【第二部】第三章 リダイヤルは血塗られた病棟から
ここまで読み進めてくださった方なら、"未来の武沢がなぜ殺人犯になったのか"という疑問を抱いていると思います。
今回は、その答えに一歩近づく重要な回です。
ただし、真実が明らかになればなるほど、新たな謎も姿を現します。
武沢が見たものは、本当に真実なのか。
そして、この因果を裏で操っている存在とは何者なのか。
ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
(僕は一体、なぜこんな目に遭っているんだ? タイムリープを繰り返すたびに、魂の輪郭が摩耗して削れていく。もう勘弁してくれ。そもそもどうして最初の死から過去改変ができるようになった? 特殊な能力を持った第三者が、ホームレスにまで落ちぶれた僕を見かねて過去へ魂を飛ばしてくれたのか?
いやいや、だとしてもどれだけいいやつなんだよ。
それこそ神様ってやつの仕業なんじゃないのか? 信仰心のない僕にとってそんなこと自体、突拍子もなさすぎる。……というか、今のこの状態はなんなんだ?)
脳内で狂ったように展開される一人会議。あらゆる情報と難解なパズルを突きつけられ、思考がショートしかけていた。
考える能力がある。……だとしたら今の僕はまだ死んでいない? いや、それとも――。
いつしか、あの視界を塗りつぶしていた純白のホワイトアウトが、徐々に天井の無機質なタイル目へとフォーカスを戻していく。
「……こ、ここは……」
「――孝太郎っ!」
その声が響くと同時に、温かな、叫びのような抱擁が全身を包み込んだ。母親が、泣きながら僕にしがみついていた。
「……母さん?」
「よかった……! よかった、無事で……っ!」
母親の顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、両の瞼は真っ赤に腫れ上がっていた。
「こ、ここは……病院……?」
「そうだよ! あんたが駅のトイレで刺されたって警察から連絡が来て――」
そうか。そうだ。僕は思い出した。
あの駅の構内で、何者かに背後から刃物を突き立てられたのだ。
「……目が覚めましたか」
静寂を破る低い声が、母親の背後から掛けられた。
見れば、パイプ椅子に腰掛けたスーツ姿の男が二人。
「あ、孝太郎。こちら刑事さん。色々と話を聞きたいみたいで……」
「――ああ、お母さん。無理にとは言いませんよ。息子さんの体調が回復されてからで構いませんから」
たたき上げの雰囲気を醸し出すベニヤのような中年の刑事が、気遣うように言った。その隣には、新米感の漂う若い刑事が無言のまま手帳を握りしめて佇んでいる。その後二人は軽く会釈をすると、静かに病室をあとにした。
入れ替わりに医者が現れると、僕の容体をチェックしたのち「もう大丈夫ですよ」と母親に声をかけ、病室を出ていく。
「私もどうしてあんたがこんな目に遭ったのか、気になるけど……今はとにかく安静にしてなさい」
母親は涙を拭うと安心したのか、自宅へと帰っていった。
医師の診断によれば、幸いにも命に別状はないが、全治二ヶ月の重傷とのこと。
僕は、しばらく何も考えず天井を眺めていた。
すると強烈な睡魔が津波のように押し寄せてくる。
――どのくらいの時間が経過しただろうか。
肌を刺す異様な「人の気配」を感じて、僕は重い瞼を開いた。
「……誰、だ……?」
言葉を吐き出した、次の瞬間。
暗闇の中で、鈍色に光る凶器が、僕の喉元に向かって真っ直ぐに振り下ろされた!
「――っ!?」
すんでのところでベッドの上で身を捩り、刃先を躱す。
暗闇に立つ影は、キャップを目深にかぶり、口元をマスクで完全に覆っていた。目元すら判然としない。
――こいつは、僕を殺しに来ている!
コンマ数秒の思考で、その狂気を理解した。背中の縫合痕から、ビリリと裂けるような激痛が走る。
僕は死に物狂いで、脇に置いてあった点滴のスタンドを倒す。
するとそのスタンドが影の足元をすくい、相手が派手に転倒した。
その隙を見逃さず、僕は病室の扉を右へスライドし、廊下へと飛び出した。
ナースステーションを目指して走る中、視線は壁の掛け時計にいく。その針は午前二時を回っていた。
「だ……誰か……いませんか!?」
背中の傷が開いたのか、じわりと生温かい液体が病衣を濡らしていく感覚。
必死で助けを求めて辺りを見回すと、ナースステーションの中に人の影が見えた。激務で寝落ちしているのか、看護婦がデスクに突っ伏している。
「看護婦さんっ!」
駆け寄り、その肩に手をかけた瞬間――僕が投げかけた言葉は凍りついた。
デスクの上の書類が、赤黒い液体でびしょ濡れになっていた。彼女の首元には、おびただしいほどの鮮血が垂れ流されている。
「……こ、殺されてる……。なっ……なんなんだよ、これ!!」
パニックという言葉では到底表現できない狂気が、脳髄を浸食していく。
その時、廊下の奥の暗がりから、先ほどの不審者ーーいや、もはや状況的に殺人鬼へと思考は切り替わる。その足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくるのが聞こえた。
(こんな……ところで死ねるか……!)
僕は近くの病室のドアを静かに開け、闇の中に身を潜めて息を殺した。
カツン、カツンと響く靴音は、まるで命を刈り取りに来た死神の足音だ。見つかれば即座に死!
やがて、靴音は僕の潜むドアの前を通り過ぎ、遠ざかっていった。
「なんで……なんでここまでして、僕を殺しに来るんだ。僕が一体何をしたってんだよ……!」
恐怖は、次第に猛烈な苛立ちと怒りへと塗り替わっていく。何か武器になるものはないか。だが、当然ながら病室にそんな都合の良いものなど転がっていない。
足音が完全に消えたのを確認し、僕は部屋を飛び出した。壁面にある案内図によれば、ここは五階。エレベーターは先ほどのやつが歩いて行った方角にある。非常階段を使うしかない。
音を殺し、痛みに耐えながら階段を駆け下りる。奇妙なことに、一階に辿り着くまで誰の気配もしなかった。静まり返った不気味な大病院。
「どうなってんだよ……この病院は……」
次の瞬間、首筋に凍りつくような殺気が突き刺さった。
咄嗟に振り返ると、ロビーの暗がりからあの殺人鬼が滑り出してきた。その手には、月光を反射して怪しく光る包丁が握られている。
「くそっ……背中の傷が……もう……!」
足元には、僕の体から漏れ出た血溜まりが広がっていく。意識が急速に遠のいていく。
(ここまで、か。……だが、せめてこいつの正体だけでも暴いてやる!)
僕は壁際に立てかけられていた松葉杖をひっ掴んだ。細い方をグリップのように握り締め、構える。
「さあ、来いっ! 僕はただでは死なないぞ!」
その挑発に煽られたのか、相手は包丁を握り直し、小走りで距離を詰めてきた。
五メートル、四メートル、三メートル――僕は残された全腕力を込めて、松葉杖を大振りで振り抜いた!
相手は避ける動作すら見せず、松葉杖がそのこめかみを捉えた。ガツンという鈍い音と共に殺人鬼は転倒し、手から離れた包丁が長椅子の下へと滑り込んで消えた。
荒い呼吸が、静まり返ったロビーに交錯する。
僕は倒れた体に馬乗りになり、キャップとマスクに手をかけた。
「チェックメイトだ……! お前は一体、誰なんだ――」
布切れを、力任せに剥ぎ取る。
「――はっ!?……そんな……なんで……お前が……!?」
顎がガタガタと震えた。どおりで、僕の大振りの一撃を避けられなかったわけだ。男なら防御体勢を取るはずの攻撃を、その華奢な体は受け止めてしまったのだから。
「……遠藤……? どうして……」
相手が僕の言葉を飲み込むのに、しばらくの間があく。
「……あんたには、わからないよ。あたしのことなんて……」
「わかるわけがないだろ! 人を……人を殺してるんだぞ! そこまでしなきゃいけない理由がどこにある!? どうして僕を狙うんだ!」
「あいつが……あいつが言ったから……! あたしだって……こんなことしたくないよ……っ!」
彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「あいつって誰だよ! そいつがお前を操っていたのか!?……くっ、名前だ……名前を言え! そいつの名を……!」
「……言ったら――殺される……!」
「どっちにしても、お前はもう法で裁かれるんだ! まだ良心が残っているなら……言うんだ!」
「――嫌っ!!」
遠藤は狂おしい力で体を捻り、僕を跳ね除けた。そしてジーパンのポケットから、若かりし頃に慣れ親しんだ鈍色の"バグ"――バタフライナイフをひらめかせた。
「お前……まだそんなものを……」
僕にはもう、彼女を止める力すら残っていなかった。
「武沢……ごめんね。あたしはもう、完全に壊れちゃってるの。……だからせめて――あんたの手で」
そう言うと、彼女は僕の上へと倒れ込んできた。
「――っ!?」
僕の手に、生温かく柔らかい肉を突き刺す強烈な感触が伝わる。
彼女は覆いかぶさると同時に、僕の手を自らのナイフの上に重ね、そのまま自分の腹部へと深く、深く突き立てたのだ。
「好きな人に、殺されるなら……」
遠藤の瞳から、光が消えていく。瞳孔が開いていく。
狂気。完全なるシナリオの奴隷。
(待て……これじゃあまるで、僕が遠藤を殺したみたいじゃないか……ッ!)
顔から血の気が引いていく。
そうか。そういうことか! これが――あの【武沢が遠藤美佳を殺害して収監された世界線】の真相なのか! 僕は、彼女の自虐的な狂言によって、或いは奥に潜む黒幕の手によって「殺人犯」へと仕立て上げられたのだ!
完全に息絶えた遠藤の体を横に退けるだけで、気の遠くなるような労力が必要だった。
「このままじゃ……あの檻へ引き戻される未来に。……なんとか、しないと……」
朦朧とする意識の中、思考の糸を手繰り寄せる。
僕がこの世界線へリープした時に持っていたもの。ポケベル。使えないガラケー。
……そうだ、まだある。聖書のくり抜かれた空洞の中に眠っていた、決定的な意味を持つ『不自然な遺物』!
「鍵だ……! あのナンバーのタグがついた鍵……!」
あれは間違いなく、どこかのロッカーの鍵だ。あの箱の中に、この詰んだ盤面を覆す「何か」が隠されているはずだ!
僕は血を流しながら自動ドアをくぐり、病院のロータリーへ出た。幸運にも、エンジンがかけっぱなしの乗用車がポツンと停まっていた。誰の車かの判断なんてしている余裕はない。
思考と経験だけは五十歳の大人である僕は、迷わず運転席に滑り込み、ギアをドライブに入れた。無免許運転の罪悪感など、この地獄の前には微塵も意味をなさない。
車を走らせること十分。静まり返った自分の家へと着いた。
親に見つかれば必ず警察を呼ばれる。そうなれば未来で体験した【檻の中の僕】が確定してしまう。音を鳴らさぬよう、忍び足で自分の部屋へ入り、鍵を探すのと同時に、激痛を我慢しながら、素早く服へと着替える。視線は机の上の聖書へ。だが、中は空っぽ。
「どこだ……どこにある……!」
額から滝のような脂汗が流れる。その時、ベッドの下の暗闇で、月光を受けてキラリと光る金属片が見えた。
――鍵だ!
タグの表面を指で擦り、刻印された小さな文字を凝視する。
【 和泉駅改札前:ロッカー103 】
「あった……!」
気力を振り絞り、再び車を走らせて駅へと向かう。二十分ほどの時間で辿り着いた。
幸いにも駅構内は二十四時間営業のコンビニがあるおかげで、シャッターがされていない。
そしてすぐさま、そのロッカーは見つかった。
指先一つ動かすのも限界の状態で、僕は103番の穴に鍵を差し込み、捻った。
ガチャリ、と重い金属音が響き、扉が開く。
そこに収められていた「物体」を目にした瞬間、僕の脳内で全てのパズルが音を立てて組みあがった。
「そうか……そういうことか! この平成初期の時代で、唯一これなら……ッ!」
僕はそれを取り出した。小さいが確かなプラスチックの質量が手に伝わる。
それはーー当時の最先端であり、小型化に至った最初期のモデルの携帯電話だった!
「これなら……デジタル電波が普及していないこの時代でも、アナログ回線で電波が繋がる……!」
相変わらずのタイミングでズボンのポケットの中、あの呪いのポケベルが《061102710(やり直せ)》と激しく振動していた。
今しかない。意識が完全に途絶える前に。この仕組まれた最悪の未来を破棄するために!
僕は震える指で、武骨なテンキーを叩きつけた。
『 4649(よろしく) 』
ボタンを押した瞬間、僕の視界は世界の境界線ごと、深い、深い奈落へとフェードアウトしていった。
それが肉体の死だったのか、それとも過去改変の成功だったのかすら、確かめる術もないままに――。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
今回は第二部の中でも、大きな転換点となるエピソードでした。
これまで武沢は、「自分が遠藤美佳を殺してしまった」という未来だけを知っていました。
しかし今回、その事件の真相は単純な殺人ではなく、誰かによって仕組まれた罠だった可能性が浮かび上がります。
さらに、病院での襲撃、遠藤の異常な行動、聖書に隠されていた鍵、駅のロッカー、そしてアナログ携帯電話。
一見すると無関係に思える出来事が、少しずつ一本の線として繋がり始めました。
とはいえ、まだ黒幕の正体も、その目的も明かされてはいません。
むしろ、ここから先が本当のスタートです。
「なぜ武沢だけがタイムリープできるのか」
「誰が『やり直せ』というメッセージを送り続けているのか」
「熊谷を監視している”上”とは誰なのか」
そして――
武沢が最後に手にした携帯電話は、この物語の運命を大きく変えることになります。
第二部はここからさらに加速していきます。
引き続き、『殺意のバタフライ・エフェクト』をよろしくお願いいたします。




