第七章 リコネクトは届かなかった悲鳴から
未来を壊した少女。
未来を救おうとした少女。
そして、二人のタイムリーパーに挟まれた武沢。
松木奈々は本当にただの加害者なのか。
遠藤美佳は本当にただの救済者なのか。
何度も上書きされた過去の果てに、ようやく届かなかった声が姿を現します。
これは、誰かを裁くための物語ではなく、誰にも届かなかった悲鳴を見つけるための物語なのかもしれません。
石段を駆け下りる僕の背中に、湿った夕暮れの空気がまとわりつく。
脳細胞が、処理速度の限界を超えて悲鳴を上げていた。
松木が、僕をホームレスへと叩き落とした張本人。
松木が、熊谷洋平を殺害した真犯人。
そして――松木もまた、この時代を「上書き(アップデート)」し続けているタイムリーパーであるという狂気。
「ちょっと、待ちなさいよ武沢。そんなに慌てて一人で飛び出して、どこへ行くつもり?」
背後から涼しげな声が降ってくる。振り返ると、遠藤がスカートの裾を揺らしながら、僕と等間隔の距離を保って石段を降りてきていた。その足取りには、この世界の誰もが持っていない、奇妙な「未来の重み」がある。
「どこへって……決まっているだろ。松木を止めるんだ。これ以上、あいつに世界を弄ばれてたまるか。僕の人生を、なんだと思っているんだ」
「止める? どうやって? 『君が未来で僕をハメることを知っているから、熊谷を殺すのはやめろ』とでも言うの? 説得力ゼロね。今の彼女はね、武沢。追い詰められた猛獣なのよ。自分の人生を奪った男への殺意と、自分の手を汚さずに生き延びたいという保身。その二つだけで動いている純粋な怪物。あんたみたいな甘ちゃんが一人で行ったところで、それこそ新しい『証拠』の一部にされるのがオチよ」
遠藤は僕を追い抜き、神社の鳥居の前に敷かれたアスファルトの上で、くるりと不敵に反転した。
夕日に照らされた彼女の影が、まるで巨大な操り人形の糸のように、長く、黒く、僕の足元へ伸びる。
「だから、あたしが道案内をしてあげる。熊谷洋平の『本当の家』――昨日あんたが行った、あの見栄っ張りの洋館じゃない。彼が実の親からも見捨てられ、悪行の限りを尽くすための根城にしている、場末のアパートへね」
「……遠藤。お前はなぜ、そんなことまで知っているんだ」
僕の問いに、遠藤は小さく溜息をついた。その溜息は、平成初期のぬるい空気の中で、ひどく場違いに冷ややかだった。
「言ったでしょ。あたしもあんたの『同類』だって。あんたが気づかないところで、あたしも何度もこの時間をやり直しているのよ。――あんたを、救うためだけにね」
「僕を、救うため……?」
「そうよ。呆れたことに、あたしが知る『史実』の未来で、あんたはあの河川敷で、名もなきゴミのように殴り殺された。ニュースでその顔写真を見たとき、あたしの心臓は一度止まったわ。どうして、真正直だけが取り柄だった武沢が、こんな最底辺のホームレスに身を落としていたのか。どうして、あんな惨めな死に方をしなければならなかったのか。あたしはそれを突き止めるために、この時代へ精神をジャンプさせた。度数の擦り切れたテレカを握りしめてね」
遠藤は、ポケットから一枚のプラスチックカードを取り出し、僕の目の前でこれ見よがしに指に挟んだ。
そのテレホンカードの表面は、何度も公衆電話の挿入口に擦られたせいで、無数の傷が走り、度数を示す穴は、僕のものと同様に、【5】の右下に穴が空いている。つまりは残り【4】以下、崖っぷちの残高を指していた。
「そして私は調べ、知ったのよ。あんたの人生が壊れたのは、社会の不条理のせいでも、時代の不景気のせいでもない。松木奈々という一人の少女が、自分の罪をあんたに擦り付けたからだってことをね。あんたは冤罪で二十三年もの実刑を喰らい、出所したときには精神を病んで、高校時代の記憶すら失っていた。……許せるわけないじゃない、そんなこと」
遠藤の瞳の奥に、どす黒い狂信の炎が揺らめいた。
彼女の語る「真実」は、僕の脳裏の空白を、恐ろしいほどの説得力で埋めていく。僕の記憶の欠落。それは精神的ショックなどという生易しいものではない。信じていたクラスメイトに裏切られ、人生の全てを奪われたという、魂のレイプに対する防衛反応だったのだ。
「だからあたしは、ループのたびに松木を排除しようとした」
「排除って……まさか」
「ええ、言葉通りの意味よ、武沢」
遠藤は、事も無げに、まるで明日の天気予報を語るような気安さで言い放った。
「あんたが知っている『松木奈々が死んだループ』。あれは全部、あたしが仕組んだことよ。ゲームセンター裏での彼女の死。そこから武沢、あんたに戻された世界での深夜二時の噴水公園での殺害――世界が彼女を殺そうとしたんじゃない。あたしが、彼女を殺したの。彼女さえこの世界から消えてしまえば、あんたが殺人犯に仕立て上げられる未来は消滅する。因果のドミノを、最初の段階で叩き潰す。それが、あたしがあんたに捧げた『愛』の形よ」
背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走る。
僕が必死になって救おうとしていた松木の命は、僕を救おうとする遠藤の手によって、何度も奪われていたというのか。
「じゃあ……あのゲームセンターのぬいぐるみは」
「ああ、あれ? 気づいてくれたんだ。あれはあたしからの、ささやかな警告。あるいは道標よ。あんたが余計な舞台装置(松木)に深入りしないように、あたしが先回りして配置しておいたの。メッセージを込めてね。――『これ以上関わるな、その先は地獄だ』って」
遠藤は歩き出す。僕を誘導するように、しかし逃がさないように。
住宅街の狭い路地を抜けながら、彼女の独白はなおも続く。語られる言葉の量が増えるたびに、僕たちが進む道は、より一層暗い夜の底へと沈んでいくようだった。
「でも、松木もタダじゃ転ばなかった。あいつ、自分が死ぬたびに、執念深く戻ってくる。それはあんたがタイムリープを使うこと知って動いている。しかも、戻るたびに『武沢に罪を被せるための手口』を、より巧妙に、より確実にアップデートしてね。前回のループなんて傑作だったわ。あんたが良かれと思って熊谷を生き延びさせたせいで、松木の殺意のタイミングがズレた。結果として、あいつは熊谷を殺したあと、あんたのポケベルを盗んで死体の手に握らせた。奪ったタイミングはわからないけど。そして警察への通報も、もちろんあいつの自作自演よ。あんたが汗水を流して築いた『救済』は、彼女にとっては、都合のいい『隠蔽のキャンバス』に過ぎなかったの」
言葉が出ない。
僕が良かれと思って羽ばたかせた蝶の羽(過去の改変)は、松木という魔女の手によって、僕の首を絞めるための縄へと編み直されていた。
「さあ、見えてきたわよ、武沢」
遠藤が足を止めたのは、築年数の古そうな、木造二階建ての錆びついたアパートの前だった。
一階の奥、明かりの灯っていない窓。その不気味な静寂の奥に、今、まさに「殺意」が収束しようとしている。
「この中に、熊谷洋平と――そして、世界を書き換えようとしている松木奈々がいる。行きましょう。あたしたちの手で、この歪んだバタフライ・エフェクトに、本当のエンドロールを突きつけるために」
遠藤美佳は、ポケットの中で、カチリと小さく、金属質の音を鳴らした。
それはテレカの音にしては、あまりにも重く、鋭利な響きだった。
そこに広がっていたのは、夕闇よりもなお深い、澱んだ生活臭の混ざる暗がりだった。
カビと、埃と、安物の煙草。そして――それらの隙間を強引に埋め尽くすような、剥き出しの鉄錆の匂い。血だ。
「……あら」
暗がりの中心で、その声はひどく億劫そうに鼓膜を叩いた。
畳の上にしゃがみ込んでいた影が、緩慢な動作で立ち上がる。松木だ。彼女はいつも通りの気だるげな表情のまま、片手に握ったマイルドセブンにライターの火を点けた。
一瞬の火花が、彼女の顔と、その足元に転がっている「巨大な肉塊」を赤黒く浮かび上がらせる。
熊谷洋平。
昨日、僕が天玉駅前の公園で対峙し、少しだが会話を交わしたはずの男。彼は今や、ピクリとも動かない、ただの不可逆的な物体へと変質していた。頭部から流れた血が、古い畳に黒い染みを作って広がっていく。
「奇遇ね、武沢。それに……遠藤さんも一緒? こんな場末のゴミ溜めみたいなアパートに二人揃ってデートなんて、ずいぶんと物好きなことで」
松木はふう、と紫煙をくゆらせた。
その視線は、足元の死体にも、ドアの前に立つ僕たちにも、等しく価値を見出していないかのように冷淡だった。取り乱す様子は微塵もない。それどころか、まるで「予定通りのバグ」を処理しているかのような、恐ろしいほどの落ち着きがそこにはあった。
「松木……お前、本当に、熊谷を……」
「何よ、その鳩が豆鉄砲を喰らったようなマヌケな面は。私の美貌に今更アップデートでもかかったって、学校でも言ったじゃない。それとも何? 目の前にあるこの『肉塊』の解説でもしてほしいわけ?」
アップデート。
何度聞いただろうそのデジタルな語彙。
遠藤美佳の独白を聞く前であれば、単なる彼女の独特な言い回し(ローカルルール)として聞き流していただろう。だが、今の僕には分かる。それは彼女が自分の『犯罪履歴』をこの世界に上書きし、未来を都合よく書き換えようとしている、その傲慢な宣戦布告のコードなのだ。
「しらばっくれるなよ、松木奈々」
僕の背後から、遠藤美佳が冷徹なステップで踏み込んできた。ブレザーのポケットの中で、カッターナイフの刃がシャキリと小さく鳴る。
「あんたが今、何をしようとしていたか、あたしたちには全部お見通しよ。その死体の手にこれから武沢のポケベルを盗むんで、自分が被害者ぶって警察に通報する。……そうやって、何回目のループかしらね? あんたが自分の手を汚さずに、武沢の人生を代わりに刑務所へブチ込もうとしていた、その最悪のシナリオは、もう『アップデート』できないわよ」
遠藤の剥き出しの敵意。
それを正面から浴びた松木は、一瞬だけ、煙草を挟んだ指をぴたりと止めた。
しかし、すぐにその唇の両端が、ぐにゃりと歪んだ笑みの形を作る。
「……あは。あはははは! 傑作ね。なるほど、そういうこと。遠藤さん、あんたも『こっち側』の人間だったわけだ。道理で、前のループで私が何度も不自然な『事故』で死ぬわけだわ。階段から突き落とされたり、背後から突き刺されたり……あれ、全部あんたの仕業だったのね?」
松木は煙草を床の畳に押し付け、揉み消した。その瞳の奥に、高校生のものとは思えない、ドロドロとした三十年分の歳月が、憎悪の怨念となってギラリと輝く。
「だったら話が早いわ。ねえ、武沢。あんた、この泥棒猫に何を聞かされた? 私が冷酷無比な悪女で、あんたをハメようとしている魔女だって? ――笑わせないでよ。被害者は私の方よ!」
松木は死体を激しく踏みつけた。
「このクズが私に何をしたか、あんたは知らないでしょ! 私の尊厳を、私の人生を、性の玩具みたいに弄んで、地獄の底に引きずり落としたのはこの熊谷よ! 私はこいつを殺すしかなかった。殺して、二十七年も刑務所で暮らして、おばさんになってから出所して……そんなの、間違ってるじゃない! だから私は戻ってきたのよ。自分の人生を取り戻すために!」
「だからって、どうして僕なんだよ!」
力の限り叫んだ。狭いアパートの壁に、僕の悲鳴が反響する。
「どうして、関係のない僕を犯人にするんだ! 僕はお前を、松木、お前を救おうとしていたんだぞ!」
「関係ない? 関係ないわけないじゃない、武沢。あんたはいつも、私のそばで『都合のいい顔』をして見ていたのよ。私が熊谷に脅されているときも、心が死んでいくときも、あんたは何も気づかずに、ただのクラスメイトとしてヘラヘラ笑っていた。そんなあんただから選んだのよ。私の代わりに、二十三年間の地獄を背負ってくれる、最高の『身代わり』としてね」
「松木……っ?」気付かずに? と言った。その言葉に僕は違和感を覚える。気付くも何も彼女が僕へSOSを発信していたという事実はない。一体何を言っているんだ?
「言ったでしょ、武沢」
遠藤が、僕の肩に冷たい手を置いた。
「この女はもう、救いようのない怪物なのよ。自分を救うためなら、他人の人生の度数なんていくらすり潰してもいいと思っている、ただの自己中心的なリーパー。――さあ、どいて。あたしが今度こそ、このバグを完全に消去してあげるから」
遠藤がカッターナイフを構え、松木へと突進しようとする。
対する松木は、暗がりの台所から、熊谷を刺殺したであろう血濡れの包丁を静かに引き抜いた。
死体の転がる密室。
未来を上書きしようとする松木。
未来を修正しようとする遠藤。
その二人の魔女の狂気に挟まれ、僕はただ、ポケットの中で冷たくなっているポケベルを握りしめることしかできなかった――。
鋭利な金属音が、狭いアパートの空気を切り裂いた。
カッターナイフの刃を限界まで押し出した遠藤が、容赦のない踏み込みで松木へと突進する。その瞳にあるのは、僕を救うという純粋すぎる狂信。
対する松木は、暗がりから引き抜いた包丁を構え、迎え撃つ構えを見せていた。刃渡り数センチの文房具と、熊谷の命を奪ったばかりの凶器。まともにぶつかり合えば、どちらかが、あるいは双方が新しい「肉塊」へと成り下がるのは明白だった。
「やめろ……二人とも、やめてくれ!」
僕は反射的に、二人の少女の間に身体を割り込ませていた。
死にたいわけじゃない。三十年後のあの惨めな河川敷に戻りたくないのと同様に、高校生の僕がここで刺し殺されてエンドロールを迎えるなんて御免被る。
けれど、僕の脳裏を激しく支配していたのは、死への恐怖を掠めていった、さっきの松木の言葉のトゲだった。
『あんたは何も気づかずに、ただのクラスメイトとしてヘラヘラ笑っていた』
気づかずに? 一体何を。
僕が彼女に好意を抱いていたのは事実だ。いつも目で追っていたし、彼女のルーティンだって把握していた。それなのに、彼女は僕が「気づかなかった」と、まるで裏切り者をなじるような目で僕を射抜いている。
「どきなさい、武沢!」
後ろから遠藤が僕のブレザーを強く引っ張る。
「そいつの言葉に耳を貸しちゃダメ! 記憶をアップデートされる前に、ここでこのバグを処理しなきゃ、あんたの未来はまたあの汚いダンボールハウスに逆戻りなのよ!」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
松木がヒステリックに包丁を振り回した。刃先が僕の鼻先をかすめ、冷たい風が頬を打つ。
「あんたに何がわかるのよ、美佳! あたしがどんな思いであの二十七年を過ごしたか、あんたにわかるわけがない! あたしはただ、やり直したいだけ。あたしの人生を、あたしの時間を、まともな形にアップデートしたいだけよ!」
「そのために武沢を犠牲にするなら、あんたはここで死ぬべきなのよ!」
「二人とも、静かにしろ!」
僕は狂ったように叫び、近くにあった不自然な重みを持つ「物」を、力任せに二人の間に投げつけた。
ドサリ、と鈍い音を立てて畳の上に転がったのは、熊谷が使っていたであろう、黒い革製のセカンドバッグだった。衝撃でチャックが開き、中からいくつかの雑多な中身がぶちまけられる。
数冊のアダルト雑誌。
数枚の、ひどく卑猥な構図で写されたインスタント写真。
そして――転がり出た、もう一つのプラスチックの塊。
「……これ、は……」
それは、松木のものとおぼしき、見覚えのあるステッカーが貼られたポケベルだった。液晶画面は消灯しているが、その端末の存在そのものが、この部屋の歪んだ因果律を雄弁に物語っている。
「触るな!」
松木が初めて、その気だるげな仮面を完全に剥ぎ取って悲鳴を上げた。
彼女の視線は、僕ではなく、畳の上に転がった自分のポケベルに釘付けになっている。その瞳に宿っているのは、凶行に及んだ殺人犯のそれではなく、自分の最も柔らかい内臓を晒されたような、圧倒的な「恐怖」だった。
「気付かずに、って……そういうことかよ、松木」
バッグから溢れ出た写真の数々。そこに写る彼女の、死んだ魚のような瞳。
熊谷洋平という怪物が、彼女に強いていた執拗な蹂躙の記録。それは遠藤が口にした「性の玩具」という安易な言葉では到底生ぬるい、一人の少女の魂を文字通り磨り潰すための、悪魔の証明だった。
松木は僕にSOSなんて出していない。
ヤンキー女子としてのプライドが、周囲への意地が、そんなみっともない真似を許すはずがなかった。
だけど。
彼女は、この小さな電子機器に、何かを託していたのではないか。
僕は包丁を構える松木の制止を無視し、畳の上のポケベルへと手を伸ばした。
電源ボタンを押す。緑色の液晶画面が、平成初期のチープなバックライトを伴って、静かに覚醒を始める――。
液晶画面のバックライトが、僕の指先を微かに緑色に染めた。
それは三十年前の、おもちゃのように軽くて不完全な、けれどあの時代を生きる僕たちのすべてだった電子の箱。
「やめて……武沢、見ないで、見ないでよ……!」
松木の悲鳴は、もはや喉の奥で押し潰された嗚咽のようだった。包丁を握る彼女の手はガタガタと震え、刃先は完全に床を向いている。遠藤はそんな松木を警戒しながらも、僕が手にしたポケベルの画面を盗み見ようと、背後から首を伸ばしていた。
ボタンを押し、メッセージの履歴を展開する。
そこに並んでいたのは、僕の知る『松木奈々』という傲慢な女王のイメージとは、あまりにもかけ離れた、数字の羅列による「血吐きの記録」だった。
受信ボックスではない。
彼女が、誰かに向けて必死に打ち込み――そして、すべてが不発に終わった【未送信ボックス】のログ。
『 70510 』
『 581 』
『 56410971 』
「……なんだ、これ」
一瞬、脳がデジタルな暗号を拒絶した。しかし、九〇年代という時代に生きる僕の身体は、そのチープな語呂合わせを、恐ろしいほどの速度で言語へと翻訳していく。
――70510(たすけて)。
――581(こわい)。
――56410971(ころしたくない)。
言葉を失う僕の瞳に、その数字の羅列の横で冷酷に点滅する、小さな四文字のカタカナが焼き付いた。
【 送信失敗 】
【 送信失敗 】
【 送信失敗 】
すべての数字の横に、そのシステムエラーの刻印があった。
電波の状態が悪かったのか。それとも、熊谷に直前で端末を奪われ、送信ボタンを押す前に握り潰されたのか。理由はわからない。ただ確実に言えるのは、彼女は確かに、地獄の底から僕に向けて――いや、世界の誰かに向けて、この届くはずのないシグナルを連打していたという事実だけだ。
「気づかずに、ヘラヘラ笑っていた……って、そういうことかよ、松木」
喉の奥が、焼けるように熱かった。
彼女はSOSを発信していなかったんじゃない。発信「できなかった」のだ。
そして未来の彼女は、出所したあとの数年の絶望の中で、『あのとき武沢が気づいてくれていれば』という歪んだタラレバの怨念を膨らませ、その結果として僕を身代わりに選んだ。届かなかった悲鳴の裏返しが、僕への冤罪という最悪のアップデートだった。
「違う……。私は、私はただ……!」
松木はついに膝をついた。畳に血濡れの包丁が転がり、鈍い音を立てる。
「やり直したかっただけよ……! 誰も助けてくれなかった。誰も私を見てくれなかった! なのに、どうして私だけが二十七年も暗闇に閉じ込められなきゃいけないのよ! 誰だっていいじゃない、私以外の誰かが、あの暗闇を代わりに引き受けてくれたって……!」
「……馬鹿げてる」
背後で、遠藤美佳が吐き捨てるように言った。カッターナイフを握る彼女の指には、まだ力がこもったままだ。
「送信失敗していようが、そんなのただの言い訳よ。現にこの女は、次のループであんたのポケベルを死体に握らせて、あんたの人生をスクラップにする。武沢、情を捨てなさい。このバグを消さない限り、あたしたちの未来は永遠にアップデートされない!」
遠藤の言うことは正しい。松木の事情がどれほど悲惨であろうと、彼女が僕に押し付けようとした二十三年の冤罪が帳消しになるわけではない。
だけど。
「遠藤……もう、アップデートなんて言葉を使うのは、終わりにしよう」
僕はポケベルを強く握りしめ、二人の魔女を見つめた。
未来の情報を書き換え、過去を塗りつぶし、お互いをバグと呼び合って殺し合う。そんなことを繰り返して手に入れた未来に、一体何の意味があるっていうんだ。
「松木。お前のポケベルは、どこにも繋がっていなかった。だけど……」
僕は自分のポケットから、僕自身のポケベルを取り出した。
昨日、熊谷と対話した僕たちの時間は確実にズレた。歴史は少しだけ、変わっている。なら、この最悪の密室の結末だって、僕たちの手で書き換えることができるはずだ。
「まだ、ベルは鳴らせるはずだろ」
僕は、二人のタイムリーパーに向かって、静かにそう告げた――。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ついに、松木奈々のポケベルに残された未送信メッセージが明らかになりました。
『たすけて』
『こわい』
『ころしたくない』
彼女は助けを求めていなかったのではなく、助けを求める声が届かなかった。
けれど、その悲劇が武沢への冤罪を正当化するわけでもありません。
松木も、遠藤も、武沢も、それぞれが過去に囚われています。
誰かを消すことで未来を書き換えるのではなく、まだ鳴らせるベルで何を伝えるのか。
次回、物語は本当の意味で「やり直し」の答えへ向かっていきます。




