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殺意のバタフライ・エフェクト  作者: 知恵利一


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第五章 リフレインは容疑者を指し示す

もし、一人を救ったことで、別の誰かが不幸になるのだとしたら。

それでも、人は過去を変えるのでしょうか。

武沢はようやく掴みかけていました。

松木の死は、単なる通り魔事件でも、偶然の事故でもない。

その裏には、何か別の「因果」が存在している。

しかし、運命は新たな犠牲者を用意していました。

そしてその犠牲は、今度は武沢自身へと向けられていきます。

物語はここから、救済の物語から、罪と真実を暴く物語へと姿を変えていきます。

 僕はなんとか、男の背中を視界の檻に閉じ込めた。

 男に周囲を警戒する素振りはない。無防備、あるいは圧倒的な余裕。僕は極力気配を殺し、彼が改札を抜けるのを待ってから、その足跡をなぞるように自動改札機をくぐった。

 やがて、鉄の塊がプラットホームへと滑り込んでくる。

 男が乗車したのを確認し、僕は隣の車両へ。連結部の窓越しに見える位置を確保し、観察を開始する。

(どこまで行くつもりだ?)

 駅名が告げられる度に、男の挙動を探る。数駅が過ぎた頃、《――天玉てんぎょく駅》というアナウンスが流れた瞬間、石像のように動かなかった男が腰を浮かせた。

(ここか。ここが、奴のテリトリーか)

 彼がホームに降り立ち、確実に改札を出たのを見届けてから、僕もまた未知の地へと足を踏み出す。

 五分ほど歩いたところで、視界が開けた。少し広めの公園。

 不規則に点滅する街灯が、まるでホラー映画の舞台装置のような不気味さを撒き散らしているが、男は躊躇ちゅうちょなくその闇へと足を踏み入れた。

 僕は五十メートルほどの距離を保ち、追跡を続行する。

 ――突如。男の歩みが止まった。遮蔽物がない。

「なぁ、お前さ――俺に何か用なのか?」

「――っ!?」

 心臓が破裂するかと思った。尾行が見抜かれていた。

 振り返る男。逃げ場を失い、街灯の下にさらされる僕。男との距離が、だんだんと詰められていく。

「お前、和泉駅からずっとつけてきてるよな?」

「そんな前から……」

 僕の尾行が下手なのか、それともこの男の感が異常に鋭いのか。いずれにせよ、最悪の状況だ。

「おい、無視かよ。俺は聞いてるんだぜ?」

「……別に、後をつけているわけじゃない。同じ方向に用事があるだけだ」

「常套句だな。この先に何がある? ここはただの住宅街だぜ。コンビニ一つない場所だ」

 逃げ道を完全に塞がれた。僕は真っ向から、男の瞳を射抜いた。

「……すまない。嘘をついた。実は、あんたに聞きたいことがあるんだ」

「意外に素直だな。なんだよ、言ってみろ」

「松木との関係だ」

 一瞬、男の表情が岩のように強張った。

「聞いてどうする?」

「……僕は松木と仲良くさせてもらっている。ただ気になる、というだけじゃダメか?」

「あいつに惚れてるのか?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「まぁ、どうでもいいか。俺はあいつの元カレだ」

「――元カレ?」

 衝撃が走る。

 男は自嘲気味に、しかし隠しきれない優越感を滲ませて語り始めた。短期間の交際、そして今は友人。

「ところでお前は制服からして松木と同じ和泉高生か。名前を聞かせてもらえるか?」

「僕は武沢……武沢孝太郎」

「……ふーん。お前が武沢か。松木から色々と話を聞いてるよ。ちなみに俺の名は熊谷洋平だ」

 名前を、知られている?

「まさかあんた松木に未練でも……?」

 その問いに対して彼の口から漏れた言葉が、僕の理性を焼き切った。

「未練だと? あったらなんだというんだ? ないとは言い切れないな。だって、あいつのセックスのテクが凄くてよ! 忘れられねーんだわ」

 ゲラゲラと、夜の静寂を切り裂く下卑た笑い。

「な、なんだと……!? そんな理由であいつに近づいてるのかよ!」

「それ以外に何がある? あいつは俺にとって性の奴隷だ。これからも、この先永遠に」

(こいつ、ネジがぶっ飛んでやがる……!)

 確信した。この男――熊谷くまがいは、歪んだ情欲にまみれた、潜在的な殺人者だ。

「松木の友人として言う。僕は――お前を許さない」

「許さない? どの口が言ってんだ。てめぇもあいつの一友人に過ぎねーだろ。まさか純愛でも抱いてるのか? だとしたら滑稽だ」

 頭に血が上る。不良校に通っているせいか、僕は肉体的な衝突――タイマンを申し出た。

「僕が勝ったら、二度と松木に関わるな!」

「暴力か。口調の割に粗暴だな、お前。……だが、無駄な争いは好まない。わかったよ。もう松木には手を出さねぇよ。これでいいか?」

 拍子抜けするほど素直な承諾。だが、僕はまだ彼を信じるほど愚かではない。

 僕は男の家――豪華な洋風建築の門扉の向こうへ彼が消えるのを見届けた。

 時計を見れば、当初の犯行時刻は過ぎている。

(これで……不安要素の一つは取り除けたか)


 翌朝。テレビのニュースに「女子高生殺害」の文字は踊らなかった。

(回避できた……のか?)

 安堵を噛み締めながら、僕は足早に学校へと向かった。

 だが、昇降口の喧騒が、僕の安堵を粉砕した。

 クラスメイトの井下いのした――学年一の猛者と噂されるが、根は友人思いのワルに声をかける。

「何かあったのか?」

「あぁ、なんでも職員室に刑事さんが来てるんだと。誰かが喧嘩やらなんやらヤンチャなことでもしたんだろ」

 刑事。

 その単語が、心臓を冷たく掴む。

「井下、松木を見なかったか?」

「あ? 今日はまだ見てねーな。あいつも遅刻魔だし、朝イチ登校なんて見たことねーわ」

 不安が津波となって押し寄せる。

 僕は居ても立っても居られず、学校を飛び出した。

「頼む、無事でいてくれ!」

 向かう先は一つ。彼女のルーティン。

 登校前に必ず立ち寄る、あの苔生した廃神社。

 そこで一服の紫煙を燻らせている彼女に会えることを祈りながら、僕は全力で石段を駆け上がった。


 苔生した石段を、一段ずつ過去を塗り潰すように踏みしめる。

 快晴の空は巨大な神木たちの枝葉によって遮られ、周囲は昼間だというのに境界線の曖昧な暗転に沈んでいた。

 登りきったその刹那、僕の網膜が捉えたのは、一筋の紫煙と見慣れた背中。

「――松木!」

 安堵が叫びとなって喉を震わせた。彼女は緩慢な動作で振り返り、毒気を含んだ視線を僕に寄越す。

「いきなり大声出すな! バレるだろ!」

 未成年という法的制約を、ヤニの香りと共に平然と踏み越えるその不敵さ。

「よかった、無事で」という僕の剥き出しの言葉に、彼女は「何がよ」と鼻で笑う。学校に刑事が来ていることを伝えても、彼女はそれを「自分の素行不良への偏見」と受け取り、苛立ちを隠そうとしなかった。

 彼女が踏み躙った吸い殻。その微かな焦げ跡を残して、僕たちはヤニの香りに巻かれながら昇降口へと戻った。

 そこで鉢合わせしたのは、二人の刑事。

 僕たちを一瞥し、感情を削ぎ落とした瞳で通り過ぎていくその背中に、松木はなぜか剥き出しの敵意を――睨みを利かせていた。

「先生、何かあったんですか?」

 通りがかった神川先生に、僕は日常を装って問いかける。

「ああ、武沢か。なんでも他校の生徒が行方不明らしくてな。近隣の高校を回って聴き込みをしているらしい」

「他校の生徒……?」

 行方不明。その不穏な語彙に、僕の思考回路が火花を散らす。

「その生徒の名前、知ってるんですか?」

 松木の問いに、先生は事務的に答えた。「高沢高校二年の、熊谷という子らしいな」

 ――衝撃。

 僕の、そして松木の表情が、同時に凍りついた。

 昨日、僕がその邸宅まで送り届けた男。松木の元カレ。

 「何か知っているのか?」という先生の追及を、僕は咄嗟の嘘で撥ね退けた。ここで真実を切り売りすれば、警察という名の巨大な機構に絡め取られることは火を見るより明らかだったからだ。

 昼休憩。僕は逃げるように教室を出た松木を呼び止める。

「熊谷って、お前の元カレだよな」

「なんであんたが知ってるの? 話したっけ?」

(――失策。まだ僕は、彼と会ったことを彼女に伝えていない!)

「ああ……たまたま、お前と二人がいるところを見かけてな。その後、偶然会って少し話したんだ」

 苦しい言い訳を、彼女は深追いしなかった。ただ、どこか遠くを見つめるような、上の空の横顔。

 彼女の口から語られたのは、今朝、この神社で熊谷と会う約束をしていたという事実。そして、彼は現れなかったということ。

(バタフライエフェクトか。松木の死を回避した代償として、因果の濁流が別の人間を飲み込んだのか?)

 だが、次に彼女が放った言葉は、僕の背筋に氷柱を叩き込んだ。

「ところでさ、武沢――あんたが熊谷を殺したんじゃないよね?」

「……は? 何を……何を言ってるんだ。どういう意味だ」

「あいつはさ、性格は悪いけど、いい奴なんだ」

 思考が、音を立てて軋む。

 松木、君は何を言っている? 昨夜のあの男の、あの歪んだ独白を、君は知らないのか?

 「関係が悪くなるのは嫌だから」と、彼女は僕の横を通り過ぎていく。その足取りは、どこか「別れ」を予感させるほどに冷ややかだった。

 放課後。

 僕は彼女の姿を求めて校内を奔走したが、得られたのは「午後の授業前に早退した」という無機質な情報だけだった。

 不安が、焦燥が、僕の肉体を突き動かす。松木の家へ向かおうと駅に降り立った、その瞬間。

「なっ……なんですか、あんたたちは」

 周囲を、威圧的なスーツの男たちが包囲していた。

「武沢孝太郎さん――で、間違いありませんね?」

「……そうですけど」

「少し、お話を伺いたい」

 一際がたいのいい男が内ポケットから提示した、警察手帳。

 有無を言わせぬ強制力が、僕を横付けされた黒塗りの車へと誘う。

「ちょっと待ってください。これは任意ですよね?」

「ええ、今の段階では任意です。ですが、協力していただけると助かりますよ」

 男たちの顔には、表情という名の人間味が一切欠落していた。それがかえって、完成された狂気のように僕の目に映る。

「……わかりました」

 僕は静かに、後部座席へと身体を預けた。

 これはもはや、松木一人の死に収まるような矮小な物語ではない。

 僕が書き換えてしまった「過去」の裂け目から、僕の知らない「巨大な何物か」が這い出し始めている。その確信だけが、車内の沈黙の中で重く沈殿していた。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

今回、ついに大きな歯車が動き始めました。

松木の元カレ・熊谷洋平。

行方不明という新たな事件。

そして、まるで全てを知っているかのような松木の一言。

『あんたが熊谷を殺したんじゃないよね?』

この言葉は、武沢に向けられた疑いなのか。

それとも、別の意味を持つ告白なのか。

さらに、物語の最後に訪れた警察の任意同行。

過去を書き換えた代償は、静かに、しかし確実に武沢の足元へと忍び寄っています。

蝶が羽ばたいた先で、いったい何が壊れてしまったのか。

次章から、物語はさらに深い闇へと踏み込んでいきます。

引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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