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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第13話 最高の恋は配達のあとで

 議場裏の渡り廊下は、雨を避けるためのものではなかった。


 屋根は浅く、横殴りの雨は柱のあいだを容赦なく吹き抜けてくる。板は古く、誰かが急いで走ればきしみが遠くまで響く。だからこそ、正面から堂々と入る者より、裏から忍び込もうとする者のほうが目立つ場所だった。


 創太は請願束を抱えたまま、廊下の継ぎ目へ足を置いた。


 右へ三歩。

 柱の影でいったん止まる。

 風が強まった瞬間に次の影へ移る。


 奏丞が地図へ書き込んだ通り、北議場の裏廊下は途中でわずかに右へ折れている。その曲がり角の先に書記室の戸口があるはずだった。


 ちひろが半歩後ろで低く囁く。


 「左手、二人」


 創太は視線だけ動かした。


 雨の膜の向こう、柱の間に男影が二つあった。一人は議場付きの雑役らしい薄茶の上衣。もう一人は、運河商会の青鼠色の防水外套。商会の者がここまで入り込んでいる。


 議会の鐘はもう二度鳴っていた。開会は目前だ。ここで引けば、請願は間に合わない。


 創太は請願束を抱え直し、あえて背筋を伸ばした。


 「書記室へ行きます」


 ひそめる声ではなく、届く声量で言う。


 雑役の男がぎょっとしたように振り向いた。


 「何だ、誰だお前」


 「沢地萃郵便飛脚隊、保管庫係の創太です。議会宛て請願束を持参しました。受理窓口を通してください」


 運河商会の男が一歩出る。


 「今朝の議場は安全管理のため入場制限中だ。請願は後日にしろ」


 創太は、その言い方の端にある慣れを聞いた。何人にも同じことを言って追い返してきた声だ。


 「後日では効力が変わります」


 創太ははっきり返した。


 「審議前請願の受理は、鐘三つまでです。規則集第三編、議場受付条の九。差出経路が正当なら、天候を理由に拒めません」


 雑役の男が商会の男を見る。議場の者ではない人間に先回りされている。その迷いの隙へ、創太はそのまま踏み込んだ。


 「書記へ直接確認してください。受理を拒むなら、拒否理由を記録札に書いてもらいます」


 記録札、と聞いた途端、雑役の男の顔色が変わった。


 公の場で痕跡を残すのは嫌なのだ。曖昧な口約束で追い返すのと、記録へ名を残して拒むのとでは重みが違う。


 その一瞬の停滞を見て、ちひろが横から静かに言った。


 「王都中央郵政局補佐見習い、ちひろ。身分証は失効扱いでも照会記録は残っています。確認するなら後でもできます。今は受理を」


 商会の男の眉がぴくりと動く。


 王都の名が嫌なのではない。嫌なのは、後で照会の筋が残ることだ。


 創太はその顔を見て、ここで押し切れると分かった。


 「行きます」


 返事を待たずに曲がり角を抜ける。


 雑役の男が慌てて追ってきたが、もう遅い。書記室の戸口は目の前だった。薄い硝子越しに、人影が三つ動いている。


 創太は戸を叩いた。


 「請願束の持参です。審議前受理をお願いします」


 中で紙の擦れる音が止まり、間を置いてから戸が開く。


 現れたのは、灰色の髪をきっちり結い上げた書記の女だった。年のころは四十をいくつか越えているだろうか。眠っていない朝の顔をしているのに、目の焦点だけは濁っていない。


 彼女は創太の腕の中の防水布包みと、その後ろのちひろ、さらに追いついてきた商会の男を一瞥し、面倒の種類を瞬時に測ったようだった。


 「名を」


 「沢地萃郵便飛脚隊、創太。共同提出人、ちひろ。他、関係証言書添付あり」


 「件名」


 「二十年前の沢地萃水路譲渡に関する照会写し、受付欠番記録、関係者証言を添えた臨時審議請願です」


 書記の女の目が少しだけ細くなる。


 彼女は商会の男へ向かって言った。


 「あなたは議場付きではありません。そこで止まりなさい」


 「しかし――」


 「止まりなさい」


 低い声だった。商会の男は口をつぐみ、歯噛みしながら一歩退く。


 書記は戸をさらに開いた。


 「中へ。だが受理は中身を見てからです。鐘三つまであとわずかしかない。手短に」


 創太とちひろは書記室へ入った。


 室内は乾いた紙と湿った外気がせめぎ合う匂いで満ちていた。壁一面の棚。受理前の請願束。印章箱。乾燥用の炭皿。長机の向こうでは若い書記補が二人、すでに別件の書類を並べている。その机の端に、見覚えのない整いすぎた文書束が一つ載っていた。青鼠色の紐。新しすぎる封蝋。


 創太の背中に冷たいものが走る。


 あれは商会側の先回りだ。


 書記が短く顎をしゃくった。


 「開いて」


 創太は防水布を解き、請願束を机へ置いた。


 照会写し。

 欠番台帳の抜き写し。

 原台帳との照合箇所一覧。

 関係者三名の証言書。

 請願書。

 経路記録札。


 濡れていない。封蝋も切れていない。


 書記は手早く頁を繰り、添付票の枚数を数えた。書式不備を探す目だ。


 「……形式は通っている」


 そう言いかけたところで、若い書記補の一人が机端の青鼠色の文書束を持ち上げた。


 「ですが主書記、この件なら先ほど商会側から参考資料が出ています。水路譲渡は当時の町議会で異議なし処理済みと――」


 その文書束がこちらへ差し出された瞬間、創太は息を止めた。


 封蝋が、違う。


 古い公印便の照会写しに使われる蝋は、湿気で封が緩まないよう、葦灰を混ぜた鈍い青灰色になる。表面は少しざらつき、押し印の縁に細い欠けが出やすい。けれど今、若い書記補の手にある封蝋は雨の日なのにやけに艶があった。最近の防水樹脂が混じった光り方だ。


 創太はほとんど反射で言った。


 「それは当時の照会写しじゃありません」


 室内の視線が一斉に集まった。


 若い書記補が眉をひそめる。


 「何を根拠に」


 「封蝋です」


 創太は一歩進んだ。


 「二十年前の沢地萃町議会と役所のあいだで回っていた水路照会写しは、湿地用の葦灰蝋を使います。色はもっと鈍い。押し印の縁は乾ききる前に少し崩れる。でもそれは表面が滑りすぎている。最近の樹脂蝋です」


 商会の男が戸口の外から吐き捨てた。


 「蝋の違いなんて、見れば分かる話じゃない」


 「分かります」


 創太は振り向かなかった。


 「保管庫には各年式の照会写しが残っています。古い蝋は湿気を吸った跡が沈む。新しい蝋は表面だけが固い。その違いは、指を置けば分かる」


 書記の女が無言で手を伸ばし、青鼠色の文書束の封蝋へ指先を当てた。そして、今度は創太の請願束の中から照会写しの封蝋へ触れる。


 わずかな間のあと、彼女は若い書記補へ言った。


 「……質が違うわね」


 商会の男が声を荒げる。


 「保存状態の差だ!」


 「では番号を見ます」


 創太は続けた。


 ここからが本番だった。


 創太は青鼠色の文書束の添付票を示した。


 「受付番号、南水三二七。そう書いてありますね」


 若い書記補がうなずく。


 「それがどうした」


 「その書き方をした書記は、当時この議場にいません」


 書記室の空気が変わる。


 創太は自分の請願束から、欠番台帳の抜き写しを一枚引いた。


 「二十年前の水路関係照会を受けた書記は、三か月のあいだずっと同じ人です。受付番号の末尾の七を、最後で必ず左へ払う癖がある。台帳を五十件見れば分かります。けど、その参考資料の七は閉じている。今ここで書いた人の癖です」


 若い書記補の喉が動いた。


 創太は畳みかける。


 「それに、その期の水路照会番号は“南水”じゃありません。“水照”です。分類名が変わったのは十二年前の規則改定後です。二十年前の文書に今の分類名をつけるのは、おかしい」


 書記の女が、今度は青鼠色の文書束そのものを受け取った。頁を繰り、受付票と奥付を見比べる。若い書記補の顔から血の気が引いていく。


 「……誰から、これを受け取ったの」


 「そ、それは」


 「今」


 静かな声だった。


 若い書記補は視線を泳がせ、戸口の外の商会の男を見た。その瞬間だけで十分だった。


 書記の女は鈴を鳴らした。隣室から警備の男が二人入ってくる。


 「その資料は別保全。提出経路も記録しなさい。あと、戸口の男は控え室へ」


 「待て、私はただ参考として――」


 「議場書記室へ未受理資料を直接持ち込んだ時点で記録対象です」


 商会の男は抵抗したが、警備に両脇を取られ、怒鳴り声を引きずるように奥へ連れていかれた。


 創太は深く息を吸った。


 まだ終わっていない。偽物を弾いただけだ。本物を通さなければ意味がない。


 書記の女は創太へ向き直った。


 「続けなさい。欠番記録と証言書のつながりを、あなたが説明して」


 創太はうなずいた。


 喉は渇いていたが、声は思ったより震えなかった。


 「二十年前の沢地萃水路譲渡照会は、受理台帳上で三件連続しているはずでした。けれど原台帳には二件しかなく、真ん中の一件だけが欠番になっている。その欠番に対応するのが、この照会写しです」


 頁を開き、記録箇所を示す。


 「通常なら、欠番は誤記か取り下げです。でもこの期の別件には、欠番時の処理印が必ず欄外に押されている。ここだけない。さらに当時の水門番、舟役、議会補助書記の証言書では、譲渡当日に私設商会の便が先に水路杭を打ち替えていたと一致しています」


 ちひろが横から一枚、証言書を差し出した。


 「こちらは元議会補助書記の手控えをもとにした証言です。当時、照会写しのうち町側保管分だけが抜かれたあと、受付欄へ別番号を入れるよう命じられたとあります。ただし本人はそれを拒み、控えだけ残した」


 書記の女が証言書を読み、次に欠番台帳を見た。


 「……筆跡の照合は後でもできる」


 「はい」


 創太は言った。


 「だから今日は、まず審議を止めないでほしいんです。譲渡は正当と決め打ちされたまま進めたら、町の生活路が私設便の通行料に握られます。橋の管理も、水門の開閉も」


 最後の一言は、規則ではなく願いだった。


 けれどその願いは、今の沢地萃で一番現実に近い重さを持っていた。


 書記の女はしばらく黙り込んだ。


 外では鐘の三つ目が鳴りかけている。時間がない。けれど急いで雑に決めていい種類の紙でもなかった。


 やがて彼女は受理印の箱を引き寄せた。


 「臨時審議請願として仮受理します」


 その一言で、創太の肺に止まっていた空気がようやく流れた。


 赤い印が、請願書の下端へ重く押される。


 仮受理。午前七刻前。北議場書記室。


 紙の上に刻まれたその四角い痕が、今朝の大雨より確かなものに思えた。


 ちひろが隣で小さく息を吐く。


 だが、安堵はそこで終わらなかった。


 書記の女は立ち上がり、請願束を抱えた。


 「あなたたちも来なさい。議長前での説明が必要です」


 議場内は、湿ったざわめきで満ちていた。


 長椅子に並ぶ町議たち。壁際に立つ商会関係者。雨を避けて集まった町の者まで、今日は傍聴席の後ろへ詰めかけている。濡れた外套の匂い、泥のついた靴、咳払い、苛立ち。沢地萃じゅうの水気がここへ集まったみたいだった。


 創太はちひろと並び、議長卓の前へ立った。


 視線が刺さる。


 以前なら、それだけで喉が閉じていた。


 けれど今は違う。怖くないわけではない。ただ、怖いことより、ここで黙るほうがもっと嫌だった。


 書記の女が簡潔に経緯を述べ、青鼠色の偽資料が別保全に回されたこと、請願束が形式を満たしていることを報告した。議場の空気が一段ざわつく。


 議長は白髭を撫で、創太へ向かって言った。


 「若いの。お前が、その欠番の意味を説明したのか」


 「はい」


 「言えるか、ここで」


 創太はうなずいた。


 そして、一つひとつ言葉を置いていった。


 どの台帳の、どの頁の、どの番号が欠けているか。

 その欠け方が、ただの誤記ではない理由。

 当時の封蝋と分類名。

 抜かれたのが原本ではなく、町側へ残るはずの照会写しだったこと。

 だからこそ町議会が今あらためて照会できること。


 話しているあいだ、何度か声が詰まりそうになった。


 だがそのたびに、頭の中へ保管庫の棚が浮かんだ。濡れた石壁。箱の見出し。父の手紙。萌乃香の鍋。那水の時間表。奏丞の黒い線。幸育の大声。ちひろが横にいる気配。


 自分一人の声ではないと思えば、立っていられた。


 商会側の席から、別の男が立ち上がった。


 「仮に欠番があったとしても、二十年前のことだ。今さら町の利益を乱すのか」


 その言葉へ、傍聴席の後ろから怒鳴り返したのは、意外にも北運河の魚商だった。


 「乱したのはどっちだ! この雨のたびに通行料上げやがって!」


 続けて、南筋の船大工が声を張る。


 「水門の鍵まで商会が握ったら、俺らは修理船も出せねえ!」


 誰かが立てば、次の誰かも立つ。


 沢地萃の町は、ずっと濡れたまま黙ってきたのだ。けれど今日の大雨で、もう沈み続ける場所がなくなっていた。


 議長が木槌を二度鳴らし、場を制した。


 「静粛に。……しかし、黙って流せる内容ではないな」


 町議たちが短く協議する。数は多くない。だが迷っている時間も長くない。


 やがて議長が顔を上げた。


 「本件、水路譲渡の継続審議は一時停止。町側保全記録の再照会を命じ、私設便への追加権限移譲も停止する。議場書記室は今日中に王都へ照会。関係文書は封印保全」


 一拍遅れて、ざわめきが爆ぜた。


 傍聴席から安堵の息が漏れ、誰かが泣き、誰かが机を叩き、商会側の席では青ざめた顔がいくつも立ち上がる。議長はなおも木槌を鳴らし続けたが、それでも場の熱はすぐには収まらなかった。


 創太はその音の中で、ようやく膝の力が抜けそうになるのを感じた。


 ちひろの手が、袖の下でほんの一瞬だけ創太の手首をつかむ。


 強くではない。確かめるみたいに。


 創太も、同じ力で握り返した。


 議場を出たころには、雨は朝より細くなっていた。


 北議場裏の小屋には、もう皆が集まっていた。


 幸育は案の定、追い回されたあとらしく泥だらけだったが、口だけは元気だった。


 「ちょっと聞いて。私、南市場から浮橋まで全力で逃げたあと、そのまま魚屋の兄ちゃんたちと一緒に荷車押したんだけど? 働きすぎじゃない?」


 「あなたは黙ってても目立つんだから、そのぶん役得です」


 那水がぴしゃりと言う。けれどその声はいつもの半分しか尖っていなかった。帳場用の札束を抱えたまま、濡れた髪が頬に貼りついている。


 「書記室から受理記録の控え、取ってきました。仮受理番号も確認済み。差し戻しが来ても、今度はこちらが経路記録ごと押し返せます」


 そう言って札を掲げる手が、少しだけ震えていた。


 奏丞は眼鏡の水滴を拭きながら、ふっと笑った。


 「高台路、地図に残す価値があるな。だいぶひどい道だったが」


 「だいぶどころじゃなかったですよ」


 創太が言うと、奏丞は珍しく肩を揺らした。


 「そうか。なら注記は赤字だ」


 萌乃香は何も言わず、まず全員へ温かい汁物を押しつけた。刻み葱と干し魚の匂いが湯気になって上がる。創太が椀を受け取ると、萌乃香は目元だけで笑った。


 「礼、まとめて聞くって言ったでしょ」


 「……はい」


 「じゃあ全員分、あとで」


 その場に、ようやく笑いが広がった。


 ずっと張っていた糸が、そこではじめて少しだけ緩む。


 沢地萃の空はまだ重かったが、雲の切れ目がどこかにでき始めている気配があった。


 夕方、創太は旧郵便塔へ戻った。


 議場の喧騒が引いたあとの塔は、ひどく静かだった。湿った石壁、階段の影、窓から差す灰色の薄明かり。朝まで何度も往復した場所なのに、たった半日で別の建物みたいに見える。


 請願束はもう書記室に預けた。今、創太の手には何もない。


 なのに胸の中だけが、まだ重かった。


 階段を上りきった踊り場で、背後から戸の開く音がした。


 振り向くまでもなく分かる足音だった。


 ちひろが来た。


 朝と同じ濃紺の外套は雨で色を深くしている。けれど今は、議場へ向かうときの張りつめた顔ではなかった。何かを決めた人の顔だった。


 「ここに戻ると思った」


 創太は手すりへ片手を置いたまま答えた。


 「落ち着くので」


 「うん。分かる」


 ちひろは数歩だけ近づき、同じ踊り場で立ち止まった。


 窓の外では、夕方の雨が細い糸みたいに落ちている。運河の水面はまだ濁っているのに、その上にだけ薄く光が差していた。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 先に口を開いたのは、ちひろだった。


 「今日、創太が議場で話してるの見て、ちゃんと分かった」


 声は静かだった。


 「私、ずっと勘違いしてた。守るって、危ない場所から遠ざけることだと思ってた。巻き込まないことだと思ってた」


 そこで一度、唇を噛む。


 「でも違った。創太は、最初から守られるだけの人じゃなかった。私が勝手に、昔のままにしてただけ」


 創太は答えなかった。


 答えたい言葉はいくつもあったが、今はまだ、相手に言い切らせたかった。


 ちひろはまっすぐ創太を見た。


 「……あのとき言ったこと、嘘だった」


 創太の喉が、小さく動く。


 「好きだよ。でも、愛してない。あれ」


 ちひろは息を吐いた。


 「最低だった。自分でも分かってた。創太を遠ざけるためなら、何でも言っていいみたいに思ってた。でも、言われたほうがどうなるか、ちゃんと見てなかった」


 雨の音が、二人のあいだへ細く落ちる。


 ちひろは目を逸らさずに続けた。


 「王都で、記録が握りつぶされるのを何度も見た。正しいものが正しいまま届かないのを見た。だから、沢地萃のことだけは絶対に失いたくなかった。創太まで巻き込んで、仕事も居場所も壊したくなかった。……でもそれを理由にして、創太の気持ちまで勝手に決めた」


 そこまで言って、ほんの少しだけ笑う。


 「年上なのに、全然うまくやれなかった」


 創太は、ようやく息を吐いた。


 「うまくは、なかったです」


 「うん」


 「かなり」


 「うん」


 「最低でした」


 ちひろが目を細めた。


 泣くのか笑うのか分からない、ひどく困った顔だった。


 「そうだよね」


 「はい」


 創太も、そこで少しだけ笑った。


 ずっと胸に刺さっていた棘が、抜けるときは案外静かなのだと知る。


 「でも」


 創太は言った。


 「自分も、言ってないことが多かったです」


 ちひろが顔を上げる。


 「怖いとか、嫌だとか、勝手に決めないでほしいとか。そういうの、全部飲み込んでました。外したら嫌だからって。でも、今日、議場で話してるときに分かったんです。知ってるだけじゃ、守れない。言わないままでも、何も届かない」


 父の手紙の一文が、胸の奥で静かに息をした。


 怖い時ほど、自分の足で決めろ。


 創太は、ちひろをまっすぐ見た。


 「だから言います」


 ちひろの瞳が揺れる。


 今さら逃げるのは、もう自分の性に合わなかった。


 「好きです」


 声は大きくない。けれど、たしかに届く声だった。


 「子どものころから、ずっと憧れてました。五年前にいなくなってからも、今日みたいに腹が立っても、やっぱり好きです」


 ちひろの睫毛に、窓から跳ねた雨粒がひとつ止まる。


 創太は続けた。


 「知ってるだけじゃなくて、これからはあなたの隣で動きたい。守られる側じゃなくて、一緒に届ける側でいたいです」


 言い終わったあと、心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。


 ちひろはすぐには答えなかった。


 その沈黙は怖かったが、前みたいに目を逸らしたくはならない。ただ返事を待った。


 やがて、ちひろが一歩近づく。


 創太の濡れた前髪へ触れ、その手を頬へ滑らせた。昔みたいに襟を直す軽さではなく、確かめる手つきだった。


 「……創太」


 呼び方が少し掠れていた。


 「私も好き」


 短い言葉だった。けれど嘘を隠す余白のない声だった。


 「ずっと、好きだった。帰ってきたかったのも、沢地萃を守りたかったのも、本当だけど……創太に、もう一回会いたかった」


 創太は息を呑んだ。


 ちひろが泣き笑いみたいな顔になる。


 「だから、今度は勝手に決めない。怖いなら怖いって言う。頼るし、隣にいてほしいって言う」


 「はい」


 「それでも、隣にいてくれる?」


 創太は迷わなかった。


 「います」


 答えた瞬間、ちひろが肩の力を抜く。そのまま額を創太の肩へこつんと預けた。


 創太は一瞬だけ固まり、それからゆっくりと、逃がさないように背へ腕を回した。


 外では、長かった雨がようやく細くほどけていく。


 旧郵便塔の窓から見える沢地萃は、泥も濁りもまだ残したままだった。けれど雲の切れ目から差す夕方の光が、運河の水面をところどころ銀色にしていた。


 最低な再会だった。


 泥だらけで、封筒まみれで、息も合わなくて、言葉も足りなかった。


 それでも今日ここで、創太は思う。


 誰かに届けたい言葉を持ったまま走ることは、怖い。でも、その怖さごと抱えて進むほうが、黙って沈んでいるよりずっとましだ。


 ちひろが顔を上げた。


 「明日から、忙しくなるよ」


 「そうでしょうね」


 「正式再建の手続き、議会照会、王都への返答、商会の反発、配達の山」


 「全部まとめて来ますね」


 「うん」


 ちひろが笑う。


 「でも、今度は一緒にやろう」


 創太もうなずく。


 「はい。一緒に届けましょう」


 塔の下で、夕方の鐘が鳴った。


 それは終わりの鐘というより、次の便を知らせる音に近かった。


 沢地萃の雨季はまだ続く。町の水路も、飛脚隊の仕事も、簡単に晴れきることはない。


 それでも、今日だけははっきり言える。


 手紙も、町も、恋も。


 ちゃんと届いた先には、続きを始めるための場所が残るのだと。



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