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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第8話 好きだけど愛してない

 問いかける手紙を書いた翌日から、沢地萃の風は少しだけ意地が悪くなった。


 朝の板道を渡るだけで、魚籠を抱えた女たちが笑いをこらえた顔で道を開ける。渡し舟の舟守は、創太が一人で乗ろうとしただけなのに「今日は別々なのか」と勝手に残念がった。萌乃香の食堂へ鍋を受け取りに寄れば、常連の染物屋が「若いのは気持ちを隠せないほうが景気がいい」と訳の分からない理屈で酒粕漬けを一切れおまけしてきた。


 創太は景気に貢献した覚えは一度もない。


 それでも噂は、本人の都合よりずっと早く町へなじんでいく。


 飛脚隊の隊舎でも、那水は表向き何も言わなかったが、午前の経路表を配るときだけは創太とちひろの便を不自然なくらい自然に重ねた。奏丞は「見張りに見せるなら、別便で離しすぎないほうがいい」と本気で助言し、幸育は「いっそもっと仲のよさそうな小道具を」と口走って那水に帳面の角で額を叩かれた。


 ちひろは、笑って受け流す役を引き受けていた。


 創太が気まずくなる一歩手前で話題を変え、市場の茶屋で二人分の湯飲みを頼み、子どもに「ほんとに付き合ってるの」と聞かれれば「さて、どう見える?」といたずらっぽく返す。その一つ一つは、商会の聞き耳をだますために必要なふるまいなのだと頭では分かっている。


 分かっているのに、困る。


 昨日までは、偽りの形でも近いことそれ自体に息が詰まっていた。今日はそこに別の苦しさが混じる。ちひろが笑うたび、その笑いを自分だけのものにしたいなどと思ってしまうことだった。


 午前の配達は、北運河筋の乾物屋から葦紙工房へ回す注文書、それから旧南橋のたもとの織屋へ届ける糸見本だった。どちらも急ぎではないが、水気を嫌う荷だから雨雲の具合を見てさっさと運ぶ必要がある。


 板道を並んで歩きながら、創太は何度も荷袋の紐を握り直した。


 「手、つながなくて平気ですか」


 思わず小さな声で言うと、ちひろが横目だけで見た。


 「朝から飛ばすね」


 「飛ばしてません。見張りがいないなら、わざわざやらなくていいと思って」


 「うん。今はいない」


 それだけ言って、ちひろは前を向いた。


 返事としては正しい。正しすぎて、創太は余計に歩幅を乱しそうになる。


 葦紙工房では、主人が荷を受け取るなり「おや」と目を細めた。


 「今日は腕を組んでないんだね」


 「仕事中なので」

 と創太が答えると、主人はにやにやした。


 「仕事中だって、恋人は恋人だろう」


 創太の口がわずかに止まる。


 その隣で、ちひろが先に笑った。


 「今日は急ぎなんです。また今度、噂の続きを聞かせてください」


 「いやあ、聞かせるほどの続きを君らが作るんだろう?」


 創太は礼だけして工房を出た。背中へ追ってくる笑い声が、湿地の風より質が悪い。


 外へ出ると、ちひろが少しだけ肩を揺らしていた。


 「……笑わないでください」


 「だって、今の顔」


 「どんな顔ですか」


 「ちゃんと困ってる顔」


 「困ってますよ」


 「知ってる」


 知ってる、と言われるたびに、創太の胸は少しだけ深いところを掴まれる。


 午後、那水は急に帳場の声を低くした。


 「ちひろ。王都から使いが来てます」


 隊舎の裏手にある細い渡し板の先、柳の陰へ濃灰の外套が一人、動かず立っていた。肩口の小さな銀章が、沢地萃のものではないと遠目でも分かる。


 ちひろの顔から、昼の笑いが消える。


 「どこから」


 「中央郵政局監察室」


 那水はそれ以上の声を出さなかったが、机の下で指先がかすかに帳面を叩いていた。一定の間隔。急いで考えているときの癖だ。


 創太は荷札を書く手を止める。


 監察。


 ただの連絡役ではない。規則のほつれを見つけ、それを糸ごと引き抜くために来る人間だ。


 ちひろは創太のほうを見なかった。


 「少し外す。午後便は幸育と奏丞に振って」


 「分かりました」と那水。


 「僕も」

 と言いかけた創太に、ちひろはかぶせるように言った。


 「創太は帳場にいて」


 柔らかいのに、入る余地のない声だった。


 ちひろはそのまま柳の陰へ歩いていく。灰の外套の人物が軽く会釈し、二人は隊舎から少し離れた旧水車小屋の裏へ消えた。


 見えなくなってからも、創太の手はすぐには動かなかった。


 「書いてください」

 那水の声で我に返る。

 「荷札。止まってる」


 「……はい」


 「今追っても無駄です」


 見透かされたようで、創太は小さく息をのんだ。


 「顔に出てましたか」


 「顔だけじゃなく、指先まで」


 那水は新しい紙片を一枚差し出した。


 「だから今は、やることをやってください。気になるのは分かるので」


 慰める言い方ではなかった。だからこそ、創太は逆らえなかった。


 午後の仕事を片づけながらも、意識は柳の向こうへ引かれ続ける。幸育の派手な声も、奏丞が雨雲と風向きを測る独り言も、今日は遠かった。


 ちひろが戻ったのは、日が西の高床屋根に引っかかるころだった。


 表情はいつもどおりに見えた。見えた、というだけで、創太には分かった。いつもより笑う口元の角度が半分だけ上すべりしている。歩幅がわずかに速い。外套の袖口を握る指に、白く力が入っている。


 「お待たせ。残りの便、どれ」


 何もなかったみたいに言う。


 那水は一瞬だけちひろの顔を見て、それから無言で荷を二つ差し出した。


 「西水門の時計屋と、夜灯橋の見張り台。どっちも今日中」


 「じゃあ行ってくる」


 「私も行く」と創太はすぐ言った。


 ちひろが止まる。


 「創太は」


 「帳場にいて、って昼に言われました。でも今は便が残ってます」


 自分でも少し硬い声だった。


 「地図も分かる。夜灯橋側は満ちると板が沈みます。僕がいたほうが速いです」


 数拍の間があった。ちひろは何か言いかけて、結局のみ込む。


 「……分かった。じゃあ一緒に」


 時計屋へ向かう道で、二人はしばらく荷の話しかしなかった。


 時計屋の主人は修理帳を受け取り、受領印を押しながら「仲直りはしたのかい」と聞いた。どうやら昼の時点で、創太が一人で歩いていたのを誰かが見ていたらしい。


 「喧嘩してません」


 「してない顔じゃないね」


 「仕事中ですから」


 「若いのに仕事中ばっかりだ」


 創太はそれ以上返さなかった。ちひろも笑わない。


 店を出たあと、夜灯橋へ向かう水路沿いは、夕方の湿り気が濃くなっていた。葦の先が風に擦れ、水面は薄い鉛色に変わり始めている。遠くの空には、雨になる前の低い雲がゆっくりたまっていた。


 見張り台へ届ける夜灯油の受領札に印をもらい、二人は戻り道に旧河岸の石段へ下りた。ここから隊舎へ帰る近道は二つある。人の多い板道と、水辺ぎりぎりを通る静かな石畳。ちひろは迷わず、静かなほうを選んだ。


 創太には、それが少し怖かった。


 人目がない道は、見せかけを外せる道でもある。


 しばらく歩いて、創太は足を止めた。


 「ちひろさん」


 呼びかけると、彼女も止まる。振り向いた横顔へ、運河の鈍い光が当たっていた。


 「何」


 「昼の人、監察官でしたよね」


 「……そう」


 「何を言われたんですか」


 「仕事の確認」


 右へ視線が流れる。


 創太の胸の奥が、じくりと痛む。もう知ってしまった癖だった。


 「嘘ですよね」


 ちひろはすぐに否定しなかった。


 運河の向こうで水鳥が一羽、短く鳴く。日が完全に落ちる前の町は、明るくも暗くもなくて、その曖昧さが余計に人の顔を読みにくくする。


 「創太」


 「前に、勝手に全部決めないでって言いました」


 「覚えてる」


 「だったら教えてください」


 声が強くなりすぎないように気をつけたつもりだった。けれど最後の一音だけ、どうしても硬くなる。


 ちひろは石段の一段下へ視線を落としたまま言った。


 「中央で、沢地萃の記録を勝手に追ってる人間がいるって話になってる」


 「人間って」


 「私」


 「……それだけですか」


 ちひろの指が、荷袋の革紐を強く握る。


 「それだけじゃない。協力者もいるだろうって」


 創太は何も言わなかった。


 「照会写しや欠番記録を動かしたら、規則違反になる。私は王都の籍があるから、処分が出る。創太は保管庫係の資格を剥がされるかもしれない、って言われた」


 やっと本当が出てきた。遅い。遅いのに、言葉そのものより、その話を一人で聞いてきたことのほうが創太には痛かった。


 「だから昼、僕を帳場に残したんですか」


 「そう」


 「また守るため?」


 ちひろは目を閉じる。


 「……そう」


 その答えを聞いた瞬間、創太の中で何かが静かに決まった。


 怒鳴るほど子どもではないつもりだった。けれど、黙って引くほどもう元のままでもなかった。


 「僕、もう嫌です」


 ちひろが目を開く。


 「何が」


 「嘘のまま、近くにいるのが」


 言ってしまえば後戻りはできない。分かっていても、止まれなかった。


 「見張りがいるから手をつなぐ。商会が見てるから笑う。そういうの、最初は仕事だって思ってました。でも今は、それだけで済ませたくない」


 ちひろの喉が小さく動く。


 創太は続ける。


 「子どものころから、ずっとです。五年前にいなくなってからも、きれいに終わってくれなかった。再会して最悪だと思ったのに、余計に駄目でした」


 風が強くなり、葦の群れが一斉に同じ方向へ伏せた。


 「僕は、ちひろさんが好きです」


 水辺の空気が薄くなる。


 「だから、嘘のままじゃいたくない」


 言い終えたあとの静けさが、ひどく長かった。


 遠くで誰かが板戸を閉める音がする。運河の匂いに、降り出す前の雨の金気が混じる。ちひろは何も言わず、ただ創太を見ていた。その視線が逃げないことだけが、かえって苦しい。


 「……困る」


 最初の返事は、それだった。


 「困らせたいわけじゃありません」


 「分かってる」


 「だったら」


 言いかけて、創太は止まる。だったら何だ。受け入れてほしいのか。嘘をやめてほしいのか。守るという言い方をやめて並んでほしいのか。どれも本当で、どれも今すぐ口にするには大きすぎた。


 ちひろが一歩だけ近づく。


 その距離で、創太は初めて、彼女の右手が袖の中で細かく震えているのに気づいた。爪が掌へ食い込んでいるのか、指先の形が不自然に固い。


 なのに、声だけはやさしかった。


 「創太」


 名前を呼ばれる。


 「好きだよ」


 胸が跳ねる。反射みたいに。


 次の言葉が来るまでの一瞬に、希望というほど形のあるものではない、もっと愚かな何かが喉元まで駆け上がった。


 「でも、愛してない」


 その一言で、全部が止まった。


 運河の音も、風も、降る前の雨の匂いも、何もかもが遠くなる。


 ちひろは続けた。


 「大事だし、好き。昔から、ずっと。だから危ないところへ立たせたくない。でも、それは創太が思ってる意味とは違う」


 やさしい言い方だった。


 やさしいぶんだけ、逃げ道がない。


 「偽装のことは、ごめん。仕事のために使った」


 「仕事」


 「そう」


 「手をつないだのも」


 「そう」


 「笑ったのも」


 ちひろの睫毛が揺れる。


 「……そうしないと、守れなかったから」


 創太はうまく息が吸えなかった。


 今までなら、ここで大丈夫ですと言って引いたかもしれない。相手が困るなら仕方ないと、自分のほうを丸めて終わらせたかもしれない。けれど今日は、その言い方をしたら、自分が書いた問いかけの手紙まで嘘になる気がした。


 「それ、本当ですか」


 ちひろの唇がかすかに開いて、閉じる。


 「……本当」


 また右へ視線が流れる。


 癖を見抜いたのは自分だ。見抜いたからといって、今ここでそれを暴けば何が残るのか、創太には分からなかった。


 ちひろの袖の中の震えも、指先の白さも、声のやさしさも、全部まとめて見ないふりをされたがっているように思えた。


 見ないふりをすることだけは、できた。


 「分かりました」


 創太はそう言った。


 自分の声が、自分のものとは思えないくらい平らだった。


 「創太」


 「じゃあ、これで終わりにしましょう。偽装も」


 「今すぐは」


 「見張りがいる前では続ければいいです。仕事なんでしょう」


 ちひろが何か言いかける。


 でも創太はもうそれを待てなかった。聞けば、また少しだけ期待してしまう。期待したあとで落ちるのは、さっき一度で十分だった。


 「僕、先に戻ります」


 石段を上がる足元が少しだけ危うい。けれど転ばなかった。転べばたぶん、ちひろが支えようとする。それが今はいちばんつらい。


 数段上ったところで、ぽつりと頬に冷たいものが当たった。


 雨だった。


 最初の一粒が運河へ落ち、小さな輪をつくる。


 振り向かなかった。


 振り向けば、たぶんまだそこにちひろがいる。袖の中で手を握りしめたまま、あのやさしい顔で立っている。その姿を見たら、さっきの言葉まで信じ切れなくなる。


 それは今の創太には、耐えにくすぎた。


 隊舎へ戻るころには、雨脚は細く増えていた。幸育が戸口から顔を出し、「あれ、ちひろさんは」と聞きかける。創太は荷袋を那水へ渡し、受領印の札だけ机へ置いた。


 「後から戻ります」


 それだけ言う。


 那水は創太の顔を見て、余計なことを聞かなかった。受領札を受け取る指先だけが、いつもよりほんの少し静かだった。


 創太はそのまま保管庫へ下りた。


 石段を降りるたび、湿った空気が肺の中へ溜まっていく。棚の並ぶ地下は、昼より暗く、静かで、紙と石の匂いしかしない。ここなら考えなくて済むと思っていた場所なのに、今日は逆に何も逃がしてくれなかった。


 昼に書いた荷札の文字。水辺の風。好きだよ、でも、愛してない。


 たったそれだけの言葉が、頭の中で何度も形を変えて響く。


 好きなら何が違うのか。愛してないなら、あの橋の手も、あの笑いも、あの声も、全部どういう顔で受け取ればよかったのか。


 創太は最下段の棚へ片手をつき、しばらく動けなかった。


 泣くほど子どもではないつもりだった。


 だが、胸の奥で何かが沈む音だけは、はっきり聞こえた。


 油灯の火が、湿った空気に押されて小さく揺れる。


 その揺れを見ながら、創太はようやく思う。


 これでよかったのかもしれない。


 嘘のまま期待を抱えて、あとで笑い話みたいに切られるより、今はっきり痛いほうがましだ。


 そう思わなければ、立っていられなかった。


 地上で扉の開く音がして、誰かの足音が一度だけ石段の上まで来た。けれど下りては来ない。そのまましばらく止まり、やがて遠ざかる。


 ちひろだと分かった。


 分かっても、創太は顔を上げなかった。


 保管庫の棚は何も言わない。宛先不明の手紙も、差出人不在の包みも、沈んだままの照会写しも、ただそこにある。


 届けたい言葉があるのに届かない、という形を、ここは昔からいくらでも抱えてきた。


 その夜、創太は受付台帳を開いても数字が頭へ入ってこなかった。


 欠番の並びを目で追っても、途中でどうしても別の言葉へ引き戻される。好き。愛してない。仕事。守るため。


 問いかけの手紙に、自分は何と書いたのだったか。


 怖いから黙るのをやめられるか。


 書いた。


 ちゃんと書いた。


 それなのに、今は何を言えばいいのか分からない。


 油灯が燃え尽きる少し前、創太は帳面を閉じた。


 今日のところは、もう考えないほうがいい。


 そう思っても、考えないですむほど器用ではなかった。


 地上では雨が本格的に屋根を打ち始めている。沢地萃の夜は、こういう音の中でたいてい何かを沈める。


 創太は暗くなる保管庫でしばらく座ったまま、雨の音が石壁を伝ってくるのを聞いていた。


 たぶん明日から、今までと同じ顔ではいられない。


 それでも朝は来るし、手紙は届く場所を待っている。


 その当たり前だけが、今夜はやけに遠かった。



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