【第二部】第一章 リスタートは聖書の中から
ここから第二部は、新たな局面へと突入します。
第一部では「過去を変えれば未来は変わる」と信じて足掻いてきた主人公ですが、この世界には、それだけでは説明のつかない”何か”が潜んでいました。
今回は、その違和感が少しずつ姿を現し始めます。
ぜひ最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
――強固な鳥籠の中で、機械のように同じ作業をこなしながら、ただ月日だけが流れていく。
熊谷が面会室に現れたあの日から数えて、半年が過ぎていた。
相変わらず、質素なベニヤ板の机の上には、あのずっしりと分厚い黒装束の聖書が置かれたままだ。
神の存在を強要する、偽善的なバイブル。
一ミリたりとも開く気にはなれなかった。誰も救わない神の言葉など、僕の歪んだ因果の前には無価値だ。
だが、ある夜のこと。
雲の切れ間から覗いた鋭い月明かりが、スポットライトのように机の上の聖書を白々と照らし出した。
そこに意味があるのか、それとも単なる偶然か。そんな思考を巡らせるよりも早く、僕は磁石に引き寄せられるようにして、その重苦しい書物を手に取っていた。
何かが、僕の指先を突き動かしている。
開くページにかかる指には、一切の躊躇いがなかった。
一ページに刻まれた、頭痛がするほどにびっしりと埋め尽くされた無機質なフォント。
やがて――指先に奇妙な抵抗を覚え、僕は手を止めた。
「ん?……この先、ページが固まっている?」
まだ数ページしかめくっていないはずなのに、次の頁から数十ページにわたって、まるでボンドで接着されたかのように分厚い一つの塊と化していた。
その異質な塊の隙間に爪を立て、力任せに割り開く。
その瞬間、僕の目に飛び込んできたのは、予想だにしなかった「空白」だった。
聖書とは名ばかりの、中身をくり抜いた小物入れ(シークレット・ボックス)。
そしてその歪んだ空洞の中に鎮座していたのは、見間違えるはずのない、あのプラスチックの質感だった。
「……ポケベル……?」
紛れもなく、高校生の僕がかつて日常の一部として使用していた、あの愛着のあるポケベル。
なぜこんな厳重な警備を誇る刑務所の、それも差し入れの聖書の中に、こんな前時代的なデバイスが仕込まれているんだ?
さらにその隣には、数字が刻まれたプラスチックのタグが付いた見慣れない鍵と、そして――不釣り合いなほどに艶やかな黒を放つ、**ガラケー(折りたたみ式携帯電話)**が眠っていた。
「ガラケー……? 電源は……入っている」
平成初期には影も形もなかった、二〇〇〇年代の遺物。液晶画面には、微弱ながらも「圏内」を告げる電波マークが不気味に点灯している。
なぜ、こんなものがこの中にある? 熊谷――いや、彼の背後で糸を引いているあの「指示役」の差金か。今更、僕にこれを使ってどうしろと言うんだ。
深い疑念が脳髄を支配しかけた、その瞬間。
――世界を震わせるように、その電子回路が駆動した。
ジィィィィン、と。
僕の手の中で、ポケベルのバイブレーションが狂ったように振動を始めたのだ。
冷や汗が吹き出す。恐る恐るその液晶画面を覗き込み、僕は文字通り息の根を止められた。
緑色の画面に浮かび上がっていたのは、得体の知れない生ぬるい触手が喉元まで這い上がってくるような、あの呪いの羅列だった。
『 061102710 』
――やり直せ(061102710)。
まただ。また、世界が僕に過去改変を強要している。
だが、僕の持っていたテレカはもうない。どうやって戻れというんだ。戻れるわけが――。
その時、僕の視界の中で、電波のアンテナをフルに立てたガラケーのバックライトが、誘うように青白く明滅した。
(もしかして……これは、使えるのか?)
この禁忌のガジェットを使って、あの地獄のような因果を書き換えろと、背後の傀儡師は言っているのか。
長い逡巡。しかし、僕の心はすでに決まっていた。
「……こんなのは間違えた世界線だ。本当の僕は、こんな檻の中にいていいはずがない!」
僕はガラケーをひったくり、二つ折りのボディをパカッと開き、テンキーを親指で叩きつけた。
打ち込むのは、僕自身のポケベルのナンバー。
そして、トリガーとなるあの暗号――『 4649(よろしく) 』。
発信ボタンを押した刹那。
僕の視界はぐにゃりと万華鏡のように捻じ曲がり、すべての色彩が剥ぎ取られ、世界は純白の奈落へと染め上げられた。
――長いのか、短いのか。
一瞬なのか、それとも永遠なのか。
光の洪水が引いていく中、僕は激しい呼吸と共に目を覚ました。
背中に感じる、冷たいコンクリートではない、柔らかい布団の感触。
「こ……ここは……」
仰向けになっていた身体を跳ね起き上がらせると、目に飛び込んできたのは、見慣れた実家の僕の部屋だった。
鉄格子のはまった扉も、冷酷なコンクリートの壁もない。見上げれば、懐かしい木目が走る普通の天井が広がっている。
自分の手を見る。皺など一つもない、若々しい高校生然とした、ハリのある肌。頬をつねれば、確かな痛みが弾力となって跳ね返ってきた。
「――タイムリープ、できたんだ」
その言葉が喉を滑り落ちた瞬間、僕の口角は自然と吊り上がっていた。
ピピピッ、と電子アラームが鳴り響く。デジタル時計の表示は【06:30】。
高校生活の一日のルーティンが始まる、いつもの合図。
「……待て。今は、何月何日だ?」
僕はデジタル時計の下部に視線を走らせた。そこに表示されていた液晶の数字に、脳がフリーズする。
【 1994年 6月 18日 】
「六月……十八日?」
それを見て、僕はハッとある重要な事実に気づいた。
松木が熊谷を殺害し、僕を罠にハメたあの凄惨な事件は、凍えるような「冬場」だった。
だが、今は夏に入ったばかりの六月だ。
つまり、松木が誰にも届かない『未送信のメッセージ』をポケベルに打ち込み始める、そのずっと前の時間軸。まだ誰も、決定的な引き金を引いていない平和な日常。
(ラッキーだ……。これなら、松木が追いつめられる前に、すべての因果を根こそぎやり直すことができる!)
不謹慎極まりない高揚感が、胸の中でドクドクと脈打つ。
僕は弾む心で制服に着替え、階段を駆け下りて居間へと滑り込んだ。
台所では、母親がいつも通りの朝食を作っていた。
「あら、珍しく自分で起きてきたのね。そこに朝食を用意してあるから、早く食べなさい」
その声は、いつまで経っても優しく、暖かさを孕んでいた。
「……母さん。いつも、ありがとう」
「は……? なに突然。気持ち悪いわね、アンタ」
当然の反応だった。高校生の頃の僕は、親に礼を言うような殊勝な人間ではなかったからだ。けれど、酸いも甘いも噛み分け、五十近くまで精神を擦り減らしてきた僕は、感謝を言葉にすることの重みを知っている。
朝食を素早く平らげ、僕はスニーカーを履いて玄関を飛び出した。
目的地は、一つ。
苔生した四十段の階段の先――あの廃神社だ。
登り口に近づくにつれ、微かに漂ってくる紫煙の香り。誰かが来ている。
松木か? それとも、遠藤か?
僕は息を切らしながら苔生した階段を駆け上り、境内の広場へと足を踏み入れた。しかし、そこで僕を待ち受けていたのは、予想だにしなかった「異物」だった。
「よう、武沢。――待ってたぜ」
「く、熊谷……!? なんでお前がここに……!」
なぜ、他校の生徒であるはずの熊谷洋平が、この時間にこの神社にいる。
まだ僕と彼が「最悪の出会い」を果たす前の世界線のはずだ。彼がここに来る理由など、一分もありはしない。
「つれないこと言うなよ。朝の日差しがこれだけ気持ちいいんだ。お前との小粋な会話を楽しみたいと思ってね」
その薄笑い。
明らかに、僕の知る「一周目の熊谷」とは違う、未来のコードを帯びた眼光。
「お前さ、松木や遠藤と仲が良いみたいだけどさ。……もうあの女どもに関わるなよ。それは、強いてはお前の寿命を延ばすためでもある。平穏な学生生活を送りたいだろ? 大人しく、健全な青春を謳歌してろよ」
「……お前、何を言っているんだ? 彼女たちは僕の大切な友人だ! 他人に言われて手を引くほど、僕たちの関係は浅くない! 熊谷、お前は一体何を企んでいる?」
「――これ以上は、俺の独断じゃ口にできないんだよ。俺もある意味、徹底的に『監視』されている身なんでね」
監視?
熊谷が、誰かに操られている?
その仮説は、これまでのどのループでも考えたことがなかった。
もしそれが事実なら、この歪んだ時間を裏から支配し、すべてをコントロールしている「黒幕」が存在することになる。
しかし、熊谷の視線は、神社の木々の隙間や、自らの胸元を不自然に気にしていた。盗聴器か、あるいはリアルタイムの観測の目が、彼の動向を逐一把握しているのだ。
腕っぷしも強く、不良の類である熊谷を、完全に飼い慣らし、支配下に置くほどの存在。
「熊谷、お前はどこまで知っているんだ? 僕とお前は、まだこの時期に出会っているはずがない。なのに、お前は僕のことを知り尽くしているみたいじゃないか」
「……まぁ、それも上からの口止め案件だ。分かるだろ? 余計なことを話しゃ、俺の命がどうなるか分かったもんじゃない」
確かに、監視下にある彼から情報を無理に引き出せば、裏に潜む大元に気づかれるトリガーになりかねない。
「だが、伝えるべき命令は伝えたからな」
熊谷は踵を返し、神社を立ち去ろうとした。
しかし、去り際に一度だけ振り返り、僕に向けて酷く乾いた笑みを投げかけた。
「どれだけ足掻いて、因果のコードを書き換えようとしても、結果は同じ場所へ『収束』する――らしいぜ。せいぜい、頑張ることだな」
不敵な言葉を残し、彼の背中は階段の奥へと消えていった。
「くそっ……! 誰を、どうすればいいんだ……!」
完全に、出口のない無限迷宮に叩き落とされた気分だった。
僕は頭を抱え、深呼吸を繰り返す。まずは冷静になって、今ある情報を整理するんだ。
これまでの過去改変において、決定的な「被害者(殺害された人物)」は、【松木奈々】と【熊谷洋平】の二人。それは、僕が書き換える前のそれぞれの世界線における、確定した死亡者たちだった。
そして、最悪な新世界線における最後の犠牲者は――【遠藤美佳】。
あろうことか、僕が……彼女を殺したらしい。
その血塗られた惨劇を高いところから見下ろし、安全圏でほくそ笑んでいる人間が、この世界のどこかにいる。
(犯人は……未来で殺された三人以外の、僕がまだ『認識していない誰か』なのか?)
思考の霧を振り払おうとしたその時、僕の脳裏に、先ほど交わしたばかりの熊谷とのやり取りが、猛烈な違和感を伴ってフラッシュバックした。
そうだ。おかしい。明らかにおかしい。
そもそも、この平成六年の六月中旬という時期において、僕と熊谷はお互いの存在すら認識していないはずなのだ。
僕自身、何度も時間跳躍を繰り返してきた影響のせいで、時間の整合性を失っていた。パニックのあまり、思わず「熊谷の存在を最初から知っている前提」で、彼を名指しして話を進めてしまった。
――だというのに、あいつは、その決定的なバグに指一本触れなかった。
「なんでお前がここにいる」と詰め寄った僕に対して、熊谷は「つれないこと言うなよ」と、極めて自然に、まるで僕と旧知の仲であるかのように会話を成立させてみせたのだ。
本来なら「は? お前誰だよ、なんで俺の名前を知ってるんだ」と不審がるのが、この時間軸における『本物の熊谷』の正しいリアクションであるはずなのに。
……すべてがおかしい。どうなっているんだ、これは。
あいつは僕を知っていた。それも、僕がタイムリープを繰り返していることすら、あらかじめ「上」から教え込まれているかのように。
じりじりと照りつけ始めた六月半ばの炎天下の中、僕は一人、廃れた境内に立ち尽くしていた。
この生温く、どこか腐敗した空気の向こう側に、のちに僕が直面することになる「驚愕の真実」が潜んでいるとも知らずに。
冬の惨劇まで、残り約半年――。
第二部最初の大きな転換点でした。
聖書の中に隠されていたポケベルとガラケー、そして再び始まるタイムリープ。
しかし今回は、これまでとは決定的に違います。
熊谷は主人公を知っている。
「上」から命令を受けている。
そして、この世界そのものが誰かに監視されているような描写も現れました。
ここから先は、「過去を変える物語」ではなく、「誰が時間を支配しているのか」を追う物語へと少しずつ姿を変えていきます。
もし「あれは伏線かな?」と思う場面があれば、その感覚を大切にしながら読んでいただけると嬉しいです。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。




