9.気付かれてはいけません
俺は小さく息を吐いた。
「わかってるって」
派手な魔法は使わない。
火柱を立てたり、雷を落としたり、空に巨大な魔法陣を咲かせたりすれば、たぶん一発で終わる。
だが、その瞬間、俺の“平凡な第五王子生活”も終わるだろう。
王都の連中に知られれば、天才だの神童だのと騒がれ、面倒な教育と任務と期待が、冬の雪崩みたいに押し寄せてくるに決まっている。
ーーそれだけは絶対に嫌だ。うん、嫌だね。
だから、やることはひとつ。
誰にも気づかれない程度に、少しだけ手を貸そう。
「殿下、お下がりください!」
リカルドが短く叫んだ。
その声は落ち着いていたが、剣を握る手には力がこもっている。
彼の長剣には、細い青白い紋様が刻まれていた。
ーー魔力導線だ。
王都の騎士が持つような華美な魔導剣ではない。刃には細かな傷があり、柄革もすり切れている。
だが、柄頭に嵌め込まれた小さな魔石が淡く光り、刀身に刻まれた紋様へ魔力を流していた。
実戦で使い込まれた武器だ。
周囲の兵たちも、次々と動き出す。
槍兵は石突を地面に打ちつけ、穂先に刻まれた術式紋を起動させた。
鉄の穂先に青白い光が走り、冷たい空気の中で細く唸る。
弓兵は矢尻に小さな魔石を嵌め込み、指先で軽く弾いた。
魔石が火花のように瞬き、矢羽に塗られた燐光粉が淡く燃える。
門の横では、ぼろぼろの法衣を着た老魔法使いが、震える手で杖を掲げていた。
杖の先に吊るされた魔灯石が、かちかちと小さな音を立てて光を溜めていく。
王都の優雅な魔法とは違う。
ここにあるのは、泥と血と寒風の中で使い潰され、それでも生き残るために磨かれた辺境の魔法だった。
ーー悪くないな。いや、今は感心している場合じゃない。
「規模は!?」
リカルドが駆け込んできた兵に問う。
「灰牙狼が十数体! 小鬼が八! それから後方に、角持ちが一体!」
その報告に、出迎えの者たちの顔色がさらに悪くなった。
”角持ち”
魔物の中でも、群れを率いる上位個体につけられる呼び名だ。
名前だけなら、王都の図鑑で見たことがある。
額に角を持ち、周囲の魔物を粗雑に統率する。
放っておくと、ただの獣の群れが、厄介な軍勢もどきになる。
到着初日から、歓迎が手厚すぎる。
「門を閉じろ! 火弾の準備! 槍兵は門前で列を作れ!」
リカルドの号令が飛ぶ。
兵たちは即座に動いた。動きは悪くない。
門の向こうから、濁った唸り声が近づいてくる。
灰色の毛並みをした狼型の魔物が、雪まじりの泥を蹴って迫っていた。
肩口から骨の棘が突き出し、口の端から黒い涎が糸を引いている。
その足元を、小鬼たちが笑いながら走っている。
ーーまずいな。
狼より先に、小鬼だ。
(そういえば、あの角持ち……なんだか……前職の上司に似ていないか?
あんな風に、まさに鬼の形相だったよな?)
前世のブラック企業を思い出しかけて、俺はそっと記憶の蓋を閉じた。
気を取り直して、俺は外套の袖の中で、指先だけを動かした。
まずは、風。
突風ではない。
石畳の上に残った霜を、一瞬だけふわりと浮かせる程度の、ごく小さな風だ。
「ぎゃっ!」
小鬼の軍勢が派手にすっ転んだ。
その上を、弓兵の放った矢が走る。
矢尻の魔石が赤く瞬き、空気を裂いて一直線に落ちた。
矢は転んだ小鬼の喉に突き刺さり、そのまま地面に縫いとめた。
「当たった! 当たったぞ!」
若い弓兵が驚いた声を上げる。
(よし。次ーー)
灰牙狼の一体が、槍兵の列へ低く飛び込んだ。
(お、速いな)
銀灰の影が地面を滑り、兵の突き出した槍をかわそうとする。
このままだと、懐に入られる。
俺はその槍の魔力導線に、ほんの少しだけ魔力を流した。
瞬間、穂先の術式紋が青く瞬く。
槍の突きが、わずかに伸び、灰牙狼の肩口を裂き、獣の悲鳴が上がる。
「押せるぞ!」
「狼を前で止めろ!」
兵たちの声が変わる。
さっきまでの焦りが、ほんの少しだけ熱を帯びた。
ーーその時、門の外でひときわ大きな咆哮が上がった。
空気が震えた。ただの鳴き声じゃない。
前線の兵たちが一瞬、身をすくませる。
灰牙狼たちの動きが逆に鋭くなった。
小鬼どもが耳障りな笑い声を上げながら、門の左右へ散る。
角持ちが前へ出てきた。
黒ずんだ二本角に、赤く光る目。
普通の灰牙狼よりさらに一回り大きく、背の骨が歪に盛り上がっている。
吐く息が白い靄となり、その中に赤い火花のような魔力片が混じっていた。
「火弾、撃て!」
老魔法使いが杖を振る。
防衛隊の魔法兵たちが一斉に呪文を唱えた。
「火よ、灯れ。火よ、集え。烈火弾!」
三つの火弾が宙を走る。
橙色の光が灰色の空を裂き、門前を一瞬だけ夕焼けのように照らした。
二つは灰牙狼を焼いた。
だが、一つは角持ちの手前で、霧のように散った。
角持ちの周囲を覆う濁った魔力に弾かれたのだ。
「……あの角持ち、薄い防護結界を張ってるな」
俺が呟くと、リリアが小さく頷いた。
「厄介ですね」
「……」
うーん。
ただでさえ寒いから早く屋内に入りたいのに、このままだとダラダラする時間まで減ってしまう。
あいつを倒すだけなら、たぶん難しくない。
普通の魔法使いなら、あの結界を力で破ろうとするだろう。
だが、俺の場合、目立ってはいけない。
だから、破るのではなく、緩めればいい。
防護結界にも流れがある。
あれは、完全な壁ではないのだ。
「火弾、第二射!」
老魔法使いが杖を振り上げた。
杖先の魔灯石が赤く明滅し、周囲の魔法兵たちが声を合わせる。
「火よ、灯れ。火よ、集え。烈火弾!」
角持ちの防護結界が、赤黒く脈打つ。
また弾く気だ。
俺はため息をひとつつき、外套の袖の中で指を軽く曲げた。
すると、火弾はわずかに軌道を変えた。
結界の表面を撫でるように滑り、角持ちの左目の前で小さく弾ける。
「グァアアアアアアアッ!」
角持ちが大きく顔を振った。
「今だ!」
リカルドが踏み込む。
魔力導線の刻まれた長剣が、青白く輝いた。
(お、さすが隊長。反応が早い)
だが、角持ちもただの獣ではなかった。
視界を潰されながらも、二本角を振り上げ、リカルドの剣を受け止める。
甲高い音が鳴った。
青白い火花と、赤黒い魔力片が散る。
ーー押し負けている。
あのままだと弾かれてしまう。
俺は角持ちではなく、リカルドの足元へ魔力を流した。
リカルドは大きく踏み込み、角持ちの頭を真っ二つにした。
ーー次の瞬間、兵たちの声が弾ける。
「角持ちをやったぞ!!」
「我らが隊長が角持ちを討った!!」
うん。隊長が討った。そういうことでいい。
いや、ぜひそういうことにしてほしい。




