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殺意のバタフライ・エフェクト  作者: 知恵利一


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11/19

【第二部】 プロローグ 書き換えられた未来

ここから第二部が始まります。

第一部を最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。

本来であれば、十二万文字という一つの区切りまで第一部として描き切る予定でした。しかし物語の構成を見直した結果、この場面こそが第二部の幕開けにふさわしいと判断し、ここで新たなスタートを切ることにしました。

キャストも一新。

舞台も一変。

けれど、武沢孝太郎の物語はまだ終わっていません。

第一部で「未来を変えた」はずの彼を待っていたのは、誰も予想しなかった新たな運命でした。

ここからは、第一部とは異なる角度から物語が加速していきます。

それでは、第二部をお楽しみください。

 深い、深い眠りについていた。

 それはまるで、三十年という歳月の濁流に押し流されるような、果てのない昏睡だった。

 やがて、ひとつの夢を見始める。

 高校時代の、あの忌まわしい事件のフラッシュバック。

 汗の匂い。錆びついたアパート。鈍色に光るカッターナイフ。それを修正するために、狂ったように足掻いた記憶。

 そう――記憶だ。

 夢なんかじゃない! 五感のすべてに染みついた、あの確かな手応え。

 やり直せたんだ。僕は確かに、あの平成初期の夜を、完璧なコードで書き換えたはずだった。

 そして――唐突に、目が覚める。

 眼前に広がっていたのは、無機質なコンクリートの天井だった。

 自分の部屋にしては、あまりにも殺伐としている。いつから僕の部屋は、こんなディストピアなコンセプトアートに様変わりしたんだ?

 いや、そんな冗談を叩いている場合じゃない。確かに僕はあの夜、学校から帰宅し、自分の布団でちゃんと眠りについたはずだ。

 それなのに、肌を刺すこの不快で、粘り気のある嫌な違和感は何だ。

 しばらくして、上体を起こした僕は、その異常な光景に文字通り氷結した。

 視界を遮るのは、重々しい鉄格子がはめ込まれた無機質な扉。

「どうなってる……んだ……これは……」

 訳がわからず、己の視線を自分の手のひらへと落とす。

「――っ!?」

 瑞々しい高校生の手じゃない。

 そこに跨っていたのは、幾筋もの皺が深く刻まれた、浅黒く汚れた中年の手だった。

「もしかして――」

 僕は弾かれたように立ち上がり、冷たいコンクリートの壁に掛けられた小さな鏡に顔を突き戻した。

「……どうなってるんだよ、これ……ッ!」

 しわがれた絶叫が、狭い空間に反響する。

 皺の刻まれた手のひらで、同じように皺の刻まれた自分の顔をなぞる。

 鏡の向こう側にいたのは、あの三十年後の未来で、ゴミ溜めに落ちぶれていたホームレス時代の自分に酷似した「老いた僕」だった。

「ははっ、……夢だ……こんなの、タチの悪い悪夢に決まっている……」

 声が震える。足が震える。唇が震える。

 なんでだ。なんでまた、長い年月を経て使い古された自分に戻っている!?

 それも、あのホームレスだった頃がまだマシだと思えるほどに、さらに最悪のロケーションだ。

「お前は何をして、この檻に入れられているんだ、武沢……!」

 自虐的な自問に呼応するように、ドタドタと重い靴音が響き、鉄格子の前に威圧的な人影が現れた。

「618番! うるさいぞ、静かにしろ!」

 身体が恐怖でビクッと反応し、振り返る。そこにいたのは、威厳に満ちた制服に身を包んだ、本物の「刑務官」だった。ドラマや映画のスクリーン越しでしか見たことのない、本物の看守。

「すみません……! 僕は、僕はなんでここにいるんですか……!?」

 高校生だった僕の精神が、この現状を理解できるはずもない。放った質問は至極当たり前で、けれどそれゆえに、この世界の住民にとっては致命的なまでに「異常」だった。

「何をボケたことを言っている。お前は人を殺したんだぞ、自覚を持て! そうでなければ、被害者だって浮かばれないだろうが!」

 人を、殺した?

 僕が? 誰を? いつ? どんな方法で?

 脳内を巡るあらゆる疑問符が、怒涛の列車となって僕の思考を轢き潰していく。

 やがて刑務官は、冷酷な足音と共に去っていった。

 小窓の隙間から漏れる冷たい月明かりが、絶望に歪みきった僕の顔を泥のように照らしている。

「これ……どういうことだよ。未来はいい方向に向かったはずだ。なのに、なんで……」

 理解不能。思考停止。

 けれど、絶望という名の漆黒の手が足元から這い上がり、僕の喉元をギチギチと締め付けてくる。

 過去改変は成功したんじゃないのか?

 僕をハメた松木は……僕を救った遠藤は……あの二人の魔女は、一体どうなったんだ!

 殺人犯。それが、この新しい世界線アップデートにおける僕の立ち位置。

 あの瞬間まで、僕は完璧な平穏が流れることを確信していた。なのに何故。いつから。どこで間違えた。

 期待していた理想の未来へは、まだ一歩も届いていなかったらしい。

 間違えていた? 他にも、この因果に関係している『第四の存在』がいたとでも言うのか?

 背筋から這い上がる強烈な悪寒に、胃液が逆流しそうになる。

「結局……因果ってやつは、僕をとことん地獄の底まで突き落としたいらしいな」

 諦めにも似た、酷く冷え切ったため息が、コンクリートの部屋を満たしていった。

 ポケベルやテレカなどもうない。 過去に戻る術は、もうどこにもない。

 僕はただ、ここで終わりのない刑期を全うするだけの、ただの人形に成り下がったのだ。


 ――それから、狂気すら摩耗していくような数週間が過ぎた頃。

「面会人だ。618番、立て」と刑務官から無機質に告げられた。

 引きずられるようにして歩き、面会室の重い扉を開く。

 傷だらけのアクリル板の向こう側。そこに腰掛けていたのは、一人の見知らぬ男だった。

 年齢は、おそらく今の僕と同じくらい――四十代後半といったところか。

「よう! 久しぶりだな、武沢」

 開口一番、あまりにも気安く放たれたその言葉に、僕の顔は不自然に凝固した。

「あの……すみませんが、どちら様ですか?」

「――はぁ!? 冗談にしては笑えないぞ、おい」

 男は眉をひそめた。別に、笑わせるために言ったわけではない。本当に、一ミリも見覚えがないのだ。

「……マジでわからないみたいだな。まぁ、最後に面会したのが十年前だ。記憶が霞んじまうのも仕方ないか」

 十年。その単語に僕の脳が跳ねる。僕は一体、何年間この暗闇に服役しているんだ?

 知らない男からのあまりに不条理な発言に、必死でパズルを組み立てようとする。

「申し訳ないけれど……あなたの、名前は……?」

 男は呆れたように小さく息を吐き出し、アクリル板に顔を近づけた。

「……熊谷だよ。――熊谷洋平だ」

「――っ!!!!」

 心臓が、破裂するかと思った。

 あまりの衝撃に、僕は椅子を派手に跳ね除けて立ち上がっていた。ガタァン!と高い音が室内に響き渡る。その瞬間、背後に控えていた刑務官の手によって、強引に肩を押さえつけられた。「座れ、618番!」

 あり得ない。絶対に、あり得ない。

 なぜなら、もし今の自分が殺人罪で服役しているのだとしたら、その殺害対象は間違いなく「熊谷洋平」だと思い込んでいたからだ。

 松木奈々による、あの完璧な罪のなすりつけ。結局のところ、あの魔女に嵌められるという絶対的な『史実』だけは覆らなかったのだと、そう確信していたのに。

 それなのに、彼は生きている。

 見た目こそかなり老け込み、かつての凶暴な面影はなく、体躯もガリガリに痩せ細っている。数十年ぶりの再会となれば、初見で分かるはずもなかった。だが、彼は生きている。

「……それより、元気か? 武沢」

 気軽に話しかけてくる熊谷。この世界線において、僕とこの男は、それなりの距離感を持つ「友人」にでもなっているのだろうか。

「あぁ、元気は元気なんだけど……。実は、記憶が全くなくてね。それで、一つ率直に質問させてほしいんだ」

 僕はアクリル板に指を押し付けるようにして、今、僕の全存在を揺るがしている疑問を投げかけた。

「僕は一体――誰を殺して、ここにいるんだ?」

 熊谷は、哀れみとも落胆ともつかない瞳で、僕をじっと見つめ返した。

「……本当に、何もかも忘れちまったんだな、お前。……お前が殺害したのは――遠藤美佳だ」

「――なっ、……何、だって……!?」

 頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。

 遠藤美佳。僕を救うために過去を奔走し、あの夜、一緒に手を組んで未来を変えようと笑い合った、あのルーズソックスの少女。

「そんな……そんなはずがない! 動機が、動機がこれっぽっちもないじゃないか!」

「そこを俺に聞かれてもわからねぇよ。お前ら、あんなに仲が良かったのにな」

 お互いの間に流れる、おぞましいほどの沈黙。僕の心拍数は、限界を超えて跳ね上がっていく。

 僕が、遠藤を殺した? なぜ。どうしてそんな因果のバグが起きる。

「……まぁ、それはそうとだ。お前に差し入れがある。手続きは済ませてあるから、あとで受け取ってくれ」

 熊谷がアクリル板越しに提示したのは、一冊の、ずっしりと分厚い黒装束の書物だった。

「……聖書? 冗談だろ。僕は無神論者だ。こんなもの、読むはずがない」

「いいから、お前はこれを読まなきゃならないんだよ」

 熊谷の声音が、一瞬だけ、刑務官の目を盗むようにして低く、鋭くなった。

「自分の罪と向き合うためだ。そして……もしお前に、どうしても『やり直したい過去』ってやつがあるなら、なおさら、この中身を隅々まできっちり読まなきゃならない」

「――!?」

 意味深なんてレベルじゃない。背後にいる看守に悟られないための、これは明白な【暗号コード】だ。

「熊谷……これ、お前が考えた差し入れじゃないな。誰に言われた? 誰の差し金だ!」

 熊谷はふっと視線を落とし、力なく首を振った。

「……それは、時がくれば自ずとわかる。とだけ言わせてもらう。その人物からも、固く口止めされてるんでね」

 なおさら、疑惑の渦が脳内でトルネードのように荒れ狂う。

 熊谷の背後にいる、この世界の糸を引く「傀儡師」が誰なのか。そいつには、いずれ分かる時が来る。つまり、この先そいつと接触する機会が、この監獄の中で訪れるのか、それとも……。

「あと、くどいようだが、必ずその聖書には目を通すんだぞ! それが、お前がまだ『救済』される可能性が残っているということだ。そして、お前に残された唯一の選択肢だ」

 それだけを言い残すと、熊谷洋平は席を立ち、面会室を後にした。

「神にでも誓えというのか……? 笑わせるな。この世で最も信じるに値せず、誰も救わないものこそが神だ。そんな実体のない偶像に、いまさら誰が縋るもんか!」

 僕は監獄の中の狭い独房へと戻されると、支給されたその重苦しい聖書を、呪物でも扱うかのように、ベッドの隅へと乱暴に放り投げた――。

第二部の幕開け、ここまで読んでいただきありがとうございました。

「未来を変えれば、すべてが幸せになる。」

そんな単純な物語では終わらせたくありませんでした。

過去を書き換えた先に待っていたのは、想像をはるかに超える新たな世界線。

そして、武沢自身も知らない「空白の時間」と「罪」です。

なぜ彼は殺人犯となったのか。

遠藤美佳に何が起きたのか。

熊谷が差し入れた聖書に隠された意味とは何なのか。

第二部では、それらの謎を一つずつ紐解きながら、第一部とはまた違った形で「因果」と向き合う物語を描いていきます。

ここから先も、武沢の行く末を最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

引き続き応援やご感想をいただけると、とても励みになります。

それでは、次話でお会いしましょう。

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