第三章 リルートは死の匂いを消せない
人生には、「もし、あの時違う選択をしていたら」と考えてしまう瞬間があります。
けれど、本当にやり直す機会を与えられたとして――人は同じ後悔を繰り返さずにいられるのでしょうか。
主人公・武沢孝太郎は、謎のポケベルメッセージによって再び過去へと舞い戻ります。
今度こそ、大切な人を救うために。
しかし、運命はそう簡単に書き換えられるものではありません。
二度目の挑戦が、静かに幕を開けます。
「――け――わ!」
「…………」
「たけ――わ!」
「…………」
「――武沢!」
「はいっ!」
鼓膜を無遠慮に蹂躙する、聞き覚えのある怒声。
僕は反射的に、精巧に作られたバネ仕掛けの自動人形のごとく、上半身を垂直に跳ね上げた。網膜が捉えたのは、先刻――僕の主観においては「さっき」――見たばかりの光景。
「あれ? ここは……」
そこはまさしく、死んだ直後に目覚めた場所であり、時間であった。
(戻ってきた。それも、寸分違わずこの瞬間に)
脳内という名の演算機が、急速に仮説を導き出す。
(おそらくは、あのポケベルという名のデバイスで『やり直し』を申請した際、再起動の基点として設定されているのはこの場所、この時間なのだろう。だが、この分岐がどれほど僕の人生に影響を及ぼしているのか。ここで居眠りをし、廊下に立たされるという些細な事象が、未来の自分がホームレスへと転落する起点なのか、あるいは別の人生を歩むための巨大なチェックポイントが別の場所――時間にあるのか。今の僕には判別がつかない)
「お前、俺の授業中に居眠りとはいい度胸だな! 肝が据わっているのか、それとも単に脳が腐っているのか、どっちだ!」
神川先生の、一字一句違わぬ糾弾。この未来だけは変えられそうにない、確定事項としての罵声。
「はい?」
「はい、じゃない! まだ夢の続きを見てるんなら、廊下で残像と対話してこい!」
周囲から沸き起こる笑い声。デジャヴというにはあまりにも解像度の高すぎる、二度目の屈辱。僕は促されるままに、二度目の、しかし一度目と全く同じ足取りで教室を後にした。
廊下に立たされている間に、松木が変わらず接触してきた。
「武沢、あんたまた何かやらかしたの? 学習能力を母親の胎内に置き忘れてきたのかしら」
「そんなもの胎内に忘れるわけないだろ。お前の憎まれ口も相変わらず底抜けだな」
「とりあえず分かってる? 放課後、いつもの場所に集合だから。忘れたら――」
「ああ、忘れずに行くよ。必ずな」
「えっ? あ、あっそう。ならいいわ。待ってるから」
今度は松木の方が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしながら廊下を去っていく。
(こちらが大きな変化を与えなければ、セリフは変わらないみたいだな。それならそれで予想できる)
とりあえず今起きたことも遠い出来事だが、鮮明に憶えている。確実に今、僕は過去の世界へと舞い戻っている。まだ生きている彼女を実感となって、再び僕の胸を締め付けた。思わず涙が流れる。やり直せるかもしれないという実感。
(もしかして、これって意思もある。ってことは、あの日選ばなかった選択肢が、選べるんじゃないだろうか)
だが安心してはいけない。なんせ因果率が関係していたら元も子もないからだ。
僕が行動のベクトルを微修正し、彼女の言う「いつもの場所」へ向かえば、死のタイムラインを断ち切れるのか。それとも、世界は再び「未明の悲劇」へと帳尻を合わせてくるのか。
僕は涙を拭い、放課後のチャイムが鳴るのを待った。
今度こそ、彼女を一人にしないために。
放課後の到来を告げるチャイム。それは僕にとって、戦場への進軍ラッパに他ならなかった。不良仲間からの、不毛かつ魅力的な誘いを「先約がある」という愛想のない一言で切り捨て、僕は校庭の裏手へと足を向ける。
目的地は、杉林に囲まれた廃神社。
四十段ほども連なる石段は、手入れを放棄された年月を物語るように深い苔に覆われている。夜に訪れれば、それこそ肝試しという名の「青春の儀式」には最適の舞台だろう。
中身が五十歳の「僕」であれば、膝の悲鳴に顔を顰めていたはずの傾斜。だが、登り切っても心拍数は凪のように静かなまま。
若さ。それは失って初めて理解できる、文字通り「無敵」の身体能力だ。僕はその全能感に、いささか倒錯的な感動を覚えていた。
「あっ、きたきた」
松木は既に、石段の頂上で紫煙を燻らせていた。
鳥居のすぐ側で堂々と火をつけるその傲岸不遜さ。
「お前、よくそんな場所で吸えるな。教育委員会の刺客でも来たらどうするんだ」
「あんたも吸う?」
彼女が差し出してきたのは、フィルター部分に鮮烈な、驚くほど赤い口紅が付着した一本。
「……これじゃ、間接キスになるだろう。お前はそういう、デリケートな境界線というものを気にしないのか?」
「別に……」
精神年齢五十歳のオヤジにとって、女子高生の唾液と紅が混じったフィルターは、もはや甘美な誘惑という名の劇薬だ。
「吸わないの?」
彼女が吸い殻を戻そうとするのを、僕は反射的に――獲物を狙う猛禽のような手つきで遮った。
「吸わないとは言っていない。……僕の敗北だ」
(松木本人が無関心を装っているのだ、僕が過剰に意識するのはそれこそ自意識過剰という病だろう)
そう自分に言い聞かせ、紅の跡をなぞるように煙を吸い込もうとする。
「あはははっ!」
突然、松木が腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしい!」
「だって、あんたの指、めっちゃ震えてるんだもん。繊細な乙女か何かなの?」
平静を装っていたはずの僕の指先は、中身の「日和ったオッさん」を代弁するように見苦しく微動していた。精神の動揺がダイレクトに肉体に伝達される。これぞ若さの、不都合なまでの感度だ。
「――くっ、いらねえよ!」
僕はタバコを彼女に突き返す。
「なに? 怒った?」
「怒ってない。血圧が上がっただけだ」
ああ、そうだ。僕は毎日、彼女とこんな不毛で、しかし尊いやり取りを繰り返していたのだ。不意に襲い来るセンチメンタルな波を、僕はため息と共に吐き出す。
「このあと、どうする? カラオケ行く?」
「ああ、そうだな。暇を持て余すには最適の選択だ」
僕は念のため、一周目に向かった店とは別の、隣駅のカラオケ店を目的地に設定した。
「なんでいつもの店じゃないのよ?」
「……気分転換だ。新曲の導入が学区内最速という噂を耳にしたんでね。今日という特異点には、相応しい場所だろう」
「ふーん。まあ、歌えればどこでもいいけど」
(これで、運命という名の座標をわずかでもズラすことができたはずだ)
そんな淡い期待。それは生存への希望という名の、薄氷のような祈り。
二時間ほどの咆哮(歌唱)を終え、店を出る。
「もう帰るか」
一刻も早く、彼女を安全な「家」という名のシェルターに押し込みたかった。だが――背後から返ってくるはずの、彼女の毒舌が届かない。
「――っ!?」
背筋を凍らせるような悪寒。僕は音速で振り返る。
(……いない!)
駅前の人混み。夜の帳が下りかける街角。彼女の姿が、忽然と消えていた。
心臓が、警告音を鳴らしながら早鐘を打つ。
(――しまった! まさか、どこかで因果の穴に落ちたのか――!?)
最悪のシナリオが脳内を駆け巡った瞬間、ぐい、と腕を掴まれた。
視線を落とせば、そこには悪戯を成功させた子供のような、満面の笑みを浮かべる彼女。
「お前、どこに……!」
「あのさっ! あそこにゲーセンあったんだけど、欲しい景品があったんだよ。だから、獲って!」
その屈託のない表情。当時の僕も、そして今現在の僕も、これほどまでに翻弄し、振り回す、天性の舞台役者。
半ば強制的に引き摺られ、辿り着いた先。
「これこれ! これを獲ってよ!」
「――なっ!」
透明なガラスの向こう側。冷徹な蛍光灯に照らされていたのは、松木が偏愛するあのキャラクターのぬいぐるみ。
一周目で死体の傍らに転がっていた、あの死の紋章。
「これ……か」
「そう! これ!」
「……別の景品にしろ。その、なんだ。色合いが不吉だ」
「はあ? 何言ってんの? 私が欲しいのは『これ』なのよ!」
「いや、しかし……」
「じゃあいいわよ! 自分の運をドブに捨ててでも自力で獲るから!」
彼女は絶望的にUFOキャッチャーが下手だ。そして、絶望的に負けず嫌いだ。獲れるまでなけなしの小遣いを溶かし続ける彼女の末路を、僕は容易に予見できた。
「……分かった。僕が獲る。お前は大人しく、僕の卓越した技巧を見学していろ」
三手。
未来の知識というよりは、もはや意地だけで僕はぬいぐるみの奪取に成功した。
取り出し口から現れた「それ」を、彼女に渡す。
「やった! ありがと、武沢!」
その微笑む顔に、僕は胸の高鳴りを抑えられなかった。
だが、同時に冷たい汗が背中を伝う。
(結局、例のぬいぐるみは彼女の手に渡ってしまった。もしかしてこれがキーアイテムだったりするのか? ここから、因果率はどうやって彼女を『殺し』に来るんだ?)
一抹の、しかし巨大な不安が、再び僕の視界を侵食し始めていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
二度目のリトライが始まりました。
前回とは違う場所へ行き、違う行動を選び、運命の分岐を変えた――はずでした。
それなのに、再び彼女の前に現れた「あのぬいぐるみ」。
果たしてそれは単なる偶然なのか。
それとも、世界が用意した『死への目印』なのか。
少しずつ見えてくるのは、単純なタイムリープでは説明できない何か。
そして武沢はまだ知りません。
本当の敵が「犯人」なのか、それとも「運命そのもの」なのかを――。
次章もお付き合いいただけたら嬉しいです。




