【第二部】第二章 リタイアは駅のトイレから
先ほど間違えて投稿してしまいました。
こちらが正式な第二章です。
いつも『殺意のバタフライ・エフェクト』を読んでいただき、本当にありがとうございます。
第二部は「未来を書き換える物語」であると同時に、「誰が敵なのか分からない物語」でもあります。
信じられる人間は誰なのか。
味方だと思っていた人物は本当に味方なのか。
今回は、その不安が少しずつ現実へと変わっていく回になります。
最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。
その日の授業内容は、僕の脳細胞に一文字たりとも侵入してこなかった。
黒板に書き殴られる数式も、教師の退屈な朗読も、すべてはただの背景音に過ぎない。まるで、終わりのないラビリンスに放り込まれた哀れな冒険者だ。出口の鍵どころか、壁の材質すら掴めない。
「何か少しでも、手がかりがあれば……」
机に突っ伏し、呪文のようにそう呟いていた時だった。いつもと明らかに様子の違う僕を不審に思ったのか、クラスの「異物」が声をかけてきた。
「武沢、今日はやけにテンション低いじゃん。腹でも下したのか?」
井下だ。
学年内、いやこの地域一帯で知らない者はいないほどに悪目立ちしている、いわば和泉高の「番長」と呼ぶべき男。上級生複数人を相手に無傷で立ち回ったという逸話は、もはやこの学校では伝説の域に達している。
「あぁ、井下か。いや、ちょっと私生活のことで考え事をしていてさ」
余計な心配をさせまいと、僕は口の両端を吊り上げて、歪な作り笑いを顔面に貼り付けた。
「……そうか? まぁ、何かあったら遠慮なく言えよな! 喧嘩の用件なら大歓迎だ。いつでも助っ人に駆けつけてやるからよ」
「はは、頼もしいね。そのありがたい申し出は、もう少し後にとっておくよ」
僕がそう言い終えると、井下は連れの友人たちを引き連れて、嵐のように教室を去っていった。その背中を見送りながら、僕はしばらくの間、校舎の窓から差し込む赤黒い夕陽をただ眺めていた。それから、誰もいなくなった教室を後にした。
学校から最寄り駅までは、徒歩で二十分ほどの距離がある。
駅のロータリーが視界に入りかけたその時、僕の行く手を阻むようにして、見知らぬ男が三人、不自然に道を塞いだ。
「お前が和泉高の、武沢だな?」
「だとしたら何の用だ? 悪気はないが、男からのナンパは一切受け付けない主義なんだ」
「へえ、余裕じゃん。――ちっと、人気のないところに移動しようや」
厄介ごとに巻き込まれるのは、僕の人生において今更珍しいことじゃない。だが、毎回対処に困るのも事実だ。僕の喧嘩の実力は井下ほどではないが、この程度の不良三人なら、死に物狂いで立ち回ればギリギリ勝てるかもしれない。
そう、拳に力を込めて身構えた矢先だった。
三人の不良の後ろから、さらにもう一人の男が滑り出すように現れた。
「――!? なっ、熊谷……!? なんでまたお前が……」
よく見れば、最初に僕を囲んだ三人が着ているのは、熊谷と同じ他校の制服だった。
「ん〜。悪いな、武沢。ちょっと計画が変わったんだわ。上の指示でさ、ここでお前には『再起不能』になってもらうことになった」
再起不能。生かさず、殺さず、ということか。さては朝の神社の段階から、あの「黒幕」とやらから追加のオーダーが下ったのだろう。
有象無象の三人ならともかく、ここに熊谷まで加わるとなると、完全に部が悪い。あいつの実力は僕と同格か、あるいは井下より少し下といったところだ。それに加えて多人数。
負けの確率が九割を越える極限状態において、賢い僕が選択すべき解答は、当然のように一択だった。
――すなわち、脱兎のごとく逃げるッ!
問題の解答を得た瞬間に僕は踵を返し、トップスピードでその場からダッシュした。背後から「てめえ、待ちやがれ!」と怒号が響くが、多勢に無勢の状況で文句を言う方がお門違いというものだ。
ゼェゼェと喉を鳴らしながら、なんとか駅の構内へと滑り込む。
ここまで来れば、流石に衆人環視の目がある。追っては来られないはずだ。僕は一先ず呼吸を整えるため、駅の公衆トイレへと駆け込んだ。
「はぁ、はぁ……なんなんだ、熊谷のやつ……! 今回のループにおける最大のバグ(障害)は、間違いなくあいつだ……!」
小便器に向かい、用を足し終える。その安堵の瞬間と同時に――背後の個室の扉が、静かに開く音がした。
「――っ!?」
背後を振り返る余裕さえ、世界は僕に与えてくれなかった。
ドスッ、という嫌な肉色の感触と共に、僕の背中に、焼け付くような激痛が突き刺さる。
「残念だったな」
たった一言。耳元で放たれたその低い声。
――待て。この声、どこかで、確かに聞いた覚えが……。
思考がまとまるより早く、口内から温かい吐血が溢れ出た。膝から崩れ落ち、足に一切の力が入らなくなる。急速に視界が、セピア色に歪んでいく。
(まずい……! ここで、僕自身が本当に死んでしまったら……!)
その絶望の底で、制服のポケットにしまってあったポケベルが、狂ったように鳴り響いた。ジジジジ、ジジジジ。
薄れゆく意識のなか、渾身の力で液晶画面を覗き込む。そこにあったのは、やはり例の【やり直せ】を告げる無機質な数列だった。
だが、どうやって?
手元にテレホンカードはない。そして、未来からこの世界に持ち込んできたあの「ガラケー」は、平成初期の電波塔など存在しないこの時代においては、当然のごとく一本のアンテナも立たない「ただのプラスチックの塊」と化していた。デバイスが起動しない。戻る手段が、どこにもない。
背後にいた人物は、僕の背中を深く刺し貫いたあと、すぐさま足音を消してトイレから立ち去っていったようだった。
死の影が迫る中、僕は床の血溜まりの中でなんとか上半身を起こし、這いずるようにして改札の方へと向かった。監視カメラが街の至る所に設置されている未来とは異なり、デジタル化前のこの世界において、その観測の目はあまりにも少ない。このままでは、あいつを追うことすら叶わない。
「なっ、誰か……助け、……」
トイレの床から駅の通路へと這いずり出た瞬間、僕の意識はぷつりと、音を立てて途絶した。
最後に僕の鼓膜に届いたのは、下校途中の女子高生のものとおぼしき高い悲鳴と、誰かがドタドタとこちらへ駆け寄ってくる、慌ただしい靴音だけだった――。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回のエピソードでは、熊谷が完全に黒幕側の人間として動き始めました。
しかし、彼自身も「上の指示」「監視」という言葉を何度も口にしています。
つまり熊谷は敵ではあるものの、このゲームの”支配者”ではありません。
駅のトイレ。
背後からの刺傷。
意識を失う武沢。
読者の皆さんは「ああ、この事件か」と思われたかもしれません。
ですが、この事件もまた、まだ全てではありません。
“誰が刺したのか”
“なぜ刺したのか”
そして武沢が最後に聞いた「あの声」の正体。
まだ一番重要なピースだけは伏せられています。
第二部では、一つ謎が解けるたびに、さらに大きな謎が現れる構成で進んでいきます。
ここから物語はさらに加速していきますので、ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




