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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第9話 王都から来た封印

 翌朝の沢地萃は、雨に洗われたくせに少しも晴れやかではなかった。


 夜のあいだに降り続いた水が石畳の目地に溜まり、運河の表面には灰色の空がそのまま沈んでいる。高床の家の軒先から落ちる雫の間を、人々は肩をすぼめて急いでいた。いつもなら魚市場の呼び声や渡し舟の櫂音が朝の湿気を押しのけるのに、今日はどの声も一段低い。


 創太は旧郵便塔の鍵を開け、誰もいないうちに地下保管庫へ下りた。


 眠れていない目には、石壁の青い苔までやけに鮮明に見える。台帳棚の木口、封蝋のひび、油灯皿の煤。見慣れたものばかりなのに、どれも昨日までとは違う場所にあるみたいだった。


 好きだよ。でも、愛してない。


 あの言葉は、湿った布のように胸の内側へ張りついたまま離れない。


 創太はそれを振り払うように、受付台帳の束を机へ積んだ。仕事をする。数字を追う。欠番を整える。そうしている間だけは、自分が何を期待して、何を失ったのかを考えなくてすむ。


 だが、その朝の静けさは長く続かなかった。


 石段の上で、硬い靴音がいくつも止まる。


 次いで、扉が開いた。


 「旧郵便塔保管庫係、創太で間違いないな」


 低く乾いた声だった。沢地萃の者の発音ではない。王都の、石造りの建物の中でよく響くように整えられた声。


 創太が顔を上げると、階段の上に三人立っていた。


 先頭は細身の男。雨除け外套の裾は泥一つなく、胸元には王都中央郵政局の銀章が光っている。年は三十前後だろうか。癖のない黒髪をきっちり撫でつけ、手には封蝋付きの筒を持っていた。後ろには沢地萃役場の書記と、見覚えのある町吏が控えている。


 そして、その脇に、ちひろがいた。


 昨夜と同じ藍色の制服なのに、今朝の彼女はひどく遠く見えた。創太と目が合っても、すぐには何も言わない。


 「王都中央郵政局監察課、柏瀬ロアン」


 男は名乗り、胸の前で筒を軽く持ち上げた。


 「旧公印便の閲覧制限と仮封印の通達を持ってきた。手続きに立ち会ってもらう」


 創太は一拍遅れて立ち上がった。


 「……仮封印、ですか」


 「調査対象文書が含まれる可能性がある。保全のためだ」


 保全。


 聞こえは穏やかだが、要するに触るな、という意味だ。


 柏瀬は地下へ下りると、湿気を嫌うように手袋をはめた。ちひろは半歩後ろにつく。創太は棚の前へ回り、無意識に最奥列を庇う形になった。


 「対象はどの範囲ですか」


 「旧公印便三列目の水路関係箱、および関連受付台帳」


 その答えに、創太の指先がわずかに動く。


 三列目。水路関係箱。そこまで分かっているのか。


 ちひろが王都へ戻っていた五年のあいだ、沢地萃のことを調べていたのは本当だったのだろう。だが同時に、王都側ももう動いている。しかも味方とは限らない形で。


 柏瀬は通達書を広げ、町吏へ読み上げさせた。旧郵便塔地下保管庫に収蔵される一部文書について、照会写し・受付台帳を含む閲覧と移送を一時停止すること。許可なき開封、筆写、持ち出しを禁ずること。違反した場合、保管責任者と協力者を処分対象とすること。


 処分対象。


 その文言だけ、やけに耳へ残った。


 創太は通達書から目を逸らし、逆に柏瀬の指先を見た。紙の右下、対象箱番号の列。墨の濃さが行ごとに微妙に違う。後から追記した箇所が一つ混じっている。


 しかも――。


 「箱番号、四つしかありません」


 創太の口から、気づけば言葉が出ていた。


 柏瀬の眉がぴくりと動く。


 「何だ」


 「水路関係箱は五つです。三列目の下から二段目に四箱、その上に受付控えをまとめた薄箱が一つ。そこが抜けてる」


 町吏が戸惑ってちひろを見る。ちひろは何も言わない。柏瀬だけが、創太を値踏みするように見た。


 「ずいぶん詳しいな」


 「保管庫係ですから」


 創太は平らに返した。昨夜までなら、ここで黙ったかもしれない。だが今は逆だった。黙ればそのまま、自分の知らないところで全部決まっていく気がして、喉が勝手に開いた。


 「それに、水路関係の受付台帳なら、二十年前の夏季分は一冊じゃ足りません。水害後の請願が多かった年です。前半と後半で分かれているはずです」


 「……確認する」


 柏瀬は短く答えたが、声の端が少し硬くなった。


 創太は最奥の棚へ進み、封紐の色と箱の焼印を確かめてから、問題の列を順に取り出した。古い紙の匂いが濃くなる。箱の角には薄い泥のような染みがあり、それが二十年前の大雨の年にまとめ直された印だと創太は知っていた。


 四箱の下から五つ目。


 やはり、薄箱がある。


 しかも、その箱の脇に差し込まれていた受付控えの見出し札には、別の妙な点があった。番号がひとつ、飛んでいるのだ。


 創太は箱を机へ運び、控え札をめくった。古い墨は滲んでいるが、数字の並びだけははっきり読める。


 三一八。三一九。三二〇。三二二。


 三二一がない。


 たった一つの欠番。それ自体は珍しくない。破損、統合、誤記。理由はいくらでもつけられる。だがこの列だけは別だった。二十年前の水路譲渡が処理された月であり、町議会と役場の間に照会が何度も往復した時期だ。


 創太は次の控えへ指を滑らせる。


 三二二の差出先は領主代行府。


 三二〇の宛先は沢地萃町議会。


 なら、本来その間にある三二一は、照会への返答か、添付目録のどちらかだ。


 抜けるなら、そこだ。


 「何か分かったの」


 初めて、ちひろが口を開いた。


 創太は顔を上げないまま言った。


 「欠番があります」


 「どこの」


 「水路譲渡の年の受付控えです。三二一」


 ちひろの息が、ごく浅く止まった。


 その反応だけで十分だった。彼女は最初から、その番号の重さを知っている。


 柏瀬が机越しに身を乗り出す。


 「見せろ」


 創太は控え札を渡した。柏瀬の視線が数字をなぞり、書記も肩越しに覗き込む。町吏は露骨に顔色を変えた。


 「ただの抜け番号かもしれない」


 柏瀬はそう言ったが、言い切るには早すぎる声だった。


 「かもしれません」


 創太は続けた。


 「でも、この月の綴りは、受付順に綴じ直されています。抜けるなら末尾か、破損札の後です。途中だけ綺麗に抜けるのは不自然です」


 話しながら、自分の胸の内側で別の熱が上がるのを感じていた。


 怒りだった。


 ちひろに向けたものだけではない。五年前から何も知らされずに置かれていたこと、父の死んだ町で、暮らしを支える水路まで誰かの都合で削られていたかもしれないこと、その痕跡がいま目の前にありながら、また上から蓋をされようとしていること。


 柏瀬はしばらく黙り、やがて通達書を丸めた。


 「封印範囲を修正する。控え箱も追加だ」


 そう言って、銀蝋のついた封印札を机へ並べる。


 ちひろが一歩前へ出た。


 「待ってください。全部を閉じたら、町議会照会用の写しまで死にます」


 「君が口を出す場ではない、ちひろ補佐見習い」


 「正式命令で来ていないのは承知です。でも、照会写しは原本と別扱いで――」


 「だからこそ保全する」


 柏瀬の声には、冷たさよりも焦りが混じっていた。


 創太はそこに、昨夜までと違う種類の確信を覚えた。柏瀬は何も知らないまま動いているのではない。少なくとも、水路譲渡に関する何かが表へ出るのを急いで止めたい側の論理で動いている。


 味方でも、ただの監察官でもない。


 ちひろがさらに何か言おうとしたとき、柏瀬は創太のほうを見た。


 「保管庫係」


 「はい」


 「ここにいる誰かに頼まれて、台帳や写しを見せたことは」


 「ありません」


 創太は即答した。


 柏瀬の目がわずかに細くなる。


 「今後も関わるな。調査対象に近づけば、お前も共犯に見なされる」


 その言葉へ、ちひろがかぶせるように言った。


 「創太は関係ありません」


 強い声だった。庇うための声だと、頭では分かる。


 それでも胸の奥では、別の言葉に聞こえた。


 関係ありません。


 巻き込みたくない、ではない。端から外に置く響きだった。


 柏瀬はうなずき、町吏に指示して封印作業を始めた。銀蝋が温められ、札が箱の紐に次々留められていく。小さな金属音がするたび、創太には誰かが口を塞がれていく音に聞こえた。


 封印が終わるころには、保管庫の空気が朝よりさらに重くなっていた。


 柏瀬たちは通達書の控えだけを残して去っていった。町吏と書記の足音が石段を上り、扉が閉まる。地下には、封印札の銀色と、湿った紙の匂いだけが残った。


 創太は机の前に立ったまま動かなかった。


 ちひろもすぐには口を開かない。


 先に喋ったのは創太だった。


 「……いつから知ってたんですか」


 ちひろがまっすぐこちらを見る。


 「欠番そのものは、王都で手控えを見た時点で」


 「手控え」


 「元隊長が残したもの」


 創太はゆっくり顔を向けた。


 ちひろは外套の内ポケットから、布に巻かれた小さな帳面を取り出した。雨と擦れで角の丸くなった革表紙。開かれた最初の頁には、沢地萃郵便飛脚隊の古い隊章と、癖の強い筆跡がある。


 『水路譲渡照会、原本は触るな。町議会へ出せるのは封緘写しと受付欠番。三二一を探せ』


 短い走り書きだった。


 その下に、さらに小さく追記がある。


 『王都の中にも商会の手がある。正面から請えば沈む』


 創太は文字を見下ろし、喉の奥がひりつくのを感じた。


 「これを、誰が」


 「亡くなる前の蓮見隊長」


 ちひろの声は低かった。


 「王都の局舎にいたとき、古い便袋の中から出てきたの。沢地萃宛てじゃなく、私宛てに回されてた。たぶん、町の中で動ける元飛脚を待ってたんだと思う」


 「だから戻ってきた」


 「うん」


 ちひろは帳面を閉じた。


 「二十年前の水路譲渡が不正なら、今の私設便の広がり方も説明がつく。水路を握った側が、町の足も、手紙も、全部自分の商売にしたかった。だから沢地萃の公的郵便は少しずつ弱らされた」


 創太の脳裏に、ここ数年で消えた渡し舟の停留、値上がりした通行札、遠回りを強いられる配達路が次々浮かぶ。全部がばらばらの不便だと思っていた。だが、一本の線で繋げれば違う景色になる。


 町の生活路そのものが、誰かの利益のために削られてきたのかもしれない。


 「原本は動かせない」


 ちひろは続けた。


 「でも、封緘写しと受付台帳の欠番、それに当時を知る人の証言が揃えば、町議会は臨時審議を開ける。正式な形で、水路譲渡のやり直しを求められる。だから私は……」


 「だから、最初から僕に何も言わなかった」


 創太の声は、自分でも驚くほど冷えていた。


 ちひろが言葉を止める。


 「言えば、君を巻き込むから」


 「もう巻き込んでるでしょう」


 創太は机の端へ手を置いた。そうしなければ、指先が震える。


 「保管庫に忍び込んだ夜から。偽装恋人の噂を流した日から。昨日のあの言葉まで使って、僕だけ外に置けると思ってたんですか」


 ちひろの唇がきつく結ばれる。


 「……あれは」


 「守るため、ですよね」


 先回りして言うと、ちひろは返せなくなった。


 創太は自分でも嫌になるほど、今は相手の癖も、間の取り方も、全部分かってしまう。


 「でも、守るって、知らないまま置いていくことですか」


 言ってしまってから、胸の奥が遅れて痛んだ。


 五年前に飲み込んだ問いが、形を変えて出たのだと気づく。


 ちひろは目を伏せた。強がっているときの彼女はたいてい先に背筋を伸ばすのに、今は逆に少しだけ肩が落ちて見えた。


 「……ごめん」


 その謝罪では足りない、と口にしたかった。


 だが創太は、そこまで言う気力を急に失った。怒りと失望が大きすぎると、かえって声は静かになる。


 「柏瀬監察官は、どこまで知ってるんですか」


 「全部じゃない。でも、封印の動きが早すぎる。上で誰かが急がせてる」


 「王都の中にも商会の手がある」


 「そう」


 「……それも、最初から」


 ちひろは否定しなかった。


 創太は小さく息を吐いた。湿った地下の空気が、肺の中で重い。


 「分かりました」


 「創太」


 「僕は保管庫の仕事に戻ります」


 「待って。欠番を読めるのは、たぶん君がいちばん早い」


 「さっき、関係ないって言いましたよね」


 ちひろが息を呑む。


 「それは、処分から外したくて」


 「そうでしょうね」


 創太は机の上の帳面を閉じた。


 「でも、何も知らされないまま庇われるの、もうたくさんです」


 保管庫の隅で、封印札がかすかに揺れた。地下へ下りる風がまだ残っている。


 創太は蓮見隊長の手控えを、ちひろへ返した。


 「証拠を集めたいなら、続けてください」


 「創太」


 「僕は、飛脚隊の仕事から一度離れます」


 ちひろの指が、帳面を受け取るところで止まる。


 「離れるって」


 「保管庫係としての引き継ぎと整理を先にします。もともと、走る側に戻るつもりで入ったわけじゃない」


 半分は嘘だった。


 第七話で書いた問いかけの手紙を思い出す。怖いから黙るのをやめられるか。あれに、自分はたしかに書いた。だが、書けたことと、実際に前へ出られることは違う。ちひろに差し出したかった言葉が、あんなふうに切られた今はなおさらだ。


 創太は石段へ向かった。


 背後でちひろが一歩だけついてくる気配がする。


 「創太、お願いだから、それだけは」


 「お願い、ですか」


 振り向かずに言うと、足音が止まった。


 「じゃあ今度は、全部言ってください。守りたいものも、僕に隠した理由も、どうして昨日あんなことを言ったのかも」


 沈黙が落ちる。


 それだけで、答えは分かった。


 ちひろはまだ言えないのだ。言わないのか、言えないのか、その違いは今の創太にはどうでもよかった。


 「……今は無理なんだよね」


 自分で言って、自分で納得するしかない響きだった。


 石段を上がる。湿った地下の冷気が、少しずつ背中から離れていく。


 地上へ出ると、昼前の空はまた暗くなり始めていた。沢地萃の雨は、降る前に必ず匂いが変わる。水草を踏んだような青い匂いが、橋の上から町じゅうへ広がっていた。


 隊舎の前を通り過ぎると、幸育が遠くから手を振りかけ、創太の顔を見てやめた。奏丞は窓辺で新しい地図を広げていたが、声はかけてこない。那水だけが帳場から一瞬だけ視線を上げ、そのまま何も聞かずに数字へ戻った。


 その沈黙が、かえってありがたかった。


 創太は旧郵便塔へ引き返し、保管庫係用の引き継ぎ帳を開いた。


 棚番号、湿気の強い列、虫除け草の交換日、封蝋の弱い箱、修繕が必要な脚立、立入注意の石段。書くべきことはいくらでもある。いつか誰かがここを使うなら、困らないようにしておかなければならない。


 それは、誰にも嘘をつかない仕事だった。


 夕方近く、最奥の控え箱を封印越しに見たとき、三二一の欠番がまだそこに暗く口を開けているように思えた。


 真実は近い。


 手を伸ばせば届くところまで来ている。


 それでも今の創太には、その一歩が踏み出せない。


 知ってしまったからこそ、余計に苦しかった。敵が誰かは見えてきた。ちひろが何を守ろうとしているのかも分かった。なのに、自分がその隣で立つ資格があるのか、信じていいのか、もう分からない。


 雨の匂いが濃くなる。


 創太は引き継ぎ帳の末尾に、明日から始める整理項目を細かく書き足した。


 奥列台帳、旧便袋、差出人不在箱、未整理預かり便。


 そして最後に、小さく一行だけ加える。


 『飛脚隊業務からは、当面離れる』


 書いた文字をしばらく見つめてから、そっと帳面を閉じた。


 地上では、また雨が降り始めていた。



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