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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第14話 手紙の続き、恋の続き

 雨季がひと山越えると、沢地萃の空は少しだけ高くなる。


 朝の運河には、まだ昨夜の雨を抱えた薄い靄が残っていた。けれど旧郵便塔の屋根から落ちる雫はもう慌てた音を立てず、磨き直された銅の風見水鳥が、やわらかな光を受けて静かに首を振っている。


 塔の前に掛かった新しい看板には、黒くはっきりとこう記されていた。


 沢地萃郵便飛脚隊。


 その文字を、創太は階段の途中から見上げた。


 何度見ても、少しだけ不思議だった。


 あの雨の日、帳場の隅で濡れた地図を押さえていた自分が、いまは胸に見習い章を付けて朝の点呼に遅れそうになっている。保管庫係の腕章は外していない。けれどそれに加えて、足に馴染み始めた飛脚靴の重みが、ここ数か月の変化をいちばん正直に教えていた。


 「創太さん、またぎりぎり!」


 塔の前で束ね紐の入った籠を抱えていた幸育が、わざと大きな声を飛ばしてきた。相変わらず派手な色の髪紐が朝靄の中でもよく目立つ。


 「ぎりぎりじゃないです。鐘が鳴る前です」


 「ぎりぎりの人ほどそう言うんだよねえ」


 そう言いながら幸育は、隊舎の軒先に吊るした新作の防水布をぱんと広げた。深い藍色の布の端に、水鳥の白い刺繍が小さく入っている。


 「見てこれ。正式再建記念版。子ども用の小さいやつから先に売り切れた」


 「また増産したんですか」


 「した。昨日だけで北運河筋の子が四人、板橇で転びながらも飛脚ごっこしてたよ。うちの隊舎の前で」


 その話を裏づけるように、広場の端では小さな男の子が水鳥の刺繍入り頭巾を被り、木の棒を脚立代わりにして何やら大人ぶった声を張り上げていた。


 「速達でーす! 橋の向こうまで誰か行けますかー!」


 付き添いの祖母らしい女性が慌てて止めに入っている。幸育は腹を抱えて笑い、創太は少しだけ頬を緩めた。


 沢地萃郵便飛脚隊は、正式再建から三か月を迎えていた。


 議会に提出した照会写しと欠番台帳は、王都でも正式に受理された。二十年前の水路譲渡の不正は再審査となり、運河商会の私設便は独占契約を失った。すべてが一夜で綺麗に片づいたわけではない。反発も、嫌味も、取り戻すのに時間のかかる信頼もあった。


 それでも、町の人々はちゃんと見ていたのだと思う。


 大雨の日に泥まみれで走ったことも、誤配の苦情に頭を下げたことも、届かなかった手紙を一通ずつ届け直したことも。そういう積み重ねが、いま朝の看板になっている。


 隊舎の戸を開けると、乾いた紙と新しいインクの匂いがふわりと流れてきた。


 「遅い」


 帳場の机から顔を上げた那水が、間髪入れずに言った。


 机の上には帳簿が三冊、料金表の試し刷りが二枚、通行証の控えがきっちり揃えて並んでいる。数字の揃った紙を見るだけで、彼女が朝から一人でどれだけ動いていたか分かった。


 「遅れてません」


 「言い返す余裕があるなら、その余裕で北葦原便の封蝋確認をして」


 「はい」


 「それと、今日から新人が二人来る。片方は道を覚える前に喋り出す癖があるから、地図係の横に置いたほうが被害が少ない」


 創太が返事をする前に、帳場の奥から奏丞の声が飛んだ。


 「聞こえてるぞ那水。被害ってなんだ被害って」


 分厚いレンズ眼鏡を押し上げながら、奏丞が大きな地図板を抱えて現れる。以前なら雨でふやけた図面ばかりだったその板は、いまでは防水加工の施された新しい羊皮紙に置き換わっていた。色分けされた運河、浮橋の交換時期、雨季と乾季で変わる板橇路の目印。端には小さく、王都中央郵政局水路便部門の認印が押されている。


 「見ろ、中央の返答が来た。沢地萃式の高台迂回路、試験採用だ」


 奏丞は弾んだ声で封書を振った。興奮すると、彼はだいたい手元を見ない。そのせいで机の角に封筒をぶつけ、那水に無言で睨まれる。


 「試験採用なら、まだ浮かれる段階じゃないです」


 「だが採用は採用だぞ。王都の連中が、やっと湿地の道は湿地の住人に聞けという当然の真理に追いついた」


 「浮かれてますね」


 「浮かれている」


 珍しく創太もそう言うと、奏丞は眼鏡の奥で満足げに笑った。


 そのやりとりを横目で見ながら、創太は封蝋確認の籠を机に置く。手紙を束ごと持ち上げると、水紋印の残りがかすかに掌へ触れた。怒っている手紙はひやりと冷たい。誰かを気づかう文は、乾いた指先にほんの少し熱を残す。


 昔から変わらない感触なのに、いまは受け止め方が少し違う。


 眠らせたままにするのではなく、どこへ、どう届けるかを考えるようになった。


 そこへ、裏口のほうから香ばしい匂いが流れ込んでくる。


 「朝の芋粥、置いとくよー」


 萌乃香が大鍋と木椀を抱えて現れた。頬に汗をにじませながらも、いつものように一人ずつの机へ勝手知ったる手つきで椀を並べていく。


 「今日はごちゃまぜサラダも少し持ってきた。昨夜、青柳橋の織屋さんがやっと胡桃を砕けるようになったんだって。お祝いのお裾分け」


 「織屋さんって」


 創太が封蝋確認の手を止めると、萌乃香はうなずいた。


 「そう。あの手紙の宛先だったお店。ほら、最初のころに移転先を探したでしょ」


 創太は覚えていた。宛先不明箱から見つけた、古い店名のまま眠っていた細い封筒。移転した先を見つけて届けたあと、その店は孫娘と一緒に看板を塗り直したのだと聞いた。


 「この前はね、おばあちゃんの覚え書き通りに葉物を細かく刻んだら、子どもが山みたいに食べたって」


 萌乃香が笑う。芋粥の湯気の向こうで、その顔は雨季前より少しだけ忙しい色をしていた。飛脚隊の再建で食堂の客も増え、彼女の店は中継所として正式に登録された。旅に出るか迷っていた足は、まだ沢地萃の床板の上にある。けれど迷いがなくなったわけではないと、創太は知っている。朝早く仕込みを終えたあと、一人で外の地図を見る癖を、前よりよく見かけるようになったからだ。


 「萌乃香さん、南市場の仕入れ便、夕方にまとめます」


 「助かる。じゃあ帰りに空き瓶、三箱だけお願い」


 「三箱“だけ”じゃないでしょう、それ」


 「創太なら持てる」


 「見習いの人使いが荒い」


 「知ってる」


 そう言って萌乃香は笑い、創太も結局断らなかった。


 朝の点呼が終わるころ、新人が二人やって来た。


 一人は那水の予想通り、戸を開けるなりよく喋る少年で、名前より先に「昔から飛脚隊に入りたくて」と息継ぎなしに言い始めた。もう一人は逆に、喉のどこかに言葉を落としてきたような静かな娘だった。濡れた靴の先だけを気にして、なかなか顔を上げない。


 創太は二人を保管庫横の作業机へ連れて行き、薄い便箋の束を一組ずつ渡した。


 「これは、新人教育で使う手紙です」


 少年が目を輝かせる。


 「宛先は、まだ書きません。まず、自分に問いかけるために使います」


 「問いかける?」


 今度は静かな娘が、ようやく小さく反応した。


 創太はうなずく。


 「本当に届けたい言葉は何か。何を守りたいのか。走ってる途中で迷ったとき、後で読み返せるように書いておくんです」


 そう言いながら、自分でも少しだけ不思議だった。


 数か月前までの自分なら、そんな役目を人に引き受けるとは思わなかった。問いかけの手紙にだって、書いたあと長く見返せなかった。


 けれどいま机の前にいる二人に対しては、答えをうまく導いてやろうとは思わない。ただ、急がなくていいから自分の言葉で書いてほしいと思う。


 「うまく書けなくても大丈夫です」


 創太は続けた。


 「配達って、最初から格好いいことばかりじゃないので。濡れるし、間違えるし、怖い道もあるし。でも、それでも届けたいものがあるなら、そのたび戻ってこられます」


 静かな娘が、ようやく創太の顔を見た。少年のほうは早くも何か書き始めている。たぶん一行目から勢いが良すぎて、後で那水に書き直しを命じられる。


 その様子に少しだけ口元を緩めたとき、隊舎の前で急にばたばたと足音がした。


 次の瞬間、戸が勢いよく開く。


 「創太!」


 雨の匂いを連れて飛び込んできたのは、ちひろだった。


 今日の彼女は隊長補佐の濃紺の外套に、水除け用の短い革前掛けを合わせている。髪は後ろで高く結ばれ、頬にかかった細い毛先が汗で貼りついていた。きっちりした格好をしていても、急ぐときの入り方だけは昔から少し荒い。


 「青浮橋の向こう、雁宿りの家から速達! 南の葦原で陣痛が始まったって、産婆さんを呼んでほしい」


 隊舎の空気が、一瞬で引き締まる。


 ちひろは息を整えながら、封筒ではなく木札を差し出した。沢地萃では急ぎの呼び出しに、水濡れでも読めるよう薄板の札を使うことがある。


 「今朝の増水で南回りの舟は遅れる。北の板橇路も、さっき藺草積みが倒れて半分塞がった」


 那水がすぐに帳場の地図を引き寄せた。


 「なら旧水門の脇道から高台を抜けるしかない」


 「奏丞、いける?」


 「いける。昨夜の雨なら、二番杭まで泥が上がってる。三番杭から右へ寄れ」


 「幸育、中継は」


 「青芦橋の手前に子どもら走らせる。水鳥便も一羽出せるよ」


 言葉が飛び交う。その真ん中で、創太はもう考えるより先に靴紐を締め直していた。


 ちひろが、そんな創太を見る。


 「見習いさん、足は大丈夫?」


 「大丈夫です。補佐さんこそ、朝から走りすぎじゃないですか」


 「誰のせいだと思ってるの」


 「だいたい自分で抱え込みに行くからでしょう」


 言い返しながら、創太は札を受け取った。


 木札の端は少しだけ温かい。家の中で誰かが握りしめていた温度だ。


 生まれてくる命を迎えるための呼び出し。


 泣き声が上がる前に、届けなければならない言葉。


 その事実が胸の奥へすっと入ってくる。怖さがないわけではない。高台路は晴れの日でさえ足を取られる。けれど怖いからやめるという考え方は、もう創太の中で一番上には来なかった。


 「行きましょう」


 創太が言うと、ちひろが笑った。


 仕事の顔なのに、その奥に少しだけ私的な光が混じっている。創太にだけ分かる笑い方だった。


 「うん。今度は最初から隣で」


 外へ出ると、さっき広場で遊んでいた子どもたちが道の端に寄って目を丸くしていた。新しい防水布の頭巾を被った小さな男の子が、思わずというふうに叫ぶ。


 「ほんものの飛脚だ!」


 幸育がその頭をくしゃっと撫でながら叫び返す。


 「ほんものは道を開けて応援するんだよ!」


 子どもたちがわっと左右へ散る。その隙間を、創太とちひろは並んで駆け出した。


 石畳を蹴る音が二つ重なる。


 旧郵便塔の脇を抜けると、風見水鳥が高いところで小さくきらめいた。背後では奏丞が地図板を持って怒鳴り、那水が時間を書き込み、萌乃香が包み紙に熱い芋を二つ押し込んで幸育へ渡している。沢地萃郵便飛脚隊の朝は、今日も騒がしくて、頼もしくて、少し笑える。


 創太は走りながら、胸の内側でひとつだけ思う。


 あのころの自分が、この景色を見たら驚くだろう。


 保管庫の奥で黙っていた少年が、いまは風を切っている。誰かの背中を見るだけではなく、誰かと並んで進んでいる。


 届けたい言葉は、きっと一つではない。


 父から残された手紙の続きもある。町の水路を守った先の暮らしもある。まだ宛先の分からない封筒も、書きかけの問いかけも、食堂の湯気の向こうで迷っている未来もある。


 恋も、同じだ。


 好きだと伝えて終わりではなく、そのあと何度でも、言い直し、受け取り直し、隣で動き直していくものなのだと、創太はこの数か月でようやく知った。


 前方に、青浮橋の白い欄干が見えた。


 その向こうには、いままさに新しい誰かの人生が始まろうとしている家がある。


 ちひろが一歩前へ出る。


 「創太、三番杭から右!」


 「分かってます!」


 「返事が大きい!」


 「聞こえるように言ってるんです!」


 言い合いながら、二人とも笑っていた。


 沢地萃の空にはまだ雨雲の名残がある。運河の水も、季節が変わるたびに濁りを抱く。それでもこの町には、濁りきったまま沈めずに、誰かへ渡そうとする手がある。


 手紙の続きは、まだいくらでも書ける。


 恋の続きも、まだいくらでも届けられる。


 だから今日も走るのだ。


 湿地を越え、橋を越え、朝靄を越え、その先で待っている誰かのもとへ。



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