宮廷画家の弟子リードはただ描く
二巻発売記念
過去にあった、とある絵師のお話です。
読む時は四章を読み終えてからの方が良いかもしれない。
――それは本当に突然のことだった。
宮廷画家の父から「画材を持ってこの場所へ向かえ」と言われ、わけもわからず向かったとある場所。
王都の裏通りにある広場の一角。少し古ぼけた小さな家。
何の変哲もない、平民が暮らしているだろうその家の前には一人の青年が立っていて。
隠しているつもりのようだけれど、僅かに感じる貴族独特の雰囲気を持つその青年は、こちらを確認したかと思うと静かに一礼した。
「宮廷画家マルクル様のご子息、リード様ですね?」
「は、はい! そうです!」
「どうぞ中へ、主がお待ちです」
一体、何が何やら。
主、となるとこの人は従者か何かなのだろうか。
それにしては随分と鍛えられた身体をしているのが窺える。
父の助手として良く貴族達と会う事はあるものの、これほど鍛え抜かれた肉体を持つ従者なんて滅多に見ない。
従者の身なりから仕える主がどのような人物かある程度予想できるものだが……屈強な従者がいなければならないほどに、危険が身近にある人物なのだろうか。
そういった人物には関わらないのが身のためだと思うけれど、この従者の目の前で踵を返せるほどの度胸は無いし、逃げられる脚もない。
父が自分を送り出したのは、もしかして身代わりのためだったのだろうか。
時折、宮廷画家である父に絵を描いて欲しいと無茶を言ってくる貴族がいるので、可能性はある。
それなりに大事にしてもらっている自覚はあるが、そういった難題も試練として乗り越えろと言うような人だ。むしろその可能性しかない気がする。
果たしてどんな難題と対面する事になるのやら。
周りの薄暗さも合わさり心にどんよりとした青色が広がり始め、震える脚で扉へと近付く。
従者はここで門番に徹するのか、横から視線を感じながら小さく扉をノックをし、中へと入った。
待ち合わせに使われるぐらいだから、空き家だったのだろうか。
薄っすらと灰色がかった室内をそろりそろりと進む。
埃臭い空気を吸い込み、いつでも振り回せるよう画材の入った鞄をぐっと握って。
そう、出来る限りの心構えをして進んだ先にいたのは、月明りが降り注ぐ夜のように艶やかな黒色を持つ美しい人だった。
「ク――、第三王子、殿下……!?」
「……結界は張ってあるが、あまり知られたくない。静かに頼めるか」
「し、失礼いたしました……!」
勢いよく頭を下げた拍子にズレ下がった鞄を慌てて背負い直す。
第三王子といえば、一時は行方知れずになったものの、ある時突如戦線に復帰し、活躍したという時の人。
あの頃の王城は酷く不気味な静けさに覆われていて、我々も出入りするのを控えていたほどだった。
今はそのような空気は収まりつつあるようだが、戦争の影響は大きく、まだ事後処理が終わっていないと聞く。
そんな状況だというのに、渦中にあるだろう第三王子が、何故こんなところにいるのか。
視線をどこへやれば良いのかもわからなくなって、きょろきょろとしてしまう私には触れず、殿下はただ話を進めるべく口を開いた。
「リード殿には、とある女性の絵を描いてもらいたく、ここへ来てもらった」
そう言って殿下は手を緩く振り、魔力を操る。
得意だと聞いている幻影か。
瞬きをした次の瞬間、我々の間に一人の女性の姿がどこからともなく浮かび上がった。
街灯りの中、楽しげに大きく口を開けて笑う女性。
不服そうにこちらへ視線を向ける女性。
風に飛ばされた洗濯物を慌てて追いかける女性。
そして、温かな光の中で柔らかく微笑む女性。
まるでその一瞬一瞬を切り取ったかの如く鮮明に映し出されたその光景は、きっとこの方の記憶なのだろう。
キラキラと星空のように輝く女性の姿を、殿下は酷く眩しそうに見つめていて。
――この方は、自分にこの眩い光景を描けというのか。
春の木漏れ日にも似た美しいこの光景を、眼差しだけで愛おしさが伝わるほど大切な光景を、自分のような未熟者に描けというのか。
どうして父ではなく、自分に描けというのか。わからない。どうして。
でも、誰かの愛おしさを絵にできるなんて、そんな経験今まで一度も無くて。
描いてみたい。でも、自分が描いて良いものではない。
そう、戸惑いと共に己の奥底で渦巻く欲求を唇を噛みしめ、呑み込んで。
ハクハクと呼吸が空回りする口から、どうにか掠れた声を絞り出した。
「し、失礼ながら……自分はただの、見習いの身にございまして……。
私ではなく、父に描かせた方がよろしいのではないかと、思うのですが……」
そう、この方が求めているのは、この光景を描くこと。
ならば未熟者の自分などをわざわざ選ぶ必要は無い。
なんせ己には才能が無い。
若い頃から宮廷画家として活躍し、後世に残る絵をいくつも描いてきた父とは違うのだ。
「その父君が、リード殿を推薦された」
「は……? 父が、ですか……!?」
大きなキャンバスに向き合い、整えられた美しさを描くのが苦手だった。
小さなキャンバスを覗き込み、細かな世界を描くのが好きだった。
そんな自分に、父は「宮廷画家になる才能は無い」と言い切った。
才能は無いけれど、それでも絵を描くのが好きだった。
だから見習いとして父の助手をして、絵に関われるよう生きてきた。
そんな己を、何故父が推薦などしたのか。
疑問が表情に出ていただろう己に対し、殿下は淡々と語った。
「『誰にも見せず、手元に置いておきたい。
できるなら持ち歩けるほど小さく描いてもらいたい』と伝えたところ、自分の息子が適任だと」
「……持ち歩けるほど、小さく……?」
持ち歩けるほど――手の平に収まる程の絵なら、いくつも描いてきた。
風景だったり、動物だったり、人だったり。
父の描く肖像画のように数多の目を惹き付けるような作品では無かったけれど、それでも描いて、父に見せた事がある。
まさか、あの絵を見て適任だと思ったのか。
確かに経験こそあるかもしれないが、あんな趣味で描いた拙い絵で判断するなんて。
あまりの事に言葉を失くしてしまった自分を他所に、殿下は更に続ける。
「肖像画のように美しく描こうとしなくて良い。
ただこのままの、この記録のままの彼女を描いてほしい」
「は……?」
肖像画を描く時に気を付ける事はいくつもある。
その中でも、とりわけ注意しなければならないのは、そのままの姿を描かない事だ。
後世に残る姿なのだから、美しく、素晴らしい姿で描かれたいと思うのは誰だって同じ事。
だから肖像画を描く時はその人物の特徴を捉えながら、要らない要素は消して、その人物が求める要素を混ぜて描く。
美しさを強調するものであったり、権威を示すものであったり、求められる要素はその時々により変わってくる。
それに応えることが画家に求められる技術だというのに、殿下はこの女性のありのままの姿を描けと言っていて。
「何故、そのような絵を残したいのでしょうか……?」
ポツリと、零れてしまった疑問を慌てて手で押さえこむ。
けれど絵具が混ざった水のように、一度空間に溶けた言葉はどうにもできないのだろう。
自分の疑問に目を瞬かせた殿下は、ふっと目を細めた。
「……忘れたくなかった」
「……え?」
「人は、忘れるだろう。
どれだけ覚えていたくとも、どれだけ忘れたくなくとも、人は忘れてしまう」
その眼差しに映る光景は、一体誰の記憶だろうか。
この女性ではない、忘れてしまった誰かを想い、語る殿下の言葉に耳を傾ける。
「今は鮮明に思い出せる彼女の匂いも温かさも、いつかは思い出せなくなる。
その前に、せめて姿だけは残しておきたかった」
実感の伴った言葉は、己にも覚えのある事だ。
鮮明に覚えている事があれば、朧気にしか思い出せない事がある。
それこそ、忘れたくない光景や記憶を描き始めたのが、己の絵の始まりだった。
「片時も忘れないように、いつでも思い出せるように。
いつかまた会えた時、取り零してしまわないように。
記憶だけでなく形としても残しておこうと思った、それだけだ」
あぁ、そうか。
この方は、思い出のよすがを求めておられるのか。
ふとした時に眺めて、その光景を思い出せるように。
いつか記憶が遠ざかっても、幻影がすり減っても、この女性の笑みを思い出せるように。
よすがであり、誰にも見せたくない小さな宝物。
それが欲しいと、この方は願っている。
そしてその願いを叶えられるのは自分なのだと、父が信じてくれている。
「……わかり、ました」
乾いた喉から出た声は震えていて、自分でも頼りなく聞こえるもの。
だからふぅと、息を整えて、己の腹に力を入れて殿下へと向き直る。
「私の持ちうる全てをもって、描かせていただきます」
描いて欲しいと願ってくれた。
描けると信じてくれた。
何より、己もこの光景を描きたいと、心から思ったから。
父は私が引き受けると確信していたのだろう。
持っていけと言われた画材達を広げると、殿下は黙って幻影をいくつも生み出す。
遠い未来であろうとも過去を鮮明に思い出せるよすがを残す。
その願いを叶えるには、まずこの女性の姿を鮮明に描けるようにならなければならない。
手の平に収まる大きさに描くには、この身に焼き付くほどに繰り返し繰り返し描き、迷いなく細かな線を描けるようにならなければならない。
どれほど描けばこの方が望む絵を描けるようになるか。
きっと気が遠くなるような日々になるだろう。
きっと生涯で唯一の作品になるだろう。
それでも、自分の好きだった小さな世界が求められた事。
自分のような才の無い者が、誰かの愛しい記憶を描ける事。
その幸福に勝る苦難など、ありはしない。
そうと決まれば最早刹那の時すら惜しいほどで。
次々と映し出される黒髪の女性をそっくりそのまま写し取るべく、筆を走らせた。




