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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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11/14

第11話 那水の帳場、奏丞の地図、幸育の噂網

 翌朝の沢地萃は、雨が降っていないのに、空そのものが水を含んでいるような色をしていた。


 創太は旧郵便塔の扉に鍵を掛けると、胸の内ポケットを一度だけ押さえた。父の略図、ちひろの短い謝罪文、そして自分で書き足した問いの手紙。紙ばかりなのに、昨夜までとは比べものにならない重みがあった。


 南筋へ向かう板道は、朝早いというのにもう人の気配でざわついている。魚籠を担いだ男たちが水位を気にして空を見上げ、橋のたもとでは女たちが「また商会が通り札を変えたらしいよ」と顔を寄せ合っていた。沢地萃の町は、噂が風より先に走る。


 飛脚隊舎の前まで来たところで、創太は一度立ち止まった。


 屋根の端は相変わらず欠け、雨樋は片側だけ歪み、戸板には古い飛脚印の跡が薄く残っている。きれいとは言いがたい。むしろ、うっかり寄りかかったらそのまま壁ごと倒れそうなくらい頼りない。だが、その頼りなさごと、ここは今の沢地萃郵便飛脚隊だった。


 創太は息を吸って、戸を開けた。


 最初に聞こえてきたのは、算盤の乾いた音だった。


 隊舎の奥、帳場机に那水が座っている。髪をきっちり結い上げ、朝からもう三人分くらいの不機嫌を一人で引き受けたような顔で帳簿をめくっていた。濡れた通行札、半端な小銭、切れた紐、曲がった記録針が机いっぱいに散らばっているのに、那水の前だけは不思議と秩序があった。


 窓際では奏丞が大きな紙を床に広げ、炭筆で何本も線を引いては消している。視線は紙に落としたままなのに、耳だけは周囲の音を拾っているらしく、戸の開く音で片眉だけぴくりと動いた。


 土間に近い場所では幸育が、鮮やかな青緑の布を腕に掛け、なぜか二人の魚屋相手に防水布の売り込みをしていた。


 「だからね、肩口を二重に折り返すだけで雨水が首に入らないの。飛脚向けって言ってるけど、魚運びにも向いてるって。今日は特別に、まとめ買いなら紐一本つけるから」


 「お前、ここ隊舎だよな?」


 「隊舎だから売るんでしょ。お金がなきゃ靴底も替えられないんだから」


 その横で萌乃香が大鍋を抱えて入ってきたところだった。湯気の匂いは刻み葱と塩漬け肉、それから少しだけ芋。朝の湿った空気の中で、その匂いだけが人間を地上へ引き戻すみたいにあたたかい。


 「はいはい、売るのはあと。まず食べるのが先。那水、また茶しか飲んでないでしょ」


 「飲んでます。三杯」


 「茶は飯じゃないの」


 そこまで眺めたところで、ちひろが奥の棚陰から顔を出した。昨夜きちんと眠れたとは思えない目をしているのに、姿勢だけは崩れていない。創太を見るなり、その瞳がほんの少しだけ揺れた。


 「……来たんだ」


 たったそれだけの声だった。安堵と、戸惑いと、まだ踏み込みきれない遠慮が同じ一言に押し込まれている。


 創太はうなずいた。


 「話があります」


 部屋の空気が変わる。


 幸育が布を畳む手を止め、奏丞が炭筆を置き、那水だけが「今度は何を持ってきたんですか」という顔で創太を見た。萌乃香は鍋を置くと、何も言わず人数分の木椀を並べ始める。こういうとき、彼女は余計な口を挟まない。その代わり、逃げ道も作らない。


 創太は机の空きを借り、持ってきた袋から紙束を順に出した。


 父の略図の写し。

 通常台帳から抜き出した参照番号一覧。

 封印前後の保管区分の比較表。

 昨夜のうちにまとめた請願手順の草案。


 紙を並べるたび、那水の目つきが少しずつ変わっていく。


 「……創太、それ」


 ちひろが息を呑んだ。


 「旧水門から北高台へ抜ける路です。父の手紙にありました。昨夜、自分の足で確かめてきました。崩れかけは二箇所。補強すれば人二人と書類袋は通れます」


 言いながら、創太は紙の上に指を置いた。昨夜までなら、みんなの顔色を気にして途中で声が小さくなっていたはずだ。けれど今は、何を言うべきかが先に立っていた。


 「それと、町議会へ出すなら原本じゃなく、照会写しと欠番記録と関係者証言を一つの請願束にしなきゃいけない。閲覧請求だけだと、審議前に止められます。書記室が受理しやすい形にして、番号も揃えて、誰がどの時刻にどこを通ったか残す必要があります」


 那水がすっと身を乗り出した。


 「受理印の前に差し戻される条件は」


 「書式不備、差出身分の不一致、添付票の欠落、あとは――」


 創太は一覧の二枚目をめくった。


 「提出経路が曖昧な場合です。特に今回は商会側が“安全管理”を理由に通行を差し止めようとしてるから、請願束がどの路を通って届いたかまで整えておいたほうがいい」


 那水の口元がわずかに上がる。


 「やっと帳場向きのこと言いましたね」


 褒め言葉なのか何なのか微妙だったが、創太はそのまま続けた。


 「那水さんにお願いしたいのは、通行札と時間表の組み替えです。表向きの便は南筋回りの通常便に見せてください。本命は別です。誰が見ても“いつもどおり遅れ気味の配達”に見える形がいい」


 「なるほど。陽動便と本便を分けるんですね」


 「はい。ただし、商会に勘づかれたくないので露骨に増やせません。二便だけ増やして、一便はわざと魚市場で足止めを食った形にしてください。そこで帳場記録に遅延理由を残す」


 那水はもう創太ではなく紙を見ていた。指先で算盤を弾き、必要な札の枚数と時刻の差を頭の中で組み直しているのが分かる。


 「靴が四足足りません。板杭打ちに使う縄も古い。けど札は回せます。市中便の二件を明日へ送れば、人手も半刻ぶん空く」


 「苦情が来ますよ」


 「来させます。今は苦情より差し戻しのほうが高い」


 ぴしゃりと言い切ってから、那水はようやく顔を上げた。


 「採用です」


 創太の胸の奥で、小さく何かがほどけた。


 奏丞が床の紙を抱えて近づいてくる。


 「高台路、傾斜は?」


 「前半は緩いです。後半で北へ振れるところが滑る。柳が一本傾いてる。あそこは避けたほうがいい」


 「足場の石、等間隔?」


 「旧水門裏の三本杭から入るところだけ不規則です。二つ目と三つ目の間が狭い」


 「……分かった」


 奏丞はもう紙へ戻っていた。返事は短いのに、鉛筆の走りは急に速くなる。彼は地図を描くというより、地形と喧嘩して勝ったところだけ紙へ残す人間だった。


 「ねえ、それってさ」


 幸育が布を肩に掛け直しながら口を挟む。


 「商会の見張りを、路から外せばいいんでしょ?」


 「簡単に言うと、そうです」


 「だったら噂を三つ流せる。ひとつは南橋が落ちるかもって話。ひとつは王都監察官が市場へ来るって話。最後のひとつは、商会の若旦那が北倉庫の帳面を隠したって話」


 萌乃香が呆れた顔をした。


 「最後の、半分くらい本当なんじゃないの」


 「半分本当だから効くの」


 幸育はにやりと笑った。


 「見張りってね、怖いことか得なことが起きるって聞くと、ぜんぶ自分の目で確かめたくなるんだよ。商会の手の者ほどそう。とくに若旦那の周りは、忠義より出世で動くのが多いし」


 創太は考えた。


 たしかに、ただ“人が倒れた”のような噂では長く持たない。だが、監察官と帳面隠しは、商会側の内輪をざわつかせるには十分だ。


 「南橋の噂は強すぎるかもしれません。町の人まで混乱する」


 「じゃあ“橋板が軋んで役人が見に来る”くらいに落とす。人を怖がらせるんじゃなくて、見張りだけ持ち場を離れさせたいんでしょ?」


 「はい」


 「任せて。そういう半端に気になる話、私いちばん得意だから」


 そう言って胸を張るのは自慢になっているのか怪しいが、少なくとも頼もしさは本物だった。


 萌乃香が椀へ汁をよそいながら、創太にひとつ差し出した。


 「で、食べながら聞くけど、中継は何か所いるの」


 創太は椀を受け取り、熱に少しだけ指を緩めた。


 「高台路の入口と出口に一か所ずつ。あとは議場裏に入る前に一か所。全部で三つあれば足ります。ただ、出口側は濡れた靴下と乾いた布を置いておきたい。そこを越えると石段なので、足元が滑ると終わる」


 「靴下、人数分じゃ足りないね」


 「予備込みで六組」


 「八組用意する」


 「そんなに?」


 「誰かが川に片足落とす顔してるから」


 萌乃香の視線がちひろと創太の間を一度だけ往復した。そこに含み笑いはない。ただ、濡れるなよ、倒れるなよ、という生活の側からの圧がある。


 「あと、おにぎりじゃ駄目。冷える。握るなら塩芋団子にする。噛まなくて済むし、落としてもまだ食べられる」


 「そこまで考えるの、食堂の人だけですよ」


 「配達の途中で腹が減ると、人は急に馬鹿になるの」


 萌乃香は当然のように言った。


 「だから温い汁と乾いた靴下は、だいたい手紙と同じくらい大事」


 創太は椀の湯気越しに仲間たちを見た。


 那水はもう新しい時間表の欄を作っている。

 奏丞は高台路の縮尺を町図へ重ねている。

 幸育は誰にどの噂をいつ流すか、指を折って順番を決めている。

 萌乃香は鍋の底をさらいながら、必要な布と靴下の枚数を口の中で数えている。


 みんな、自分の持ち場へ戻るのが早い。


 それはちひろが今まで一人で背負おうとしていたものとは、たぶん違う強さだった。誰か一人が全部抱えるのではなく、できることを持ち寄る強さだ。


 そしてその輪の中に、自分も今、立っている。


 ちひろが静かに口を開いた。


 「創太」


 その声だけで、隊舎の中の音が少し遠のいた気がした。


 創太は椀を置く。


 ちひろは、昨夜よりも少しだけ疲れた顔で、それでも真正面から創太を見ていた。


 「戻ってきてくれて、ありがとう」


 それだけ言うのにも勇気を使ったのだと分かる顔だった。


 創太は一拍だけ黙った。


 本当は、聞きたいことが山ほどある。なぜ最初から話してくれなかったのか。あの夜の言葉を、どんな顔で口にしたのか。王都で何を見て、何を背負って帰ってきたのか。


 だが今、そのどれも先にしてはいけない気がした。


 「……話は全部終わってから聞きます」


 創太はそう言った。


 声は思ったより静かだった。


 「今は、届けるほうを先にしたい」


 ちひろの睫毛がふるえた。泣きそうなのをこらえたというほど大げさではない。ただ、胸のどこかをきつく掴まれた人の、ほんの一瞬の揺れだった。


 「うん」


 彼女は小さくうなずいた。


 「終わったら、逃げないで話す」


 「逃がしません」


 言ってしまってから、創太は自分で少し驚いた。


 幸育がすぐさま口笛を吹く。


 「うわ、言った。今の聞いた?」


 「聞こえましたけど、今そこ拾うところですか」


 那水が冷たく返す。


 「だって大事でしょ。恋の進捗が止まってたら士気に関わるし」


 「関わりません」


 「関わるよ。少なくとも私は関わる」


 萌乃香が椀を配りながらけろりと言った。


 「気まずいまま突っ走られると、あとで食堂で泣く人が増えるから」


 ちひろが顔を赤くしかけ、創太は視線の置き場を失った。奏丞だけが紙から目も上げず、「線、ずれた」と低く呟いている。たぶん本気で地図しか見ていない。


 その空気を切り替えるように、那水が机を指で叩いた。


 「はい、浮つくのはそこまで。実務に戻ります」


 帳場の顔に戻った彼女は強い。


 「請願束の名義はどうするんですか。飛脚隊単独だと商会に“私怨だ”と切られます。町民側の利益侵害として出したい」


 ちひろがすぐ応じる。


 「蓮見隊長の旧控えに、水門南筋の船頭組合名簿があった。現役ではないけど、今も発言力のある年長者が三人いる。そのうち一人は、昔の受領印を見た覚えがあるって言ってた」


 「証言書、取れますか」


 「取る。今日中に私が回る」


 「一人で?」


 創太が思わず言うと、ちひろは少しだけ困ったように笑った。


 「今さらそこは心配する?」


 「します。証言を取るなら、記録係がいたほうがいい」


 創太はすぐに言い直した。


 「聞き取りの言い回しに癖が出ると、あとで突かれるので」


 半分は本音で、半分は別の本音だった。


 ちひろはその両方を分かった顔をしたが、何も言わなかった。


 「じゃあ一緒に来て」


 「はい」


 創太はうなずく。


 それだけで、胸の内側に小さな痛みと熱が同時に走る。まだ昨日までのわだかまりは消えていない。なのに、こうして隣に立つ話をされるだけで、心のどこかが勝手に前を向く。厄介だと思う。厄介なのに、嫌ではない。


 午前いっぱい、隊舎は慌ただしかった。


 那水は通行札の束を色別に並べ替え、通常便、陽動便、本便の三系統へ帳面を引き直した。表向きは便数を増やしていないよう見せるため、既存の依頼に“荷継ぎ待ち”“橋板確認中”“受取側不在”の札を散らし、遅延理由の行を先に埋めていく。彼女の帳場仕事は、正面から見れば小さな数字の組み換えに過ぎないのに、横から見ると町全体の呼吸を入れ替えているみたいだった。


 奏丞は創太と一緒に町図へ等高線を重ね、高台路の入口をあえて少し北へずらした写しを一枚作った。万一それが商会の手へ渡っても、本当の入り口へは着かないようにするためだ。


 「罠地図ってことですか」


 「保険」


 「性格が良くない」


 「地図に性格は要らない」


 もっともらしいことを言っているが、たぶん奏丞はけっこう楽しんでいた。


 幸育は布売りの顔で市場へ出ていき、戻るたびに新しい噂を一つ持ってきた。


 「商会の倉庫番、もう北倉庫見に走ってた。効いてる効いてる。あと監察官が昼に市場飯食べるらしいって本当の話も混ぜといたから、誰もどこまでが作り話か分からなくなってる」


 「やりすぎるとこっちまで混乱しません?」


 「そこは加減してるって。私は頭悪そうに見えて、意外と繊細なんだから」


 自分で言うな、と萌乃香に頭を小突かれていた。


 萌乃香は食堂と隊舎を三往復し、塩芋団子、乾いた靴下、擦り傷用の布、湯を入れる小瓶、そしてなぜか喉飴まで集めてきた。


 「喉飴?」


 「雨の日って、叫ぶと喉やるから」


 「そんな場面、あるでしょうか」


 「あるの。特にあんたたち二人、いざってとき声張れない顔してるから」


 創太とちひろは同時に「自分は出せます」と言い、ほとんど同時に黙った。萌乃香がわざとらしく肩をすくめる。


 「ほらね」


 昼を回った頃、創太とちひろは船頭組合の年長者を回るため、北運河筋へ向かった。


 歩きながらも、二人の間にはまだ少しだけ不自然な空白がある。会話が途切れるわけではない。必要な確認はするし、証言書の書式や、誰から先に当たるかも決める。けれど、その合間に昔のような雑談が差し込まれそうになるたび、どちらかが少しだけ息をのみ、別の話題へ折りたたむ。


 最初の家で会ったのは、片脚を悪くした元船頭の老人だった。古い受領印の話を持ち出すと、彼は渋い顔のまま戸棚の奥から湿気た記録木札を出してきた。


 「昔の議会照会は、水門南筋の荷札印と対で付いとった。あの頃の代行家は、手続きだけは妙にきっちり見せたがる連中でな」


 創太が記録し、ちひろが要点を確かめる。老人は最初こそ警戒していたが、創太が受付番号の欠番の位置を言い当てると、じろりとこちらを見てから低く笑った。


 「保管庫の子か。あの隊長んとこの」


 父の名は出なかったが、それだけで十分だった。


 二軒目では、当時の橋番だった女が証言に応じた。三軒目では、若いころ議会書記の使い走りをしていた男が「照会写しの封紐は青灰だった」と教えてくれた。少しずつ、紙の外に散っていた記憶が束になっていく。


 帰り道、雨がまた降り始めた。


 細いが冷たい雨だ。ちひろが自然に外套の片側を創太へ寄せる。昔もそうだった。子ども扱いされたくなくて腹を立てたのに、その気遣いがずっと嬉しかったことまで思い出してしまう。


 「創太」


 歩きながら、ちひろが前を向いたまま言った。


 「さっき、ありがとう」


 「何がですか」


 「戻ってきてくれたこともだけど、記録係がいたほうがいいって言ってくれたこと」


 創太は少しだけ考えてから答えた。


 「本当のことです。証言は、聞き方で形が変わるから」


 「うん」


 「……あと、一人で行かせたくなかったので」


 言った瞬間、雨より細い沈黙が二人の間へ落ちた。


 ちひろは足を止めはしなかった。ただ、肩先がほんの少しだけ揺れた。


 「そういうこと、前よりちゃんと言う」


 「前は言えなかったので」


 「今は言える?」


 「全部はまだ」


 創太は濡れた板道を見ながら答える。


 「でも、黙るだけよりはましです」


 ちひろは笑った。小さく、けれど本当に嬉しそうに。


 「それ、すごくいい変化」


 その笑い方を見ていると、あの夜の冷たい言葉も、昨日の短い謝罪文も、全部まとめて簡単には片づけられなくなる。腹が立つのに、目を逸らしたくない。そういう感情の混ざり方を、創太はまだうまく扱えなかった。


 隊舎へ戻ると、空気は朝よりさらに熱を帯びていた。


 那水が受理用の束見本を作り上げ、奏丞は地図を油紙へ写し終え、幸育は「北倉庫で帳面が一冊消えたらしい」という新しい噂を持ち帰ってきた。たぶん消えてはいない。けれど商会側は探し回るだろう。


 証言書を三通並べると、机の上の紙たちはようやく“何かを暴く材料”ではなく“届けるべき一式”の顔つきになった。


 創太はその束を見つめた。


 紙の匂い。乾きかけの墨。指につくわずかな粉。自分はずっと、こういうもののそばで生きてきた。なら、その知識を最後まで使えばいい。


 「明日、最終確認をして、明後日の朝に出します」


 ちひろが言う。


 「夜のうちに商会がさらに道を塞ぐ可能性は高い。だから、表の便は今日のうちから遅延理由を増やして慣らしておく。向こうが“飛脚隊はもう崩れてる”と思い込むくらいでちょうどいい」


 那水が頷く。


 「帳場は回します」


 奏丞が地図を巻く。


 「高台路、目印は頭に入った」


 幸育が布を肩へ掛ける。


 「噂はあと二回転がせる」


 萌乃香が空の鍋を持ち上げる。


 「夜食は持ってくる。倒れたら許さない」


 最後に、全員の視線が創太へ向いた。


 昨日までなら、そこで言葉を飲んでいた。


 でも今は違う。


 「自分は、請願束の最終確認と参照番号の照合をやります」


 創太は一人ずつの顔を見た。


 「それから、高台路の本地図は自分が持つ。必要なら先導もします」


 ちひろの目が少し見開かれる。


 「先導、できるの」


 「怖いです」


 創太は正直に言った。


 「でも、できるかじゃなくて、やるほうを選びます」


 父の手紙を思い出しながら言うと、胸の奥が静かに熱くなった。


 ちひろは何か言いかけて、やめて、代わりに深くうなずいた。


 「分かった。じゃあ先導は創太」


 その決まり方が、妙に自然だった。


 誰も笑わない。無理をするなとも、保管庫係だろとも言わない。ただ、それが今いちばん必要な役割だと受け取ってくれた。


 夕方、創太は一度だけ旧郵便塔へ戻り、照会写しと欠番台帳の保管状態を確認した。封印はまだ保たれている。監察官の差し止め文も形式上は生きている。だからこそ、明後日には正規の請願として表へ引っ張り出さなければならない。


 塔を出たとき、空の端で低く雷が鳴った。


 大きい雨が近い音だ。


 南筋へ戻ると、隊舎の窓にはもう灯りがついていた。中では那水が帳場机へ突っ伏しそうになりながら数字を書き、奏丞がまだ地図の隅を直し、幸育がなぜか靴紐を三色に分けていた。萌乃香は夜食を並べ、ちひろは壁に貼った時間表の前で腕を組んでいる。


 その光景を見た瞬間、創太は不意に思った。


 ここは、もう潰れかけの隊舎ではない。


 まだ正式再建もしていない。依頼も少ない。屋根も歪んでいる。けれど、誰かに奪われる前に、自分たちで守ると決めた場所になっている。


 創太は戸を開けた。


 「戻りました」


 ちひろが振り向く。疲れているのに、その顔には朝よりずっとはっきりした光があった。


 「おかえり」


 たった一言なのに、胸のどこかが温かくなる。


 創太はその感覚を、今は名前にしなかった。


 名前にしなくても分かることもある。けれど今度は、最後まで届ける。


 雨の匂いが濃くなる夜だった。


 沢地萃の最後の大雨は、もうすぐそこまで来ていた。



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