同じ答え
裂け目の向こうから、最初にヘッドライトの光が差し込んだ。
空間の揺らぎを押し広げるようにインプレッサが現れ、続いてマークX、最後にCLSが日本側へ抜けてくる。
三台目の車体が完全にこちら側へ移ったところで、清隆は腕時計を確認した。
もう夜だった。
裂け目の周囲には必要最低限の照明しか用意していない。そのため、少し離れれば辺りはほとんど闇に沈んでいる。昼間なら何でもない草木の輪郭も、今は車のライトに照らされたところだけが浮かび上がり、その外側は何があるのかさえ分からない。
清隆自身がここへ来たのは夕方だった。
車は持っていないため、最寄りからタクシーを使った。ただし、裂け目の場所まで乗りつけるわけにはいかない。かなり手前で降り、残りは徒歩で来ている。
面倒ではある。
だが、ここへ向かう者が皆、同じ場所までタクシーで来る方がもっと面倒なことになる。
帰還した三台が停まる。
エンジン音が一つずつ消えていくにつれ、周囲に夜の静けさが戻ってきた。
運転席の扉が開く。
怜司。
彰人。
智臣。
それぞれの車から降り、雅史と洋一も続いた。
五人。
誰かが怪我をしている様子はない。
それを確認してから、清隆は近づいた。
「おかえり」
「ただいま」
雅史が最初に返した。
その声は普段と変わらない。
けれど、清隆には五人の状態が同じには見えなかった。
雅史はもう何かを考えている。
智臣も、車を降りてから一度裂け目の方を見たきり、視線がどこか遠い。
洋一は平静に見える。
ただ、戻ってきた人間にしては、すでに次に何をするかを決めようとしている顔だった。
彰人は一番分かりやすい。
落ち着いていない。
そして怜司だけは――。
「腹減った」
清隆は一度、怜司を見た。
「……そう」
「何その反応」
「いや。いつも通りだなと思って」
「そらそうやろ」
「兄貴!」
少し離れたところで車の鍵を閉めた彰人が、勢いよく振り返った。
「今それ言う?」
「腹減ってんねんからしゃあないやん」
「そういう話ちゃうやろ!」
「お前は減ってへんの?」
「減ってるけど!」
「ほな飯食った方がええで」
「俺はそういう話をしてへん!」
言い返す声にはいつもの勢いがある。
だが、清隆にはやはり昨日までの彰人とは違って見えた。
怜司に腹を立てているというより、その程度のことで声を出していないと、別のことを考えてしまう。
そんな感じがする。
「それで」
清隆は五人全体へ視線を戻した。
「どうだった?」
問いかけた途端、彰人の表情からさっきまでの勢いが少し消えた。
代わりに雅史と智臣が互いを見る。
簡単に答えられる質問ではなかったらしい。
「星堕としについては、かなり進みました」
雅史が答える。
「少なくとも、昨日までとは見方が変わってる」
「原因が分かった?」
「そこまでは」
今度は智臣が答えた。
「ただ、場所そのものが問題じゃない可能性が高くなった」
「何かが移動してるかもしれない」
洋一が補う。
「そして、その何かを星堕としが追っている可能性があります」
「可能性」
「まだ、です」
清隆は頷いた。
そこまでなら成果だ。
少なくとも昨日より前へ進んでいる。
だが、五人の空気は成果を持ち帰った人間のものではない。
「他は?」
清隆が訊く。
今度は少しだけ間があった。
彰人が口を開きかけ、やめる。
代わりに洋一が答えた。
「ヴァルネシアが、開戦準備に入りました」
夜の空気の中へ、その言葉だけが残った。
清隆は洋一を見る。
「準備って、どの段階?」
「兵員の編成、物資の移動。少なくとも僕らが王都へ戻った時点で、すでに始まっていました」
「アルトリウスにも確認した?」
「はい」
「侵攻するって言った?」
「そこまでは言っていません」
「じゃあ、まだ決定ではない」
「ただ」
洋一が一度言葉を止める。
「こちらから、あと何日待てるのか訊きました」
「答えは?」
「日数を約束できる段階は過ぎた、と」
清隆はそれ以上すぐには訊かなかった。
準備を始めている。
しかし、戦争を始めると明言したわけではない。
止められる可能性はまだ残っている。
同時に、明日始まっても不思議ではない。
それなら五人がこの顔で帰ってきた理由も分かる。
「とりあえず、戻って整理しましょう」
洋一が言った。
「今から?」
清隆は訊き返した。
「記憶が新しいうちに共有しておいた方がいいでしょう」
「誰と?」
「まず僕ら五人で。必要なら、そのまま全員を――」
「やめよう」
洋一が言葉を止める。
怒った様子はない。
ただ、なぜ止められたのかを判断するため、清隆を見ている。
「理由を聞いても?」
「今日やっても、たぶん精度が悪い」
「僕は問題ありません」
「洋一だけの話じゃない」
清隆は五人を順番に見た。
「彰人はずっと違うこと考えてる」
「……」
「雅史は、今この場でも今日集めた情報を並べ直してるだろ」
雅史が苦笑した。
「まあ、それは否定できないかな」
「智臣も同じ。たぶん雅史とは別の方向で」
「今日見た場所がまだ頭に残ってる」
「ほら」
清隆は最後に怜司を見る。
「怜司は腹減ってる」
「そこ俺のせいなん?」
「いや。それはそれで正常」
「清隆、それ褒めてへんやろ」
「褒めてない」
「やっぱり」
智臣が笑った。
ほんの少しだけ、その場の空気が緩む。
清隆は洋一へ戻った。
「今日やるなら、今日起きたことを全部もう一回思い出しながら話すことになる。でも、今の五人だと事実の整理より先に、それぞれの考えが入る」
「だから、一晩置くと」
「ああ。いや――そういうことじゃないな」
清隆は少し考え、言い直した。
「その方がいいと思う、が正しい」
洋一は何も言わず、数秒だけ考えた。
すぐに何かを決めることが、いつでも正しいわけではない。
清隆の言う通り、今の自分は「戻ったら次に何をするか」までを一つの仕事として処理しようとしていた。
五人が帰ってきた時点で、今日の仕事は一度終わっている。
その区切りを自分だけが作っていなかった。
「明日は金曜日」
清隆が続ける。
「今日より時間を取りやすい。終わりが多少遅くなっても、翌朝の授業や仕事を気にする人も少ないだろうし」
「ああ」
洋一はそこでようやく意図を理解した。
「なるほど」
「今日は要点だけ残そう。それ以上はやらない」
「分かりました」
洋一は頷いた。
「では、今日はそこまでにしましょう」
「その方がいいと思う」
清隆の返答に、洋一もそれ以上は続けなかった。
◇
部室へ戻った五人は、本当に最低限の確認だけをすることにした。
ホワイトボードの前に雅史が立ち、今日確認したことを一つずつ書いていく。
星堕としの発生地点には、これまで想定していたような固定条件が見つからない。
土地、人口、都市の規模、戦争の有無、魔術の利用。これまで候補に挙がった条件を一つずつ当てはめても、そのどれか一つで全ての事例を説明することはできなかった。
次に、過去の発生地点を時間順に並べた場合の移動範囲。
雅史がそこまで書いたところで、智臣が椅子から声をかけた。
「そこは確定みたいに書かない方がいい」
「何かが移動している、じゃなくて?」
「『移動していると仮定した場合、当時の移動可能範囲に収まる事例が多い』くらい」
「そうだね」
雅史は一度書いた言葉を消して、より長い文章に直した。
その下には、三つ目の地点。
智臣が空間の連続性に違和感を覚えたこと。
そして、怜司が同じ場所を見て言った言葉。
『おる』
「それ、そのまま書くん?」
彰人が訊いた。
「他に言いようがないから」
雅史が笑う。
「兄貴、何がおったん?」
「知らん」
「ほら」
「でもおったで」
「分かった分かった」
普段ならもっと追及したかもしれない。
今日は、そのやり取りを続ける気になれなかった。
最後の一行に入る。
雅史がマーカーを持ったまま、少し止まった。
星堕としについて書いてきた内容とは、種類が違う。
情報ではある。
だが、これを書いた瞬間に、今日という日の意味が変わる気がした。
結局、雅史はそのまま書いた。
――ヴァルネシア、開戦準備を開始。
誰もすぐには何も言わなかった。
ホワイトボードに並ぶ他の文章より短い。
それなのに、その一行だけが妙に重い。
「『開戦決定』ではない」
洋一が言った。
「そこは明日、必ず分けて話します」
「でも準備は事実」
智臣が確認する。
「はい」
「止まる可能性もある」
「あります」
「なら、そこも明日」
雅史はマーカーの蓋を閉めた。
今日は、この先へ進まない。
それが清隆と決めたことだった。
彰人はホワイトボードの最後の一行を見る。
開戦準備。
その文字を見ただけで、王都での光景が戻ってくる。
兵士。
荷車。
装備。
その横にいたセレスティア。
『私も、待ちたいです』
戦いたいと言ったわけではない。
むしろ逆だった。
それでも、戦争は近づいている。
「帰るか」
智臣が立ち上がった。
雅史も資料をまとめ始める。
洋一はホワイトボードを一度見たあと、全員へ視線を向けた。
「明日、全員を招集します」
「何時?」
怜司が訊く。
「夕方で考えています」
「了解」
「それまでに今日の内容を一度、自分の中でも整理しておいてください」
「分かった」
「兄貴ほんまに分かった?」
「何で俺だけ確認されんねん」
「いや、今から飯のことしか考えてへんやろなと思って」
「飯食いながらでも考えられるで」
「器用やな!」
今度は雅史も笑った。
今夜できることは、それで終わった。
◇
翌日。
招集時間より三十分近く早い部室には、昨日ヴァルネシアへ行った五人がすでに揃っていた。
最初に来ていたのは雅史だった。
机の上には昨日の資料が広がり、ホワイトボードの内容も一度紙へ落とし直してある。
智臣は地図を横から覗き込み、位置関係を再確認していた。
洋一も資料を持って来ている。
彰人は昨日より落ち着いているように見えた。
そして怜司も、今日は珍しくかなり早い。
「怜司がこの時間にいると、ちょっと違和感あるね」
雅史が言った。
「何でやねん」
「普段はもう少しギリギリだろ」
智臣も笑う。
「間に合ってるやろ?」
「そういう問題じゃないんだよ」
「何が問題なん?」
「もうええやん。今日は早いんやから」
彰人が言いながら椅子へ座る。
「兄貴にその話振ったら終わらへん」
「なんか俺、扱い雑ちゃう?」
「昔からや」
何気ないやり取りだった。
雅史には、それが少し懐かしく感じられた。
怜司と彰人。
自分。
そして智臣。
子供の頃から生活圏が近かった。
怜司たち兄弟と自分の家は、歩いていて偶然顔を合わせることも珍しくない距離だったし、智臣も自転車ならすぐだった。
同じ町の道場にも通っていた。
今はそれぞれ大学や立場が変わっている。
それでも、四人が同じ机を囲むと、昔と変わらない距離感へ簡単に戻る。
「先に昨日の内容を揃えようか」
雅史は資料へ視線を戻した。
「全員が来てから説明する前に、僕ら五人の認識がずれてないか確認したい」
「お願いします」
洋一が頷く。
そこからの話は、前夜よりずっと整理されていた。
固定された土地の条件では説明できない。
何かが移動している可能性。
智臣が感じた空間上の違和感。
怜司の認識。
ただし、それが星堕としの標的なのかはまだ仮説。
「昨日はかなり答えに近づいた気がしたけど」
雅史は資料の端を指で押さえた。
「一晩置くと、まだ仮説が多いね」
「そうだな」
智臣が頷く。
「でも、調べる方向は昨日までより絞れた」
「そこは大きいと思う」
洋一も同意する。
彰人は黙って聞いていた。
昨日なら、星堕としの話をしている途中でも別のことが頭に浮かんでいた。
今は少し違う。
何が分かっていて、何がまだ分かっていないのか。
それを整理してから、次に進める。
「戦争については?」
怜司が訊いた。
洋一が資料から顔を上げる。
「開戦準備が始まっている。そこは変わりません」
「止めるんやろ?」
「はい」
「ほな、止めたらええやん」
彰人が怜司を見る。
昨日も聞いた言葉だった。
「だから、その止め方を今日考えるんやろ」
「せやで」
「……分かってるんやったらええけど」
「彰人は考えすぎなんよ」
「兄貴が考えなさすぎなんや!」
「考えてるで」
「どこを?」
「色々」
「雑!」
雅史は二人を見ながら小さく笑った。
昔も似たようなことがあった。
道場で一つの技について皆が細かく考えている横で、怜司だけが先に「こうすればいい」とやってしまう。
理由を訊かれると説明できない。
それでいて、間違っていないことがある。
逆に彰人は、できた理由も失敗した理由も全部拾おうとする。
二人が兄弟であることが不思議になるくらい、考え方は違う。
「また考えすぎてる?」
雅史が彰人へ訊いた。
「分かります?」
「昔から」
「雅史さんに言われたないなぁ」
「僕も?」
「道場の帰り、先生に言われたこと一人でずっと考えてたやないですか」
「ああ」
記憶を辿ると、思い当たる。
智臣が笑った。
「途中から俺、聞いてなかったけどな」
「智臣さんはすぐ飽きるから」
「帰る距離、俺だけ少し長かったんだよ」
「自転車やったらすぐやろ」
「お前らが近すぎるんだって」
「俺もおるで」
怜司が割り込む。
「兄貴は道場終わったら晩飯のこと考えてたやろ」
「失礼やな」
「違うん?」
「……たまには考えてた」
「たまにかい!」
笑いが起こったところで部室の扉が開いた。
最初に入ってきたのは良澄だった。
続いて桜子。
「もう始めてるん?」
「昨日の復習だけです」
洋一が答える。
その後も、一人ずつ集まってくる。
智希。
恭平。
優斗。
清隆。
最後に行人が姿を見せたところで、十二人が揃った。
洋一は人数を確認して立ち上がる。
「では、移動しましょう」
「今日はここやないん?」
桜子が訊く。
「聖域を使います」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
普段の相談なら部室で足りる。
それでも今日は、外部へ漏れる可能性を一つでも減らしたい。
十二人だけの話にする必要がある。
全員がそれを理解して、誰も異論を挟まなかった。
◇
洋一の聖域に置かれている円卓には、上座がない。
誰か一人を中心に据えるための場所ではないからだ。
円卓を囲む十二脚の椅子には、それぞれ異なる紋章が刻まれている。
鳳凰、御神牛、狐、神蟹、白金の獅子、白鹿、龍、神狼、八咫烏、麒麟、六牙の白象、そして鯱。
十二人が集まるようになってから決まった、それぞれの席だった。
普段はあまり意識しない。
だが全員が一度に座ると、円卓の周囲へ十二の神獣が並ぶようにも見える。
洋一も特別な席には座らない。
龍の紋章が刻まれた、自分の椅子へ座るだけだ。
それでも今日の会議を進めるのが誰なのかは、全員が分かっていた。
「始めます」
洋一が資料を開く。
「最初に、昨日までに分かった事実を共有します」
説明は雅史と智臣が中心になった。
過去の記録については雅史。
位置と移動については智臣。
必要なところだけ洋一と彰人が補う。
怜司は、自分が感じたことを訊かれた時だけ答えた。
「何かがいた?」
智希が確認する。
「おったで」
「見えたの?」
「見えてへん」
「じゃあ何でいるって分かるの?」
「おるから」
「……それ説明になってないよ」
「知ってる」
「知ってるんだ」
智希が困ったように笑う。
そのやり取りを横で聞きながら、清隆は資料へ目を落とした。
「つまり」
区切りのいいところで口を開く。
「現時点で確定してるのは、土地の固定条件だけでは説明できないこと。智臣と怜司が同じ位置に別々の違和感を持ったこと。それだけ?」
「大きく言えば、そうだね」
雅史が答える。
「移動している何かを星堕としが追っている、は仮説」
「うん」
「次の落下地点を予測できる、もまだ仮説」
「それも」
彰人が少し眉を寄せた。
「でも、かなり可能性高いんちゃう?」
清隆が彰人を見る。
「高いと思う」
「ほな」
「でも、高いことと確定は違う」
彰人が何か言おうとする。
その前に良澄が二人を見た。
「清隆は、可能性を捨てろって言ってるわけじゃないと思うよ」
「言ってない」
「分かってますけど」
「じゃあいい」
「その言い方や!」
少し強くなった彰人の声に、桜子が苦笑する。
清隆は冷たいわけではない。
彰人自身、それは分かっている。
ただ今は、可能性を単なる数字として扱われると少し腹が立つ。
そこに昨日一緒にいた人間の顔が重なっているからだ。
雅史がそこへ続きを入れた。
「だから、調査は続ける価値がある。そこは僕も清隆も同じだと思う」
「もちろん」
清隆が答える。
「ただ、次の話はそれとは切り離した方がいい」
次。
何のことか、全員が分かっていた。
洋一は資料を一枚めくった。
「ヴァルネシアでは、開戦に向けた準備が始まっています」
今度は、先ほどまであった軽いやり取りが止まった。
恭平が少し身を乗り出す。
「向こうは、もう開戦を決めてるんですか?」
高校生らしい若さの残る声だったが、訊き方は真面目だった。
「そこまでは確認できていません」
洋一が答える。
「アルトリウス自身も、侵攻を開始すると明言したわけではない。ただ、兵と物資は動き始めている」
「じゃあ、止まる可能性もある?」
行人が訊く。
「あります」
「逆に、いつ始まってもおかしくない」
清隆が補う。
洋一が頷いた。
「そう考えて準備します」
「向こう、戦いたがってるわけちゃうで」
彰人が言った。
声に、さっきまでとは違う力が入る。
「セレスティアさんも、待ちたいって言うてた。アルトリウスも、俺らの調査を止めようとはしてへん」
「うん」
清隆が答える。
「それと、開戦準備してることは両立する」
「……分かってる」
「なら、今は両方を事実として持っておけばいい」
彰人は口を閉じた。
正しい。
それだけに反論しづらい。
桜子が少し身体を彰人の方へ向ける。
「昨日、その人らとずっと一緒やったん?」
「うん。セレスティアさんと、八傑の四人」
「そっか」
それだけだった。
だが彰人には、妙にありがたかった。
洋一が一度円卓全体を見回す。
「ここから、侵攻が始まった場合の対応を決めます」
誰も姿勢を変えなかった。
けれど、会議の意味はそこで明確に変わった。
「最初に、勝利条件を決めます」
「勝利条件?」
智希が聞き返す。
「はい。ただし、ヴァルネシア軍を壊滅させることを勝利とはしません」
洋一は一つずつ言葉を選ぶ。
「ヴァルネシアという国に、致命的な損害を与えない。そこを前提にします」
優斗が頬杖をつきながら聞いている。
良澄は少しだけ表情を緩めた。
桜子も特に驚かなかった。
おそらく、多くの者が同じことを考えていたのだろう。
「可能なら」
洋一が続ける。
「相手を傷つけずに無力化する。それを目標にします」
「絶対じゃない?」
智希が訊く。
「そこを絶対条件にすると、こちらが守るべきものを守れなくなる可能性があります」
「じゃあ最低限は?」
今度は恭平だった。
「不殺です」
洋一は即答した。
「十二神承から、意図して相手を殺すことはしません」
円卓を囲む者の誰からも、反対は出なかった。
恭平も一度頷いたあと、確認するように訊く。
「向こうが本気で殺しに来ても、ですか?」
「そうです」
「分かりました。だったら俺もそれでいいです」
短いが迷いはなかった。
優斗が少しだけ椅子へ深く座り直す。
「ワシもそれでいいと思う。そもそも倒したい相手じゃないし」
彼だけ一人称がおかしい。
だが言葉自体は標準語だった。
それが彼らしさでもあるので、誰も違和感を持つことはない。
「僕も賛成かな」
良澄が続く。
「怪我人が出たら、向こうの人でも助けた方がいいと思う」
「敵でも?」
彰人が思わず訊く。
「うん」
良澄は穏やかに頷いた。
「止めることと、見捨てることは別じゃないかな」
その言葉が、彰人の中へ静かに残った。
清隆が腕を組む。
「俺も不殺には賛成。ただし、日本側へ被害が出ないことの方が上」
「そこは同意します」
洋一が答える。
「ヴァルネシア側を傷つけないために、日本の一般人を危険に晒すつもりはありません」
「なら問題ない」
対立する意見はある。
けれど、誰かがヴァルネシアを憎んでいるわけではない。
日本を守らなくてもいいと思っている者もいない。
細かな優先順位を確認すれば、意見は自然に一つの方向へ集まっていった。
洋一は最後に整理した。
「絶対目標は不殺。努力目標は、可能な限り無傷での無力化」
十二人全員の視線を確かめる。
「これを基本方針にします」
◇
少し休憩を挟んだ。
聖域から出る者はいない。
それぞれ飲み物を取り、席を離れて少し身体を伸ばす程度だった。
十分ほど経つと、自然に円卓へ戻る。
次に広げられたのは地図だった。
「では」
洋一が日本側とエーテリア側を繋ぐ裂け目を指す。
「どこで止めるかを決めます」
最初に消えたのは、日本側だった。
議論になる前から、ほとんど全員が同じ認識を持っていた。
「日本まで入れたらまずいよね」
智希が地図を見ながら言う。
「まずいどころじゃないと思う」
雅史は少し考えてから続けた。
「一般人に避難を呼びかけるとしても、理由を説明できない。いつ来るかも分からない。何万人規模で動かすことになるのかも分からない」
「警察や自衛隊まで巻き込むことになる」
清隆が言う。
「そこまで行ったら、俺たちだけの問題じゃなくなる」
「それに普通の人、異世界から軍隊来るなんて思わへんで」
桜子が困ったように笑った。
「最初、映画か撮影やと思う人おるんちゃう?」
「いると思う」
雅史も否定しなかった。
「珍しい格好をした集団が歩いてたら、逃げるより先にスマホを向ける人もいるだろうね」
「魔術撃たれてから気づくんじゃ遅いな」
智臣が地図から顔を上げる。
笑い話のような話だった。
実際には笑えない。
日本では戦争が起きることを前提に生活している人間の方が少ない。
戦場であれば当然の行動が、こちらでは当然ではない。
「日本側で戦う案は除外します」
洋一が結論を出す。
異論はなかった。
「では、エーテリア側」
問題はそこからだった。
エーテリアならどこでもいいわけではない。
王都。
街。
集落。
農地。
そこにはヴァルネシアの人々の生活がある。
「街の近くも嫌やな」
桜子が地図を眺める。
「人に当たるんは論外やろ」
「建物もできるだけ避けたいね」
雅史が続ける。
「戦争を止めたあと、生活できなくなったら本末転倒になる」
「農地も同じです」
行人が言った。
「今でも食料が足りないんですよね」
「そう」
彰人が頷いた。
「昨日も見たけど、使える土地減ってんねん。そこ荒らしたら余計しんどなる」
清隆は地図の地形を追う。
目的は占領ではない。
敵の拠点を落とす必要もない。
ただ裂け目を越えさせなければいい。
それなら、自分たちから広い場所へ出ていく理由はない。
「守るだけなら」
清隆が口を開く。
「対象の近くで待つのが一番合理的」
「裂け目?」
智希が訊く。
「そう」
洋一も同じ位置を見ていた。
「こちらは十二人しかいません。広い戦線を作れば、その分一人あたりが受け持つ範囲が広がります」
洋一が裂け目を指したまま、その周囲へ視線を落とす。
「でも、向こうの目的が日本へ入ることなら、最終的には必ずここへ来る」
「敵を全部倒す必要もないしな」
智臣も地図を覗き込んだ。
「こっちから探しに行く必要もない。ここへ来た部隊だけ止めて、抜けさせなければいい」
攻める側なら、相手を追う必要がある。
だが今回は違う。守るべき場所は最初から一つに決まっている。
十二人しかいない以上、それはむしろ都合がよかった。
地図の上で、戦い方が少しずつ形になっていく。
ヴァルネシア軍の全てを押し返す必要はない。
主力がどこにいてもいい。
指揮官が誰でもいい。
日本へ向かうためには、最終的に裂け目へ来るしかない。
ならば、その一点を守ればいい。
「山の中とかは?」
怜司が訊いた。
彰人が即座に顔を向ける。
「兄貴は山で戦うな」
「何でやねん」
「山なくなるやろ」
「なくならへんわ」
「地形変わるやろ!」
「ちょっとくらいなら」
「ちょっともあかん!」
桜子が噴き出した。
「怜司、今回は山消すん禁止な」
「消さへんって」
「『消すつもりなかった』も禁止やで」
「俺そんな信用ない?」
智臣が一拍だけ置いた。
「ある意味、ある」
「どっちやねん」
小さな笑いが広がる。
その間にも、洋一は地図から目を離さなかった。
裂け目を守る。
ならば、必要なのは攻め込む力ではない。
その場所から動かない力。
「うちがやろか」
桜子の声だった。
皆の視線が集まる。
「裂け目の前」
桜子は自分が言った場所を指で軽く示す。
「最後のところ、うちが守る」
言い方はいつも通り柔らかい。
けれど、その中に迷いはなかった。
「誰も通さんかったらええんやろ?」
洋一が桜子を見る。
自分から申し出ることを予想していたわけではない。
ただ、その役割を誰に任せるか考えれば、最初に候補へ挙がるのも桜子だった。
「人数が多くても?」
「むしろ、そっちの方がやりやすいかも」
桜子は笑った。
「一人ずつ追いかけるんは苦手やけど、ここ守れって言われる方がええわ」
前へ出て突破する怜司とは正反対。
動かず、そこを守る。
御神牛の性質にも、桜子自身にも合っている。
「では、桜子を最終防衛線にします」
「任せて」
「桜子を抜ける前に止めるのが基本ですが、突破者が出る可能性は考えておきます」
洋一の視線が二人へ動く。
智希が先に気づいた。
「僕と恭平?」
「はい」
恭平もすぐに役割を理解したようだった。
「追いかけて止めればいいんですね」
「お願いします。智希は索敵と撹乱。恭平は追跡と確保。裂け目へ近づく者を優先してください」
「了解です」
「いいよ」
そこまで決まれば、大まかな防衛方針はできた。
桜子の前で敵を無力化する。
桜子が最後の壁になる。
それでも抜ける者は智希と恭平が追う。
そして誰一人、裂け目を越えさせない。
洋一が次の配置を考えようとした、その時だった。
「兄貴は外した方がええ」
彰人の声が先に出た。
怜司が自分を指す。
「俺?」
「他に誰がおんねん」
「何で?」
彰人は答える前に、一度息を吐いた。
理由はいくつもある。
その中で、まず口にしやすかったのは一番分かりやすい理由だった。
「不殺と相性悪すぎる」
「殺さへんで?」
「それを信用してへんわけちゃう」
「ほなええやん」
「兄貴の『加減した』が信用できへんねん!」
「同じちゃう?」
「全然ちゃう!」
「加減するで」
「昨日から何回言うねん!」
いつもの兄弟のやり取りに見える。
だが、彰人の声だけが少し違った。
雅史はその変化に気づいた。
ただの火力の話ではない。
昨日、彰人はヴァルネシア側の人間と一日行動している。
セレスティア。
八傑。
実際に言葉を交わし、同じ車に乗り、同じ目的で調査した。
今日から敵だからといって、すぐに「敵」とだけ見られるほど器用ではない。
「彰人」
雅史が静かに呼んだ。
彰人は一度口を閉じる。
「言いたいことは分かるよ」
「……はい」
「でも、怜司を前線から外す理由は、それだけじゃないと思う」
彰人が顔を上げた。
智臣も頷いている。
「昨日の続きだな」
「何が?」
怜司が訊く。
「お前が『おる』って言ったやつ」
「ああ」
「戦争が始まるからって、あれを放っておく理由はない」
そこで洋一も考えが繋がった。
ヴァルネシア軍を撃退する。
それだけなら、戦争そのものは止められるかもしれない。
しかしヴァルネシアが日本へ来ようとしている原因は消えない。
星堕としが続き、病と汚染が広がり、使える土地が失われ、食料まで不足している。
ヴァルネシアが日本へ来ようとしているのは、その全部が積み重なった結果だ。
そこが変わらなければ、今回止めても問題は残る。
「怜司には」
洋一が言った。
「前線ではなく、昨日の調査を続けてもらいます」
彰人の視線が洋一へ移る。
「原因を調べるん?」
「はい」
「戦争始まっても?」
「だからこそです」
洋一は迷わなかった。
「侵攻だけ止めても、ヴァルネシアの問題は解決しません」
その言葉を聞いた瞬間、彰人の中で何かが変わった。
全部を守れるとは思っていない。
昨日会った人たちと戦わなくて済む保証もない。
それでも。
誰も、ヴァルネシアを見捨てる話をしていなかった。
桜子は守ると言った。
良澄は敵でも治すと言った。
洋一は戦争を止めながら、原因の調査も続けると言った。
清隆ですら、星堕としの仮説を捨てろとは一度も言っていない。
自分だけが、戦争が始まるかもしれないという言葉に引っ張られていたのかもしれない。
「兄貴」
「ん?」
「ちゃんと調べてこいよ」
「最初からそのつもりやけど」
「頼むで」
「何で急に元気なったん?」
「うるさい」
怜司は不思議そうに首を傾げる。
多分、兄には分からない。
いや。
兄は最初から、戦争を止めることと助けることを別の問題だと思っていなかったのかもしれない。
彰人にはそこまで単純には考えられない。
それでも、今は同じ方向を向ける。
◇
怜司を前線から外すことは決まった。
しかし、一人で行かせるわけにはいかない。
「誰か一人、一緒に行った方がいいよね」
智希が言った。
「獅子おるで」
怜司が当然のように答える。
「一人って数えるの?」
「人ちゃうで」
「そこじゃないよ」
智希が笑う。
雅史は昨日の調査を思い返していた。
怜司には、何かの存在が分かる。
だが、その正体は分からない。
昨日は智臣の空間認識が、その場所を絞る助けになった。
ただ、智臣を別動へ回すのは惜しい。
これから戦場になる可能性がある場所で、位置関係を正確に把握できる能力は大きい。
「獅子と一緒なら、もう少し分かる?」
雅史が訊く。
「多分」
「どうして?」
「一緒に見たら分かる気する」
「感覚を共有できるってこと?」
「そんな感じ」
「同期?」
智臣が言う。
「知らん」
「仕組みは?」
「知らん」
「いつから?」
「前からちゃう?」
「なんで本人が疑問形なんだよ」
「意識したことないし」
智臣はしばらく怜司を見たあと、諦めたように息を吐いた。
「まあ、できるならいい」
「雑になったな」
「お前相手に理屈探すと終わらない」
「失礼やなぁ」
だが、問題はそこではない。
「仮に場所が分かっても」
清隆が円卓に置かれた資料を見る。
「どうやって情報を取る?」
その問いには、すぐ答えが出なかった。
存在するらしい。
しかし姿は見えない。
声も聞こえない。
少なくとも、昨日そこへ立った者たちは普通の生き物として認識できなかった。
「気配みたいなもの?」
良澄が訊く。
智臣は少し考えてから首を横へ振る。
「俺が感じたのは、そういう感じじゃない。場所そのもののつながり方がおかしいっていうか」
「兄貴は?」
「おる感じ」
「それ以上出えへんの?」
「出えへん」
「ほんま役に立つんか立たへんのか分からんな」
「役には立ってるやろ」
「そこが腹立つねん」
桜子が少し笑ったあと、怜司を見る。
「でも、人やないんやろ?」
「知らん」
「動物でもない」
雅史が続ける。
「少なくとも僕らが知っている普通の生き物として考えない方がいいと思う」
「話しかけても返事ない?」
智希が訊く。
「昨日は試してない」
「試してても、返事の仕方が分からない可能性があるね」
雅史の言葉で、話の向きが少し変わった。
人間同士なら、言葉を使う。
動物なら行動や声から意思を読むこともできる。
だが、相手がそのどちらでもないなら。
そもそも「会話する」という前提から作り直さなければならない。
「概念みたいなものだったら?」
良澄が言った。
「それこそ、どう話すの?」
誰も答えない。
円卓の上に静かな時間が流れた。
行人は、その会話を聞きながら考えていた。
見えない。声も聞こえない。触れられるのかさえ分からない。それでも怜司は、そこに「いる」と言う。
ならば、存在そのものがないわけではない。
問題はただ一つ。自分たちが、その存在と接触するための手段を持っていないことだ。
手段がない。
普通なら、そこで止まる。
けれど、行人にとっては少し違う。
ないなら――。
「話せるようにすればいいんじゃないですか?」
静かだったせいで、行人自身が思った以上に声が通った。
全員の視線が集まる。
「……どういう意味?」
清隆が訊く。
行人は少し考えながら言葉にする。
「相手に言葉がないなら、言葉を使わなくていい方法。形がないなら、形がなくてもいい方法」
「作るってこと?」
「はい」
「何を?」
「それは、まだ分かりません」
行人は正直に答えた。
「相手を見てないので」
清隆は少しだけ目を細めた。
否定ではない。
今言われたことを、実際に可能な案として評価している。
「できる保証は?」
「ないです」
「対象そのものも分からない」
「はい」
「なのに?」
「だから僕が行く意味があるんじゃないですか?」
少しだけ笑う。
「分かってるものなら、最初から誰かがやればいいですから」
その答えに、今度は清隆もすぐには返さなかった。
創造。
存在しないものを作る。
今ある方法から最適なものを選ぶのではない。
必要な方法そのものが存在しないなら、新しく作る。
今回の問題には、確かにそれが一番近い。
洋一は頭の中でもう一度配置を組み直した。
智臣の空間認識は前線で使いたい。雅史も戦況を整理する側から外しづらい。
良澄には救護があり、清隆には防衛地点そのものの確認がある。
智希と恭平、優斗、桜子、彰人にも、すでにそれぞれ前線で担うべき役割が見えている。
結果として行人が残る。
だが、単なる消去法ではない。
存在しない接触方法を作る。
それを任せるなら、最初から行人以上に適した者はいなかった。
「では」
洋一が結論を出した。
「怜司と行人を別動隊にします」
「了解」
怜司が軽く答える。
行人は少し姿勢を正して頷いた。
「分かりました」
「昨日、怜司が違和感を覚えた地点を中心に調査を継続してください。存在を確認できた場合は、無理に触れようとせず、行人が接触方法を検討する」
「起こしたりせん方がええ気するけどな」
怜司が何気なく言った。
行人がそちらを見る。
「起こす?」
「知らん。寝てるみたいなやつもおる気ぃする」
「……複数?」
「多分」
雅史と智臣が同時に怜司を見た。
「昨日それ言ってないぞ」
「聞かれてへんし」
「そういうのは先に言え!」
「何で怒られんねん」
彰人が額を押さえた。
「兄貴、ほんまそういうとこやぞ……」
ただ、それについては今ここで掘り下げても仕方がない。
現地へ行く必要がある。
「問題は移動です」
洋一が言う。
「昨日のように車は使えません」
「何で?」
怜司が訊く。
智臣が答える。
「昨日はヴァルネシア側と一緒に動いてたからだよ。今回は開戦準備中の国内を、向こうに知らせず調べる可能性がある」
「日本の車で走ってたら目立つよね」
雅史も続けた。
「軍の移動に出会う可能性もある」
「セレスティアさんに言えば?」
「国全体がセレスティアさんの一存で動いてるわけやないで」
彰人がすぐに返す。
「そらそうか」
「そこで納得すんねんな」
行人は少しだけ考えた。
移動方法。
車を使わない。
複数地点を回る。
できれば地上から見つからない。
頭の中に一つ方法が浮かんだが、まだ口にはしなかった。
現地の状況を見てからでいい。
「向こうへ行ってから考えましょう」
行人が言う。
「ええで」
怜司はあっさり答える。
「大丈夫なん?」
彰人が訊く。
「何とかなるやろ」
「二人とも同じタイプになったらあかんで」
「僕は怜司さんほど適当じゃないです」
「俺、適当なん?」
「自覚なかったんですか?」
「酷いな」
また笑いが起きた。
けれど、その笑いを聞きながら、彰人は先ほどまでとは明らかに違う感覚を持っていた。
誰も諦めていない。
戦う準備をしている。
それと同時に、助ける準備も続けている。
その二つを同時にやろうとしている。
なら。
自分が前線で迷う理由もない。
◇
会議の最後に、洋一は決まった内容をもう一度整理した。
不殺。
これは絶対条件。
可能な限り無傷で相手を無力化すること。
こちらは努力目標。
日本側へヴァルネシア軍を通さない。
戦闘は原則としてエーテリア側で行い、民間人や生活圏へ被害を出さない。
裂け目付近を最終防衛地点とし、その最後の壁を桜子が担う。
そこへ到達する前に敵部隊を止めるのが基本だが、それでも突破する者が出た場合は智希と恭平が追跡し、捕捉する。
良澄は救護を担当し、敵味方を問わず必要な者を治療する。
清隆は裂け目周辺の地形と構造を把握し、戦闘による被害が広がらない形を作る。
優斗は離れた各員の情報を繋ぎ、雅史と智臣は戦況、地形、敵部隊の動きを整理する。
そして洋一が、それら全てを見ながら必要な戦力を必要な場所へ配分する。
それとは別に、怜司と行人は戦線から外れ、星堕としの調査を継続する。
「神装は?」
恭平が最後に確認した。
声には体育会系の素直な確認がある。
「必要なら使っていいんですよね?」
「はい」
洋一は頷く。
「ただし、最初から全員が使う必要はありません。必要な能力と出力に応じて判断してください」
「了解です」
怜司は何も言わない。
行人も同じだった。
今のところ、二人が調査で神装を必要とする理由はない。
必要になった時に使えばいい。
「以上です」
洋一が資料を閉じた。
「各自、準備を始めてください」
そこから円卓の周囲が動き始めた。
智臣は清隆と地図を見ながら、裂け目周辺の位置関係について話し始める。
良澄は桜子に救護時の動線について確認している。
智希と恭平も、どの程度離れて動くか相談していた。
怜司は行人のところへ行き、
「いつ行く?」
「明日でいいんじゃないですか?」
「今日でもええで」
「これから準備するんですよ?」
「何準備すんの?」
「……そこからです」
「ほな待ってるわ」
「手伝ってください」
「何したらええ?」
「それを今考えてます!」
少し離れたところで彰人が聞いている。
「行人、兄貴の扱い慣れてきたな」
「嬉しくないです!」
やがて一人ずつ聖域を出ていく。
怜司も彰人と一緒に出口へ向かいかけた。
「兄貴、先行っといて」
「なんで?」
「ちょっと洋一に話ある」
「俺おったらあかん?」
「あかん」
「なんで?」
「ええから行け!」
「はいはい」
怜司は不満そうにしながらも出ていった。
入口が閉まる。
残ったのは彰人と洋一だけだった。
洋一は資料を揃えている。
「洋一」
彰人が呼ぶ。
洋一が顔を上げる。
会議中とは違い、ここにはもう二人しかいない。
「何?」
敬語が外れていた。
彰人は一瞬だけそのことに気づいたが、あえて触れなかった。
「……ありがとな」
「何が?」
「分かってるやろ」
洋一は少しだけ彰人を見る。
それから、わずかに口元を緩めた。
「さあね」
「そういうとこやぞ」
「別に彰人のためだけに決めたわけじゃない」
「分かってる」
彰人も少し笑う。
「だから言うてんねん」
洋一はそれ以上返さなかった。
彰人も説明しない。
救うことを諦めない。
それを自分だけのために決めたわけではないからこそ、ありがたかった。
「ほな」
「うん」
今度の「うん」は、不思議と洋一に似合っていた。
◇
聖域を出ると、怜司が壁際で待っていた。
「遅い」
「先行け言うたやろ」
「帰る方向一緒やん」
「それはそうやけど」
「何話してたん?」
「秘密」
「俺にも?」
「特に兄貴には」
「何でやねん」
「ええから帰るで」
二人で歩き出す。
大学を出る頃には、金曜日の夜らしい人の流れになっていた。
昼間より少しだけ賑やかで、これから帰る者より、どこかへ向かう者の方が目につく。
「怜司」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、雅史と智臣がいた。
「帰る?」
「帰るで」
「途中まで一緒だな」
智臣が言う。
彰人が笑った。
「昔からやろ」
四人が並ぶ。
正確には、智臣の家だけ少し離れている。
それでも自転車なら、わざわざ遠いと言うほどではなかった。
怜司と彰人。
雅史。
智臣。
幼い頃から同じ生活圏にいて、同じ町の道場へ通っていた。
何度この組み合わせで帰ったのか、もう覚えていない。
「腹減った」
怜司が言う。
「またかい」
「昼から何時間経ってると思ってんねん」
「そりゃあ、腹減るか」
彰人も否定できない。
雅史が少し考える。
「どこか寄る?」
「飯?」
「一杯だけでもいいけど」
「かまへんよ」
怜司が言った。
と、言いながらも腹のあたりをさすっている。
「酒じゃなくてもいいよ」
「飯ある?」
「そこ重要なんや」
智臣が笑う。
「じゃあ、前に行ったバーは? 軽いものならあっただろ」
「飯食いにバー行くん?」
「怜司なら行くだろ」
「行くで」
「即答やな」
結局、四人で通り沿いの店へ入った。
小さなバーだった。
照明は少し暗く、カウンター席と数卓のテーブルがある。
金曜の夜だから客はそれなりに入っているが、声を張らなければ話せないほど騒がしくはない。
四人はカウンターの端へ並んだ。
「ハイボール」
彰人が頼む。
「僕も同じで」
雅史が続く。
智臣は少し迷って別の酒を選んだ。
「怜司は?」
「ジンジャエール」
「そこは一貫してんな」
「あと何か食う」
「メニュー見てから言え」
「何ある?」
「だから見ろって…」
昔と変わらない。
四人でいると、会話が何年も前の続きをしているように進む。
飲み物が置かれる。
食べ物も何品か頼んだ。
不思議なことに、誰もすぐヴァルネシアの話を始めなかった。
智臣がグラスを傾けながら、怜司を見る。
「お前、ほんと昔から変わらないな」
「何が?」
「昨日帰ってきて、最初に腹減ったって言ったところ」
「腹減ってたし」
「そこや!」
彰人が突っ込む。
雅史が笑った。
「昔もあったよね」
「何が?」
「道場で全員怒られてた時」
「あったなぁ」
智臣も思い出したらしい。
「怜司だけ晩飯の話してたやつ?」
「今日カレーやと思う、って」
「言うたっけ?」
「言うてたわ!」
彰人が即座に答える。
「先生めっちゃ怒ってんのに、横で『今日カレーやと思う』って!」
「で、本当にカレーだった?」
「それがほんまにカレーやってん!」
「なんで彰人がそこまで覚えてるんだよ」
「兄貴のせいで俺まで怒られたからや!」
「俺のせい?」
「兄貴が言うから笑ったんや!」
「笑ったお前が悪いやん」
「誰のせいや思ってんねん!」
「智臣も笑ってたやろ」
「俺まで巻き込むな」
「雅史さんもや!」
「僕は笑ってないよ」
「絶対笑ってた!」
「記憶にないなぁ」
「大人汚い!」
四人で笑う。
店の中に、その声が混じっていく。
テレビでは何かのバラエティ番組が流れていた。
少し離れた席では、会社員らしい男女が週末の予定を話している。
学生らしい客もいる。
誰も急いでいない。
誰も武器を持っていない。
この世界のすぐ近くで、別の国が戦争の準備をしていることなど知るはずもない。
彰人がテレビへ視線を向ける。
昼間の会議で出た話を思い出した。
もしヴァルネシアの兵士たちが、この街へ突然現れたら。
逃げるより先に、撮影だと思う人間がいるかもしれない。
珍しい衣装だとスマートフォンを向ける者もいるだろう。
その認識が間違っていると気づいた時には、遅いかもしれない。
「……こっちには入れられへんな」
彰人が呟いた。
声は小さかったが、三人には届いた。
雅史がグラスを置く。
「そうだね」
智臣も一度、店の中を見回した。
「ここを戦場にするのはなしだな」
怜司は手元のジンジャエールを飲みながら、三人を見る。
「せやから止めるんやろ?」
彰人が兄を見る。
「……そうやな」
「最初からそう言うてるやん」
「分かってるわ」
「ならええやん」
「兄貴が言うと腹立つな」
「何で?」
「知らん」
「理不尽や」
雅史が小さく笑った。
「でも、怜司の言ってることは間違ってないよ」
「雅史さんまで」
「止める。助ける方法も探す。僕らが今日決めたのは、その両方だから」
彰人はグラスの中の氷を見る。
一日近く引っかかっていたものが、ようやく少しだけほどけた気がした。
「兄貴」
「ん?」
「明日、ちゃんと見つけてこいや」
「見つけるで」
「自信あるん?」
「おる場所行ったらええんやろ?」
「……もうええわ」
「何でやねん」
智臣が笑う。
「見つけるところまでは怜司に任せていいんじゃないか」
「その後は?」
彰人が訊く。
「行人」
雅史が答えた。
「兄貴、他人任せやん」
「俺、話せへんもん」
「知らん相手にようそこまで堂々と言えるな」
「話せるようにするん行人やろ?」
「そうだけど」
「ほな大丈夫やん」
また結論まで一足で飛ぶ。
昔から変わらない。
彰人は呆れながらも、今度は笑った。
明日から何が起きるのかは分からない。
ヴァルネシア軍が先に動くかもしれない。
怜司と行人が先に答えを見つけるかもしれない。
どちらも、まだ分からない。
それでも。
十二人が何をするのかは決まった。
殺さない。
可能なら傷つけない。
日本へは通さない。
そして、ヴァルネシアを助ける方法も諦めない。
それぞれが別々の場所で、その全部を成立させる。
金曜日の夜は、そんなことなど何も知らないまま、いつもと変わらず続いていた。




