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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第12話 沢地萃最後の大雨

 議会の開かれる朝、沢地萃は空に沈んでいた。


 まだ夜明けの鐘も鳴りきらないうちから、雨は屋根と板道と水面を区別なく叩いている。高床の家々をつなぐ渡り板は黒く光り、運河の縁はもうどこまでが道でどこからが水なのか分からない。風が吹くたび、雨粒は斜めではなく横に走った。


 飛脚隊舎の戸を開けた瞬間、創太は湿った冷気と一緒に、塩と油と煮出し茶の匂いを吸い込んだ。


 土間の中央には、もう荷が並べられている。防水布で三重に包んだ請願束。照会写し、欠番台帳の抜き写し、関係者証言、請願書式、参照番号の一覧、経路記録用の札。創太が昨夜まで保管庫で揃えた紙が、今朝は町の命綱みたいな顔をしてそこにあった。


 那水は帳場机の前で、濡れた袖口も気にせず時間表を書き換えている。いつもより文字が大きい。急ぎのときの字だ。


 「北の表橋、夜半の増水で片側が落ちました。東の渡し舟は流されて、南筋の主道は運河商会が封鎖札を出してます。理由は“安全管理上の措置”」


 吐き捨てるように言ってから、那水は紙を一枚はがして創太へ渡した。


 「変更後の時間表。表道は死にました。だから最初から裏で行きます」


 創太は紙を受け取り、視線を走らせる。時刻の横に細い字で、誰がどこで何をするか書き込まれていた。


 六刻十分、幸育、南市場。


 六刻二十分、萌乃香、北議場裏の中継所。


 六刻三十分、奏丞、穀問屋屋根上。


 六刻四十分、創太・ちひろ、旧水門。


 雨脚の強まり具合まで見越したような、隙のない並びだった。


 「商会の見張りが探すのは、表道を通る荷か、議場正面へ向かう使いです」


 那水が算盤玉を一つ弾いた。


 「だから、見せる荷は別に作る。幸育が一束、空の帳面と古い料金表を抱えて南へ走る。商会はあの子が大声で走ると、だいたい気になって追うから」


 「追われ役、また私?」


 壁際で防水布を巻きつけていた幸育が、わざとらしく肩を落とした。だが目はもう笑っている。


 「こんな大雨の日に一番目立つ格好って、真面目な顔した役人でも飛脚でもなくて、商売人なのよね。了解。今日は売り子じゃなくて囮になる」


 萌乃香が鍋の蓋をずらし、白い湯気を逃がしながら言った。


 「囮でも何でもいいけど、全員これ飲んでから。空腹で雨に打たれると、脚から先にだめになる」


 差し出された木椀の中には、塩と芋と刻み肉を薄く煮た汁が入っていた。熱いだけでありがたい朝だった。創太が一口飲むと、胃の奥までじわりと熱が落ちる。


 奏丞は壁へ貼った町図の前で、黒い炭筆を耳に挟んだまま振り向いた。


 「昨夜と違って水位が一尺近く上がってる。旧水門の三本杭、真ん中は半分沈んでるはずだ。入口は杭じゃなくて、右側の柳の曲がりで取れ」


 そう言って、地図の端へ印を一つ書き足す。


 「葦見坂に上がったら、二つ目の黒石は踏まない。今朝の水で土が浮いてる。左の根を拾って、その先で一度だけ息を整えろ。崩れるなら、その先だ」


 創太はうなずきながら頭の中で路をなぞった。父の手紙。昨夜の下見。奏丞の修正。すべてを重ねると、見えない道に輪郭ができていく。


 そのとき、奥からちひろが出てきた。


 濃紺の外套の上に、幸育が用意した青緑の防水布を肩へ留めている。髪は高く結い、いつもより少しだけ表情が硬い。だが、創太を見る目は逃げなかった。


 「荷の固定、終わった」


 短く言って、請願束へ手を添える。


 「封蝋の位置も確認した。途中で入れ替えられても分かるように、紐の結びも変えてある」


 創太は請願束の角を持ち上げた。重い。けれど持てない重さではない。紙の重みなのに、水より沈みそうな感じがした。


 「本物は自分が持ちます」


 言うと、隊舎の空気が一瞬だけ静かになった。


 誰も反対しない。


 ちひろが一つうなずく。


 「分かった。私は創太の横につく」


 横。前でも後ろでもなく。


 その言い方が、妙に胸へ残った。


 外で、遠くのどこかの板橋が折れる音がした。乾いた破裂のような音が、雨の底を伝ってくる。


 那水が椀を置く。


 「はい、動きます。六刻半で南市場から噂を流す。六刻四十分で旧水門へ入ってください。七刻十分までに葦見坂を越えられなかったら、議場側の書記に別便で延期願いを出します。けど、それをやると審議の順番が後ろへ回される可能性が高い」


 「つまり、遅れたら負けが近いってことですね」


 幸育が言うと、那水は冷たく返した。


 「近いじゃなくて、かなり危ないです」


 萌乃香が木椀を回収しながら、創太へ小さな布袋を押しつけた。


 「乾いた靴下、布、塩飴。議場裏にもう一組置いとくけど、途中で足を取られたとき用。あと、手が震えたら飴を噛みなさい。顎が動くと少し落ち着く」


 「……ありがとうございます」


 「礼は帰ってから聞く」


 萌乃香はきっぱり言った。


 「誰一人欠けないで戻ってきたときに、まとめて」


 隊舎の戸を開けた瞬間、雨が顔を打った。


 冷たいというより重い。粒がひとつひとつ皮膚へ当たり、そこから体温を持っていく。板道にはもう浅い水が走っていて、踏み出すたび脚首の周りで小さく波が割れた。


 幸育は最初に飛び出した。空の帳面束を風呂敷に包み、わざと派手な赤紐を肩から下げている。


 「行ってきまーす! 今日は高いよー、急ぎの紙は倍だよー!」


 こんな雨の中で商売の口上みたいな声を張れるのは、たぶん幸育しかいない。ほどなくして、南市場のほうから「何だあいつ」「止めろ、そっちは危ない!」という怒鳴り声が混じり始めた。


 囮は十分すぎるほど目立っている。


 創太とちひろは、奏丞の修正図を一度だけ見直してから、運河沿いの細道を西へ折れた。那水は帳場へ戻り、商会の通行札を書類で食い止める役を引き受けた。萌乃香は鍋と布袋を担いで北へ向かう。奏丞は穀問屋の屋根へ上がり、地形と水位を見続ける手筈だ。


 雨の中で、みんながそれぞれの持ち場へ散っていく。


 創太はその背中を見送りながら、請願束を胸へ抱え直した。


 「行きます」


 ちひろが横で短く答える。


 「うん」


 旧水門へ続く板道は、途中からもう道の顔をしていなかった。水面の下で板が沈み、留め具だけが時々きらりと光る。創太は昨夜の下見を思い出し、浮いた板を避けて、杭に近い側だけを選んで進んだ。


 「右寄りで」


 自分でも驚くくらい、声がよく通った。


 「中央は浮いてる。杭側ならまだ脚が取られません」


 ちひろは何も言わず、その指示どおりに踏み位置を変えた。


 二人分の水音が、雨の底に重なる。


 旧水門が見えたときには、壁の苔まで水を吸って黒く膨れていた。水門小屋の屋根端からは雨筋が何本も垂れ、裏手の草むらは半分水へ沈んでいる。


 三本杭。


 父の手紙の言葉が浮かぶ。


 だが奏丞の言った通り、真ん中の杭はほとんど見えない。創太は水際へしゃがみ、目を細めた。水に打たれていると輪郭がずれる。杭ではなく、杭の右の柳を見る。幹の途中が横へ折れ、枝先だけが風に逆らっている。


 「こっちです」


 創太は柳の根元へ踏み込み、泥の中へ足首まで沈めた。冷たさが靴の縫い目から染みる。だが、次の一歩で石がある。もう一歩で固い根。そこから先は、昨夜確かめた感触とほぼ同じだった。


 「石、根、石の順で」


 後ろを振り返らずに言う。


 「二つ目の石は浅く見えても乗らないで。ずれます」


 「了解」


 ちひろの返事がすぐ来る。


 その素直さが、かえって創太の背を伸ばした。


 葦見坂へ上がる細道は、昨夜よりずっと狭かった。雨が土を削り、端が半歩ぶん消えている。左は葦の群れ、右は見えない水溜り。風が吹くたび葦が一斉に傾いて、誰かが潜んでいるように見えた。


 「ここからは、間を空けて」


 創太は一段高いところへ上がってから言った。


 「自分が踏んだあとを見て、一つずつ。近すぎると、まとめて崩れます」


 「……うん」


 ちひろの息づかいが、雨の向こうで少しだけ近くなる。


 坂の半ばで、最初の崩れが来た。


 ぬかるみに見えた場所へ創太の足が半分沈み、その直後、土の下で水が走る音がした。小さな地鳴りみたいな音だ。


 「止まって」


 創太は反射で言った。


 そのまま請願束を胸で抱え、左手を前の根へ伸ばす。右足を抜くと、泥が吸いついてくる。無理に上げれば、下の土ごと持っていかれる。


 昨夜、自分はここをもっと乾いた状態で通った。今は違う。なら、同じ歩き方ではだめだ。


 「ちひろさん、縄を」


 背負い袋の脇へ挟んでおいた細縄を、ちひろがすぐ投げる。創太は請願束を脇へ固定し、縄を前の柳根へ回して引いた。


 泥の中の足が、少しだけ動く。


 「自分が抜けたら、そこは通らないで。二歩左へずれて、葦を踏んでください。根が下にあります」


 「分かった」


 次の瞬間、創太は自分の声が震えていないことに気づいた。


 怖くないわけではない。むしろ喉の奥は冷えている。けれど、怖いままでも指示は出せる。


 それを、今さらみたいに知った。


 足が抜けた。泥が膝まで跳ねる。


 創太は一段高い場所へ身体を引き上げ、振り返った。


 「今です。左。葦の束の根元を、横に踏んで」


 ちひろは請願束ではなく創太の顔を一瞬だけ見て、それから言われたとおりに動いた。長靴の先が葦を沈め、下の固い根へ当たる。次の一歩で体勢が戻る。


 「通れた」


 「はい」


 短いやりとりのあと、二人は少しだけ笑った。


 ほんの一瞬だったが、それで胸のつかえが少し軽くなる。


 坂を上がりきると、北高台へ抜ける細い尾根道へ出た。見下ろせば沢地萃の町は、雨の膜の向こうで輪郭を失っている。屋根はどれも低く沈み、運河は道を呑み込み、橋の一つが斜めに傾いていた。


 遠くの穀問屋屋根に、小さな布が翻った。


 白、次いで青。


 奏丞の合図だ。白は路の確保、青は北側水位上昇。


 「議場裏の石段、たぶん下半分は流れてる」


 創太は合図を読み、すぐ口にした。


 「出口の直前で右へ折れます。石段を正面から下りない」


 「見えてるの?」


 「見えてません。でも、奏丞さんがそう言ってる」


 ちひろが息を吐いた。


 「じゃあ信じる」


 その言葉には、奏丞だけでなく、自分も含まれている気がした。


 尾根道は風をまともに受けた。防水布が帆みたいにあおられ、足元の草が寝る。創太は請願束を抱える腕に力を入れ直した。濡れて重くなった布の下で、紙の角が確かにある。まだ無事だ。


 だが、次の難所は風ではなかった。


 尾根の先、北へ下るはずの細道を、大きな枝木がふさいでいたのである。


 夜のうちに高木が裂けて倒れたらしい。幹は二人の腰ほどの高さで道を塞ぎ、その向こうの斜面には新しい土が流れ出していた。正面突破は無理だ。下をくぐれば土ごと崩れる。


 「戻る?」


 ちひろが尋ねる。


 戻れば時間が足りない。


 創太は枝の根元と斜面の流れ方を見た。水は幹の左を回っている。なら右側、岩肌に近いほうはまだ土が締まっているかもしれない。


 父の略図に、ここまでは書かれていなかった。


 昨夜の下見にもなかった。


 つまり、ここから先は自分で決めるしかない。


 創太は一歩前へ出た。


 「右を取ります」


 「岩側?」


 「はい。枝を跨ぐんじゃなくて、根の上を三点で移る。自分が先に行くので、ちひろさんは請願束じゃなく、自分の肩を見て動いてください」


 言い終えるまでに迷いは消えていた。


 「落ちたら」


 ちひろが言いかける。


 「落ちません」


 創太は遮った。


 「落ちないように通します」


 自分で言って、自分で驚く。


 でも、その言葉は空元気ではなかった。ここまで来た足裏の感触が、そう言わせた。


 創太は幹の右端へ足をかけ、濡れた根の盛り上がりへ体重を分けた。左手は枝、右膝は岩。三点を離さず、請願束を胸へ押し込む。風が吹くたび枝葉が顔を打つが、目を閉じない。


 半歩。さらに半歩。


 幹の向こうへ抜けたとき、靴底の下で小石が滑った。身体が一瞬だけ傾く。


 「創太!」


 ちひろの声が飛ぶ。


 「そのまま」


 創太は自分へ言うように返し、右手を岩の割れ目へ差し込んだ。指先に固い縁が当たる。つかめる。つかんだ。


 体勢が戻る。


 「今です」


 創太は振り返り、声を張った。


 「右足を根へ。左手は上の枝。視線を下に落とさないで」


 ちひろは短くうなずき、創太の指示どおりに動いた。途中で風にあおられ、防水布が大きくはためく。創太はとっさに手を伸ばし、その端をつかんだ。


 ほんの一瞬、二人の間に強い力が張る。


 濡れた布越しの手応えは冷たいのに、そこだけ火がついたみたいに熱かった。


 ちひろが根を越え、創太のそばへ着地する。


 「ありがとう」


 「まだ早いです」


 創太は息を整えながら言った。


 「議場まで届いてからで」


 そう返すと、ちひろはほんの少し目を細めた。笑いそうで、でも笑わない顔だった。


 尾根道を抜けるころには、雨はさらに太くなっていた。叩くというより、空がそのまま落ちてきているみたいな降り方だ。視界は十歩先で切れる。耳元では風が鳴り、遠くの音は全部、水の底で聞くように鈍っていた。


 その鈍さの中で、不意に三度、短い鐘の音が届いた。


 北側からだ。


 萌乃香の中継所。


 「負傷者?」


 ちひろが言う。


 「違う、たぶん到着合図です。中継所が開いた」


 昨夜決めた符丁では、鐘二つが布到着、三つが中継所稼働だった。萌乃香はもう北議場裏に着いている。


 つまり、少なくとも出口側には味方がいる。


 少しだけ、先の暗さが薄れた。


 そこへ今度は、南のほうからかすかな叫び声が風に混じった。


 「捕まえろ!」「そっちじゃない!」


 幸育だ。


 創太は思わず吹き出しかけた。


 「たぶん、うまくやってます」


 「ええ、すごくうるさいから」


 ちひろも同じことを思ったらしく、息の合った苦笑いがこぼれた。


 だが、敵も馬鹿ではない。


 北議場の裏へ近づく最後の分岐で、創太は足を止めた。


 本来なら右へ折れて石段へ出るはずの場所に、新しい足跡がある。泥の削れ方が粗い。二人や三人ではない。重い靴を履いた大人が何度か往復した跡だ。


 「商会の見張り……」


 ちひろが低く言う。


 奏丞の偽地図で入口側は外したはずだ。けれど出口側までは読み切られたのか、それとも別の誰かが議場裏に人を回したのか。


 創太は呼吸を抑え、雨音の向こうへ耳を澄ませた。


 かすかに人の声がする。


 「まだ来ねえのか」


 「正面は閉めた。来るなら裏だって書記が言ってた」


 議場側の情報が漏れている。


 創太は請願束を抱え直し、尾根脇の低い藪を見た。子どもが潜るには狭い。だが、匍匐でなら抜けられる。藪の先は議場裏の物置小屋へ出るはずだ。そこなら萌乃香の中継所とも近い。


 「石段は使いません」


 創太は即座に言った。


 「左の藪を切ります。荷を先に渡すので、自分が通したら、ちひろさんは低く。枝を揺らさないで」


 「創太」


 ちひろの声が、今までとは違う温度で呼んだ。


 創太が顔を向けると、ちひろは雨の中でまっすぐこちらを見ていた。


 「ちゃんと前を走ってる」


 それだけ言って、口元を引き結ぶ。


 「指示、続けて」


 胸のどこかが強く打った。


 けれど、今は立ち止まらない。


 創太はうなずき、短く言った。


 「行きます」


 請願束を防水布ごと藪の向こうへ滑らせ、自分が先に身体をねじ込む。枝が肩と頬を引っかき、泥が肘へ入る。息を浅くして、草の下の固い土だけを拾う。


 後ろでちひろが続く気配。


 石段側では、見張りの男が何かに気づいたのか、靴音を一つ響かせた。


 「おい、今何か――」


 その瞬間、北議場裏のほうで鍋の蓋を思いきり叩くような大きな音が鳴った。


 続いて、萌乃香の怒鳴り声。


 「けが人を先に運べって言ってるでしょ! 立ってるならそこの布持って!」


 雨に負けない声だった。


 見張りの気配がそちらへ寄る。


 創太は藪の出口から転がるように物置小屋の陰へ出た。すぐ後ろから、ちひろも滑り込んでくる。


 目の前には、北議場裏の狭い空き地があった。半分は水たまり、半分は荷車の轍。萌乃香が即席の中継所にした小屋の前で、濡れた布と乾いた布がきっちり分けて干されている。その脇では、南市場の若い衆らしい二人が縄を巻き直していた。幸育が動かした面々だろう。


 萌乃香がこちらを見つけ、目だけで「早く」と合図する。


 創太とちひろは小屋の陰へ駆け込んだ。


 「足、替えて」


 萌乃香は布袋を放りながら言う。


 「石段は見張りがいる。だから書記室へは裏廊下。今ならまだ間に合う。那水から伝言、議会の鐘はあと一回」


 創太は泥の詰まった靴を脱ぎ、乾いた布で足首だけ拭いた。全部きれいにする時間はない。請願束の封蝋を確認する。切れていない。防水布の内側も無事だ。


 「幸育は?」


 「三人引きつけて南の浮橋まで連れていった。本人はたぶん逃げながら笑ってる」


 「奏丞さんは」


 「屋根から最後の合図を出して、今は書記室側へ回ってる。地図役はもう終わり、これからは証人役」


 全員が、自分の役目を次へ渡しながら進んでいる。


 創太は乾いた靴下を履きながら、そのことを強く感じた。


 もう誰か一人の力で走っているんじゃない。飛脚隊の名で、町の足場と人の手と噂と飯と地図と帳場が、一本の道になっている。


 そして、そのいちばん細い先端に、今は自分が立っている。


 議場の開会を知らせる鐘が、雨の向こうで低く鳴った。


 一回。


 まだ始まってはいない。


 創太は請願束を抱え、立ち上がる。


 「ちひろさん」


 「うん」


 「ここからは、自分が先に書記室へ入ります。通行記録の説明も、受付番号の照合も、自分が話します」


 ちひろが目を見開く。


 けれど次の瞬間、はっきりとうなずいた。


 「お願い」


 頼る声だった。


 守るために嘘をついた年上の人ではなく、今この場で自分の横へ役目を渡してくる、ただの仲間の声だった。


 創太はその声を胸へしまい、議場裏の渡り廊下へ視線を向けた。


 雨の帳の向こう、木の柱の間に、誰かの影が二つ動く。


 商会の者か、議場の下働きか、まだ判別できない。


 でももう、分からないから止まるとは思わなかった。


 創太は請願束を抱きしめる力を少しだけ緩め、濡れたままの前髪を払った。


 父の道をなぞってきた足で、今度は自分の道を踏み出す。


 沢地萃を呑み込もうとした大雨は、まだ止まない。


 けれど、その雨の中で、創太は初めて、誰かの後ろではなく自分の前に広がる場所を見ていた。


 次は、届ける番だ。



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