【第二部】第五章 リビジョンは因果の代償から
いつも『殺意のバタフライ・エフェクト』を読んでいただき、本当にありがとうございます。
第二部第五章です。
ついに病院の屋上で黒幕との対峙が始まります。
ここまで積み重ねてきた違和感や伏線が、少しずつ一本の線として繋がり始める回でもあります。
これまで主人公は「未来を変えれば救える」と信じてタイムリープを繰り返してきました。
しかし、その行動が本当に”正しかった”のか――。
今回の章では、その前提そのものを揺るがす事実が語られます。
ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
その顔は溢れんばかりの殺意に満ちていながら、どこか生徒を優しく諭すかのような、いびつな笑みを浮かべていた。
「――か、神川……先生……っ」
「武沢。お前はなぜ、そこまでして過去を『改変』しようとするんだ? その軽率な行為が、どれほど取り返しのつかない事象を引き起こすのか、なぜ考えない。……先生はがっかりしたぞ。これじゃあ、赤点をつけざるを得んな」
笑っている。……だが、それはただ口角を釣り上げているだけの、筋肉の歪みだ。目だけは冷たく静まり返り、僕の心臓を鷲掴みにして離さない。
「少しでも動いちゃダメだ。この指先を数ミリ滑らせるだけで、お前の首からは色鮮やかな鮮血が、この綺麗な夜空に舞い散ることになる。……まあ、それも教育的指導としては悪くない景色だがね」
狂ってやがる。こいつは完全に教師という仮面を投げ捨てている。人に物を教える立場になど、一ミリも存在していない怪物だ!
僕は足元に転がる松葉杖へ、ゆっくりと指先を伸ばそうとした。
「変な動きをするんじゃない。本当にお前は、先生の言うことを聞かない出来損ないだな」
首元に当てられたメスの角度が微かに変わり、ツッと皮膚が切れて生温かい血が伝うのが分かった。
「……あんたが、遠藤を支配していたんだな?」
「先生に向かって言う言葉遣いじゃないな。己の今の立場を考慮し、言葉は慎重に選んで発しなさい」
「……先生は一体、遠藤に何をしたんですか!?」
「……」
神川はしばし口を噤み、薄暗い夜空を見上げた。
「まあいい。お前になら言っても問題はないだろう。……彼女は私の『ラブドール』なんだよ」
「――ラブドール……だと……!?」
性欲を満たすための、無機質な道具の名称。
つまり熊谷がかつて松木に対して行っていたような悪行を、この鬼畜教師も陰で遠藤に対して行っていたということか。
「……それをバラされたくなかったら誰にも言うなと、そうやって弱みを握って飼い慣らしたのか!?」
「人聞きが悪いな。お互いに合意の上だよ。快楽を貪る――人間本来が持つ野生の本質というやつさ」
「……遠藤は嫌がっていた! 無理やり脅していたんだろ!? じゃなきゃ、あの怯えようはあり得ない!」
「学校の授業とは違って、やけによく喋るな――武沢。もうお前との不毛な問答にも飽きた。ここでお前の時間旅行は終点だ」
神川の指先に、再び殺気のこもった力が込められる。
(くそっ……! ここまできて……!)
その時。
二人の影が重なる上空、月明かりを背にして別のシルエットが舞い降りた。
――井下だ。
重力を味方につけた圧倒的な落下の勢いのまま、井下の太い足が神川の頭部へと鋭い回し蹴りを叩き込んだ!
「――ぐわっ!?」
激しい打撃音と共に神川の体は吹き飛び、背後の貯水タンクへと派手に頭を打ち付けた。
「おいおい……マジかよ。確かに聞いたぜ! さすがの俺も、どん引きだーー先生よぉ……」
井下は倒れ込んだ神川を冷酷に見下ろし、首の骨を鳴らしながら頭を左右に振った。
「……い、井下……貴様……なぜここにいる……!?」
二度目の病院におけるタイムリープ。それによって僕が事前に井下をポケベルで呼び出していたなど、神川の計算には存在しなかったのだ。
「先生。あんたには色々と聞きたいことがあるんだ。素直に喋ってもらおうか」
僕は極力、暴力での解決は望んでいなかった。神川から真実を聞き出した上で、しかるべき法の手(警察)に委ねるのが僕の望みだった。
「……私がすんなり吐くとでも思っているのか? 不良どもが」
「そりゃ、あんたの協力姿勢次第だろ」
井下は床に転がったメスを拾い上げ、指先で弄びながら言った。
「……ちっ。これだから底辺の生徒は」
神川は吐き捨てるように言うと、貯水タンクに背中を預けながらゆっくりと立ち上がった。
「で? 何を聞きたいんだ? まぁ、山ほどあるんだろうがね」
「……あんたは、『タイムリープ』の存在を知っているのか?」
「いきなり核心的な質問だな――武沢」
「いいから答えてくれ!」
「……ああ、知っているとも。その『呪い』のおかげで、今の私が形作られたのだからな」
「――っ!? どういう意味だ……!?」
神川がタイムリープを知っていること自体は想定内だった。だが、「そのせいで今の自分が形成された」という不気味な回答に、僕は目を見開いた。
「武沢――お前は自分の欲望のために過去改変を行っているのだろう? その身勝手な行いが、他人にどれほどの致命的な破滅をもたらすか、考えたことはなかったのか?」
「なっ……何が言いたいんだよ!」
「お前がしてきたことだよ。例えば――ここに一人の女子生徒がいて、彼女が近いうちに死ぬ運命にあったとする。それは世界線において定められた、覆しようのない確定事項だ。だがそれを、何らかの異常な力で無理やり捻じ曲げ、死から救い出したとする。……それ自体は美しい美談だろう」
神川の瞳に、冷ややかな狂気が宿る。
「だがな――『死』という質量は、消えて無くなりはしないのだよ。死は回避されたのではない。お前が無理やり動かした因果の皺寄せとして、『別の者』へと移っただけなのだ」
「……あんたは何を……何を言っているんだ……!?」
神川の言葉が、なぜか僕の胸の奥を猛烈にざわつかせた。
「人の話は最後まで聞けと教えたはずだがな。まあ、授業中に居眠りばかりしているような輩に届いていたとは思っていないが」
「いいから話せっ!!」
僕の激昂に対し、神川は刃物のような鋭い視線で僕を射抜いた。
「……つまりはだ。お前が松木奈々を死から救ったあの日――その代償として、別の人間の命が奪われる結果に陥ったのだよ」
脳の血流が急速に引いていくのが分かった。思考がグチャグチャに狂っていく。
神川は松木の死を知っている?
僕が松木を救ったことを知っている?
死は消えず、別の者へ転移する?
にわかには信じがたい怪論を、目の前の教師は恐ろしいほどの真剣味を帯びた顔で語り続けているのだ。
「フフ……はははっ! 今のお前の脳内はどうなっている、武沢? 様々な矛盾と因果が駆け巡っているんじゃないか?」
「――くっ……!」
激しい頭痛に、僕は頭を抱え込んだ。
その様子を一部始終観察していた井下が、低く声をかけてきた。
「おい、武沢。大丈夫か? なんならあの先公、喋れなくなるまで叩きのめしてやろうか?」
「いや……大丈夫だ。井下は、あいつが余計な動きをしないかだけ見張っていてくれ」
そう告げると、井下は腕を組み、不敵な眼差しで神川を牽制した。
「どうした、武沢? 授業の続きを聞く準備はできたかね?」
神川の口角が吊り上がる。奴はこの地獄のような種明かしの状況を、心底楽しんでいるのだ。
「……続きを……話せ……」
その言葉を待っていたかのように、神川の口から堰を切ったように言葉が溢れ出し始めた。
「お前が松木を救い出したあの日――事件の現場から目と鼻の先の道路で、一つの痛ましい交通事故が起きた。車は逃走し、被害に遭ったのは小学校に上がったばかりの幼い女の子だ。救急車が駆けつけたが間もなく死亡が確認され、事故は悪質な轢き逃げ死亡事件へと発展した。……遺族は深い絶望に囚われ、三十年が過ぎても心に癒えることのない猛毒の傷跡を抱え続けることになった」
話を聞くにつれ、僕の体温は氷のように冷たくなっていった。
勘づいてしまったからだ。その事故の被害者と、残された遺族が誰なのかを。
だが――なぜこの男は、死が転移するという真実に辿り着けたのだ? 僕はまだ聞かなければならない。その、さらに先にある狂気を!
「もう薄々は勘づいているんだろう? その事故――いや、事件の被害者が誰だったのかをね」
神川の目が、まっすぐに僕の瞳の奥を射抜いていた。
「私の娘は……まだ小学校に上がったばかりだった。愛想が良く、元気で、思いやりのある、とても可愛らしい子だったよ。私は憎んださ。轢き逃げした犯人をね。絶対に許すまいと誓った! ……だが、結末は呆気ないものだった。事件から三ヶ月後、犯人は河川敷で遺体となって発見されたのだ。死因は自殺。幼い命を刈り取っておきながら、犯人は法で裁かれることも罪を償うこともなく、勝手に死んで逃げおおせたのだよ。このやり場のない殺意と憤怒をどこへぶつければいいのか、私は三十年もの間、絶望という名の暗黒の牢獄に囚われ続けていた……」
そして神川の表情に、完全なる狂気と歓喜が宿った。
「――だが。三十年が経過したある日。私は偶然にも通りかかった河川敷で、**『ある物』**を拾ったのだよ……」
僕の喉からは、唾を飲み込む音だけが響いた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は第二部の中でも、特に重要なターニングポイントとなる章でした。
黒幕の正体は教師・神川。
そして、彼は単なる狂人ではなく、一人の父親でもありました。
もちろん、彼の行いは決して許されるものではありません。
しかし彼にも、狂気へ堕ちるだけの理由があった。
そう考えると、善悪だけでは割り切れない人物になってきたのではないでしょうか。
そして今回もう一つ、大きなテーマとして語られたのが「因果の代償」です。
一人を救えば、一人が死ぬ。
もし本当にそんな法則が存在するとしたら、武沢が繰り返してきたタイムリープは”救済”だったのか、それとも”災厄”だったのか。
この先、その答えも少しずつ明らかになっていきます。
そしてラスト。
神川が河川敷で拾った『ある物』とは何なのか。
それこそが、この物語の根幹へと繋がる最大の鍵になります。
ここから物語は、さらに核心へ踏み込んでいきます。
引き続き『殺意のバタフライ・エフェクト』をよろしくお願いいたします。




