戦う前に
日曜日の朝。
普段なら人の気配などほとんどない怜司の家には、昨夜から十二人分の靴が残っていた。
最初から泊まる予定だったわけではない。カレーを食べ、明日の確認をして、誰かが帰るタイミングを逃し、それならもう泊まればいいという話になっただけだ。
その結果、朝になっても家の中は静かだった。
正確には、二人だけが起きている。
「怜司さん、そろそろ行きません?」
「行くで」
返事だけなら問題はない。
ただし、怜司はまだ食卓に座っていた。
行人は玄関へ持っていく荷物を一度まとめ終え、忘れ物がないか確認し、スマートフォンで時間まで見た。その間にも怜司は特に急ぐ様子を見せず、残っていた朝食を普通の速度で口へ運んでいる。
「何時に出るつもりですか?」
「食ったら」
「それは見たら分かります」
「ほな大丈夫やん」
「何がですか」
噛み合っているようで噛み合っていない。
行人は諦めたように椅子へ座った。
別に遅刻する約束があるわけではない。現地で誰かと待ち合わせているわけでもなく、今日の目的は昨日確認した違和感の正体を探すことだ。
それでも、これから異世界へ先行する朝としては、あまりにも緊張感がない。
「他の人、起こさなくていいんですか?」
「寝かしといたらええやろ」
怜司は即答した。
彰人もここ数日の疲れが残っているだろうし、雅史は夜遅くまで資料を調べていた。智臣も昨日は朝から動いている。
なら、眠れる時に眠ればいい。
怜司にとっては、その程度のことだった。
「桜子は起きてる気するけど」
「気づいてるんですか?」
「多分」
「声かけなくていいんです?」
「見送られても行くん一緒やで?」
「そういう問題なのかな……」
行人が小さく呟いたところで、怜司は最後の一口を飲み込み、ようやく立ち上がった。
「ほな行こか」
「やっとですか」
「待たせた?」
「待ちましたよ」
「五分くらいやん」
「十五分です」
「誤差やな」
「怜司さんの誤差、広くないですか?」
返事はなかった。
怜司はもう玄関へ向かっている。
行人は一度だけ天井を見上げてから、その背中を追った。
◇
二人が家を出た時、二階のカーテンが僅かに動いた。
怜司は気づかなかったのか、気づいていて何も言わなかったのか、そのまま駐車スペースへ向かう。
黒いインプレッサは、すでに暖機を終えていた。
「いつエンジンかけたんです?」
「飯食う前」
「そこはちゃんとしてるんですね」
「何が?」
「いや、もういいです」
荷物を積み、行人が助手席へ乗り込む。
怜司はポケットからガムを取り出して口へ放り込み、シートベルトを締めた。
それまでの緩い空気が、ほんの少しだけ変わる。
本人の表情は何も変わっていない。
ただ、ステアリングへ手を置いた瞬間から、視線が前へ固定された。
住宅地を抜けるまでは、ごく普通だった。
少なくとも行人にはそう見えた。
加速も穏やかで、信号にも止まる。前を走る車がいれば普通についていき、狭い道では対向車へ道を譲る。
昨日まで何度も見てきた怜司と変わらない。
それが少しずつ変わったのは、町を離れ、山へ近づいてからだった。
一般の道路を外れ、さらに奥へ入る。
舗装は残っているが、もう普通の車が頻繁に通る道ではない。
途中には古いゲートがあり、その先が私有地であることを示す表示が立っていた。
鍵を開けるために一度車を降りた行人が、表示を見上げる。
「やっぱり、ここ私有地なんですね」
「らしいで」
「らしいって」
「持ち主には話通ってるらしいで」
「誰なんです?」
「知らん」
「知らない人の土地に入ってるんですか?」
「大丈夫や言うてたで」
「誰が?」
「洋一」
「……あとで聞きます」
誰の土地なのか。
なぜこんな山の奥の広い土地が、ほとんど使われないまま残っているのか。
気にはなったが、今日確認するべきことではない。
少なくとも私有地であるなら、車を長時間置いていても不自然ではない。一般人が偶然入り込む可能性もかなり低くなる。
行人がゲートを閉め、再び助手席へ戻った。
そこから先だった。
「……怜司さん」
「ん?」
「道、悪くなりましたよね?」
「せやな」
「なんでさっきより速く感じるんですか?」
「気のせいやろ」
気のせいではない。
速度計を見ることはやめた。
数字を確認したところで、たぶん納得できない。
路面は狭く、ところどころ落ち葉が溜まり、舗装の端には草が伸びている。緩い登りと下りを繰り返しながら、見通しの悪い曲線が続いていた。
普通なら慎重になる場所のはずだった。
なのに車体は暴れない。
急な操作もない。
タイヤが悲鳴を上げることもなく、身体が左右へ乱暴に振られることもない。ただ、次の曲がり角が来て、それを抜けたと思った時にはもう次の景色が正面にある。
怜司の手も忙しくは見えなかった。
ステアリングを必要なだけ動かし、必要な場所でペダルを操作する。それだけなのに、道の方が車へ合わせて形を変えているような妙な感覚がある。
行人はしばらく黙っていた。
喋っていると、自分だけがおかしいことを言い出しそうだった。
何度目かの曲線を抜けたところで、前方が開ける。
見覚えのある場所だった。
「着いたで」
「……怜司さん」
「ん?」
「今の、何ですか」
「山道やろ?」
「道の話してないです」
「?」
本当に分かっていない顔をされた。
行人はシートへ身体を預けた。
「彰人さんが苦労する理由、ちょっと分かった気がします」
「なんで彰人?」
「何でもないです」
◇
裂け目は、昨日と変わらずそこにあった。
周囲に人影はない。
怜司は車を邪魔にならない位置へ寄せると、先に外へ出た。行人も続き、荷物を背負う。
私有地のさらに奥。
木々に囲まれた空間へ、そこだけ現実の繋がり方を間違えたような境界が存在している。
怜司は少し離れた場所から眺め、それから周囲へ視線を動かした。
「変わってへんな」
「向こう側は?」
「行ってみたら分かるやろ」
「ですよね」
二人は境界を越えた。
空気が変わる。
もう何度か経験している。それでも世界そのものが切り替わる感覚には、まだ完全には慣れない。
行人は周囲を確認した。
誰もいない。
昨日までは兵士の姿を見ることもあった。ヴァルネシアがすでに戦争の準備を始めているなら、裂け目そのものを押さえていてもおかしくない。
「いませんね」
「おらんな」
「逆に変じゃないですか?」
怜司も同じことを考えていた。
戦うつもりなら、出口は重要なはずだ。
ただし。
「ここに固まったら、危ないんちゃう?」
「誰にとってです?」
「向こう」
怜司は裂け目を振り返った。
「俺らがどこから出てくるか、向こうも知ってるやろ」
「ああ……」
行人にも意味が繋がる。
裂け目は動かない。
ヴァルネシアから見れば、日本側から来る十二神承が必ず通る場所でもある。そこへ大勢の兵を集めれば、防衛拠点になると同時に、極端に分かりやすい標的にもなる。
まして、彼らはすでに十二神承の一部がどれほどの力を持つか知っている。
「離れたところから見てる可能性はありますね」
「あるやろな」
『ある』
低い声が、すぐ横から割り込んだ。
行人が振り向く。
白金の巨体が、いつからそこにいたのか分からないほど自然に立っていた。
「うわっ」
『何だ』
「いや、急に出てこないでもらえます?」
『呼ばれたから来ただけだ』
「俺呼んだ?」
『呼んでいない』
「ほな誰?」
『我が来ようと思った』
「自由やな」
『お前に言われたくない』
行人は二人を交互に見た。
もう慣れたつもりだった。
神獣と人間が普通に会話している光景にも。
ただ、この二人は会話が成立しているのか時々分からなくなる。
「向こうから見られてると思う?」
行人が訊くと、白金の獅子は森の向こうへ顔を向けた。
『可能性はある。少なくとも、あれほどの国が境界を完全に放置するとは思えぬ』
「やっぱそうですよね」
『だが近くにはいない』
「分かるん?」
『気配がない』
「便利やな」
『お前は我を何だと思っている』
「でっかい神獣」
『……前より僅かに改善したな』
「褒められた」
『褒めていない』
そこへ、今度は上から声が落ちてきた。
『朝から賑やかですね』
行人が顔を上げる。
羽ばたきの音とともに、炎を思わせる色彩が降りてきた。
「カグラ」
『お待たせしました、行人』
「いや、今来たところ」
カグラが地面へ降りる。
白金の獅子は、その姿を一度上から下まで眺めた。
『鳳凰か』
『獅子ですね』
『見れば分かる』
『こちらもです』
「仲悪いん?」
『なぜそうなる』
『普通に挨拶をしただけですが』
「ほなええか」
「いいんですか、それで」
行人が訊いたが、怜司はすでに次のことを考えているらしい。
「これ、全員乗れる?」
『二人程度なら問題ありません』
カグラが答える。
怜司が白金の獅子を見る。
「お前どうする?」
『乗る』
「即答やん」
『何か問題があるのか』
「飛べるん?」
『なぜ我が飛ぶ必要がある』
「カグラの上やから聞いてんねん」
『落ちなければよい』
『私としては、暴れなければ構いません』
『暴れぬ』
「俺より素直やな」
『比較するな』
行人は額へ手を当てた。
「……これ、全員揃ったら、収拾つかなくなりません?」
『今さらでは?』
カグラに言われた。
「神獣に言われた……」
「ほな行こか」
「怜司さんは気にしないんですね」
「何を?」
「もういいです」
◇
高度が上がるにつれ、地上の形が変わっていった。
森は一つの塊になり、道は細い線へ変わる。さらに上がれば、集落と畑の境目さえ曖昧になった。
行人はカグラの背から下を見る。
昨日まで地上を歩いて見ていたエーテリアが、初めて一つの世界として広がっていた。
そこには町がある。
道がある。
人が暮らしている。
これから戦う相手の国だと考えれば、地図の上に置かれた敵地になる。
だが、上から見れば違った。
煙の上がる家があり、畑があり、遠くには小さな村も見える。そこにいる人間のほとんどは、日本という国を見たことすらないはずだった。
「行人」
「はい」
「そっちちゃう?」
怜司が指した。
行人には何も見えない。
「分かるんですか?」
「なんとなく」
『怜司の感覚だけではない』
白金の獅子も同じ方向を見ていた。
『あの辺りだけ、存在の重なり方が異なる』
「存在の?」
『上手く言葉にはできぬ』
『私にも、少し分かります』
カグラの声が続いた。
『生き物の気配とは違います。ただ、何もない場所でもありません』
行人は二体の神獣が見ている方向へ目を凝らした。
何も見えない。
それでも。
そこに何かがいる。
二人ではなく、四者が同じ方向に違和感を持っているなら、昨日までより確度は高い。
「近づいてください」
『分かりました』
カグラが高度を落とし始めた。
怜司は黙ったまま下を見ている。
行人も目を逸らさない。
森の中。
地形だけなら何の変哲もない場所だった。
だが近づくほど、妙な感覚が強くなる。
見えているのに、見つけられない。
そこに何かがあるはずなのに、視線を向けるたび、意識だけがその場所を避けようとする。
「……ここですね」
「せやな」
カグラが地面へ降りる。
行人は慎重に近づいた。
昨日、怜司が言った。
寝ているようなものもいる。
なら、無理に起こすべきではない。
ただし、こちらが存在していることを伝えるだけなら。
「聞こえますか」
返事はない。
風が木々を揺らした。
行人は待つ。
何も起きない。
それでもすぐには次の言葉を重ねなかった。
相手が人間とは限らない。言葉を音として認識するとも限らない。
なら、自分がここにいることだけを示す。
敵意はない。
害するつもりもない。
ただ知りたい。
その意識を、できるだけ単純な形へ整える。
そして。
何かが変わった。
音ではない。
光でもない。
目の前の景色そのものも変わっていない。
なのに、それまで自分たちの存在など認識していなかった何かが、ほんの僅かにこちらへ意識を向けた。
行人は息を止めた。
「怜司さん」
「うん」
「今……こっちを見ました」
怜司も同じ場所を見ていた。
「見たな」
◇
黒いインプレッサがゲートの向こうへ消えてから、桜子はカーテンを閉めた。
「行ったか」
時計を見る。
まだ起こすには早い。
特に三人。
彰人はここ数日の疲れがあるし、雅史は寝不足。智臣も今日運転する予定なら、できるだけ休ませた方がいい。
桜子は階段を下りた。
全員が寝ていると思っていたが、一階へ着くとすでに人の気配があった。
「おはようございます」
「洋一起きとったん?」
「ええ。少し前に」
洋一は昨日まとめた資料を確認していた。
その近くでは、清隆もすでに地図を広げている。
「清隆もかいな」
「起きた」
「寝たん?」
「寝たよ」
「何時間?」
「必要なだけ」
「雅兄と同じこと言い出したら強制的に寝かすで」
「大丈夫」
本当に大丈夫かは分からない。
桜子は冷蔵庫から水を取り出した。
「彰人らは?」
「寝かせとく。十時くらいまではええやろ」
「僕もその方がいいと思います」
洋一が頷く。
「智臣には運転してもらう可能性がありますし、昨日は飲んでいませんから問題ないでしょうけど、睡眠は取っておいた方がいいです」
「雅兄は?」
「昨夜も何か読んでいました」
「アホやな」
「姐さんには言われたくないと思うよ」
いつの間に起きたのか、優斗が廊下から顔を出した。
「おはよ」
「おはようございます」
「飯ある?」
「あるで」
「じゃあ食べよ」
そこからは早かった。
良澄が起き、少し遅れて智希と恭平も加わる。
誰かが号令をかけたわけでもないのに、朝食を済ませた者から昨日まとめた荷物を確認し始めた。
救護用品を見る良澄。
通信機器を確認する優斗。
智希と恭平は地図を覗き込みながら、敵が防衛線を抜けた場合に追える場所を探している。
その中心で、清隆だけが別の紙へ線を書き続けていた。
「何書いてんの?」
桜子が覗き込む。
「向こう側の地形」
「覚えてんの?」
「大体」
「それで何作るん?」
「道」
「道?」
「敵が通る道」
桜子が眉を寄せる。
「敵用なん?」
「うん」
清隆は紙の上へ三本の線を引いた。
「広い場所で好きに動かれるより、動きやすい場所をこっちで作った方がいい。人は通りやすい方へ行くから」
「塞ぐんちゃうん?」
「全部塞ぐと壊そうとするだろ。だったら通れるように見せる」
優斗も覗き込む。
「あー。誘導するんだ」
「そう」
「嫌な罠だね」
「罠じゃないよ」
「通る場所決められてる時点で罠じゃない?」
「選べるよ」
「選択肢を清隆が作ってるけどね」
清隆は少し考えた。
「じゃあ罠かも」
「認めた」
洋一はその会話を聞きながら地図を見る。
清隆が考えているのは、単に敵を止める壁ではない。
敵がどこへ進み、誰と接触し、もし抜けたならどこへ流れるのか。そこまで含めて地形そのものを配置し直そうとしている。
戦場を作る。
言葉にすれば物騒だが、その目的は戦いやすくするためではない。
殺さずに止めるためだ。
「桜子さんの位置は?」
洋一が訊いた。
「最後」
清隆が地図の裂け目に近い一点を指す。
「ここ」
桜子も見る。
「うちが抜かれたら日本?」
「そうなる」
「ほな通さんかったらええだけやろ」
軽い。
だが洋一には、その言葉を軽く受け取れなかった。
桜子なら止められる。
だから最後へ置く。
理屈としては正しい。
しかし、それは最後の責任を一人へ預けることでもある。
「桜子さんだけに任せるつもりはありません」
「分かっとるって」
桜子は手元の麦茶を一口飲んだ。
「洋一、そういう顔するからな」
「どんな顔ですか」
「全部自分で持とうとする顔」
「……あなたに言われたくありませんね」
「なんでや」
「最後の壁になる人が言うことではないでしょう」
「でも止められるで?」
「止められるかどうかだけで配置を決めているわけではありません」
桜子が少しだけ笑う。
「ほな、お互い様やな」
洋一は返す言葉を探したが、見つからなかった。
◇
十時を少し過ぎた頃。
「起きろー」
桜子が部屋の襖を開けた。
「……うるさ」
最初に反応したのは彰人だった。
「十時やで」
「まだ十時やん……」
「もう十時や」
「日曜やぞ……」
「戦争前やぞ」
「急に重いこと言うなや……」
布団の中から声だけ返ってくる。
その隣では雅史がゆっくり身体を起こし、智臣は一度時計を見てから顔を手で覆った。
「寝たな……」
「寝ましたね」
「雅史、何時まで起きてた?」
「そんな遅くないよ」
「何時だ」
「……二時くらい」
「遅いだろ」
「智兄も起きろ」
「起きてる」
「目ぇ閉じとるやん」
「今開ける」
桜子は三人を見回した。
「飯食って準備。今日は自分ら、前、見に行くんやろ」
その言葉で、彰人の目が開いた。
昨日までなら、ただの偵察だった。
今日は違う。
前線になるかもしれない場所を見る。
そして、その先には。
「……分かった」
彰人は身体を起こした。
◇
現地へ向かった車は三台だった。
良澄のレガシィ。
洋一のパナメーラ。
智臣のCLS。
どれも黒い。
駐車場所へ三台並んだところで、優斗が少し離れて眺めた。
「……黒いね」
「何が?」
良澄が訊く。
「車」
「そうだね」
「全部」
「そうだね」
「合わせたの?」
「まさか」
洋一も自分の車と他の二台を見比べた。
「偶然ですね」
「偶然でこうなる?」
「俺のも黒やで」
彰人が言う。
「ニイさんのも」
智希が続ける。
「……怖い集団みたいになってない?」
行人がいれば突っ込んだかもしれない。
しかし今はいない。
全員が少し考えたあと、清隆だけが言った。
「汚れが目立つね」
「気にするとこそこ?」
優斗が笑った。
◇
裂け目を越えても、ヴァルネシア軍の姿はなかった。
だが、完全に放置されているわけでもない。
智臣が最初に森の一角へ顔を向けた。
「見られてるな」
「どこ?」
彰人が訊く。
「遠い。今すぐ来る感じじゃない」
位置を言わない。
言う必要がないのだろう。
洋一はそれだけで十分だと判断した。
「こちらも予定通り進めましょう」
清隆が前へ出る。
「リンゼン」
『分かっている』
穏やかな声とともに、麒麟が姿を現した。
初めて見る者はいない。
それでも清隆と並んだ姿を見ると、妙な納得があった。
似ている。
見た目ではない。
落ち着いていて、必要なことだけを考え、本人たちなりには極めて合理的に動いている。
問題は、その合理性の範囲が普通の人間より広いことだった。
「昨日話した通りで」
『よい。地の流れも確認した』
「大きく変えすぎないようにしてください」
洋一が先に釘を刺す。
清隆が振り返った。
「必要な範囲だけだよ」
『不要な改変は避けるべきだ』
「そうしてください」
『無論だ』
まともだ。
洋一は少し安心した。
その数分後には、その安心を撤回することになる。
清隆とリンゼンが地形を読み、必要な場所だけへ力を通す。
地面が轟音とともに割れるようなことはない。
むしろ変化は静かだった。
緩かった斜面の一部が僅かに持ち上がり、別の場所では土が均される。森そのものを破壊せず、木々の間を縫うように人が進みやすい線が作られていく。
通れなくするのではない。
通りたいと思う場所を作る。
清隆の意図が地形へ反映されるほど、洋一にも全体像が見えてきた。
敵が大人数で来れば、自然に隊列が分かれる。
その先で十二神承が受ける。
抜けた者は別の道へ流れ、智希と恭平が追える。
負傷者を運ぶ経路は戦闘線と交差しない。
優斗が上空から見れば、全体を把握しやすい。
そして最後には桜子がいる。
「……よく考えていますね」
「昨日考えたから」
『清隆は夜も考えていた』
「寝た言うたやん!」
桜子が即座に反応した。
「寝たよ」
『考えながら寝ていた』
「それ寝てへんやろ!」
「寝てた」
『身体は休んでいた』
「リンゼン、お前どっちの味方やねん」
『事実を述べただけだ』
清隆とリンゼンが揃って不思議そうな顔をする。
洋一は額へ手を当てた。
「似ていますね、二人」
「そう?」
『そうだろうか』
「その反応までです」
さらに地形を整えていたリンゼンが、不意に足を止めた。
『清隆』
「何?」
『下に水がある』
清隆の目が少し変わった。
洋一は嫌な予感がした。
「地下水?」
『そうだ。ただし温かい』
「どれくらい?」
『人が身体を浸すには適温に近い』
清隆が黙った。
洋一は先に言った。
「清隆」
「まだ何も言ってないよ」
「言う前に止めています」
「でも水は必要だろ?」
「飲用に適するか確認が先です」
『これは飲用には向かぬ』
「ほら」
「何が、ほら、なんですか」
『だが身体を温める用途には適している』
「リンゼン?」
『負傷者の低体温を防ぐ用途にも使える。長期滞在時の衛生設備としても有用だ』
「そうだね」
「二人で話を進めないでください」
清隆が地面を見る。
「浴槽くらいならすぐ作れる」
「なぜ浴槽になるんですか」
「お湯が出たから」
「理由になっていません」
『湯を溜めるなら器は必要だ』
「リンゼンは少し黙っていてもらえますか?」
『なぜだ』
「話が進むからです」
「進んだ方がいいんじゃない?」
「そっちではありません!」
洋一の声が少し大きくなった。
珍しい。
桜子は面白そうに眺めている。
「ええやん。風呂あったら」
「桜子さんまで」
「何日おるか分からんのやろ?」
「それはそうですが」
「汗かくやろ?」
「かくでしょうね」
「怪我人も出るかもしれへん」
「その可能性はあります」
「ほな要るやん」
「なぜ皆さん、そこだけ連携がいいんですか」
優斗も笑いながら手を上げた。
「僕もあった方が嬉しいかな」
「良澄は?」
「衛生面を考えるなら、使えるお湯があるのは助かるね」
「智希?」
「入りたい」
「恭平?」
「普通にいいと思うっす」
洋一は最後の望みを託すように彰人を見た。
「俺に振んなや」
「彰人はどう思います?」
「……まあ、あったら入るけど」
「全滅ですか」
清隆が頷いた。
「じゃあ作るね」
「待ってください。作るなとは言っていません。規模の話をしています」
「必要な大きさにするよ」
『十二人が使用できれば十分だろう』
「同時に十二人入る必要はありません!」
リンゼンが清隆を見る。
『そうなのか』
「男女いるからね」
『なるほど』
そこで初めて、桜子が反応した。
「いや待て」
全員がそちらを見る。
「さすがにその辺で脱ぐんはアカンやろ」
洋一が少し安心した。
ようやく常識的な意見が出た。
「その通りです。ですから――」
「脱衣所も作って」
「あなたの分ですか!?」
「当たり前やろ。うちも入るで?」
清隆が頷く。
「分かった」
『外部から視線が通らぬ壁も必要だな』
「お願いします」
「話を進めないでください!」
「なんでや。洋一も入ったらええやん」
「そういう問題ではありません!」
結局。
戦場になるかもしれない場所に、防衛拠点とともに浴槽が作られることになった。
理由だけを並べれば、どれも間違ってはいなかった。
だからこそ洋一には止めづらかった。
◇
地形の調整が一段落した頃、彰人、雅史、智臣の三人が前へ出た。
ここから先は偵察になる。
「三方向ですね」
雅史が確認する。
「はい。ただし完全に別行動にはしません」
洋一が答えた。
「何かあればすぐ戻ってください。深追いは不要です」
「分かった」
「了解」
「おう」
三人が別れる。
その背中を見ながら、清隆は何も説明しなかった。
説明する必要がないと思っているのかもしれない。
◇
雅史は歩き始めて間もなく、足を止めた。
最初は偶然だと思った。
清隆が作った経路は、他の場所と比べて地形の変化が少ない。
進みやすくはなっている。
だが、地面そのものにはほとんど手を入れていない。
理由は少し進めば分かった。
「……そういうことか」
古い足跡が残っている。
人が何度も通った場所では草の生え方が違い、荷を運んだらしい場所には地面の沈み方にも差がある。
昨日までの痕跡。
もっと前から使われていた痕跡。
それらが消されずに残っていた。
清隆は、雅史がここを見ると分かっていた。
雅史はしゃがみ込み、土へ触れた。
軍隊の動きを直接見た経験などない。
だから断定はしない。
自分が知っているのは、過去に人間が同じような状況で何をしたかだ。
国境。
防衛線。
撤退路。
侵攻前の集結。
歴史上、それらには繰り返される形がある。
もちろん、世界が違えば同じとは限らない。
魔術が存在する。
種族も違う。
軍制も違う。
それでも、人が集団で動く以上、食料を運び、人を移動させ、情報を届ける必要は消えない。
「ここを使わなくなったのは……最近かな」
古い通行跡はある。
だが新しいものが少ない。
裂け目に近い場所から兵を引いた。
そう考えれば、怜司たちが朝に推測したこととも繋がる。
固定された境界のすぐ前へ兵を置くのではなく、距離を取って監視する。
十二神承が現れれば、その動きを見てから対応する。
もしそうなら。
「攻めるために空けたんじゃない」
雅史は立ち上がった。
「怖いから空けた可能性もある」
それなら意味が変わる。
ヴァルネシア軍は、十二神承を倒せると思って進軍してくるわけではないかもしれない。
怖い。
勝てないかもしれない。
それでも行かなければならない理由がある。
昨日まで調べていた資料が頭へ戻る。
土地を失う。
国を維持できない。
住民を養えない。
追い詰められた国が合理的な判断だけをするとは限らない。
むしろ、合理的ではないと分かっていても進まざるを得ない場合がある。
「……だとすると」
止めるだけでは終わらない。
それはすでに分かっていた。
だが、目の前の痕跡は、その結論をもう一度現実へ引き戻した。
雅史は周囲を確認し、次の痕跡へ向かった。
足元には、清隆が残した過去がそのまま続いていた。
◇
智臣の道は、逆だった。
「……なるほどな」
歩くほど高くなる。
急坂ではない。
清隆が作ったとは思えないほど自然な傾斜で、気づけば周囲を見渡せる位置へ導かれていた。
智臣はそこで止まった。
右に森。
左に緩い谷。
正面には遠くまで続く道。
後方には裂け目のある方向。
全部が一度に入る。
「分かってるじゃないか」
誰に言うでもなく呟いた。
個々の痕跡を追うなら雅史の方が向いている。
智臣が見るのは、それらが今どこにあり、次にどう動くかだ。
目を閉じる必要はない。
意識を広げると、風に揺れる草の中へ一箇所だけ異なる動きが混じり、その先では鳥がまとまって飛び立っていた。
人がいる。それも一人ではない。
こちらへ来てはいない。
さらに別方向。
木々の間に、僅かな空白が移動している。
「三……いや、二か」
片方は人ではない。
動物。
もう一つは人。
距離を保っている。
監視。
朝の怜司たちの推測は、ほぼ正しい。
ヴァルネシアは裂け目を捨ててはいない。
近くへ兵を置いていないだけだ。
智臣はさらに意識を広げた。
今いる者だけではない。
もしあの位置から報告が飛べば。
次に誰が動く。
どの道を使う。
どれくらいでここへ来る。
未来を見るわけではない。
今ある配置を読めば、次に起こりやすいことが分かるだけだ。
森の向こう。
さらに遠い場所に、人の集まりがある。
軍の本隊かは分からない。
ただ、こちらへ向けて動いてはいない。
「まだ来ないな」
少なくとも今すぐ戦闘にはならない。
智臣はそれを確認すると、後ろを振り返った。
清隆が作った道が見える。
ここからなら、もし誰かが横を抜けても分かる。
そして自分が戻る時には、最短で中央へ合流できる。
「全部考えてたか」
少し笑う。
今度、本人に聞いてみよう。
おそらく清隆は、
――必要だったから。
それだけ言う。
リンゼンまで横で頷くところまで想像できた。
◇
彰人の道だけは、最初から意味が分かりやすかった。
左右に地形の起伏がある。
視界は正面へ抜けている。
もし何かが来るなら、まず自分と向き合う。
横へ逸れようとすれば、自然に別の経路へ流れる。
「俺だけ露骨やな」
彰人は小さく笑った。
清隆が何を考えたか分かる。
何か来たら受けろ。
見ろ。
分からなければ、一度受けてから考えろ。
「信用されてんのか雑なんか分からんな」
そう呟きながら歩く。
だが嫌ではなかった。
自分にできることを分かった上で置かれた場所だ。
しばらく進んだところで、彰人は足を止めた。
人の気配がする。
一人ではない。
先に見えたのは、空だった。
翼を広げた影が上空を横切り、少し離れた場所へ降りる。
フィルネ。
その姿を認識した瞬間、彰人の胸の奥に別の名前が浮かんだ。
そして。
木々の間から、その本人が現れた。
『……彰人さん』
声を聞いた瞬間、昨日までの時間が一気に戻ってきた。
王都。
車の中。
魔術の話。
星堕とし。
ヴァルネシアが置かれている状況。
戦いたくないと言った彼女。
それでも自分の国を捨てられない彼女。
「セレスティアさん」
名前を呼ぶ。
それだけなのに、昨日とは違った。
今日は互いに、次に何が起きるか知っている。
フィルネは二人を見た。
彰人。
セレスティア。
それから何も言わず、翼を広げた。
『周囲を確認してまいります』
『フィルネ?』
『この先を』
一瞬だけ彰人を見る。
その目に、僅かな笑みがあったような気がした。
そのまま飛び立つ。
明らかに気を遣われた。
「……分かりやす」
『何がでしょうか』
「いや。なんでもないです」
セレスティアもたぶん分かっている。
ただ、触れないことにしたらしい。
二人の間に沈黙が落ちる。
昨日までは、分からないことがいくらでもあった。
だから聞けばよかった。
魔術とは何か。
ヴァルネシアとはどんな国か。
星堕としとは何か。
知らないことが、会話を作ってくれた。
今は違う。
聞きたいことはある。
けれど、どこから聞けばいいのか分からない。
『日本の方々は』
先に口を開いたのはセレスティアだった。
『やはり、ここへ来られたのですね』
「はい」
『戦うために?』
彰人は少しだけ考えた。
「止めるために」
セレスティアの目が僅かに揺れる。
「俺ら、誰も殺す気ないです」
『……それは』
「無理やって言いたい?」
『いいえ』
セレスティアは首を振った。
『あなた方なら、本当にそうしようとするのでしょう』
「しようとはします」
『できると?』
「そこは、やってみんと分からんです」
彰人は苦く笑った。
「でも、最初から殺すつもりでやったら、絶対そうなるから」
だから不殺にした。
甘いと言われてもいい。
現実を見ていないと言われてもいい。
それでも、相手を殺して守る方法を選ぶ前に、できることがある。
セレスティアはしばらく黙っていた。
『私は』
声が少しだけ弱くなる。
『止めたいと思っています』
「はい」
『ですが、私が止めると言うだけでは、ヴァルネシアの民は救われません』
「……はい」
否定できない。
だから彰人も軽い言葉を返さなかった。
『この世界と日本を繋いだのは、私です』
「事故やったんですよね」
『結果は変わりません』
「変わりますよ」
『彰人さん』
「責任ないとは言ってないです」
彰人は一度息を吐いた。
ここを間違えたくなかった。
彼女が背負っているものを、簡単に「あなたは悪くない」で消したくはない。
セレスティア自身が、それを望んでいない。
「セレスティアさんがやったことの結果で、今こうなってる。それはそうやと思います」
『……はい』
「でも」
昨日、兄が言ったことを思い出す。
あまりにも簡単に。
本人にとっては当たり前のこととして。
「一人で全部持つ必要ないでしょ」
セレスティアが彰人を見る。
「兄貴がな」
少し笑った。
「全員助ける言うてんねん」
『全員……?』
「日本も。そっちも」
セレスティアは何も言わなかった。
「アホみたいでしょ」
『……少し』
「俺もそう思います」
彰人は笑う。
「でも兄貴、ああいう時は絶対曲げへんから」
『怜司さんらしいですね』
「もう分かるんですか?」
『少しだけ』
「俺より分かってたりして」
『それはないと思います』
「ですよね」
ほんの少しだけ、昨日の空気に戻った。
そのことが逆に苦しい。
明日。
あるいは今日のうちに。
この相手と戦うかもしれない。
『次に会う時は』
セレスティアが言った。
続きを聞かなくても分かった。
「そうですね」
『私は、あなた方の前に立つかもしれません』
「はい」
『それでも私は』
言葉が止まる。
彰人は待った。
『あなたを傷つけたいとは思いません』
胸の奥が僅かに詰まった。
同じだった。
「俺もです」
だから困る。
嫌いなら簡単だった。
敵だから戦う。
相手が悪いから倒す。
それだけなら、考える必要もない。
けれど、目の前にいるのはもう「敵国の三柱」ではない。
昨日一日話した。
同じ車に乗った。
分からないことを一緒に考えた。
少し笑った。
その記憶をなかったことにはできない。
「でも」
彰人はセレスティアを見る。
「来たら止めます」
『……はい』
「セレスティアさんでも」
『はい』
彼女は僅かに笑った。
悲しそうにも見えた。
安心したようにも見えた。
『それでいいと思います』
「いいんですか?」
『あなたがそう言ってくれた方が』
少しだけ間が空く。
『私は、安心できます』
彰人には、その意味をすぐには理解できなかった。
自分が止めると言ったことが。
戦うと言ったことが。
なぜ安心に繋がるのか。
それでも。
たぶん今は、全部を理解しなくていい。
「ほな」
彰人は少しだけ笑った。
「次会った時も、ちゃんと話しましょう」
『戦場であっても?』
「話せるなら」
『……あなた方は不思議ですね』
「兄貴と一緒にせんといてください」
『怜司さんの名前は出していません』
「……そうやった」
セレスティアが笑った。
今度は、はっきり分かった。
昨日と同じ笑い方だった。
遠くで翼の音がする。
フィルネが戻ってくる。
時間が終わる。
二人ともそれを理解した。
『彰人さん』
「はい」
『また』
そこでセレスティアは一度言葉を止めた。
『また、お会いしましょう』
「はい」
次がどこになるかは言わない。
言えない。
彰人はその場に残り、セレスティアとフィルネが遠ざかっていく姿を見送った。
敵になるかもしれない。
それでも、敵とだけ呼ぶことはもうできなかった。
止める。
傷つけない。
そして、その先でもう一度話す。
どれも簡単ではない。
それでも。
彰人は二人の姿が見えなくなるまで、その場所から動かなかった。




