庭師エルドは未来に祈る
二巻発売記念
『花は二人で』にてトウカに花束を渡した庭師のお爺ちゃんのお話です。
――ゲーリグ城の庭師として、こうして植物と共に在り続けて、一体幾年が経ったのだったか。
ふとそんなことを考えながら動かしていた手を止め、立ち上がり折り曲がっていた腰を伸ばす。
ゴキッと体の内に響いた骨の音に一瞬息が詰まったものの、この程度はいつものこと。
道具を持ったままの手で軽く腰を叩きつつ、仮住まいとして鉢植えへと移動させた低木へと視線を落とした。
さて、この子達はどこへ植えてやるべきか。
領主様の指示通り、庭園の一角を空けたは良いが、先住の者達の行方はまだ決まっていない。
それほど大きく育たないものなのでこのまま鉢植えで育てることも可能だが、いっそのこと花壇を増やしてみようか、もしくは裏にある手付かずの場所を開拓していくのも良いだろうか。
そう、朗らかな気持ちで庭園の設計を考えられることがいまだに信じがたくて。
なんだか遠いところに来たようだと、柔らかく降り注ぐ眩い陽の光に瞬きを繰り返した。
前の領主様は、花を好まない方だった。
華やかな花瓶をいくつも買い集めていたのに、そこに飾る花が何であろうと気にも留めない方だった。
いくら多種多様な草木を育てても、いくら苦労して花を咲かせても、大して喜ばれることもなくただ視界の端に映る装飾品の一つにしかならなかった花達。
見向きもされず、ただ寂しく散っていった花弁を何度握りしめたことか。
それでも城の皆の憩いの場になると信じ、願い、庭師の同僚達と共に手を尽くし続けた。
長い冬のようだったあの城に、少しでも春の温もりが訪れるようにと願い、祈り続けた。
そんな色褪せたあの日々はほんの少し前のことなのに、もう随分昔のことのように感じるのは、きっとお嬢様のおかげだろう。
庭園で花が咲けばすぐに気付き、綺麗だねと声を掛けてくださって。
迷惑かもしれないと思いながら贈った花を大切に抱いてくださって。
我々庭師が身を入れて育てた花達に微笑んでくださる方がいるのが、どれほど幸せなことか。
胸を締め付ける柔い苦しさは、苦痛ではなく幸福によるものだ。
寂しく寒い苦しさではなく、温かく柔い苦しさなど、なんと喜ばしいものだろうか。
このまま幸福を噛みしめていたい気持ちはあるけれど、この後には大事な用事が待っている。
己が呆けていたせいであの方をお待たせするなど、あってはならないこと。
せめてこちらでできる準備は完璧にしなければと、植え替えたばかりの鉢植えを一旦日の当たる端へと移動させ、今回の主目的である苗を花壇の方へと運ぶ。
次に真新しい道具が入った籠を運び、最後に最近開発されたという肥料の確認をしていれば、明るい声が庭園に響き渡った。
「エルドさーん! 来ましたよー!」
「あぁお嬢様、今日もお元気そうで何よりでございます」
小さなドラゴンを肩に乗せ、小さな足で駆け寄ってこられるお嬢様。
先日の騒動で寝込まれていたのが嘘のように明るく元気なご様子に、自然と頬が緩んでいく。
お嬢様が攫われたと聞いた時は不安と心配でどうにかなりそうだったけれど、またこの明るさを見られて本当に良かった。
陽だまりのような輝きにしみじみとそう思っていると、お嬢様は空いた花壇を見て苦笑いを浮かべられた。
「いやぁ花壇もわざわざ空けてもらっちゃって……景観とか色々考えて植えてくれてるのに、ごめんねぇ」
「いえいえ、この程度であればすぐにできますから、どうかお気になさらず。
それよりたったこれだけでよろしかったのですか? もっと広くお使いになられても良いのですが……」
「ちょっと試したいことがあるからとりあえずって感じだし、これでも広いぐらいだよー。ありがとねー」
もし木を切り倒して新たな庭園を作れと言われてしまったら困っていたかもしれないが、元々は低木を二種類植えていただけの場所だ。
植え替えやすい種類だったのもあり大した手間ではなかったけれど、ふにゃりと柔らかな笑みを見せて感謝を告げられるお嬢様に、こちらもまた頬が緩んでしまう。
だが、その傍らで風に揺れる苗達が視界に入り、妙なことを口走らないようそっと息を詰めた。
『植物の手入れの仕方を教えてください!』
お嬢様がそう我々庭師の作業小屋へと突撃してこられたのはつい数日前のこと。
事前に領主様の了承も得ているのだと、小さなアース様から指示書を預かった時のことは今も鮮明に思い出せる。
なんせ魔物と話したことなど、老いたこの身でも経験してこなかったのだ。
それが「これが指示書じゃ」と、まるで城の者が仕事を持ってきた時のように書類を渡してくるのだから、驚かない方が無理というもの。
思わず呆けてしまったこちらを知ってか知らずか、お嬢様から畳みかけるように事情を説明されて、半分理解できないまま頷いてしまって。
満面の笑みで己の手を取り喜んでおられたお嬢様はとても可愛らしかったけれど、果たして本当に良かったのだろうか。
この城しか知らぬ己だが、普通、貴族の方は自ら庭園の管理を行うことがないのは知っている。
あっても庭園の主として何を植えるかなど指示を出す程度で、手入れや世話といった管理はほとんど我々庭師が行うことだろう。
それなのにお嬢様は自ら土を耕し、苗を植え、葉を剪定し、花を咲かせ、実りをもたらしたいのだそうだ。
何でも今後『ヒンシュカイリョウ』という作業をするために慣れておきたいから、だそうだが……貴族のご令嬢となられた方に、庭師がするような作業をやらせて良いのかと不安になってしまう。
本人がやりたいとおっしゃっているのだから、ご自由にやらせてさしあげたいとは思う。
けれど同時に、いくら領主様の了承を得ていたとしてもここで止めるべきなのでは、とも思ってしまう。
お嬢様は将来、ユーティカ家の令嬢として貴族の方が集まる社交界へと足を踏み入れる方だ。
その時、我々のような庭師と肩を並べ、言葉を交わし、共に土を耕していたのを知られたら、どうなってしまうのか。
領主様達であれば気になさらないと、そう思える。
けれど、もし前の領主様のような貴族の方がいるのなら、もしあの方のような貴族ばかりなら。
己が頷いてしまったせいで、お嬢様に我々に注がれていたような侮辱の眼差しが向けられてしまわないか。お嬢様が傷付いてしまわないか。
そんないつくるかもわからない未来への不安に駆られ、今でも手が震えそうになる。
お嬢様が去った後、失礼を承知でシド様にも伺いを立てたが、シド様曰く、珍しくはあるがそういった趣味の貴族もおられるらしい。
だからこそ領主様も了承されていたのだろう。
だからこそお嬢様のために庭を整えるよう指示を出され、必要な道具だけでなくお嬢様が育てたいという苗も手配されていたのだろう。
既に準備は万端で、皆様も問題ないとおっしゃっている。
けれど、もし珍しいという理由で誰かに目を付けられてしまったら。
そう、一介の庭師が考えても仕方ないことだとわかっているのに、そんなことばかり考えてしまう。
きっとこの身に刻まれた長い冬は、温かな春が来ても強く吹き荒び、今も己を凍えさせてしまうのだろう。
あとは己が教える段階だというのにどうしても不安が拭いきれなくて、やる気に満ち溢れた表情でこちらを見上げるお嬢様からつい目を逸らしてしまった。
「どうかした?」
「……いえ、ふと思い出したことがありまして。ほら、この年でしょう? 最近物忘れが激しいもので」
「あー、なんか急に思い出すことってあるよねぇ……何かにメモでもしとく? 教えてくれたら私が覚えとくよ?」
普段なら、己の些細な変化に気付いてくださる優しさに感動するのだろうが、今はその優しさが眩しすぎるようだ。
きょとんと首を傾げるお嬢様に少々雑な誤魔化しをしたところ、更なる優しさを向けられて、また胸が柔く締め付けられていく。
やはりこの優しいお嬢様を守るためにも、何も教えない方が良いのではなかろうか。
でも、あんなに楽しみにされていたのに、急にできないなどと言い出せば、それこそ困らせてしまうのではないか。悲しませてしまうのではないか。
あり得るかもわからない遠い未来と、あり得てしまいそうな近い未来。
そのどちらに天秤が傾くかなど、あまりにも明白なことで。
「……もうじき、あの辺りの剪定をしてやらねばと思い出しただけですので、お気になさらないでください」
不安も心配も躊躇いも呑み込んで、ただの庭師らしく庭園の手入れについて口にする。
そしてこちらへ向けられている意識を逸らすべく、道具の入った籠を手で示した。
「さて、まずは道具の説明からさせていただきましょうか」
「はーい! よろしくお願いしまーす!」
意気込みを表すかのように勢いよく手を挙げるお嬢様。
何てことない、ごく普通の光景だ。
明るく元気な子供がそこにいる、ただそれだけのごく普通の光景だ。
だけど己の目に映ったその手はとても小さくて、眩しくて。
――この小さな手に育てられる植物達は、一体どのように育っていくのだろうか。
なんて、つい先ほどまで未来に不安を抱いていたというのに、今度はそんな未来を思い描いてしまった。
「……いやはや、大きくなるのが楽しみですなぁ」
「うん? 楽しみだねー」
唐突な老人の呟きに、一瞬きょとんとされていたけれど、すぐさま同意を示してくださるお嬢様。
その優しさがまた嬉しくて、愛しくて。
もう十分生きたと思っていたが、死ぬのはまだまだ先が良いなぁと、心の底からそう思ったのだった。




