


「あと」


 彰人は少し迷ってから続けた。


「兄貴の話もした」

「何て?」


 智希が訊く。


「全員助ける言うてるって」


 一瞬だけ間があった。


「……怜司だな」


 智臣が最初に言った。


「怜司ですね」


 洋一が続く。


「ニイさんだし」


 智希も当然のように頷く。


「いないのに全部それで済むんすね」


 恭平が呆れたように言った。


「本人おったら、もっと簡単に言うやろ」


 桜子が地図を指先で軽く叩く。


「星堕とし止めたらええんやろ、とか」

「言いそう」


 優斗が笑う。


「言うでしょうね」


 洋一まで否定しない。


 実際、怜司はそう考えている。

 ヴァルネシアが滅びそうだから日本へ来る。

 なら、滅びなければいい。

 その結論へ至るまでに本人の中で何が繋がっているのかは分からないが、説明される側からはほとんど見えない。


「セレスティアさんも」


 彰人が少し笑った。


「『怜司さんらしいですね』って」

「もう理解されてんの?」


 優斗が訊く。


「俺も聞いた」

「何て?」

「少しだけ、って」

「早いね」

「俺より分かってたりしてって言うたら、それはないって」

「そこは否定されたんだ」


 優斗が笑い、彰人は少し不満そうに肩をすくめた。

 それから、昼間に交わした最後の言葉を思い出す。

 来たら止める。

 セレスティアでも。

 そう伝えた。

 そして彼女は、それを聞いて安心すると答えた。


「……向こうも」


 彰人は机の地図を見る。


「俺らを害したいわけちゃう。少なくとも、セレスティアさんはそう言ってた」


 誰かへ教えるためというより、自分自身へもう一度確認するような声だった。

 敵だから戦う。

 それなら、もっと簡単だった。

 こちらは相手を傷つけたくない。

 向こうにも、こちらを傷つけたくない者がいる。

 それでも互いに譲れないものがある。


「なら」


 洋一が静かに言った。


「まだ、できることはありますね」

「うん」


 優斗が頷く。


「向こうも話す気があるなら」

「少なくとも全員が、戦いたくて来るわけではない」


 雅史も続ける。


「そこは大きいと思う」

「八傑とか三柱とか、話通じるなら話したらええんちゃう?」


 桜子が言った。


「戦いながら?」


 良澄が訊く。


「できるなら」

「姐さんならやりそうっすね」

「なんでや」

「殴られながら『ちょっと話そか』って」

「殴られる前に止めるわ」

「そっちっすか」


 恭平が笑う。

 答えは、まだない。

 明日何が起こるのかも分からない。

 それでも、さっきまで地図の向こう側にいた見えない軍勢が、ほんの少しだけ人の形を持った。


 怖がっている者がいる。

 戦いたくない者もいる。

 それでも来なければならない者がいる。

 何も知らないよりは、その方がいい。


「……ところで」


 桜子が立ち上がった。


「はい?」


 洋一が顔を上げる。


「トイレどこ?」


 沈黙。

 全員の視線が、ゆっくり清隆へ向いた。


「まだないよ」

「は?」


     ◇


「会議室より先やろ!」

「会議する場所も必要だったから」

「便所も必要や!」

「今作ってる」

「今かい!」


 桜子の声を背中に受けながら、清隆は会議室の外へ出た。

 リンゼンも当然のようについてくる。

 少し離れた場所で清隆が地面へ手を向けると、土が崩れるのではなく、必要な場所だけが押し広げられるように形を変えていく。

 周囲の地面が低く沈み、排水用の経路が作られ、そのさらに下へ別の空間が形成される。


「男女別やで!」

「分かってる」

「ちゃんと見えへんようにせなあかんで!」

「壁は作るよ」

「当たり前や!」


 桜子は腕を組み、その場から動かない。

 急かしているというより、完成するまで逃がさないという姿勢だった。


「排水はどうするの?」


 様子を見に来た良澄が訊く。


「処理槽を作る」

「そのまま流さないんだ」

「流す理由がないから」


 清隆が地面の下へ意識を向ける。


「水脈に入る前に処理する。固形物を分けて、微生物で分解して、それから浸透させる」

「微生物?」

「持ってきた」


 桜子の眉が動いた。


「持ってきたん?」

「必要になると思ったから」

「最初から?」

「そう」

「ほな便所も最初から作っとけや!」

「優先順位の問題」

「今一番先に作るん、それやろ!」


 清隆は桜子を見た。

 次に、まだ途中の二つの区画を見る。

 数秒考える。


「分かった」


 地面がもう一度動いた。

 片側だけ。

 壁が立ち、床が整い、扉がつく。


「女子用できたよ」


 男子用は、まだ地面が開いている。

 桜子が一度瞬きをした。


「……分かっとるやん」

「急いでたから」

「よし」


 桜子は満足そうに頷き、完成した方へ歩いていった。

 少し離れたところで見ていた優斗が、清隆へ視線を向ける。


「清隆」

「何?」

「今、女子用から作ったよね」

「急いでたから」

「うん」


 優斗はそれ以上聞かなかった。

 危険を避ける判断としては、たぶん正しい。


『賢明だ』


 リンゼンまで頷いた。


「男子用も作るよ」

「そうだね」


     ◇


 午後は、そこから妙に静かに流れ始めた。

 誰かが全員へ指示したわけではない。

 会議は終わり、今すぐ敵が来る気配もない。明日の配置も、それぞれがやるべきことも決まっている。

 なら、今できることをする。

 それだけだった。


 智希は、智臣から聞いた森へ向かった。

 戦闘用に整えられた経路から外れすぎないところまで歩くと、人の気配が薄くなり、代わりに葉の擦れる音や鳥の声が近くなる。

 日本で聞くものとは少し違う。

 高く短い鳴き声が二度続き、その少し後で、奥の枝が揺れた。

 智希は足を止める。


「いる?」


 返事はない。

 当然だった。

 こちらから近づかずに待っていると、やがて木々の隙間から小さな頭が覗いた。


「お」


 鹿に似ている。

 日本で見る鹿より耳が少し長く、毛の色も違う。よく見れば角の形も微妙に違っていた。

 向こうが智希を見る。

 智希も見る。


「来ないよ」


 意味が通じるとは思っていない。

 ただ、驚かせないように声だけは落とした。

 しばらくすると、もう一頭、小さなものが姿を見せた。


「家族かな」


 分からない。

 それでも智希は、その場へしゃがんだ。

 明日、この辺りで戦う可能性がある。

 その時、こいつらはどうするのだろう。

 逃げるだろうか。

 どこへ逃げるのだろう。


「そっちは行くなよ」


 戦闘経路になる方角を見る。

 言葉は通じなくても、明日になれば自分が追い払うことくらいはできる。

 今は、ここにいることを覚えておけばいい。


     ◇


「良澄君、それで足りますか?」

「うん。たぶん」


 中央の建物から少し離れた場所では、良澄が救護所を整えていた。

 清隆が作った部屋の壁際には簡素なベッドが並び、その上へ良澄が持ち込んだ寝具を一つずつ敷いていく。


「戦場の救護所として考えたら、綺麗すぎる気もするけど」

「汚い必要はありません」

「それもそうだね」


 洋一の返事に、良澄は小さく笑った。

 誰がここへ寝るのかは分からない。

 十二神承かもしれない。

 ヴァルネシア兵かもしれない。

 一般人かもしれない。

 できれば誰も使わない方がいい。

 それでも、使う時になってから準備するのでは遅い。

 最後のシーツの端を整え、良澄は並んだ白い寝具を見渡した。


「使わないで済めば、一番なんだけどね」


 その言葉に、洋一は何も返さなかった。

 同じことを思っていたからだった。


     ◇


「恭平、何してるの?」

「靴見てるっす」


 優斗が覗き込むと、恭平の前には何足かの靴が並んでいた。

 底の減り方。

 紐。

 縫い目。

 細かな傷み。

 普段なら気にしない程度のものまで、順番に確認している。


「全員の?」

「とりあえず置いてある分だけっすね」

「壊れる?」

「普通に使う分には大丈夫っすけど」


 恭平は自分の靴を持ち上げ、底を指で押した。


「明日、走るかもしれないんで」

「ああ」

「そんなのでミスるの馬鹿らしいじゃないっすか」

「確かに」

「優斗さんのも見るっすよ」

「僕、飛ぶけど」

「地面にも降りるでしょ」

「はい」

「じゃあ見るっす」

「お願いします」


 優斗は素直に靴を脱いだ。


     ◇


 その後、優斗は高台へ上がった。

 清隆が作った櫓。

 櫓と呼ぶには妙に頑丈で、上まで階段までついている。


「これ、本当に今日作ったんだよね」


 手すりへ手を置き、周囲を見渡す。

 中央の会議室。

 救護所。

 少し離れた場所に並ぶ車。

 人が動くために整えられた経路。

 その外側には、手を加えられていない森が続いている。

 視線をさらに遠くへ伸ばした。


 ヴァルネシア側がいると智臣が示した方向。

 森の向こうへ目を凝らしても、人影は見えない。

 高い場所へ上がっても同じだった。二つの陣地の間には起伏と森が残され、互いの姿を直接捉えられない。

 それでも、何もないとは思わなかった。


 あの向こうにはいる。

 智臣がすでに確認している。

 こちらが相手を意識しているのと同じように、向こうもこちらを意識している。


「広いなあ」


 優斗は小さく呟いた。

 明日には戦場になるかもしれない場所は、今はただ静かな土地として広がっていた。


     ◇


 洋一は、まだ地図を見ていた。

 敵を倒す場所ではない。

 敵を止める場所を探している。


 できれば傷つけず、こちらも傷つかず、元からいる生き物も巻き込まない。

 そして、相手が退きたいと思った時には、退ける経路も残しておく。


「ここですね」


 一つ印をつける。

 彰人が受け、横へ流した先。

 桜子まで届く前に止められる場所。

 別方向では、恭平や智希が追うなら視界が切れすぎない方がいい。

 優斗が上から確認できることも重要になる。

 完全に問題が起きない場所などない。

 だから、問題が少ない方を選ぶ。

 それを何度も繰り返す。


     ◇


 雅史はノートパソコンを開いていた。


「持ってきてたんだ」


 智臣が隣から覗く。


「昨日のうちに入れておいた」

「寝ないで何してたんだ」

「調べもの」

「知ってる」


 智臣は呆れたように言いながら、隣の椅子へ座った。

 雅史が電源ケーブルを取り出し、何気なく壁際を見る。

 そこで動きが止まった。


「……清隆」

「何?」


 少し離れたところから返事が来る。


「これ、コンセント?」

「そう」

「電気、どこから来てるの?」

「水力」


 雅史が顔を上げた。

 智臣も同時に清隆を見る。


「……水力?」

「近くに水流あったから。一部だけ分けて、落差作って回してる」

「いつ作った?」


 智臣が訊く。


「さっき」

「さっき?」

「うん」

「……そうか」


 智臣はそれ以上聞くのをやめた。

 雅史はまだ少し考えていたが、最終的にはコンセントへケーブルを差し込んだ。


「使うんだな」

「あるなら使うよ」

「まあな」


 窓。

 照明。

 発電設備。


 清隆がどこまでやれば気が済むのかは分からない。

 ただ、夜になってもノートパソコンを使えるのは助かる。

 画面には今日の日付。

 その下へ、朝から起きたことが順番に記録されていく。


「全部書くのか?」

「全部は無理だよ」

「清隆が温泉作ったのは?」

「書いてない」

「重要な歴史かもしれないぞ」

「じゃあ智臣が書いて」

「嫌だ」


 雅史が笑い、そのまま入力を続ける。

 ヴァルネシア側の痕跡。

 過去の利用経路。

 撤退時期の推定。

 現在の布陣との整合。

 見たものと、そこから考えたことを分けて記録する。

 後で間違っていたと分かった時、どこから間違えたのか分かるように。


「彰人の話も?」

「本人に確認してから」

「真面目だな」

「智臣も手伝ってよ」

「何を?」

「今の配置。僕が書いても正確じゃない」

「ああ。地図出せる?」

「出せるよ」


 雅史が画面を切り替える。

 智臣が指を伸ばし、そこから先はほとんど言葉を交わさずに作業が続いた。


     ◇


 彰人は一人、建物の外にいた。

 何もしていない。

 正確には、外から見れば何もしていないように見えるだけだった。

 武器を整える必要はない。

 身体の調子も悪くない。

 一昨日の酒も、もう残っていない。

 経路も確認した。

 地形も覚えた。

 自分が立つ場所も分かっている。

 だから準備するものが残っているとすれば、自分の中だけだった。


――『あなたを傷つけたいとは思いません』――


 昼間の声を思い出す。


「俺もです」


 そう答えたのは、相手に合わせたからではない。

 本当にそう思っていた。

 だからこそ、次に会った時のことを考えるほど簡単ではなくなる。

 止める。

 そこだけは決めている。

 けれど、止めるために何をすればいいのかは、まだ決まっていない。


 どこまで受ければいい。

 どこで返せばいい。

 力を奪うだけで済むのか。

 魔術なら、何を返せば止まる。

 自分が少し間違えれば、相手を傷つける。

 弱すぎれば止められない。

 強すぎれば、止めるという目的そのものから外れる。


「……難しいな」


 小さく呟く。

 答えは出なかった。


     ◇


「できた」


 清隆が言った。


「何が?」


 通りかかった智臣が訊く。


「温泉」

「まだやってたのか」

「途中だったから」


 その言葉に、智臣は何となく嫌な予感がした。

 案内された先へ行く。

 湯気が上がっていた。

 ただ湯を溜めただけではない。

 周囲の岩を組み合わせて作られた露天の岩風呂があり、湯船の縁は座りやすい高さへ整えられている。

 少し離れたところには洗い場。

 そこから伸びた管の先には、見覚えのある形をしたものまでついていた。


「……これ何だ?」

「シャワー」

「そう見えるから聞いてる」

「高低差で水圧作った」

「お湯は?」

「温泉と冷水混ぜて調整してる」

「温度は?」

「変えられる」


 智臣は黙った。

 男女の風呂の間には、現地に生えていた竹に似た植物を組んだ高い目隠しが立っている。

 脱衣所もある。

 洗い場もある。

 夜用らしい照明までついている。


「……お前、何作ってんだ?」

「温泉」

「それは分かる」

「必要だったから」

「どの辺まで必要だったんだ?」

「使うなら快適な方がいいでしょ」


 正しい。

 やはり正しい。


「アメニティは?」


 智臣が試しに訊いた。


「持ってきてない」

「そこはないのか」

「成分から作るより、日本から持ってきた方が早い」

「急に現実的だな」

「明日持ってくればいい」

「明日も使う気か」

「使わないの?」


 智臣は湯気の向こうにある岩風呂を見た。

 少し涼しくなってきた空気。

 温度調整済みの温泉。

 洗い場。

 シャワー。


「……使う」

「じゃあ問題ない」


 清隆は満足した様子もなく、次の確認へ向かった。

 智臣はその背中を見送り、もう一度露天風呂を見る。


「何しに来たんだっけな」


 一瞬、本当に分からなくなった。


     ◇


 一方。

 そこから遠く離れた森の中では、別の問題が起きていた。


「腹減ったな」

「今ですか?」

「昼食ってへんやろ」

「そうですけど」


 行人は目の前の存在から意識を外さないまま答えた。

 見えない。

 正確には、見ようとすると認識がずれる。

 そこにいることは分かる。

 こちらを認識していることも分かる。

 そして先ほどから何度も、何かを返そうとしている。

 そこまでは怜司も、白金の獅子も、カグラも同じだった。


「もう一回やってみます」

「うん」


 行人は意識を集中する。

 敵意はない。

 害するつもりもない。

 ただ知りたい。

 先ほどは、それが届いた。

 少なくとも、こちらの存在を認識させることはできた。

 なら、次は。


「何か、伝えようとしてますよね」

「してるな」

「分かります?」

「分からん」

「ですよね」

「でも、何か言うてる」


 白金の獅子も同じ方向を見ている。


『我にも内容までは分からぬ。ただ、何かをこちらへ向けているのは分かる』


 カグラも静かに頷いた。


『意思の動きは感じます』


 四者とも、同じところまでは分かっている。

 何かがいる。

 何かを伝えようとしている。

 だが、その間に道がない。


「……言葉がないから」


 行人が呟く。


「ん?」

「こっちの言葉がないんじゃなくて」


 人間なら、日本語が通じなければ別の言語を使う。

 それでも駄目なら、身振りや表情、絵や文字を使う。

 セレスティアの魔術も、恐らくはその延長にある。

 異なる言語を、互いに理解できる言葉へ変換する。


 だが。


「こいつ、そもそも言語持ってないんじゃ」

「かもな」

「だったら翻訳できない」

「せやな」

「でも意思はある」

「あるな」


 怜司は簡単に答える。

 行人は、その言葉を頭の中で転がした。

 意思がある。

 それを伝えようとしている。

 なら、足りないのは。


「出口か」

「何の?」

「意思の」


 行人は目を細めた。

 言葉を翻訳する必要はない。

 言葉になる前のもの。

 相手が伝えたいものそのものを、自分たちが認識できる形へ置き換えればいい。

 逆も同じ。

 こちらの言葉を聞かせる必要はない。

 その言葉に込めた意味を、感情を、意思を、相手が認識できる形へ変える。


「……できるかな」

「やったらええやん」

「簡単に言いますね」

「できそうなんやろ?」

「分かりませんよ」

「ほな、やってみたら分かるやん」


 行人は少しだけ笑った。


「……そうですね」


 ないなら、作ればいい。

 それだけなら、いつもと同じだった。


「言葉を与える」


 声に出してみる。

 違う。


「いや……」


 言葉そのものを与えるのではない。

 相手に日本語を覚えさせるわけでもない。


「相手の認識できる形に置き換える」


 それなら、言葉を持たないものでも。

 音を聞かないものでも。

 姿を持たないものでも。

 意思さえあるなら。


「カグラ」

『はい』

「少し手伝ってください」

『何をすれば?』

「俺が作ろうとしてるものを、安定させたい」

『分かりました』


 行人が手を伸ばす。

 何もない空間。

 そこへ、今まで存在しなかった道を作る。

 翻訳機ではない。

 言葉でもない。

 意思と意思の間に、互いの認識を壊さずに通れる場所を作る。

 こちらの意思を受け取り、言葉という形を外し、その内側にある意味や感情、方向を、相手が認識できるものへ置き換える。

 相手から来るものも同じ。


「……これ」


 行人は額に汗を浮かべながら、小さく息を吐いた。


「セレスティアさんの魔術より、だいぶやってること多くないですか」

「知らん」

「ですよね」


 集中を切らない。

 その後ろで、怜司が立ち上がった。


「どこ行くんです?」

「火ぃ作る」

「今?」

「腹減った」

「俺、今すごいことしようとしてるんですけど」

「頑張って」

「軽いなあ!」


 行人が振り返る。

 怜司は本当に焚火の準備を始めていた。

 落ちている枝を集め、太さを分けて置いていく。

 白金の獅子がそれを見る。


『食うのか』

「食う」

『待っていろ』

「ん?」


 獅子はそれ以上説明せず、森の奥へ消えた。


「……嫌な予感するんですけど」

「飯取ってくるんちゃう?」

「何を?」

「知らん」

「鹿とか持ってきたらどうするんですか」

「焼けへんかな」

「解体できませんよ」

「俺も無理やで」

「じゃあ止めてくださいよ!」


 カグラが二人を見た。


『集中しなくてよいのですか?』

「してます!」


 行人は前へ向き直った。

 集中する。

 後ろは無視する。

 今、自分は世界に存在しなかったものを作ろうとしている。

 その後ろから、枝の折れる音が聞こえる。


「……なんで焚火慣れてるんですか」

「キャンプしたことあるし」

「そうですか」


 無視する。

 もう一度、相手へ意識を向ける。

 押し込まない。

 こちらの形へ無理に変えない。

 相手を人間の認識へ合わせるのではなく、そのままのものを、こちらへ届く形にする。


「……これで」


 ほんの僅か。

 何かが繋がった。

 音はしなかった。

 声も聞こえなかった。

 それでも行人の内側へ、何かが流れ込んでくる。

 最初に届いたものは、ひどく単純だった。


 ――こわい。


「……え?」


 行人が目を開く。


「怜司さん」

「ん?」

「今」


 言葉にしようとして、止まった。

 怖い。

 だが、その一語だけでは足りない。

 離れたい。

 近づきたくない。

 ここではないどこかへ行きたい。

 何かが迫っている。

 それらが文章になるより先に、感情として分かった。


「怖いって」

「誰が?」

「こいつが」


 怜司が、見えない存在を見る。


「何を?」

「分からない」


 行人はもう一度、意識を繋ぐ。


「何が怖い?」


 声を出す。

 だが、届けるのは音ではない。

 問いかける意思そのもの。

 返ってくる。


 ――来る。


「来る?」


 ――来る。


「何が?」


 答えが途切れた。

 いや。

 何も返ってこないわけではない。

 何かはある。

 だが、相手自身がそれを説明するための形を持っていない。


「何かが来る?」


 ――来る。


「それが怖い?」


 ――こわい。


「だから逃げた?」


 少し間があった。


 ――逃げる。


 行人は息を吐いた。

 会話。

 そう呼んでいいのかは分からない。

 こちらの問いをどこまで理解しているのかも、まだ分からない。

 ただ、返ってくるものは嘘ではない気がした。


「ここに逃げてきた?」


 今度は、少し違うものが返る。


 ――ここ。


「ここ?」


 ――ちがう。


「違う?」


 そこから先が続かない。

 行人は無理に聞かなかった。

 この存在が持っているもの自体が少ない。

 説明できないのではなく、説明するために必要な認識や経験そのものが、まだ積み重なっていないように感じる。


「……若い?」


 行人が呟いた。


「何歳?」

「概念に年齢あるんですかね」

「知らん」

「聞いても分からなそうですね」

「せやな」


 その時、森の奥から白金の獅子が戻ってきた。

 口には魚を咥えている。


「魚やん」

『獲ってきた』

「お前、魚獲れるん?」

『獲ろうと思えばな』

「へえ」


 怜司はそれだけ言って魚を受け取った。

 行人が振り返る。


「魚なら、まあ……鹿よりはどうにかなりますね」

「これ腹取った方がええよな」

『そのまま焼けばよい』

「食えるん?」

『食える』

「食えると美味いは別やろ」

『腹が減っているのだろう』

「せやけど、美味い方がええやん」

「そこで揉めるんですか?」


 行人が額へ手を当てる。

 今、人間とはまったく異なる存在との意思疎通に成功した。

 恐らく誰もやったことのない方法で。

 そのすぐ後ろでは、怜司と白金の獅子が魚の焼き方について真剣に意見を割っている。


『丸焼きでよい』

「苦かったら嫌やん」

『食えば分かる』

「外れた時どうすんねん」

「もう好きにしてください」


 行人は笑いながら、もう一度目の前の存在へ意識を戻した。


 怖い。

 何かが来る。

 だから逃げている。

 今分かったのは、それだけ。

 それでも昨日までは、存在することしか分からなかった。

 今日は初めて、その存在が何かを思っていると知った。


「また話そう」


 行人は、その意思を送る。

 返事はすぐには来なかった。

 しばらくして、こちらへ向いていた意識がほんの僅かに揺れる。

 拒絶ではない。

 それだけは分かった。


     ◇


 夕方になると、空気は昼間よりはっきりと冷たくなった。

 森から吹いてくる風が会議室の壁を撫で、その向こうでは木々が細く音を立てている。

 そんな中で、拠点には別の匂いが漂い始めていた。


「飯できたでー」


 桜子の声が響く。

 鍋から湯気が上がっている。

 昼間まで戦場になるかもしれない場所について話していたはずなのに、そこには温かい料理の匂いがあり、食器が並び、人が座る場所まで自然にできていた。


「姐さん、何で普通に飯作ってるんすか」


 戻ってきた恭平が訊く。


「腹減るやろ」

「そうっすけど」

「戦争前でも腹は減るで」

「まあ……そうっすね」


 恭平はあっさり納得した。


「清隆ー!」

「何?」

「風呂いじってんと飯食え!」

「今行く」

「智希は?」


 桜子が周囲を見る。


「まだ戻ってない?」


 優斗が訊く。


「俺、呼んでくるよ」


 良澄が立ち上がった。


「場所分かる?」

「だいたい」


 それぞれが、やっていたことを終えて集まってくる。

 洋一が地図を畳む。

 雅史がノートパソコンを閉じる。

 智臣がその横で椅子を戻す。

 優斗が櫓から降りてきて、彰人も少し遅れて姿を見せた。

 やがて良澄と一緒に智希も戻ってくる。


「何してたん?」


 桜子が訊く。


「鹿いた」

「鹿?」

「鹿っぽいやつ」

「捕まえた?」

「捕まえないよ!」

「怜司なら食いそうやな」

「ニイさんでもいきなり食わないでしょ」

「どうやろ」


 智臣が口元を緩める。

 食器が触れ合う音がする。

 誰かが料理を取り、誰かが追加をよそう。

 大きな出来事は何も起きない。

 そのこと自体が、今は少しだけありがたかった。


「怜司と行人は?」


 桜子が洋一へ訊く。


「連絡はありません」

「なら大丈夫か」

「何かあれば行人君から来るでしょう」

「怜司は?」


 優斗が訊く。

 洋一は少し考えた。


「……来ない気がします」

「せやな」


 桜子が即答し、何人かが頷いた。

 本人がいないところで妙な信頼だけが成立している。

 食事中、戦争の話はほとんど出なかった。

 誰かが意図的に避けたわけではない。

 昼間に必要なことは話した。

 配置も決まっている。

 今さら食事をしながら、同じことを確認する必要はなかった。


「温泉、完成した」


 清隆が言う。


「聞いた」


 智臣が答える。


「シャワーもある」

「聞いてない」

「温度も変えられる」

「何しに来たんすか、俺ら」


 恭平が箸を止める。


「戦争止めに来たんやろ」


 桜子が即答した。


「ですよね」

「風呂は別や」

「別なんすね」

「入れるなら入るやろ」

「入るっす」

「ほら」

「何が『ほら』なんすか」


 笑いが起きる。

 その横で、雅史が口を開いた。


「温泉のことも記録しろって智臣が」


 と言った。


「俺は言ってない」

「重要な歴史かもしれないって」

「記録しろとは言ってない」

「似たようなもんやろ」


 彰人が口を挟む。


「違う」

「どっちでもええわ」


 桜子が切った。

 また笑いが起きた。

 夜が近づいている。

 明日になれば、同じ場所で違う音がするかもしれない。

 今はまだ、食器の触れる音と、誰かの笑い声しか聞こえなかった。


     ◇


 風呂は、本当に普通に使えた。

 普通という言葉が正しいのかは、かなり怪しい。

 岩に囲まれた露天風呂から湯気が立ち、頭上にはヴァルネシアの空がそのまま広がっている。

 昼より冷えた外気に対して、湯は少し熱め。

 肩まで浸かれば、身体の力が自然に抜けていく。


「……腹立つくらい快適やな」


 桜子が呟いた。

 向こう側は見えない。

 男女の間には、竹に似た植物で作られた高い目隠しが立っている。

 見た目まで妙に日本の露天風呂らしい。


「これ、ほんまに今日作ったん?」


 問い掛けてみたが、すぐには返事がない。

 清隆は男湯側にいる。

 代わりに、少し離れた洗い場から湯の流れる音がする。

 高低差だけで水圧を作ったというシャワーも、問題なく使えていた。


「自分ちよりええんやけど」


 桜子は岩へ背を預けた。

 空を見る。

 知らない星が、少しずつ見え始めている。


「牛乳ないん?」


 壁の向こうから清隆の声がした。


「ないよ」

「そこまで準備してへんのか」

「いる?」

「いや、別に」

「明日持ってくればいい」

「日本戻る前提やん」

「裂け目通ればすぐだけど」

「……もうええわ」


 桜子は湯へ肩まで沈んだ。

 明日戦争になるかもしれない。

 その前夜に、異世界の露天風呂でそんな会話をしている。

 考えれば考えるほどおかしい。

 だから、もう考えなかった。


     ◇


 夜が深くなるにつれて、拠点の明かりは一つずつ減っていった。

 清隆が作った小さな発電設備のおかげで、会議室にも救護所にも照明はある。

 それでも必要以上につけておく者はいなかった。

 雅史のノートパソコンの画面が消える。

 洋一の地図が畳まれる。

 整備された靴が並ぶ。

 救護所の白い寝具は、誰にも使われないまま静かに待っている。

 全員が同じ部屋で眠るわけではない。

 何かあればすぐ動けるようにしながら、それぞれ休める場所を選ぶ。

 明日何が起こるか分からないからこそ、眠れる時に眠る。

 誰かが指示を出したわけでもないのに、一人、また一人と声がなくなっていった。


     ◇


 彰人は、まだ眠っていなかった。

 建物の外へ出て、空を見る。

 日本とは違う星。

 知っている星座はない。

 繋げようとしても、どれも知っている形にはならない。


「……そらそうか」


 小さく呟く。

 そのまま建物の壁へ手をかけ、少し力を入れて屋根へ上がった。

 平らだった。


「清隆、こういうとこは分かってんな」


 斜めなら滑る。

 座る場所を探す必要もない。

 彰人は屋根の端から少し離れたところへ腰を下ろし、遠くを見る。


 何も見えない。

 森がある。

 暗い地面がある。

 そのさらに向こうに、ヴァルネシア軍がいる。


 智臣が確認した。

 雅史が見つけた痕跡とも繋がった。

 だから、見えなくてもいる。


 今、何をしているのだろう。

 眠っている者もいるのかもしれない。

 食事をしている者もいるだろう。

 武器を整えている者。

 家族のことを考えている者。

 明日のことを考えながら、眠れずにいる者。

 その中に、セレスティアもいるのだろうか。


――『また、お会いしましょう』――


 昼間の声を思い出す。


「……どこで会うんやろな」


 返事はない。

 当然だった。


 風が吹く。

 少し冷たい。

 風呂上がりの身体には、それがかえって心地よかった。


 敵がいる。

 戦うかもしれない。

 それなのに、嫌いではない。

 憎くもない。

 向こうにも、こちらを傷つけたくない者がいる。


 だったら、どうすればいい。


 昼間から考えている。

 答えはまだ出ない。

 兄なら、どうするだろう。

 たぶん、考え方そのものが違う。

 傷つけずに止める。

 それで駄目なら、別の方法を探す。

 最後には、全部助ける。

 本人に聞けば、きっと「ええんちゃう?」の一言で終わる。


「……説明せえや」


 誰もいない屋根の上で、彰人は少し笑った。

 その笑いも、すぐ夜へ消える。


 もう一度遠くを見る。

 何も動かない。

 何も聞こえない。

 今日、ここでは戦いは起きなかった。

 十二神承は陣を作り、ヴァルネシアも遠くで軍を集めている。

 互いに相手がいることを知っている。

 それでも、まだ動かなかった。


「……寝よ」


 彰人は立ち上がり、屋根から降りて建物の中へ戻る。

 しばらくして、最後まで残っていた明かりが消えた。


 夜が残る。

 森も、道も、昼間に作られた建物も、遠くにいるはずの軍勢も、すべてを同じ暗さが覆っていた。

 準備は終わっていた。

 こちらも。

 おそらく、向こうも。


 それでも今は、誰も動かず、何も始まらない。

 ただ次の朝が来るまで、静かな夜だけがそこにあった。


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