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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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11/37

いつもの土曜日

 目を覚ました瞬間、彰人は、もう一度眠ることを考えた。

 考えたというより、身体がそうしろと言っていた。

 目を開けた途端、カーテン越しの朝の光がやけに白く感じられた。直接差し込んでいるわけでもないのに、瞼の裏まで明るい。

 頭の奥では、脈を打つたびに鈍い痛みが広がっている。

 枕元へ置いたスマートフォンを手探りで掴む。

 時刻だけ確認しようとして画面を点けた。


「……あかん」


 すぐに伏せた。

 光が刺さる。

 昨日、そこまで飲んだつもりはなかった。

 怜司、雅史、智臣と四人で小さな店に入り、昔の話をした。

 道場で叱られている最中に怜司がカレーの話を始めたこと。

 それを聞いた自分まで笑ってしまい、結局一緒に怒られたこと。

 そんな昔の話で笑ったあと、いつの間にか話題はヴァルネシアへ移っていた。

 向こうを日本へ入れないこと。

 それでも、向こうを見捨てるつもりもないこと。

 何を話したのかは覚えている。

 店を出たことも。

 帰宅したことも。

 風呂に入り、寝る前に水を飲んだことまで覚えている。

 記憶を飛ばすような飲み方ではなかった。

 それなのに朝になると、頭だけが律儀に昨日の分を請求してきた。


「……こんなんやったっけ」


 身体を起こそうとして、途中でやめる。

 吐き気が強いわけではない。

 胃がひっくり返るような感じもない。

 ただ、頭が痛い。

 横になっている分には我慢できるものが、身体を動かすと遅れて追いかけてくる。

 今日は土曜日だ。

 学校へ行く必要はない。

 少しくらい、このままでいてもいい。


 そう決めた直後。

 枕元のスマートフォンが震えた。


「……」


 無視する。

 震動は数秒で止まった。

 静かになる。

 目を閉じたまま、ゆっくり息を吐く。

 もう一度眠れる。

 そう思った頃に、また震えた。


「誰やねん……」


 片手だけを伸ばす。

 今度は画面を顔から遠ざけ、眩しくない角度で確認した。


 怜司。


 名前を見た時点で、嫌な予感がした。

 少し迷う。

 無視しても、おそらくまた掛けてくる。

 そう考え、彰人は通話へ切り替えた。


「……何」

『起きてた?』

「今起こされた」

『起きたんやったらええやん』

「よくないわ……」


 声を出しただけで、頭の奥がわずかに重くなる。

 それに対して、電話の向こうにいる怜司はいつも通りだった。

 昨日、一緒に店を出た人間とは思えない。


『何してんの?』

「寝てる」

『起きてるやん』

「兄貴」

『ん?』

「朝から腹立つこと言うな」

『何で怒ってんの?』


 本当に分かっていない。

 怜司は酒を飲んでいない。

 最初から最後までジンジャーエールだった。

 その差が、そのまま今の体調の差になっている。


「……頭痛いねん」

『風邪?』

「酒や!」


 思わず声を張った。

 直後。

 頭の奥で痛みが一段強くなる。


「っ……」


 彰人は額を押さえた。

 自分で自分へ追い打ちをかけたようなものだった。


『大丈夫?』

「誰のせいや思てんねん……」

『自分で飲んだんちゃうん?』

「正論言うな」


 今度は意識して声量を抑えた。

 怜司に腹を立てても、自分の頭が痛くなるだけだ。


「……で、何?」

『腹減ったから、なんか食いに行かへん?』

「一人で行け」

『うどんとか』

「いらん」

『蕎麦』

「いらん」

『カレー』


 彰人は数秒黙った。

 昨夜。

 店で話題に出たのもカレーだった。


「兄貴」

『何?』

「今カレーの話したら切るで」

『もうしたやん』

「切るわ」

『ちょ――』


 通話を終えた。

 静かになる。

 何だったのか。

 本当に飯へ誘いたかっただけなのだろう。

 昨日、あれだけの話をして、近いうちにヴァルネシアと向かい合うことになると分かっていても。

 朝になれば腹が減る、だから飯を食いに行こうと思う。

 怜司にとっては、その二つが矛盾しない。


「……元気すぎんねん」


 彰人は小さく呟いた。

 昨日の夜、店の中から見た普通の街を思い出す。

 客がいて、店員がいて、誰かが笑っていた。

 あそこへ向こうの兵を入れたくない。

 それについては、四人とも同じだった。

 だから止める。

 止めるための準備は、今日から始まる。

 それでも朝だけは、こうして普段と変わらない。

 そのことが妙に不思議だった。


 再び枕へ顔を埋めようとした時、玄関の方から音がした。

 インターホンではない。

 鍵が回る音。

 扉が開く。

 彰人は目を閉じたまま、眉だけを寄せた。

 家族以外でこの家の鍵を持っている人間は限られている。

 誰なのか、大体分かった。

 廊下を歩く、遠慮のない足音が近づく。

 少しして、部屋の扉が開く。


「生きてる?」

「……死んでる」

「喋ってるやん」


 桜子だった。

 片手にはコンビニの袋を提げている。

 部屋へ入ると、桜子はまず彰人の顔を見た。

 布団から出ている部分だけでも、状態は大体分かったらしい。


「思ったより死んでるな」

「何しに来てん」

「怜司から連絡きた」


 その名前を聞いて、彰人は片目だけ開けた。


「……何て?」

「彰人が死んでるかもしれんから見てきてって」

「殺す」

「元気やん」


 桜子は笑った。

 そのままベッドの横まで来る。

 コンビニの袋を机へ置き、中から水とスポーツドリンク、それにインスタントの味噌汁を取り出した。

 妙に手際がいい。

 彰人の家へ入ることも、ここで何かを探すことも、今さら迷うような関係ではなかった。

 桜子はベッド脇へ腰を下ろさず、少し離れたところから彰人の顔を覗き込む。

 顔色そのものは、そこまで悪くない。

 ただ、眉間には皺が寄り、光を嫌うように目が細くなっている。


「どれくらい飲んだん?」

「普通」


 彰人は布団の中で身体の向きを変えた。

 それだけの動きでも、頭の奥へ鈍い痛みが追いかけてくる。


「普通でそれなん?」

「久しぶりやったからやと思う」


 桜子は納得したような、していないような顔で彰人を見る。

 昨夜の四人のうち、酒を飲んでいない怜司を除けば、朝から一番酷いのは彰人らしい。


「智兄は、ちょっと頭痛いくらいやって」


 彰人は枕へ頬を押しつけたまま、視線だけを桜子へ向ける。


「何で先に智臣さんに連絡してんねん」

「暇やったから」


 桜子はさらっと答え、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 画面にはいくつかやり取りが残っている。

 どうやら彰人の家へ来る前に、本当に何人かへ連絡していたらしい。

 文句を言おうとして、彰人はやめた。

 声を張れば損をするのは自分だ。


「雅史さんは?」

「寝不足らしいで」

「酒関係ないやん」

「帰ってから、またなんか調べてたみたい」


 その言葉を聞いた瞬間。

 彰人の意識が少しだけ昨夜へ戻った。

 店を出る前。

 雅史は酔っていても、考えることだけはやめていなかった。

 止める。

 助ける。

 どちらかを選ぶのではなく、両方やる。

 ヴァルネシア軍を追い返したところで、向こうの問題が解決するわけではない。

 雅史なら、帰った後もその続きを考えていて不思議ではなかった。


「…寝たらええのに」

「彰人が言う?」

「俺は寝た」

「寝た結果それやん」

「うるさい」


 桜子は小さく笑う。

 机の上へ置いていたスポーツドリンクを掴んだ。


「ほら」


 軽く放る。

 彰人は布団から片手だけを出し、反射的に受け取った。

 少し冷たいペットボトルが掌へ収まる。


「乱暴やな」

「受け取れてるやん」

「病人やで」

「二日酔いや」

「似たようなもんやろ」

「違うわ」


 桜子は窓際へ向かった。


「窓開けるで」

「カーテンは開けんといてや」

「分かってる」


 窓だけを少し開ける。

 外から入ってきた空気は、夏の朝ほど湿っていなかった。

 九月の終わり。

 日中ならまだ汗ばむ日もある。

 それでも朝の暑さはずいぶん落ち着き、閉め切った室内より外の方が気持ちいいくらいにはなっていた。

 入り込んだ空気が、部屋に残っていた酒と寝具の匂いを少しずつ薄めていく。


 彰人はペットボトルの蓋を開け、一口だけ飲んだ。

 喉を通る冷たさが、ぼやけていた意識を少しだけ現実へ戻す。


「昼から怜司んとこ行くで」


 窓の外を見ながら桜子が言った。


「何しに?」

「買い出し」

「何の?」


 桜子が振り返った。


「向こう行く準備」


 その一言で、彰人の意識が少しだけはっきりした。


 遊びに行く準備ではない。

 昨日、十二人で決めた。

 向こうが動けば止める。

 日本側へは入れない。

 可能なら怪我もさせない。

 その間にも、怜司と行人は別の答えを探す。

 いつ始まるかは分からない。

 始まった後、何日エーテリア側へいることになるのかも分からない。


「そんな買うもんある?」

「あるやろ」


 桜子は少し考えるように視線を上げた。


「服。タオル。洗面用具。食べもん。水。あとは向こうで必要そうなん」

「向こうにも店あるで」

「毎回買いに行けるとは限らんやん」

「まあ……」


 彰人の頭に、王都までの道が浮かんだ。

 裂け目、街道、途中の集落。

 集落には人が暮らしている。

 だから物はある。

 けれど今後、その国と対峙する。


 必要な物が足りなくなったから王都へ行く。

 そんなことが気軽にできる状況ではなくなるかもしれない。


「長引いたら、一回一回戻って来んのも面倒やろ」

「兄貴は戻ってきそうやけどな」

「腹減った言うて?」

「あり得る」


 二人とも笑った。

 笑った後。

 彰人は手の中のペットボトルを見る。

 昨日までは、開戦という言葉がもう少し遠かった。


 今日、食料を買い、着替えを揃える。

 そういう現実的なものへ置き換わるだけで、一気に距離が近くなる。


「昼までに治るかな」

「知らん」

「優しないな」

「自業自得やし」

「兄貴と同じこと言うなや」

「そこ一緒にせんといて」

「何で義姉やんが嫌がんねん」

「誰が義姉やんや」


 桜子は質問には答えず、お決まりの文句を返して口元を緩めた。


     ◇


 ゲームセンターの中にいると、外の時間が少し分かりにくくなる。

 照明は朝でも昼でも大して変わらない。

 筐体から流れる音楽と電子音が重なり、少し離れた場所からはメダルが大量に落ちる音が聞こえてくる。

 土曜日ということもあり、午前中から人は多かった。


 親子連れ。

 友人同士らしい学生。

 クレーンゲームの前で景品を覗き込み、取れるかどうかを真剣に相談している人たち。

 その中で恭平は、少し呆れた顔をしていた。


「優斗さん、それ何個目っすか?」

「三個目かなぁ」


 優斗は腕に抱えたぬいぐるみを見る。

 大きいものが一つ。

 小さいものが二つ。

 そのうち一つは、本人の趣味とはあまり結びつかない、丸い動物のキャラクターだった。


「何でそんな取ってるんすか」

「取れそうだったから?」

「聞かれても困るっす」

「ワシも困るなぁ」

「自分で取ったんでしょうが」


 隣にいた行人が言った。

 ただ、その口調は十二人全員でいる時より少し軽い。

 優斗とは普段からゲームをする。

 年齢や先輩後輩の関係までなくなるわけではないが、二人だけで遊ぶ時まで一つ一つ言葉を整えるような距離でもなかった。


「行人、これいる?」

「いらない」

「即答だなぁ」

「置く場所ないし」

「恭平は?」

「俺もいらないっす」

「人気ないなぁ」


 優斗は腕の中のぬいぐるみを見る。

 景品に罪はない。

 そんなことを考えているような顔をしたあと、そのまま抱え直した。


「姐さんにあげようかな」

「多分いらないと思う」

「じゃあ怜司」

「もっといらないでしょうね」


 恭平が笑う。

 三人がここへ来たことに、大した理由はない。

 優斗が行こうと言った。

 行人も午前中は空いていた。

 恭平も予定がなかった。

 それだけだった。


 ただ。


 今日ここに来なければ、次にいつ来られるのか。

 三人とも、そのことをまったく考えていないわけではなかった。

 エーテリア側へ行けば、ゲームセンターはない。

 スマートフォンも普段通りには使えない。

 そもそも、こうして遊びに行こうと思える時間があるかどうかも分からない。


 優斗が別の筐体の前で止まった。


「これ、取れそう」

「まだやるんすか?」

「最後にもう一個」

「さっきも最後って言ってたよ」

「そうだっけ?」

「言ってた」


 行人が笑いながら隣へ立つ。

 優斗はアームの位置を細かく調整する。

 普段はゆっくりしているのに、こういう時だけ妙に集中している。


「右っす」


 恭平が筐体を覗き込む。


「もうちょい?」

「いや、行きすぎっす」

「えー」

「戻して」

「これくらい?」

「そこっす」


 ボタンを押す。

 アームが下がる。

 三人が同じ場所を見る。

 爪が景品の端へ掛かった。

 一度、持ち上がる。


「あ」

「お」

「いける?」


 ゆっくり運ばれ。

 出口の手前で落ちた。

 三人とも無言で景品を見る。

 元の位置へ戻ったわけではない。

 箱の角が、出口の縁へわずかに引っかかっている。


「これは取れるなぁ」


 優斗が財布へ手を伸ばした。


「そうやって増えてるんすよね」


 恭平は苦笑しながら、一歩後ろへ下がった。

 その時。

 近くを小さな子供が走っていった。

 母親らしい女性が少し遅れて追いかける。


「走ったら危ないよ」


 そんな声が、人混みの中へ溶けていく。

 昨日までなら、特に意識しなかった光景だった。

 今日も、何か特別なことが起きているわけではない。

 それでも恭平は、走っていく子供の背中を少し長く見た。


「…ここまで来させたくないっすね」


 優斗の手が止まった。

 行人も振り返る。


「向こうの人?」


 優斗が訊いた。


「はい」


 恭平は一度周囲を見た。

 誰も何も知らない。

 異世界があることも。

 その向こうの国が、日本へ来ようとしていることも。


「向こうにも事情あるんでしょうけど」


 言葉を選ぶように一度止まる。


「それで、こっちの普通の人まで巻き込んでいいって話にはならないじゃないっすか」

「うん」


 優斗は短く頷いた。


「ワシも、それは嫌かなぁ」


 声はいつも通りだった。

 少し力の抜けたような、独特の柔らかさ。

 それでも、言っていることは軽くない。


「だから、向こうで止めるんだしね」

「そうっすね」


 恭平にとって、昨日決まったことは理解しやすかった。

 殺さない。

 できれば怪我もさせない。

 それでも通さない。

 細かいことはこれから考える。

 自分がやることは、その中で必要な相手を捕まえることになる。


「でも」


 行人が筐体へ視線を戻した。


「俺ら、こんなことしてていいの?」

「何で?」

「準備」

「午後からでいいんじゃない?」

「優斗さん、まだやるつもりでしょう」

「これ取ったら」

「四個目ですよ」

「これ箱だから、ぬいぐるみじゃないよ」

「数え方の問題じゃない」


 恭平が肩を揺らした。

 こうしていると、いつもと変わらない。

 それが悪いとは、誰も思っていなかった。


「行人は今日、怜司さんと向こう行くんじゃなかったんすか?」

「そのつもりだったんだけど」


 行人の表情が少し変わった。


「昨日帰ってから考えたら、先に移動方法を決める方がいいかなって」

「車じゃないんすか?」

「今回は、できれば使いたくない」


 これまでと違う。

 今後はヴァルネシアへ知らせずに国内を動く可能性がある。

 開戦準備中の国で、日本の車が走り回る。

 どう考えても目立つ。


「飛ぶ?」


 優斗が訊いた。


「それも考えてる」


 周りに聞かれたくなかったのか、行人は少しだけ声を落とした。


「俺の神獣――カグラを使えば移動自体はできるから」

「目立たない?」

「そこなんだよ」

「大きいのが飛んでたら、普通の人にも見えるよねぇ」

「分かってる」


 行人は苦笑する。

 そんなことは当然分かっていた。


「だから、遠目から認識されにくくできないか試してからにしたい」


 単純に目的地へ行くだけなら難しくない。

 問題は、その途中だった。

 これまでのように客としてヴァルネシアへ入るわけではない。

 軍の動きが活発になれば、空にも地上にも目が増える。

 見つかって説明を求められれば、それだけで行動が止まる。

 怜司がそれを気にするとは思えない。

 だからこそ、行人が先に考えておく必要があった。


「怜司さん、待てるんすか?」


 恭平が訊いた。


「待ってもらう」


 行人は即答した。

 優斗が横目で見る。


「昨日、今日でもいいって言ってなかった?」

「言ってた」

「今日も言うんじゃない?」

「もう言われた」

「早いなぁ」

「朝から『何時行く?』って来た」

「何て返したんすか?」


 行人は、その時のやり取りを思い出したのか、少しだけ嫌そうな顔をした。


「車じゃ目立つから、別の移動方法を準備してからにするって」

「返事は?」


 行人は一拍置いた。


「『走ったらええやん』」


 恭平が吹き出した。

 筐体のガラスが少しだけ汚れたが、構わずに言葉が口を突いていた。


「やっぱり!」

「国一個調べるのに、神装して走る高校生がどこにいるんだよ」

「怜司さんならやりそうっす」

「だから止めるんだって」


 優斗が小さく笑う。


「行人、頑張ってねぇ」

「他人事にしないでよ」

「ワシは布陣の準備があるから」

「そういう意味じゃない」


 その間にも、優斗は百円玉を筐体へ入れた。


「まだやるんすか?」

「ここまで来たからねぇ」

「向こうでそれやらないでくださいよ」


 少し真面目な顔に戻って、恭平が言う。


「引き際なくすの」

「そこは洋一が止めるでしょ」

「自分でも止まってください」


 行人の言葉を聞きながら、優斗はアームを動かした。


     ◇


 昼を少し過ぎた頃。

 彰人の頭痛は、朝よりかなりましになっていた。

 完全に消えたわけではない。

 声を張れば、まだ響く。

 急に頭を動かしても少し重い。

 それでも、運転するには問題ない程度まで戻っていた。


 怜司の家の前へマークXを停める。

 助手席の桜子が、シートベルトを外しながら彰人を見る。


「ほんまに大丈夫なん?」

「大丈夫やって」

「途中でしんどなったら代わるで」

「分かってる」


 自分の車だから、自分で運転したかった。

 そんな程度の理由で運転席へ座ったことは、桜子にも分かっているのだろう。

 それ以上は言わなかった。

 二人が車を降りる。

 怜司の家は昔から見慣れている。

 何度も来た。

 泊まったこともある。

 誰かが勝手に上がっていても、今さら驚かない。

 ただ今日は、玄関の脇にすでに荷物が置かれていた。


 リュック。

 着替えらしい袋。

 飲料。

 その他、用途のよく分からない小物。


「……なんやこれ」


 彰人が見ていると、玄関が開いた。


「お」


 怜司が出てくる。

 黒を基調にした服装。

 表情。

 何も変わっていない。


「来たん?」

「来たわ」

「頭治った?」

「多少」

「カレー食える?」

「何でまだカレー引っ張ってんねん」


 反射的に声を上げそうになり、途中で止める。


「……危な」

「まだ痛いん?」

「兄貴のせいや」

「知らんがな」


 桜子は二人を放って、玄関脇の荷物を見る。


「これ全部持ってくん?」

「一応」

「何入れたん?」

「着替え」

「他」

「タオル」

「他」

「ガム」

「……他は?」


 怜司は少し考える。


「充電器」


 桜子が彰人を見る。

 言葉にしなくても分かる。


「旅行やと思とるやろ、これ」

「旅行でも足りん気するで」


 彰人が零した言葉に桜子が相槌を打つ。

 誰の目から見ても、ちょっとそこまで旅行にといった準備に見えるだろう。


「何でやねん」


 怜司は自分の荷物を見る。

 本気で足りていると思っている顔だった。


「向こうにも物あるやろ」

「あるけど、買いに行けるか分からんやろ」

「困ったら戻ってきたらええやん」

「毎回裂け目越えてコンビニ来る気か!」

「あかんの?」


 彰人は額へ手を当てた。

 まだ少し痛い。


「義姉やん、運転頼むわ」

「何でそこで諦めんねん」


     ◇


 大型のホームセンターを一周するだけでも、それなりに時間がかかった。

 最初は日用品だけのつもりだった。


 タオル、洗面用品、簡単な救急用品に保存できる物を入れる収納箱。

 そこまでは普通だった。

 ただ、売り場を歩いているうちに、必要かもしれない物が増えていく。


「これいる?」


 怜司がブルーシートを持ってきた。

 そこそこの大きさがある。その気になればダブルサイズの布団が置けそうだ。


「何に使うん?」


 桜子が訊く。


「地面敷く」

「どこの?」

「向こう」

「誰が寝んねん」

「俺ら?」


 ここでなぜ疑問形で帰ってくるのかが分からなかったが、ひとまず流しておいた。

 それよりも、カートの中にテントが入っている。

 仮眠をとるくらいなら交代制だろうから、このテントで事足りるはずだった。


「テントあるやろ」

「雨降ったら?」

「テントって雨防ぐためのもんちゃうんか」


 彰人が横から突っ込んだ。


「下濡れるやん」

「グランドシート使え」

「これでも一緒ちゃう?」

「まあ、一緒っちゃ一緒やけど……」


 桜子がブルーシートを見る。


「何枚?」

「十二枚」

「多いわ!」

「一人一枚ちゃうん?」

「なんで個室制みたいになってんねん」


 結局、数枚だけカートへ入った。

 こうして話している分には、キャンプの準備と大して変わらない。

 そのことを彰人は少し不思議に思った。

 買っているのは日用品。

 見るのは収納箱。

 考えるのは寝床。

 武器は一つも買わない。

 必要がないからだ。

 武器が足りないのではない。

 問題はむしろ、その逆だった。


 自分たちが力を使えば、相手を傷つけすぎる。

 それをどう抑えるか。

 昨日から考えているのは、ずっとそちらだった。

 別の棚の前で桜子が止まった。


「洗濯どうする?」

「川」


 怜司が即答した。


「兄貴」

「何?」

「洗剤流すなよ」

「ほな水だけ」

「何日おるつもりやねん」

「知らん」


 三人とも、そこで少し黙った。

 何日。

 それが分からない。

 一日で終わるかもしれない。

 数日かもしれない。

 もっと長引く可能性もある。

 勝てるかどうか。

 そこを心配しているわけではなかった。


 昨日、十二人で考えた。

 ヴァルネシアがどれだけ兵を集めても、三柱や八傑が動いても、こちらが本気で力を使えば、負ける想像はできない。

 最悪。

 怜司一人に任せる。

 そんな方法すらある。

 もちろん、それは選ばない。

 選べない。

 その先に何が残るのか分からないからだ。


「……向こうの人、どれくらい来るんやろな」


 彰人が何となく言った。


「いっぱいちゃう?」

「雑やな」

「軍やろ?」

「そらそうやけど」


 昨日まで見ていた兵士を思い出す。

 名前は知らない。

 顔もほとんど覚えていない。

 それでも、一人一人が人間だった。

 命令だから進む者もいる。

 怖くても逃げられない者もいる。

 家族を守るために武器を持つ者もいるかもしれない。


「怪我させんの、逆に難しそうやな」


 彰人が言った。

 桜子も少し考える。


「そうやな」


 短く返してから、横に立つ怜司を見る。

 その顔には、今の話を重く受け止めているような様子はない。

 だから何も考えていない、というわけでもない。

 怜司は昔から、必要以上に言葉へしない。


「兄貴、できる?」

「何が?」

「殴って怪我させんようにするん」

「殴らんかったらええやん」


 彰人は黙った。

 怜司は本気だった。


「じゃあどうすんの?」

「避ける」

「ずっと?」

「疲れたら帰るやろ」

「帰らんかったら?」

「止める」

「どうやって?」

「持つとか」

「荷物みたいに言うな!」


 桜子が笑う。

 けれど、怜司の中では本当にそれくらいなのかもしれない。


 敵として見ていない。

 殺す相手でもない。

 向こうへ行きたい人間がいる。

 駄目だから止める。


 そこへ余計な意味を足していない。


「兄貴みたいなん十二人おったら楽やのにな」

「十二人も俺おったら気持ち悪いやろ」

「そういう意味ちゃうわ」

「ワシも嫌やなぁ」


 背後から声がした。

 三人が振り返る。

 優斗。

 その横に行人と恭平。

 優斗に至っては、大きなぬいぐるみを抱えている。

 彰人の頭の中に、十二人の怜司が一瞬並んだ。

 全員黒い服で、全員同じような顔をして、好き勝手に歩いている。

 想像しただけで疲れる。


「……確かに嫌やな」

「何で今納得したん?」


 怜司だけが分かっていなかった。


「何でおんねん」


 彰人が三人を見る。

 ホームセンターへ買い出しに来た人間には、どう見ても見えなかった。

 優斗の両腕には大きなぬいぐるみが抱えられ、その後ろにいる恭平も、片手にゲームセンターの袋を提げている。行人まで小さな箱を持っていた。


「買い物」

「それ買い物ちゃうやろ」

「戦利品」


 優斗は悪びれる様子もなく、抱えているぬいぐるみを少し持ち上げた。

 そこそこ大きい。少なくとも、これからしばらく日本を離れるかもしれない人間が、わざわざ増やしてくる荷物ではない。


「何個取ったん?」

「四つ」

「アホやろ」

「最後の一個が思ったより簡単でなぁ」

「優斗さん、途中から止まらなくなったんすよ」


 恭平が苦笑しながら袋を持ち直す。

 止める側だったような言い方をしているが、その袋も明らかに空ではない。

 彰人の視線が、今度は行人へ移った。


「俺も一個」


 聞かれる前に、行人が小さな箱を掲げる。


「全員遊んでるやん」


 三人揃って戦利品を持っている以上、他に言いようがなかった。

 むしろ、この状態で何も言わなければ、それはそれで失礼な気さえする。


「怜司と違って、移動の準備もしてるよ」


 行人が箱を下ろしながら返した。


「何で俺?」


 少し離れたところでカートを押していた怜司が、自分の名前だけを拾って振り返る。


「朝から今日行くって言ってたから」

「行けるやろ?」

「行かないって言ったでしょ」


 行人は朝から何度目か分からない説明を繰り返した。

 向こうへ行けば、日本の車は目立つ。どこまで移動することになるのかも分からない以上、怜司について走っていけば済む話でもない。


「準備できた?」

「だからこれから仕上げるんだよ」


 怜司が少し考える。

 その顔を見た時点で、行人には次に何を言うのか何となく分かった。


「遅ない?」

「誰のせいだと思ってるの?」

「ゲーセン行ってたからちゃう?」

「それは……」


 反射的に返しかけた言葉が止まった。

 手元には、しっかり景品が残っている。

 少なくとも今日の遅れを、全部怜司のせいにするのは無理があった。


「まあ、それもあるけど」


 横で優斗が笑う。


「素直だなぁ」


 彰人も思わず笑った。

 こうしていると、行人も普通の高校生に見える。

 ゲームセンターで景品を取り、友人とホームセンターで鉢合わせて、遊んでいたことを突っ込まれて言葉に詰まる。


 けれど、明日になれば、その行人は怜司と二人で向こうへ行く。

 ヴァルネシアのどこにあるのかも分からない何かを探しに、日本とは違う土地を進むことになる。


 ホームセンターの広い通路には、家族連れが押すカートの音が響いている。

 棚にはキャンプ用品や収納用品が並び、少し先では子供が親に何かをねだっていた。

 その中で、ゲーセンの戦利品を抱えた三人が立っている。

 明日のことを知らなければ、どこにでもいる学生にしか見えなかった。


 桜子も同じようなことを思ったのか、それとも単に気になっただけなのか。

 優斗の腕からはみ出しているぬいぐるみへ視線を落とした。


「何それ」

「姐さんいる?」

「いらん」

「即答」

「何でうちやねん」

「家に置けそうだったから?」

「置けるけどいらん」


 置けるかどうかと、欲しいかどうかは別の話だった。

 優斗は少し考えてから、今度は怜司を見る。


「怜司は?」

「いらん」

「人気ないなぁ」


 ぬいぐるみの扱いに困り始めた優斗を見て、彰人が思い出したように口を挟む。


「智希なら欲しがるんちゃう?」

「ほんまに?」

「知らん」

「適当だなぁ」


 優斗はそう言いながらも、別に困っているようには見えなかった。

 むしろ渡す相手を探すところまで含めて、まだゲームセンターの続きを楽しんでいるようだった。


     ◇


 午後になって、怜司の家には少しずつ人が増えていった。

 誰かが全員を呼んだわけではない。

 最初に戻ってきたのは、買い物へ出ていた怜司、彰人、桜子。

 優斗、行人、恭平も、そのまま荷物運びを手伝う流れでついてきた。


 収納箱を玄関から運んでいる途中、小さなエンジン音が近づいてくる。

 彰人は音だけで大体分かった。

 家の前でモンキーが止まる。

 智希がヘルメットを外した。


「何してんの?」

「見たら分かるやろ」


 彰人は段ボールを抱えたまま答える。


「分からないから聞いてるんだけど」

「買い出し」

「何の?」

「向こう行く準備」

「ああ」


 そこで智希も理解したらしい。

 バイクの後ろへ括りつけていたケースへ手を伸ばす。


「じゃあ、これ持ってきて正解だったかな」

「何それ」

「ギター」

「何でやねん」

「しばらく弾けないかもしれないじゃん」

「今日ここで触るために持ってきたんやろ」

「それもある」

「正直やな」


 智希は笑う。

 家の中を見る。


「ニイさんいる?」

「おるで」

「じゃあ部屋借りよ」

「自分の家みたいに言うな」


 そう言いながら、彰人も止めない。

 昔から、ここはそういう場所だった。


 怜司の家ではある。

 けれど、怜司だけの場所という感覚は薄い。

 彰人も桜子も昔から出入りしている。

 今では十二人の誰かがいても珍しくない。


 少しして、今度は車の音がした。

 彰人は玄関の外へ出る。

 少し古いレガシィB4が、マークXの後ろへゆっくり停まった。


「良澄さん」

「こんにちは」


 車から降りた良澄は、玄関前に積まれた荷物を見た。


「思ったより多いね」

「桜子が買い込んだ」

「半分怜司や!」


 家の中から桜子の声が飛んでくる。

 良澄が笑う。


「聞こえてた?」

「聞こえるわ!」


 トランクを開ける。

 中には工具と、いくつかの消耗品。


「良澄さんまで準備?」

「それもあるけど」


 良澄はマークXと、少し離れたところに停められたインプレッサを見る。


「車、一応見ておこうかなと思って」

「向こう持ってかへんで?」

「今回はね」

「今回は?」

「戻ってきた時に使えないと困るでしょ」


 良澄にとっては、ごく自然な判断らしい。

 いつ戻るのか。

 戻った後、すぐ動くことになるのか。

 何も決まっていない。

 だからこそ、今できることを済ませておく。


「自分のは?」

「朝見たよ」

「早いな」

「昨日も少し触ってたから」


 彰人はレガシィを見る。

 普通なら、こんな日に車の話をしていることがおかしいのかもしれない。

 けれど良澄にとって、これも準備だった。

 誰かに命令されたわけではない。

 それぞれが、自分にできることを考えている。


「俺のも見る?」

「見る?」

「いや、今日はええわ」

「頭痛い?」

「なんでみんな知ってんねん」

「姐さんから」

「広めんなや!」

「まあ、元気そうでよかった」

「良澄さんまで!」


 良澄はいつもの穏やかな顔で笑った。


     ◇


 怜司の家の和室は、大人数が集まっても窮屈にならない。

 玄関を入って少し奥にある、畳の広い部屋。

 座る位置は決まっていない。

 誰かが壁際へ寄り、誰かが荷物の近くへ座る。

 円卓を囲んでいる時とは、空気そのものが違っていた。

 部屋の一角には、今日買ってきた収納箱が並んでいる。


 襖の向こうからは、桜子が台所を動く音。

 反対側では、智希がギターを出していた。

 彰人も一度家へ戻り、ベースを持ってきている。


「弾かへんで」

「分かってるって」


 智希が弦の状態を確認する。


「彰人、頭痛いんでしょ?」

「低音響いたら死ぬ」

「じゃあ弦交換だけ」

「それならええ」


 音を出さなくても、楽器へ触れているだけで二人は満足そうだった。

 彰人はクロスで弦を拭きながら、指先に返ってくる感触を確かめる。

 いつもなら、そのままアンプへ繋いでいた。


 今日はやらない。

 頭が痛いという理由もある。

 それ以外にも。

 次にこうして時間を気にせず触れるのが、いつになるのか分からない。

 そんなことを考えた自分が少しだけ嫌で、彰人はすぐに手元へ意識を戻した。


 部屋の端では、優斗がゲームセンターの戦利品を広げていた。


「これ智希いる?」

「何それ」

「取った」

「見れば分かるよ」

「姐さんも怜司もいらないって」

「いらないから僕に来たの?」

「違う違う」


 少し間がある。


「その間は何?」

「似合いそうかなぁと思って」

「絶対今考えたでしょ」


 智希はぬいぐるみを受け取る。

 丸い動物を模した、妙に愛嬌のある顔。


「……まあ、もらうけど」

「いるんだ」


 行人が笑った。


「モンキーに付けよっかな」

「落とすで」


 彰人が言う。


「ニイさんみたいなこと言わないでよ」

「兄貴なら何て言う?」


 智希は一瞬だけ考える。


「『落ちたら拾えばええやん』」


 全員の視線が怜司へ向いた。


「何?」

「言いそう」


 智希が笑う。

 少しして、玄関から声がした。


「こんにちは」


 雅史だった。

 和室へ姿を見せた時点で、彰人は少しだけ眉を上げる。


「雅史さん、顔疲れてへん?」

「彰人よりは元気だよ」

「みんなそれ言うなぁ」


 雅史は苦笑する。

 顔色が悪いわけではない。

 ただ、普段より目元に疲れが残っていた。


「寝たん?」


 怜司が訊く。


「少し」

「何してたん?」

「昨日の続き」


 雅史は鞄を畳へ置いた。


「ヴァルネシアのことを少し調べてた」

「何か分かった?」

「まだ調べ始めたところ」

「まだなん?」

「昨日の今日だよ」


 彰人は思わず笑った。


「兄貴、雅史さん寝て起きたら全部終わってると思ってへん?」

「そこまでは思ってへん」

「多少は?」

「期待してる」

「前も同じこと言うてたやろ」


 雅史も笑う。


「僕もできれば終わらせたいんだけどね」

「何調べてたん?」


 智希が訊いた。

 雅史は答える前に、少しだけ間を置いた。

 視線が、和室の隅へ積まれている荷物へ動く。

 今日買ってきた物。

 これから向こうへ持っていく物。

 それを見てから、皆へ戻した。


「戦った後のことかな」


 和室にあった軽い空気が、完全には消えないまま少しだけ形を変えた。


「後?」

「うん」


 雅史は畳へ座る。


「僕たちが向こうを止める。それ自体は昨日決めた。でも、それでヴァルネシアの問題がなくなるわけじゃないから」


 星堕とし。

 失われる土地。

 病。

 減っていく人口。

 日本へ来られなくなったとしても、それらは残る。


「だから、似た状況がないか見てた」

「あるん?」


 怜司が訊く。


「そのまま同じものはないよ」

「そらそうやろな」

「でも、大規模な移住とか、住める土地を失った場合とか、国そのものが維持できなくなった事例とか。参考になるものはあるかもしれない」

「朝まで?」


 彰人が訊いた。


「朝まではやってないよ」

「義姉やん、寝不足言うてたで」

「寝るのが遅くなっただけ」

「一緒ちゃう?」

「ちょっと違う」


 雅史は柔らかく笑った。

 まだ答えはない。

 勝つ方法ではなく、その後のことを考えている。

 昨日の店でも同じだった。


 止める。

 助ける。

 どちらかを捨てるのではなく、両方やる。

 だから考えることが増える。

 調べることも増える。


 彰人はベースの弦へ視線を落とした。

 自分は今、まだ普通に楽器へ触れている。

 その先で、セレスティアと向かい合うことになるかもしれない。

 頭では分かっている。

 気持ちまで追いついているかと言われれば。

 まだ、分からなかった。


     ◇


 洋一と清隆は、裂け目の日本側にいた。

 まだ布陣を決める段階ではない。

 どこまで使えるのか。

 周囲にどれだけ人の目があるのか。

 こちら側へ戻ってくる時、どの方向を使えるのか。

 まずは確認する必要があった。

 清隆は周辺の地形を見ながら、何度か位置を変えている。


 林。

 道路。

 裂け目までの距離。

 高低差。


 地図だけでは分からないものを、実際の景色へ一つずつ重ねていく。


「ここを戻る場所にするなら」


 清隆が裂け目を見る。


「日本側を使う必要はほとんどないと思う」

「僕もそう考えています」


 洋一が答える。


「実際に止めるのはエーテリア側です」

「じゃあ、こっちは退避と帰還経路くらいか」

「はい」


 清隆は少し考える。

 これまでなら、裂け目を越える時に車を使った。

 今後は違う。

 前線をどこへ置くのか。

 物資をどこへ集めるのか。

 怪我人が出た場合、どこで治療するのか。

 戦う力とは別の問題ばかりが増えていく。


「生活拠点、要るね」


 清隆が言った。

 洋一が少しだけ顔を向ける。


「テントなどは必要でしょうね」

「テント?」

「何か問題が?」

「長引いたら不便だろ」

「……どれくらい長引く想定ですか?」

「分からない」

「なら、まず簡易的なもので十分だと思います」


 清隆は周囲を見る。

 裂け目のこちら側ではなく、その向こうにある景色を想像しているらしい。


「水回りも要る」

「清隆」

「風呂までは後でもいい」

「風呂作るつもりだったんですか?」

「何日もいるなら欲しいだろ」

「キャンプ場を作る話ではないですよ」

「分かってる」


 返事だけは早い。

 洋一には、あまり分かっているようには見えなかった。


「清隆が作ると、必要以上になりませんか?」

「必要なものしか作らないよ」

「その必要の基準が心配なんです」

「でも寝るだろ?」

「寝ます」

「食べる」

「食べます」

「風呂」

「必須ではないでしょう」

「いるよ」

「そこなんですよ」


 清隆は少し不満そうだった。

 それでも地面へ視線を戻した時には、もう次のことを考えている。


「桜子の位置が決まれば、その周囲はかなり自由にできる」

「地形を変えるなら、必要最低限にしてください」

「分かってる」

「本当に?」

「自然は壊さない」

「人のことも考えてください」

「考えてるよ」


 返事を聞きながら、洋一は小さく息を吐いた。

 十二人なら止められる。

 その判断自体は、洋一も変わっていない。

 怖いのは負けることではない。

 相手を壊しすぎること。

 誰か一人が判断を誤れば、それだけで取り返しのつかないことになる。

 だから場所を決める。

 逃げ道を作る。

 救護する場所を考える。

 勝つためではなく。

 勝ち方を間違えないための準備だった。


 その時。

 スマートフォンが震えた。

 画面を見る。


 怜司。


『カレー食う?』

「……」


 昨日まで、ヴァルネシアで開戦準備を見ていた。

 今日、自分たちはそのための防衛地点を考えている。

 その途中で届いた言葉が、カレー。

 洋一はしばらく画面を見てから、清隆へ視線を向けた。


「怜司からです」

「何?」

「カレーを食べるか、と」

「食べる」


 清隆は即答した。


「聞く前に決めないでください」

「夕食まだだから」


 洋一は返信する。


『行きます。清隆も一緒です』


 すぐに既読がついた。


『了解』


 続けて。


『桜子がいっぱい作ってる』


 さらに。


『彰人まだ死んでる』


 洋一は思わず少し笑った。


「彰人、まだ二日酔いみたいです」

「そう」

「興味ないですか?」

「本人が飲んだんだろ?」

「まあ、そうですけど」


 怜司が自分と清隆が一緒にいることを知っている理由は単純だった。

 午前中、洋一は十二人のグループへ、今日それぞれが何をするのか簡単に流している。

 自分と清隆は裂け目周辺の確認。

 優斗たちは連絡系統と装備。

 行人は明日の調査に向けた移動方法。

 細かい時間までは決めていない。

 それでも、おおよその動きは全員が共有していた。

 怜司がどこまでちゃんと読んでいたかは分からない。

 少なくとも、自分と清隆が一緒にいることだけは覚えていたらしい。


「あと少し見たら行きましょう」

「うん」


 清隆は裂け目の向こうを見る。


「明日は向こう側も見る?」

「必要ですね」

「じゃあ、その時に拠点位置も決めよう」

「まだ拠点作る気なんですね」

「要るだろ?」


 たぶん、止めても作る。

 洋一はそう判断して、それ以上言わなかった。


     ◇


 夕方になる頃には、怜司の家にかなりの人数が集まっていた。

 広い和室へ、それぞれが適当に座っている。

 誰かが位置を決めたわけではない。


 怜司は壁際。

 彰人と智希は楽器を置いた近く。

 優斗、行人、恭平はゲームセンターで取った景品をまだ広げている。

 雅史は途中で少し横になっていた。


「寝てる?」


 智臣が和室へ入ってきて、最初にそれを見つけた。


「寝てる」


 怜司が答える。


「何で?」

「寝不足」

「何してたんだ」

「調べもん」

「またか」


 智臣は昨夜一緒に飲んでいた。

 朝は少し頭が重かった。

 それでも彰人ほどではなく、今はほとんど残っていない。


「智臣さん元気そうやな」


 彰人が言う。


「お前が弱いんだろ」

「久しぶりやってん」

「俺もだ」

「体質やな」

「そういうことにしとけ」


 智臣は笑いながら畳へ座る。

 部屋の端には、今日買った荷物がまとめられている。

 朝から外にいた人間たちが少しずつ持ち込んだ物も混ざり、ホームセンターを出た時よりさらに増えていた。


「これ何?」

「向こう持ってくやつ」


 怜司が答える。


「多いな」

「桜子が買った」

「半分怜司や!」


 台所から桜子の声が飛んでくる。

 智臣が収納箱を見る。


『食料』

『生活用品』

『救護』


 そこまでは分かる。

 もう一つ。


『その他』


「これ、その他が一番大きいけど」

「兄貴のやつ」


 彰人が答えた。


「何入ってるんだ?」

「色々」


 怜司が言う。


「その説明で分かると思うか?」

「必要なもん」

「開けていい?」

「ええで」


 智臣が蓋を開ける。

 タオル。

 ガム。

 充電器。

 小さな工具。

 予備の手袋。

 さらに下からブルーシート。

 用途ごとに分けるという発想だけが、きれいに抜け落ちている。


「……分類しろよ」

「してるやん」

「どこが?」

「俺の」

「そういう分類か」


 智臣は蓋を閉じた。

 これ以上聞いても無駄だと判断したらしい。

 その様子を見ながら、彰人は少し笑った。

 朝からずっと。

 やっていることは普通だった。

 買い物、車、楽器、飯。

 ただ。

 全部が明日以降へ繋がっている。

 普通と、そうではないものの境目が曖昧になっている。


「ニイさん、これも入れていい?」


 智希が訊いた。

 優斗からもらったぬいぐるみを持っている。


「何で?」

「向こう持ってく」

「何しに?」

「飾る」

「いる?」

「いる」

「ほなええんちゃう?」

「いいんだ……」


 行人が呟いた。

 その時、玄関から声がした。


「お邪魔します」


 洋一。

 その後ろに清隆。


「お」


 怜司が顔を上げる。


「カレーあるで」

「それを聞いて来たわけではありませんよ」

「食うやろ?」

「食べますけど」


 洋一は和室へ入り、人数を見る。

 思っていたより多い。


「皆さん、いたんですね」

「気づいたら増えた」


 桜子が台所から答える。


「誰か呼んだん?」

「俺は呼んでへんで」


 怜司。


「ワシらは、そのまま来ただけ」


 優斗。


「俺はニイさんとこでギター触ろうと思って」


 智希。


「僕は車を見に来ただけだよ」


 良澄。


「俺は行人の手伝いっす」


 恭平。


「最初ゲーセンにいたよね?」


 行人が返す。


「帰ってからはしてたじゃないっすか」

「まあ、それはそうだけど」


 恭平が少し得意そうな顔をする。

 笑いが起きた。

 洋一も少しだけ表情を緩める。

 円卓を囲んでいる時とは違う。

 ここでは誰かが議長になる必要もない。

 十二神承として集まったわけでもない。


 怜司の家へ来て。

 気づけば全員いる。

 それだけだった。


     ◇


 夕食は、そのまま全員で食べることになった。

 和室の中央へ料理を並べる。

 十二人が座っても余裕がある。

 席も決まっていない。

 桜子の作ったカレーを中心に、買い物の途中で追加した惣菜や、冷蔵庫にあったものまで適当に並んでいる。


「いただきます」


 誰かが言い始め、声が重なる。

 怜司はすぐに食べ始めた。


「うまい」

「まだ一口やろ」


 桜子が言う。


「一口食ったら分かるやん」

「熱ないん?」

「熱いで」

「何で平気なん」

「腹減ってるから」

「関係ある?」


 智希が笑う。

 彰人は普段より少なめに取っていた。

 朝に比べれば食欲も戻っている。

 スプーンを動かしている間は、自分が二日酔いだったことも少し忘れられた。


「彰人、本当に大丈夫?」


 良澄が訊く。


「大丈夫。もう頭ちょっと痛いだけ」

「明日残らない?」

「残ったら困るわ」

「明日、何時からやった?」


 桜子が行人を見る。


「朝から行く予定です」

「怜司と?」

「はい」

「大変やな」


 言いながら、桜子が見たのは行人だった。


「何で俺見て言うん?」


 なぜか怜司が反応する。


「怜司が大変なんちゃう。行人が大変なんや」

「そういうことです」

「本人まで」


 行人は笑っている。


 午後。

 ホームセンターから戻った後、怜司とも移動方法について話していた。

 地上を車で走り続けるより、カグラを使った方が早い。

 ただ、その姿をそのまま見せて飛べば、ヴァルネシア側からどう見えるのか分からない。

 完全に姿を消すのではなく。

 距離があれば、そこに何かがいる程度にしか認識されない。

 そのくらいにはできないか。

 まだ試している段階だった。


「明日は、まず昨日の場所?」


 雅史が訊いた。

 少し寝たことで顔色は戻っている。


「そこからやな」


 怜司が答える。


「おるって言うてたところ」

「勝手に起こしたらあかんで」


 彰人が言う。


「起こさへんって」

「兄貴、昨日も似たこと言うてたけど」

「寝てんの起こしたら可哀想やろ」

「それが何か分からんから言うてんねん」


 怜司にとっては、何なのかより先に、そこにいることの方が分かっている。

 昨日、何もないように見える場所を前に、怜司は当たり前のように言った。


 おる。


 あの時の感覚を、彰人はまだうまく整理できていなかった。

 何がいるのか。

 どうして怜司には分かるのか。

 そして、本当に寝ていると言っていいものなのか。

 それを明日から探す。


「他にもおるんやろ?」


 桜子が訊く。


「多分」

「いくつ?」

「知らん」

「場所は?」

「行ったら分かると思う」


 桜子は数秒、怜司を見た。


 スプーンを持ったまま、怜司は何事もなかったようにカレーを食べている。

 隠しているようには見えない。本当に、それ以上説明できることがないのだろう。


 昨日もそうだった。

 何もない場所を見て、そこにいると言った。

 眠っているような気がする、とも。


 怜司の中では、それだけでもう十分に認識できている。

 けれど、それを聞く側には、その間にあるものが何一つ見えない。


 桜子はそれ以上聞くのを諦め、今度は行人へ顔を向けた。


「頼んだで」

「何で俺なんですか」

「怜司の説明、それで終わってるやん」

「俺も困ってるんですよ」


 行人も箸を止め、怜司を見る。


「明日分かるって」


 本人だけは、やはり何も困っていなかった。


「その『分かる』の中身を説明してほしいんですよ」

「行ったら分かる」

「今それ言ったでしょうが」


 優斗が少し離れたところで笑う。


「行人、いい役目もらったなぁ」

「譲りますよ」

「ワシは全体見る方あるから」

「逃げた」

「適材適所?」

「疑問形やめてください」


 また笑いが起きる。

 深刻になりきらない。

 それでも、誰も明日の意味を忘れてはいない。

 怜司と行人が、正体も分からない何かを探している間。

 残る十人は、向こうから来るかもしれない者たちを止める場所を作り始める。


「洋一」


 清隆がカレーを食べながら言った。


「明日、エーテリア側も見よう」

「そうですね」

「桜子も来れる?」

「行けるで」

「最終防衛地点の位置を決めたい」

「私が止める場所?」

「そう」

「ほな行くわ」


 桜子の返答は早かった。

 迷いがないというより。

 考える必要のある部分が、そこにはなかった。

 自分が最後に立つ。

 それは昨日、自分で決めたことだった。


「優斗にも、一緒に確認してもらいたいです」


 洋一が続ける。


「ワシ?」

「はい。全体の情報を繋ぐなら、距離や見え方を実際に確認してもらった方がいいでしょう」

「分かった」

「エーテリア側へ入ってから、必要な場所を何か所か見ます」

「その方がいいねぇ」


 前線をどこに置くか。

 清隆がどこまで地形を変えるか。

 桜子の防壁をどこへ置くか。

 今までなら、ここまで事前に考えることは少なかった。

 相手を倒すだけなら必要がない。


 今回は違う。


 怪我をさせない。

 逃げる場所も残す。

 突破されても、日本側へは入れない。


 その全部を成立させる必要がある。


「清隆、何作る気なん?」


 彰人が訊いた。


「拠点」

「何の?」

「寝るところ」

「テントちゃうん?」

「洋一もそう言ってた」

「普通そうやろ」

「何日いるか分からないんだろ?」

「まあ」

「なら、ちゃんと寝られた方がいい」

「どのレベル?」

「十二人が生活できる程度」


 彰人が止まる。

 清隆の言う『程度』が、自分たちの考えているものと同じとは限らない。


「……家?」

「拠点」

「風呂ある?」


 怜司が訊いた。


「必要なら」

「いる」

「兄貴、急に食いつくな」

「風呂入りたいやん」

「ネットは?」


 優斗が訊いた。


「無理」

「じゃあ長居したくないなぁ」

「お前ら」


 彰人が周囲を見る。


「今から何しに行く話してるか分かってる?」

「向こう」


 怜司が答えた。


「その言い方でええけど!」


 彰人自身、戦争という言葉を使うことは減っていた。

 言わなくても分かる。

 口にすれば、急に話が重くなる。

 誰も軽く考えているわけではない。

 だからこそ、何度も言葉にする必要もなかった。


「でも」


 雅史が会話の切れ目で言った。


「長くいられる準備をしておくこと自体は悪くないと思うよ」


 何人かが雅史を見る。


「すぐ終わらせるつもりでも、終わらなかった時に焦る方が危ないからね」

「そうだな」


 智臣が同意する。


「休めない方が判断も鈍る」

「そこ」


 清隆が言った。


「だから作る」

「清隆の場合、作りたいのも入ってへん?」


 彰人が訊く。

 清隆は一瞬だけ考えた。


「多少」

「入ってるやん!」


 清隆も少し笑った。

 それだけで、空気がまた緩む。

 彰人は、その緩さを少しだけありがたいと思った。


 今、深刻になろうと思えばいくらでもなれる。

 昨日まで話していた相手と、近いうちに向かい合う。

 セレスティアとも。

 それを考え始めれば、今食べているカレーの味だって分からなくなる。


 だから今は。

 笑えるうちは、笑っていたかった。


     ◇


 食事が終わっても、誰もすぐには帰らなかった。

 桜子と良澄が片付けを始める。

 智希も途中から手伝いへ入り、恭平も食器を運んでいる。


「恭平、それこっちでいいよ」

「はいっす」

「そっちは洗う方」

「了解っす」


 優斗と行人はノートパソコンをもう一度開いた。

 明日の移動方法を最後に確認するつもりらしい。

 彰人は畳の上へ横になりかけ、桜子に止められた。


「寝るんやったら部屋行き」

「ここでええやん」

「邪魔」

「酷ない?」

「楽器踏まれたら嫌やろ」


 彰人はギターとベースを見る。

 すぐに身体を起こした。


「それはあかん」

「そこなんや」


 怜司は和室の端で、何かを食べていた。


「兄貴、まだ食ってんの?」

「プリン」

「どこにあったん」

「冷蔵庫」

「それ俺のちゃう?」

「名前書いてへんで」

「兄貴!」


 彰人が起き上がる。


「頭痛いんちゃうん?」

「それとこれは別や!」


 笑いが起きる。

 洋一は、その様子を少し離れたところから見ていた。


 全員いる。


 昨日も十二人は揃っていた。

 けれど、意味は違う。

 昨日は円卓を囲み。

 これから何をするのかを決めた。

 今日は誰も集めていない。

 買い物へ行った者。

 ゲームセンターへ行った者。

 楽器を持ってきた者。

 車を見に来た者。

 調べものをしていた者。

 裂け目を確認していた自分と清隆も、夕食に誘われただけだった。


 結果として全員がここにいる。


 それぞれが普段のことをして。

 その普段の中へ、明日の準備を少しずつ混ぜている。

 この光景が、次はいつ見られるのか。

 洋一も考えなかったわけではない。

 ただ、それを口にする必要はないと思った。


「洋一君?」


 雅史に呼ばれた。


「はい」

「何か考えてた?」

「少し」


 洋一は和室を見回す。


「明日の確認だけ、しておこうかと思って」


 その声を聞いて、桜子が台所から顔を出す。


「会議するん?」

「いえ」


 洋一は少し笑う。


「本当に確認だけです」

「何分?」

「五分くらいで」

「ならええで」

「許可制なん?」


 怜司が言う。


「誰が飯作った思てんねん」

「桜子」

「分かってるやん」

「だから言うたんやけど」

「そこちゃう!」


 洋一は全員が聞ける状態になったところで、明日の予定だけを整理した。

 怜司と行人は調査。

 昨日、怜司と智臣が違和感を覚えた場所を起点に、周辺を探す。

 何かを確認しても、不用意に働きかけない。

 特に、怜司が言うように休眠している状態なら、勝手に起こそうとはしない。

 対話できる状態なのか。

 どうすれば意思疎通が成立するのか。

 そこは行人が判断する。


「分かってます?」


 洋一が怜司を見る。


「分かってるで」

「何が?」


 彰人が横から訊いた。


「勝手に起こさん」

「他」

「行人の言うこと聞く」


 行人が顔を上げる。


「本当に?」

「聞くで」

「今日一回も聞かなかったですよね」

「今日行かんかったやん」

「洋一さんに止められたからでしょう!」

「結果一緒やん」

「違います!」


 洋一は二人のやり取りが終わるのを待つ。

 少しだけ笑いそうになった。

 明日、この二人を行かせる。

 大丈夫だと思っている。


 怜司は強い。

 行人も、自分で考えて判断できる。

 だから危険がない。


 そんな単純な話ではない。

 何がいるのかも分からない場所へ行く。

 相手が人間なのか、生き物なのか、それすら分からない。

 想定外が起きる可能性はある。


 それでも。


 この組み合わせなら、どちらか一人で行かせるよりずっといい。


「残るメンバーは、防衛地点の確認です」


 全員が静かになる。


「ただし、明日すぐに布陣するわけではありません。地形、距離、撤退経路、救護地点。それを確認します」

「相手の逃げ道も?」


 恭平が訊いた。


「残します」

「了解っす」


 洋一は頷く。


「追い詰めて、戦うしかない状態にする意味はありませんから」

「そうだね」


 良澄が穏やかに続ける。


「逃げてくれるなら、その方がいいと思っています」


 洋一としても、相手を傷つけずに済むのであれば逃げてもらうのが一番だと考えていた。

 それこそ、恐怖を与えてでも、尻尾を巻いて逃げてほしい。

 そのあたりを察してか、良澄がそこに続けた。


「救護の場所も明日見る?」

「お願いします」

「分かったよ」


 良澄は穏やかに、それだけ答えた。


 話している内容だけを聞けば、昨夜の円卓と大きくは変わらない。

 けれど、目の前にある景色はまるで違った。


 まだ片付けきれていない皿があり、台所からは水の流れる音が聞こえている。

 畳の端には智希と彰人の楽器が置かれ、その向こうにはゲームセンターから持ち帰ったぬいぐるみが転がっていた。


 誰も姿勢を正してはいない。

 洋一自身も、円卓で話す時のように全員の顔を順番に確認してはいなかった。


 明日の予定を決めているというより。

 食事のあと、忘れ物がないように確かめている。


 その程度の空気でいいのだと思った。


「僕と智臣は?」


 雅史が訊く。


「エーテリア側の地形と、ヴァルネシア軍が使えそうな経路をもう一度確認してほしいです」

「現地で?」

「最初は資料からで構いません。実際に見る必要がある場所だけ後で」

「分かりました」


 智臣も頷く。


「彰人」


 洋一が名前を呼ぶ。


「はい」

「今日は寝てください」

「俺だけ予定ちゃうやん!」


 笑いが起きる。


「明日には治ってますって!」

「なら、前線候補を見てもらいます」

「最初からそう言うてくださいよ」

「頭痛が残っていたら?」

「行きます」

「休んでください」

「行けますって」

「無理はなしです」


 洋一の声は柔らかい。

 それでも、そこは譲らない。


「……分かりました」


 彰人は渋々頷いた。

 開戦前だからこそ。

 無理をする理由はない。

 明日一日休んだから負けるような相手ではない。

 むしろ、誰か一人が無理をした結果、加減を誤る方が問題になる。


「では、今日はこれだけです」

「ほんまに五分くらいやったな」


 桜子が言う。


「約束しましたから」


 洋一の口調は、円卓を囲んでいる時と大きくは変わらない。

 それでも声の硬さは少し違う。

 ここは聖域ではない。

 十二神承として何かを決める場所でもない。

 怜司の家。

 昔から何度も来ている場所。

 食事の後に、明日の予定を確認しているだけだった。


「何時?」


 怜司が行人へ訊く。


「朝八時」

「早ない?」

「早くない」

「九時でええやん」

「移動にどれくらいかかるか分からないんですよ」

「飛ぶだけやろ?」

「どこまで行くか分からないでしょう」

「行ったら分かる」


 行人は一度、口を閉じた。

 言い返す前に、自分の中で何かを堪えるような間があった。


「……それを調べに行くんです!」


 また始まった。

 優斗は少し離れたところから二人を見る。


「行人」

「何?」

「明日大変そうだなぁ」

「だから手伝ってよ」

「ワシ、別の方あるから」

「知ってるけど!」

「頑張って」

「軽い!」


 恭平が笑う。

 彰人も笑った。

 朝より頭はずっと軽い。

 明日になれば、普通に動けるだろう。


 その明日。


 怜司と行人は、まだ名前すら分からない何かを探しに行く。

 自分たちは、ヴァルネシアの軍を止める場所を考える。

 そう考えれば、今日していたことはあまりにも普通だった。


 買い物をした。

 ゲームをした。

 車を触った。

 楽器を触った。

 カレーを食べた。


 けれど、ただ普通の一日だったわけでもない。

 買ったものは、向こうへ持っていくためのものだった。

 車を見たのは、いつ戻ってきても動けるようにするためだった。

 雅史は、その先まで考えていた。

 洋一と清隆は、止める場所を考えていた。

 日常の中へ、もう次のことが入り込んでいる。


「兄貴」

「何?」

「明日、ちゃんと見つけてこいや」

「昨日も言うてたな」

「何回でも言うわ」

「おる場所行ったらええんやろ?」

「それだけやないやろ」

「見つけるんは俺。話すん行人」

「分業するな!」

「合ってるでしょ」


 行人が一瞬だけ考える。


「……まあ、そこだけなら」

「ほら」

「でも勝手に進まないでくださいよ」

「分かってるって」

「信用できないんですよ!」

「なんでやねん」


 昨日の夜にも、似たようなやり取りをした。

 それでも。

 明日になれば、本当に行く。

 何がいるのかは分からない。

 なぜ、それらが追われているのかも分からない。

 ヴァルネシアがいつ動くのかも分からない。

 分からないことばかりだった。


 ただ。


 十二人が心配していることだけは、昨日から変わっていない。

 自分たちが勝てるのかではない。

 どうすれば、向こうを止められるのか。

 どうすれば、誰も死なずに終わらせられるのか。

 そして。

 どうすれば、その先まで残せるのか。

 答えはまだない。

 だから明日も。

 それぞれが、自分の場所で続きを探す。

 九月の終わりに近い土曜日は、そんなふうに過ぎていった。


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