落し物 2
クマコが田崎家に来てひと月が経った。
結局なんの情報もないまま、しっかりと田崎家に馴染んでいる。なにより、円が猫っ可愛がりしていて、このまま飼い主が現れない場合、飼うと言い出しかねない状態だ。
生後三か月の子犬は元気いっぱいだ。いろんなものに興味を示し、噛んではいけないものに近づいては誰かに呼ばれて気を逸らされたり、鉄子が歩くのにくっついて歩いてこけたり、誰かが帰って来た音がすると玄関まで走っていって止まれなくて落ちたり、騒々しさのカタマリで愛らしい。口には出さないが父もメロメロなのは、環と悠は気付いている。だが、父は自分には犬についての主導権がないことを自覚していた。
問題は要するに円なのだった。
「悠ちゃんが飼わないつもりなのは、言ってあったよね?」
円の居ない夕方に、とうとう環は口に出した。
「言ってある。本人も判ってるとは思うんだよね。ただ、離れがたい…」
黒い子犬は、もふもふ感が増えている。予想通り長毛タイプのようだ。マズルは長めで厚みがあり、耳は立ち耳の傾向。しっぽは巻いていない。
「環に一番懐いてるのに、何故なんだ…」
円に一番懐いているのなら判る、といった口ぶりだ。
「ま、いずれにせよ、明日あたり狂犬病予防接種に行って、ついでに登録してくるよ」
「大丈夫? 午前中だったら私行くよ?」
「大丈夫。ついでに相談したいこともあるし。明日より明後日の午前中は注意して見てやって」
狂犬病のワクチンは、非活化ワクチンといって毒性の消してあるタイプのものだ。だからと言って、すべての犬にとって安全なわけではないので、副反応の出やすい接種後の三十分程度で出る即時型と二十四時間以内に出る遅延型に対応できるように、接種後は犬の傍を離れないように、そして動物病院も対応できるように、日にちを決めている。もちろん、犬の体調も考慮する。
「うん、判った」
どんな薬でも、どんなワクチンでも、絶対ということはない。犬の体調もあるし、体質もある。それは人間も同じだ。デメリットがあった場合、それを最小に抑えるように、出来る準備はすべてする。
任意で行う混合ワクチンは、罹患したら死亡率が高く、助かった場合も後遺症の残る病気の予防のために行う。獣医師が対応してくれるのなら、その地域の病気の発生率を考えて、単体で摂取するのもありだろう。
だが、狂犬病の予防接種は、法で決まっている。老齢であったり病気であった場合、免除される市町村もあるが、すべての犬が接種しなければならない。
それは、狂犬病が、致死率が百パーセントと言っても良い病気だからだ。犬も人も、哺乳類ならすべてが罹患する病気だからだ。
環は昔、母に聞いたことがある。何年も日本では狂犬病は発生していないのに、何故、予防接種をしなければならないのか、と。
母は、今は発生していないけど、またいつ外国から狂犬病が入ってくるか判らないからだ、と答えた。その時に、日本以外の多くの国では狂犬病は普通にある病気なのだと知った。そして、この病気は、発病しない限り感染していることの確認が難しい。母は、もし仮にご近所で狂犬病の犬が発見されたら、とその時に言った。鉄子も茶子も、狂犬病の予防接種を受けてなかったら、殺処分されるかもしれないんだよね、と。
実際に今の日本でどうなるかは判らない。だから母の言ったことは、考えられる最悪のケースなのだと、今なら思う。だが、発病しなければ感染していると判らない病気なら、あり得るかもしれない、とも思う。
脳がウイルスによっておかされ、今まで人に牙を向けたことも唸ったこともないような犬でも、人を咬むようになる。そして唾液に含まれたウイルスが咬んだ相手の体内に入ったら、治療しない限りほぼ百パーセント死亡する。
検疫で、海外から入ってくる動物はチェックされる。けれどもよくニュースで耳にする、ワシントン条約で保護されている動物の密輸入では、当然の話ながらチェックされない。狂犬病の場合、動物の大きさにもよるが潜伏期間は三週間から長い時には半年以上。捕まえた時には元気でも、日本国内に入った後に発病することもある。もしそんなふうに入ってきたら、ネズミ、コウモリ、タヌキ、ネコ…ウイルスを媒介する動物はたくさんいるのだ。そして感染動物に咬まれる以外にも、どこかに傷があれば、その傷から容易く体内に入ることができる。
環は、それらを知って、鉄子にも茶子にも、狂犬病に罹って欲しくないと思ったし、狂犬病に罹って他の人や犬を咬んで欲しくないと思った。感染するのが自分なら、それは法を守ることを怠った自分の責任だ。けれど、他の人や犬にはなんの責任もないのだ。その咬まれるかもしれない犬が狂犬病の予防接種を受けてないことは関係なく。
犬を飼うのなら、一緒に暮らしていくのなら、命も、彼らの尊厳も守ってやりたい。それがその時からずっと環が思っていることだった。
「クーマーコー」
食後に少し遊んで眠くなったクマコは鉄子に寄り掛かって眠っていた。明日は予防接種なので、あまり疲れさせないようにしている。
ちなみに、クマコというのは仮名だ。アタリマエのようにクマコと呼ぶ環に、悠も円も父も難色を示したが、当のクマコが環の声に一番反応するので、結局それでおさまってしまった。
そして、帰宅すると円が弾んだ声でクマコの名前を呼び、あとはくっついて離れないのだ。クマコがではなく、円が。
「円ちゃんおかえり。クマコ、明日狂犬病の予防接種だって」
「あ、まだ飼い主現れないの? 了解」
鉄子のワクチンの時に心得はしっかりと伝えてあるので、話は早い。ぴょこん、と耳を立たせたクマコが首を持ち上げて確認をして、立ち上がった。しっぽをぶんぶん振っている。
「クマコただいま。今日もたくさん食べたか?」
わしわしと乱暴に撫でている。そしてクマコもそれを喜んでいる。
「トイレも完璧だし、沢山食べるし、いろんなことをすぐ覚えるし、おまえはホントに賢いなぁ」
(………)
ほとんど親バカな発言を環は聞かないことにする。
クマコがすぐにトイレを覚えたのは、おそらくきちんとした環境で飼育されていたからだ。
人馴れしていること、体が清潔に保たれていたことから、誰かに飼育されている犬が産み、その犬に育てられたことは間違いないだろう。
犬は地面に掘った穴で子犬を産み育てると言われている。そういった場合、排泄を穴の中ですると悪臭で子犬を食べる肉食獣に見つかり易くなるし、清潔を保てなければ病気になりやすい。だから犬は離れたところで排泄をする。子犬は簡単には移動できないので、親犬が舐めとることにより、清潔を保つ。そういう環境で育った子犬は、トイレの場所と寝食する場を分けることを最初から知っているので、トイレトレーニングはとても簡単なのだ。
「しかも美人だ!」
わしわしわし。
「じゃあ、今日は何して遊ぼうか。お? なになに、今日はひっぱりっこするか? そうかー」
ちなみにクマコは円の指にじゃれついているだけである。
「じゃーん」
どこから取り出したのか、小指ほどの太さのロープを手に持っていた。両端はしっかりと結んである。それを鼻先でぶらぶらさせると、最初はくんくんと鼻を近づけていたクマコは軽くジャンプして噛みつこうとした。それを何度かかわし、今度は床の上において滑らした。クマコは両前足で結び目を押さえようと飛びつく。
「甘々だ。孫におもちゃを与えて気をひこうとしているじーちゃんだ…」
呆れながら見ていると、円は何故かふっと笑った。
「や、責任ないからさ」
首を傾げると、ロープを操ってクマコをもてあそびながら円は続ける。
「クマコはどうせうちの子にならないんだよね? なら、多少甘やかしてもいいかなーと」
「おお…」
そうだったのか、と目からウロコな気分で環は円のことを見る。
「だってさ、うちの子になるなら、変に甘やかすとおまえと悠ちゃんに後々まで言われそうじゃん」
「あー」
なるほど、と環は頷くしかなかったのだった。
翌日、クマコを連れて出かけていった悠は、手ぶらで帰ってきた。
「……?」
キツネにつままれたような顔をしている悠を見て環が不思議そうに首を傾げると、苦笑を返してきた。
「クマコの飼い主が見つかったんだ」
「……へえ…」
言葉は聞こえていて意味は判るが、理解ができないまま返事をする。
「病院に行ったら中学生くらいの少年がいてさ、俺が入って行ったら宮川さんが『あ、あの人ですよ』なんて声をかけて」
いろんなウワサを耳にして、そのちゅがく生男子――戸田は西原動物病院にやってきたらしい。そこで悠が用意した貼り紙を発見し、受付に確認していたところに悠がクマコと登場。キャリーバッグを開けて確認してもらうと、「ノア」と声を震わせて名を呼んだ。クマコはそろりと出てきて、指先を臭うとぶんぶんと尻尾を振って近づいて行った。
それから写真を見せてもらったり、経緯をきいたりし、間違いないと判断してそのまま渡してきたという。
「……珍しいね、ちゃんと家まで確認しなかったんだ?」
環は多少非難するような色を声に載せた。
「クマコがさ、この人知ってる、って態度だったんだ。写真に写ってたのも、保護した当時のクマコだったし、当人と一緒に写った写真もあったし。それに、経緯がさ」
そう説明された経緯を聞いて、環も頷かざるを得なかった。
戸田少年は家族で犬を貰いに行って戻ってくるところだった。戸田少年の父親の知り合いの家で生まれた犬だが、母犬が急に死んでしまい、二頭生まれたうちの一頭を引き取るということになったらしい。もともと生後三か月くらいまでは親犬と兄弟犬と一緒に過ごさせてそれから貰う予定だったが、世話をすべき母犬がいないのなら多少早くなっても仕方ないと判断したのだ。知人宅でもう一頭を飼育するつもりだが、子犬二頭の世話は親犬が居ない状態ではなかなか大変だからだ。車で二時間ほどの行程の帰り道、寝ていた子犬が目を覚ました。人間でも長時間座っているだけでも疲れるものだ。少し息抜き程度に外に出ようという話になった。それがあの公園のあたりだ。戸田少年は抱っこしたまま軽く散歩をしていた。いい風が吹いてきて、木の下のベンチに腰を下し涼むことにした。その時についでに写真を撮っておこうと携帯電話を取り出してそのために一旦ベンチの上に子犬を移した。が、撮影用にモードを変更したりしている間に、何か落ちたような音がして、ベンチの上に目をやった時にはいなくなっていた。
そこから先は推測だが、おそらくクマコはベンチの後ろのツツジの植え込みの下を歩いて、今度は木の後ろの二メートルほどの崖を落ちた。崖といっても、公園内に小高い丘があってその裏手が崖のようになっているだけだ。落ちた先は芝生で、そこにも灌木が植わっているため、急いで探して覗き込んだ戸田少年には見つけられなかった。下に降りるまえに、先にこの場を探そうと低木の下などを覗くがいない。そこへ父親と母親がやってきた。事情を説明して手分けして探して、もちろん崖の下も探した。その時には悠が拾って、まさか崖から落ちたとは考えず、反対方向に歩いて探していた。戸田少年一家は誰かに拾われたとも思わずまた子犬がそんなに遠くに行くとも思わず、灌木の下を中心に探している間に完全に行き違ってしまったのだ。
「いろいろ記念写真を撮っていてくれて助かったよ」
悠は肩をすくめる。
少年一家はずっと子犬を探していた。だが、なにせ家から一時間も離れている場所だ。簡単に出向くこともできない。また、警察所や保健所に確認したら良いということも知らなかった。インターネットの存在は知っていたが迷子掲示板などというものがあるのも知らなかった。ただ自分が参加しているところで探していると書き込みをした程度だ。
それでも諦めずに情報を探していたら、めぐりめぐって、こういう貼り紙を見つけたと聞き、ようやくこの町に赴くことができたのだという。
少年と話していると両親も登場した。二人とも子犬を写真に収めていて、黒い犬ながらなんとか特徴をとらえている写真だったため、悠は納得した。西原獣医師とも話し、犬のトレーニングに多少明るいことを伝え、何か困ったことがあったら相談してくれたら力になると住所と電話番号を交換し、相手方も免許証で本人確認をさせてくれたので、そのまま渡すことにしたという。
保護時から今日までの体調については、細かな注意点とともに西原獣医師から説明してもらい、一緒に暮らしていて気付いたことについては悠が説明した。あとで箇条書きにしてメールで送ると、少年に約束してメルアドも教えてもらった。
「…それは、仕方ないよね」
通りすがりに貼り紙を見つけて一緒に写っている写真もないまま自分の犬だと主張したのならともかく、あきらかに保護以前と思われる写真で、本人と一目で判る人物と一緒に写っているものもあって、それらがどれも田崎家の誰もがSNSなどに投稿したことのないアングルの写真だったのだ。否定しきれない。
知人宅で撮られた兄弟犬の柄は、クマコの黒より薄めでグレーっぽい模様が白地に入っている。兄弟犬の写真でごまかしていないことは一目で判った。
「なんか急で、寂しくなるね」
来たのも突然なら、帰ったのも突然だ。
「円ちゃんも寂しがるだろうなあ」
「だな。あとでメール送っとくよ」
さすがに帰ってきてからいきなり伝えるのは酷だと思ったのだろう、悠が軽く息を吐きながら言った。
クマコが居た場所をなんとなく片付けていたら、悠が少し暗い表情でやってきた。
「円ちゃん、なんて?」
「箇条書きで経緯を書いて送ったら、しばらく返事がなくて、ようやくさっき。――よかったなって。もしオモチャを送ってやるなら、自分が買ったものとかも一緒に送って欲しいって」
「そっか」
少なからず落ち込んでいるのは想像に難くない。環は帰宅した円にどう接したら良いのか考える。
「父さんにも同じの送ったんだけど、すぐ電話がかかってきて、どうしてお別れの時間を貰えなかったのかとか訊かれた。いくらでも車を出して送ったのにって」
苦笑しながら悠は言う。もちろん悠もそこを考えなかったわけではないのだ。西原が大丈夫だろうと判断し、すがるような眼差しの少年がいて、もう少し待ってください、とは言えなかったのだ。ずっと困った表情で経緯を話してくれたのを聞いていた環には判った。悠は、あの時もう少し飼い主を探す範囲を広げていたら良かったと後悔しているのだ。そうすれば、その日のうちに子犬を持ち主に渡すことができたのに、と。
「こういう時に一番未練たらたらなのは父さんだよね」
ほんとにもう、と肩をすくめながら環は言ってみせる。
「円ちゃんは表に出さないし」
むしろ父親のほうが健全なのではないかと思いながら、次兄の顔を思い浮かべる。
「仕方ないから、今度会えるようになんとかして、悠ちゃん」
無理難題かも、と思いながら環は言う。
けれど悠は環の意図を正確に受け取って、頷いた。
『お詫びに、お別れする時間を作ってね』
悠はそれで気が多少は晴れるだろうし、円はお別れができる。自宅まで行くことを承知させられれば安心もできるだろう。
それでいいじゃないか、と。
帰宅した円が行くと言っても行かないと言ったとしても。
黒子が田崎家に来たのはこの件の少し後のことです。
全体的に黒が多く、白いのは鼻筋と胸と四肢の先というボーダーコリーのような模様をみて、
「月の輪クマコだ!」と呼んだのは環です。
当たり前のように、悠・円・父から却下され、命名権を持つ悠によって「黒子」と名付けられました。
どっちもどっちじゃん、と環と円と父は思ってましたが、歴代の犬たちの名前から考えても却下し難いということで採用になりましたとさ。




