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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第7話 問いかける手紙

 翌朝、沢地萃の空は、雨が降るとも晴れるとも決めかねたような鈍い白さをしていた。


 運河の水面には薄い霧が低く這い、隊舎の軒先から落ちる雫が、昨夜までの湿り気をまだ町のあちこちへ留めている。板道を渡ってくる人々の視線も、どこか同じだった。はっきり何かを言うわけではない。けれど見ている。昨日から町じゅうへ広まった、ちひろと創太の噂を、面白がりながら見ている。


 創太はその視線を正面から受け止めるほど肚が据わっていないので、朝の帳場では極力木札の数と床の節目だけを見ることにした。


 「南市場へ二件、北灯橋へ一件、西の渡し場へ急ぎ一件」


 那水が依頼札を並べながら言う。


 「昨日より一件多いです。評判が戻るのはありがたいですけど、同時に余計な視線も増えてます。今日の外回りは二人一組を基本にします」


 「それって、恋人組は固定ってことですか」


 幸育がにやりとして言った瞬間、那水の木札が飛んだ。額の真ん中へこつんと当たる。


 「配達先で余計なことを言わない人同士を組ませるだけです」


 「いてっ。俺、余計なことしか言ってないみたいじゃないですか」


 「違うんですか」


 「否定が一拍もない」


 萌乃香が朝の薄茶を運びながら、困ったように笑う。


 「はいはい、朝から隊舎の空気を煮詰めないの。今日は温かい豆粥もあるから、まず胃のほうを落ち着かせて」


 その声に救われるように、全員がいったん卓へ寄る。


 ちひろはいつも通りの顔で椀を受け取っていた。昨日のことも、橋の上の手の熱も、塔の前で交わしたぎこちない会話も、全部なかったことにするにはあまりに近く、全部意識し続けるには仕事が多すぎる。だから二人とも、微妙にそこを避けたまま、仕事の形へ身体を戻していた。


 「創太」


 ちひろが椀を持ったままこちらを見る。


 「午前の北灯橋、あとで一緒に」


 「……分かりました」


 返事はできた。


 それだけのことなのに、自分の声が少し低くなった気がして、創太は内心で疲れた。


 奏丞はそんな空気に気づいているのかいないのか、机へ広げた経路図から顔も上げずに言った。


 「よいですね。高気圧と低気圧のあいだみたいな距離感です」


 「例えが理屈っぽすぎて余計に嫌です」と創太が言う。


 「つまり今の二人、いつ雨が降ってもおかしくないってことですねえ」


 幸育の補足に、今度は萌乃香が布巾を投げた。


 朝の配達準備は、そうして半分はいつもの調子で、半分は昨日から続く妙な気配を抱えたまま進んだ。


 創太は一便目へ出る前に、保管庫から北灯橋方面の旧経路札を取ってくるよう頼まれ、旧郵便塔へ向かった。


 塔の中は外の湿り気よりさらに静かだった。石壁は夜の冷たさを少し残し、地下へ続く階段には、いつもと同じように黴と紙と油の匂いが沈んでいる。その匂いは創太にとって不思議な安心でもある。人の噂や気まずさは、ここまで降りるといったん遠くなる。


 保管庫の鍵を開け、灯りをともす。


 棚の影がゆっくり起き上がり、箱や帳面の輪郭を浮かべていく。


 北灯橋の旧札は第三列の上段、壊れた封緘具の箱の隣だったはずだ。創太は脚立を引き寄せ、手探りで木箱を確かめていく。札の箱はすぐに見つかったが、その奥に、見慣れない細長い桐箱が挟まっているのが目に入った。


 箱の表には、薄く擦れた墨でこう書かれていた。


 『新人用 宛先未記入』


 創太は眉を寄せた。


 宛先未記入でわざわざ一箱にまとめてある手紙など、通常の保管ではありえない。宛先不明の手紙ならまだ分かる。けれどこれは最初から、宛先を書く欄ごと空白のまま束ねられているらしかった。


 箱を棚から下ろすと、中には淡青色の封筒が二十通ほど、紐で緩くくくられて入っていた。どれも封はされておらず、宛名面には差出人欄も受取人欄もない。端に小さな水紋印だけが押されていて、旧飛脚隊の備品であることを示している。


 試しに一通、中身を抜く。


 便箋は一枚。そこへ書かれていたのは、たった一行だけだった。


 ――あなたは、本当に守りたいものを守れていますか。


 それだけ。


 差出人も日付もない。命令でも相談でもなく、誰かの胸の内へ真っ直ぐ指を差し入れるような文だった。


 創太は思わずもう一通開いた。文面は同じだった。三通目も、四通目も。


 気味が悪い、というより、妙に落ち着かない。


 この一行は、何かの答えを求めているわけではない。ただ、逃げる場所を減らしてくる。


 創太は箱を抱え、経路札と一緒に隊舎へ戻った。


 事情を話すと、最初に反応したのは奏丞だった。


 「それ、残っていたのですか」


 珍しく眼鏡の奥の目が丸くなる。


 「知ってるんですか」


 「ええ。旧飛脚隊の新人教育で使っていた『問いかけ文』です。入隊して最初の雨季の前に、自分へ一通書く。宛先はあとで自分の名前を書く。中身は誰にも見せなくてよい。ただし書かなかった者は、白紙のまま胸へ入れて一週間配達に出る」


 「なにその、優しいのか厳しいのか分からないしきたり」


 幸育が言う。


 ちひろが箱の中身をのぞきこみ、少しだけ懐かしそうな顔をした。


 「……まだ残ってたんだ」


 「ちひろさんもやったんですか」


 「やったよ。字、めちゃくちゃ汚くて、あとで自分でも読めなかったけど」


 「教育として成立してるんですか、それ」


 「成立はしてた。少なくとも、配達中に自分の胸元が重い感じはよく覚えてる」


 那水は一通を指先でつまみ、紙質を確かめるように軽く撫でた。


 「紙も封筒も旧隊舎備品ですね。帳場目録には載ってない。解散のどさくさで保管庫へ回されたまま、忘れられていたんでしょう」


 「忘れられてたもの、沢地萃には多すぎません?」と幸育。


 「だから今こうして掘り返してるんでしょう」


 那水の返しはいつも通りだったが、少しだけやわらかかった。


 萌乃香が封筒を一通持ち上げる。


 「これ、今の私たちでやってみる?」


 その一言に、卓の空気がほんの少し変わった。


 「仕事の最中ですよ」と那水は言ったが、真っ向から否定はしない。


 奏丞はすでに乗り気だった。


 「よいですね。制度の再建には、技術だけでなく信念の再確認も必要です」


 「言い方が大げさですけど、少し分かるかも」と萌乃香。


 幸育は封筒を額に当ててふざけたあと、目だけは妙に真面目になった。


 「……やる」


 創太は箱の中の淡青色を見下ろした。


 守りたいものを守れているか。


 そんな問いを、今の自分に渡されるのは、正直あまり気分がよくない。けれど気分がよくないからこそ、目を逸らせない種類のものでもあった。


 ちひろは創太の顔を一瞬だけ見て、それから箱へ手を伸ばした。


 「じゃあ、一人一通。昼の便が落ち着いたら書こう」


 そう決まると、午前の仕事はかえって早く進んだ。


 北灯橋への便は、欄干の修理が終わったばかりの家へ工具の領収証を届けるだけの軽い仕事だった。だが軽い仕事でも、創太は今日は変に疲れた。ちひろが隣にいる。昨日の偽装恋人の続きとして自然に歩くべきか、いつも通り保管庫係として半歩引くべきか、そのどちらも妙に不自然で、結局ふつうに仕事の話だけをするしかなかった。


 「板のきしみ、三枚目がひどいです」


 「うん。帰りに那水へ言っとく」


 「北詰めの水位も、昨日より上がってます」


 「そこも書く」


 会話は必要なことだけだった。それでもちひろは、依頼主の老大工と話すときにはいつもの調子で笑い、受け取った控え札を創太へ渡すときだけ少し目を細めた。


 近いのに、遠い。


 昨日から何度目か分からない感想を、創太はまた胸の内でだけ繰り返した。


 隊舎へ戻ると、昼の便は雨脚の都合で少し減っていた。空がまた鈍く沈み始めている。那水は「今のうちです」と全員へ短い休憩を言い渡し、萌乃香は食堂から焼いた根菜餅と薄い蜜茶を持ち込んだ。


 問いかけ文を書くなら、その時間しかない。


 卓へ封筒が配られる。


 誰もすぐには筆を取らなかった。


 たった一行の問いが、昼の湿った静けさの中で思ったより大きく場所を取っている。


 「読まなくていいんだよね」


 幸育が確認するように言う。


 「読まなくていいですよ」と萌乃香。


 「でも読んでもいいです」と奏丞。


 「奏丞さんはどうせ長いです」と那水。


 「なぜ分かるのです」


 「分かります」


 少しだけ笑いが起こる。


 それで皆、ようやく散っていった。


 奏丞は窓際の地図机へ陣取り、定規と一緒に筆を持った。書き出しからしてすでに几帳面で、便箋の余白まで計算している。理想の地図とは何か。雨の日に消える道を、どうしたら誰も切り捨てず記せるのか。遠い家ほど運賃が高くなり、遠い家ほど記録からも消えていく現実を、自分は本当に変えたいと思っているのか。彼の肩越しにのぞくつもりはなかったのに、創太は見えてしまった数行で、奏丞が地図をただの線の集まりとして扱っていないことを知った。


 那水は帳場へ戻り、帳簿の横へ便箋を置いた。最初の一文字を書くまでが長かった。けれどいったん筆先が動くと、迷いなく細い字を積み重ねていく。数字と時間を信じている人の字だった。だがその字の中身は冷たくなかった。一刻の遅れを、ただの遅れとして数えていないか。間に合わなかった知らせ一つで人の暮らしが崩れるのを、自分は知っているくせに、怖いからこそ早さだけを正義にしていないか。そう問い返すような筆運びだった。


 幸育は最初、階段の途中に座って「いやあ、こういうの苦手なんですよねえ」と笑っていた。けれど笑い声が止んだあと、なかなか立ち上がらなかった。やがて膝を立てたまま乱暴な字で書き始める。派手な髪紐、流行の布、噂話。そういう軽さを武器にしている自分が、本当は便利な年下として扱われるだけで終わるのを怖がっていること。失敗してもまた立ち上がるふりをしてきたけれど、そもそも誰かが本気で自分へ期待してくれているのか分からないこと。書き終えたあと、幸育はすぐに紙を封筒へ突っ込み、「見ないでくださいよ」と誰にも頼まれていないのに言った。


 萌乃香は食堂の裏口近くに腰掛け、膝の上で便箋を押さえていた。風に乗って香草と焼き玉ねぎの匂いが流れてくる。中継所の鍋を守る日々が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。濡れた人へ乾いた椅子を出す時間も、空腹の人へ湯気の立つ皿を出す時間も、萌乃香にはちゃんと誇りだった。けれど、運河を渡ってくる旅人たちの話を聞くたび、沢地萃の外へも行ってみたいと思ってしまう。店を継ぐことと、まだ見ぬ景色を見たいことは、どちらか一つしか選べないのか。彼女の筆は、迷いを恥じるより先に、その両方を丁寧に並べていた。


 創太はその間、便箋を持ったまま旧郵便塔へ戻った。


 隊舎の賑やかな気配の中では、この問いに答えられる気がしなかった。誰にも見せなくていいと分かっていても、誰かの近くで書けば、自分の文字まで借り物になりそうだった。


 地下の保管庫へ降り、昨日まで読んでいた受付台帳を閉じる。


 守りたいもの。


 すぐに浮かぶものはいくつもあった。父が命を懸けて走ったこの町の道。保管庫で眠ったまま忘れられていく手紙。雨季になると後回しにされる高床地区の家々。隊舎で待っている仲間たち。


 そして、考えないようにしても最後にはそこへ戻る。


 ちひろ。


 守りたいと思う相手が増えるほど、自分は黙る。余計なことを言って役に立たなかったら嫌だから。止めるべき時に外したら怖いから。そうして一歩引いた場所で知識だけを抱えてきた。


 父のことでも、ずっとそうだった。


 あの夜、危険な便へ出る父を止めきれなかったことを、自分は今もどこかで言い訳にしている。走る側に立たない理由にして、判断する側に立たない理由にして、口を開かない理由にしてきた。


 便箋の白さは、そういう逃げ道をよく見せる。


 創太は筆を取り、しばらく迷ってから、短く書いた。


 『怖いから黙るのをやめられるか』


 それだけだった。


 けれど一行を書き終えた瞬間、妙に指先が熱くなった。


 書いたから急に勇気が出たわけではない。怖いものは怖いままだ。それでも、その怖さに初めてちゃんと名前をつけた気がした。


 封筒へしまい、水紋印を軽く押す。魔法と呼ぶほど大げさではない淡い印が、紙の表へ静かに滲んだ。


 自分へ宛てる手紙なのに、その封は思ったより重かった。


 塔を出ると、ちひろが石段の途中に立っていた。


 「ここに来ると思った」


 創太は少しだけ肩を強ばらせる。


 「隊舎だと、うるさいので」


 「分かる」


 ちひろの手にも封筒があった。


 ただ、その口はまだ開いたままで、中の便箋も折られていない。


 「書けましたか」


 創太が訊くと、ちひろは困ったように笑った。


 「それが、全然」


 「意外です」


 「私、こういうの得意そう?」


 「何でも先に答えを持ってそうではあります」


 「ひどい言われよう」


 軽口の形にしたものの、ちひろの目元には疲れが残っていた。冗談へ逃がしきれない種類の疲れだと分かる。


 「守りたいものはあるんです」とちひろが言う。


 「たくさん、ある。町も、隊舎も、配達も、みんなも」


 そこで一度言葉が切れた。


 「でも、守ろうとするたびに、言えなくなることも増える」


 風が階段の途中を抜けた。運河の匂いが薄く混じる。


 創太はすぐには返事をしなかった。昨日のことを思い出す。守るためだと言われても、自分には守られている感じがしないと答えたことを。ちひろはあれを、まだ引きずっているのかもしれなかった。


 「……無理に書かなくても、いいんじゃないですか」


 「昔の私なら、そうしてた」


 「今は違うんですか」


 「違いたい、とは思ってる」


 ちひろは開いた便箋を見下ろしたまま言った。


 「でも、書いたら認めることになる気がして」


 「何をですか」


 問い返したあとで、創太は少しだけ後悔した。


 そこへ踏み込むほど、まだ自分たちは整っていない。


 案の定、ちひろは答えず、代わりに笑ってごまかした。


 「それ、今は秘密」


 秘密。


 その言葉が、保管庫の鍵穴みたいに小さく胸へ刺さる。


 けれど創太は、今日はそのまま飲み込まなかった。


 「秘密が多すぎると、あとで困ります」


 ちひろが目を上げる。


 創太自身も、言ってから驚いた。こんなふうに、自分から棘のある言い方をするのは珍しい。だが不思議と、引っ込めたい気持ちにはならなかった。


 「困らせてるね」


 「はい」


 「……そうだね」


 ちひろはそれ以上言い返さなかった。ただ、開いたままの便箋をもう一度見て、小さく息を吐く。


 「もう少し考える」


 「そうしてください」


 二人で隊舎へ戻る道は、昨日より静かだった。気まずさが消えたわけではない。けれど黙っていることしかできなかった距離から、少しだけ進んだ気がした。


 夕方になるころには、空が持ち直した。細かな配達を二件片づけ、帳場の締めも終わると、萌乃香が食堂の大卓へ鍋を運び込んだ。今日は刻んだ川菜と鶏の団子汁で、湯気に混じる生姜の匂いが一日分の湿気を追い払ってくれる。


 「せっかくだから、読みたい人だけ読もうか」


 萌乃香がそう言うと、真っ先に手を挙げたのはやはり奏丞だった。


 「私は読みます。理想は声に出すことで現実へ近づきますから」


 「長いなら途中で止めますよ」と那水。


 「容赦がない」


 奏丞は咳払いし、便箋を開いた。


 「私は、地図を描くたび、線の外へ追いやられる家をなくしたいと思っています。遠いから、細いから、採算が悪いからという理由で、配達から消える道をなくしたい。その理想を口にすると笑われることもあります。ですが笑われるから縮こまるのなら、最初から地図など描く資格はありません――」


 「やっぱり長いです」


 「まだ導入です」


 「導入で鍋が冷えます」


 那水の一刀で、卓に笑いが広がる。


 だが奏丞は少しもめげずに便箋を折りたたんだ。


 「要するに、私は理想を本気で守りたい。以上です」


 「要するにが一番分かりやすい」と幸育。


 次に那水が自分から封筒を出した。


 「私は全文は読みません」


 そう前置きしてから、一行だけ視線を落とす。


 「……『遅れを怖がるあまり、届いたあとの人生を数字でしか見なくなっていないか』」


 それだけ言って紙を戻した。


 幸育が珍しく茶化さずに口を閉じる。那水の声には、いつもの切れ味と別の重さがあったからだ。


 萌乃香は自分の便箋を見て笑った。


 「私はね、『待つ人でいたいのか、出ていく人でいたいのか、どっちも欲張っていいのか』って書いた」


 「欲張っていいに決まってるでしょう」と幸育が即答する。


 「そう言うと思った」


 「だって萌乃香さんが町を出たら、俺ら飢えますよ。でもたまに遠出して、新しい味だけ持って帰ってきてくれたら最高じゃないですか」


 「都合がいいなあ」


 「でも分かります」と奏丞が言う。「中継所は動かない場所ですが、そこで交わる情報量は旅そのものです」


 萌乃香はその理屈っぽい励ましにも、ちゃんと嬉しそうに笑った。


 幸育は最後まで渋っていたが、皆に見られる中で逃げきれないと察したのか、封筒をひらひら振った。


 「じゃあ俺も一行だけ。『軽いままのほうが使いやすいからって、本気で任せられない人間のままで終わっていいのか』」


 その言葉が卓へ落ちた瞬間、創太は胸のどこかが少しだけ痛んだ。


 幸育はいつも明るい。失敗してもすぐに立ち直る。だから周りはつい、その強さを本物だと思って頼りきってしまう。けれど今の一行で、それが半分は意地でもあると分かった。


 「終わってよくないです」と萌乃香がきっぱり言う。


 「ですね」と奏丞。


 「そうですね」と那水。


 三方向から即答され、幸育は目を丸くした。


 「え、そんな間髪入れず?」


 「任せてますから」と那水。


 「噂の拾い方だけじゃなく、足も口も使える見習いですし」と奏丞。


 「あと、失敗しても次の便に行くところ、みんな見てるよ」と萌乃香。


 幸育は照れ隠しみたいに鼻をこすり、団子汁へ顔を寄せた。


 「……そういうの、先に言ってくださいよ」


 「今言ったでしょう」と那水。


 小さな笑いがまた起こる。


 では次は創太か、と視線が集まりかけたところで、ちひろが先に口を開いた。


 「私は、書けなかった」


 卓が静かになる。


 ちひろは笑わなかった。誤魔化しも薄かった。


 「守りたいものがないんじゃなくて、ありすぎて、どれも切れなかった。何を書くか決めたら、たぶん別の何かを見捨てる気がして」


 幸育が何か言いかけ、やめた。


 奏丞も、那水も、そこで軽い慰めは挟まなかった。


 創太は昼の石段で聞いた言葉を思い出す。守ろうとするたび、言えなくなることも増える。


 それはたぶん、ちひろの弱さであると同時に、いま彼女が背負っているものの重さでもあった。


 「でも」とちひろが続ける。


 「書けなかったってことを、今日はちゃんと覚えておく。前なら、白紙のまま笑って終わってたから」


 萌乃香が先に頷いた。


 「それでいいと思う」


 「うん。白紙も、その日の答えです」


 創太はその言葉を聞きながら、自分の封筒を指でなぞった。


 今なら、言えるかもしれない。


 大きなことではない。愛だの何だの、そういう名前のつくものではない。ただ、自分の中で今まで一番言いにくかった類いのことだ。


 「僕は」


 声を出すと、皆が見る。


 それだけで喉が少し狭くなる。けれど、やめなかった。


 「『怖いから黙るのをやめられるか』って書きました」


 卓の向こうで、ちひろの指先がぴくりと動いた。


 創太は続ける。


 「守りたいものを守れてるか、って問いに、今の僕はまだ胸を張ってはいとは言えません。でも、黙ってるせいで守れないものがあるなら、そっちをやめないと駄目だと思ったので」


 言い切ってしまうと、思ったより静かだった。


 恥ずかしさが遅れて来る。鍋の湯気へ顔を突っ込みたくなるくらいには来る。だが同時に、胸のどこかが少しだけ軽い。


 「いいですね」と奏丞が真っ先に言った。


 「非常によい問いです。創太がそれを書いたのなら、地図係では終わらない気がします」


 「勝手に職を増やさないでください」


 「でも、すごく創太くんらしい」と萌乃香。


 那水も小さく頷く。


 「言わないで損してること、多いですからね」


 「そこは否定してくださいよ」


 「事実なので」


 幸育が箸を振る。


 「いやー、今日はいい日ですねえ。皆の腹の底を少しずつ見られる日って感じです」


 「その言い方だと気味が悪いです」と那水。


 「でも、ちょっと分かるかも」


 萌乃香のその一言で、卓の空気はまた少しだけ丸くなった。


 問いかけ文を書いたから、明日から全員が急に迷わなくなるわけではない。理想は理想のままだし、怖いものは怖いままだし、白紙のままの封筒だって一つある。けれど、それを笑って流すだけじゃなく、言葉の形にして卓へ置けたことは、確かに前と違った。


 夕食のあと、創太は使い終えた椀を運び、食堂裏の流しで水を切った。振り向くと、ちひろが少し離れた戸口にもたれて立っている。


 「さっきの」


 「はい」


 「言ってくれて、ありがとう」


 創太は一度だけ目を伏せ、布で手を拭いた。


 「……書いたからです。書かなかったら、また飲み込んでたと思います」


 「それでも、言ったのは創太だよ」


 ちひろの声はやわらかいのに、どこか悔しそうでもあった。


 「私、今日は何も書けなかったのに」


 「白紙でも、持ってるなら同じです」


 「同じかな」


 「少なくとも、逃げて捨ててはないでしょう」


 自分でも意外なくらい、まっすぐ出た言葉だった。


 ちひろは少しだけ目を見開き、それから笑った。昼の石段で見せたごまかしの笑いではなく、もっと素の、小さな笑いだった。


 「……ほんと、変わってきたね」


 「そうだったら、いいです」


 「いいよ」


 その返事は短かった。


 でも短いまま、創太の胸へちゃんと届いた。


 その夜、保管庫へ戻ったあと、創太は問いかけ文の封筒を受付台帳の上へ置いた。開けるためではない。そこにあると分かるように置いた。


 台帳の欠番も、古い照会写しも、町の秘密も、まだ何も片づいていない。運河商会は相変わらず笑った顔で近づいてくるし、ちひろの白紙の手紙は白紙のままだ。


 それでも、今日ひとつだけ変わったことがある。


 問いを前にしたとき、自分は黙る以外のやり方を一度選べた。


 たったそれだけのことが、保管庫の湿った空気の中で、小さな灯りみたいに消えずに残っていた。


 創太は封筒の端を軽く押さえ、油灯を落とす。


 暗がりの向こうで、運河の水音が静かに続いていた。


 明日また怖くなるだろう。


 それでも、今日書いた一行は、たぶん明日の自分を少しだけ逃がしにくくする。


 それが今は、ありがたかった。



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