落し物 1
環が家に帰ったら、小熊がいた。
いや、正確には小熊なのではなく、黒っぽい犬なのだが、折れた小さい耳といい、丸顔といい、もこもこの毛玉具合といい、熊感満載な子犬だったのだ。
「クマゴロー、どうしたの…?」
勝手に命名して、台所で忙しく夕飯の用意をしている悠に訊く。
箱の中にいる黒い子犬は、環をみつけるとはちきれんばかりにしっぽを振って、箱から出ようともがきだす。大きめのみかん箱はそこそこ丈夫なようで、腹側を片手で掬えるほどの大きさの子犬の暴挙には、多少動く程度で壊れそうもない。
鞄を床に置いて近寄って、撫でる前に一瞬考える。
「うん、ちょっと待っててね」
家を出てから帰るまでの間に他の動物は一切触っていないが、相手が子犬なので念のためだ。手を洗うために洗面所へと移動する。速攻で戻ると、そっと手を伸ばしてニオイを嗅がせてから、頬や耳の下、首筋を撫でてやる。
「ねえ、悠ちゃん、どうしたの、この子」
どこを撫でてもとくに嫌がらないことを確認してから、環は抱き上げて、呆れ顔でこちらを見ている長兄に訊いた。
悠としては、クマゴロー命名時で返事をしようとしたのだが、その時には環が姿を消していてそれを待っているところだった。この振り回さし具合はさすが我が妹だと、呆れを通り越し感心してもいた。
「拾った。とりあえず、保健所と警察には連絡済み。首輪なし。家に上げるにあたっては動物病院受診済み。問題なし。ついでにマイクロチップのチェックもしたけど、装着未」
さすがの手馴れ感で説明されるのを、顔を舐められながら聞いていた環は首を傾げた。
「拾った?」
言いながら窓際で寝ている鉄子に目をやる。
見た所、純血種の犬には見えないが、それほど詳しいわけではないのでそこは自信はない。もし純血種の犬だとするなら、生後2か月ほどの見えるこの犬が、捨て犬である可能性はとても低い。
「一応、拾った近辺は歩いたけど…そこの公園にいたんだよ、こいつ」
そこの公園といえば、ほんとうにごくごくご近所で、この界隈の犬情報が兄の耳に入っていないわけがない。
仮に入っていなくても、イマドキ捨て犬なんていうのはとても珍しいし、この近隣では、屋外繋留飼いというのも珍しい。つまり、外飼いの犬がいつの間にか妊娠して子犬を産んだというような話は、まず無いと言っても良い。
「野良っ子みたいな感じじゃないよねえ」
床に座った状態で膝の上にひっくり返して、耳の中、ニオイ、足の裏などをチェックする。すでに悠がしているだろうが、自分でも気づくことがあればというか、環は興味の剥くまま全身を撫でまわしていじくりまわしていた。
「あ、この子メスだ。クマコだね」
ひっくり返したところで気付いて声に出す。それでも「クマ」からは離れない。実に、熊熊しい容姿なのだ。犬に「クマ」と名付ける人が多いのも頷けると、四肢をワタワタと動かしている子犬の腹を乱暴に撫でる。
「人馴れしてるよね。拾った時も、汚れてなかったんだよ」
頻繁なシャンプーが犬にとって良いことかは別として、洗われていない犬の毛は皮脂がまとわりついてべたべたする。独特のニオイがすることもある。が、この子犬にはそういうのは無い。母犬が長期間洗われていない場合、子犬にもそのニオイが着きやすいのだ。
「ノミもついてなかったしね。清潔な場所でここまで育ったと思うんだよね」
「うーん、どっかの迷子か捨て犬か」
生後二か月の子犬なら、首輪をしていなくても不思議ではない。足の太さと現在の大きさから考えると中型犬。マイクロチップが無いということは、近頃のペットショップやネットブリーダーである可能性も低い。なにより、生後二か月なら売ってはならない月齢のはずだ。ということは個人宅で生まれた犬を貰ってきたのか。
推理をめぐらしながら、動きが鈍くなった子犬を腹側を下にして膝の上に載せ、ゆっくりと撫でてやる。お疲れでお休みのようだった。
「ということで、しばらく我が家で保護することになったんだけど、子犬が珍しいからって遊び倒すなよ?」
もう遅いか?と思いつつ、悠は忠告しつつ作業に戻ることにする。
「飼い主が見つからなかったらら?」
迷子ならいいが、捨て犬だった場合は、だ。
「基本的な躾を入れながら、飼い主探しかな」
「やっぱり我が家で飼うって選択肢は無しか」
さほど残念そうでもない口ぶりで環は言う。
「うちは、子犬からじゃなくったって飼えるだろ? 子犬からがいいって人に可愛がってもらったほうがいいって」
悠は苦笑しながら言う。
「環は子犬から飼いたいの?」
「うーん、見るとね、可愛いなとは思うよね」
改めて訊かれると環にも判らない。なにしろ、子犬から飼ったことがないからだ。
名残惜しそうにそっと子犬の体と膝の間に手を入れて、起こさないように、タオルの敷いてある箱の中に移す。粗相を心配しているわけではなく、チョロチョロ動いている子犬を踏まないための措置だ。段ボール箱なのは、納戸の奥からケージを取り出すのが面倒なのだろう。着替えたら持って来ようと心に決めて立ち上がる。
「でも、悠ちゃんと同意見。それにやっぱり、悠ちゃんはシェルティがいいんでしょう?」
「まあね。タイミングにもよるけどね」
タイミングからすれば、そろそろ増やす頃だと環は考えている。鉄子はもうヨボヨボだ。彼女を見送ってから、というのも方法の一つかもしれないが、なんとなく悠は鉄子が元気なうちに新しく犬を迎えるような気がするのだ。いずれにせよ、環に否やはない。鉄子は母親から遺された我が家の犬だが、これから飼う犬は悠の犬だ。このあたりの考え方には父親は異論を唱えるかもしれないが、犬でなくてもなんらかの生き物を飼う以上、食費、医療費、その他もろもろの雑費などは、飼いたい人間が負担するのが田崎家のルールだ。となれば学生の身分の環にどうこうできる額ではない。自分で飼うのはもっと先の話だと彼女は思っている。
「クマコは、どうするの? 狂犬病の予防接種とか、登録とか」
生後三か月以上の犬は市町村に届け出をして狂犬病予防接種をしなければならないのが、狂犬病予防法で決められてる。この子犬の場合はもう少し先の話ではあるが。
「ひと月以上飼い主が見つからなかったら考える。保護したほうがあちこち情報を流してるつもりでも、なかなかそれを拾えない人が多いから、いつを期限にしようか西原先生と、榊原さんに確認してるところなんだけどね」
悠は、獣医師とドッグトレーナーの名を挙げた。
「二人とも、あちこちに情報を流しておいてくれるって言ってたから、そっちも期待してるんだけど」
口ぶりから、悠は捨て犬ではなく迷子だと判断しているように感じられる。作業する悠をちらりと見て、「みつけてもらえたらいいね」と子犬に語りかけて、環は着替えるために自室へと向かった。
環自身は、基本的にどんな服装でも犬と戯れるのは問題無しだ。毛だらけになろうが、ヨダレがつこうが、ニオイがつこうが関係ない。洗えば良いのだ、と思っている。実際、洗濯機で簡単に洗えるのを基準に買っているので、そんなに問題はない。ではなぜ着替えるかといえば、寛ぎ着とお出かけ着を分けているからだ。どちらがより動き易いか、ゴロ寝し易いか、家着にはそこを重視している。そこしか重視していないともいえる。
ということで、ジーパンにTシャツに着替えた環は、納戸へと向かった。
まだ母が元気な頃、ごくたまに知り合いの犬を預かっていて、その時に使っていたのだ。おとなしく片隅で寝ているような犬ならばそのまま自由にさせていることもあったが、家事の間や睡眠時間などは、なるべくケージ内で過ごさせるようにしていた。もちろん、ケージ内で大人しくできる犬でなければ預からない。
「環、多分結構奥だから」
納戸の全面を眺めていたら悠が声をかけてきた。どうやら一度覗いてから断念したらしい。
「りょーかい」
思わず棒読みになりながら、あたりをつけて捜索を開始した。
闘うこと三十分、ようやく見つけたケージを組み立てて、キッチンに据え置く。子犬はまだ寝たままで、覗きに来たのは鉄子だった。何か覚えがあるのかフンフンと首を伸ばすようにしてにおいを嗅いでいたが、チラリと環を見ると自分のベッドの上に戻っていく。
「ごはんはどうするの?」
とは、子犬のごはんのことだ。鉄子は手作りだからあまり子犬用にはお勧めできない。単純に、今後のことを考えてのことだ。手作りの美味しさを知ってドッグフードを拒否したら、飼い主の元に戻った時に困るからだ。
「フードを買ってきた。子犬用」
子犬用と成犬用で一番大きく違うのは、カルシウムだ。犬種にもよるが、犬はだいたい半年で成犬と同じサイズにまで成長する。そこからさらに筋肉がつき骨格がしっかりするのが生後一年ほど。この、生後半年程度までは、カルシウムが足りないと背骨が曲がったりすることがあるのだ。
「そっか。起きたらご飯だね」
「そうだな」
実際には起きたらまずトイレだ。ケージと一緒に出してきたサークル内にはトイレシートが敷き詰められている。鉄子一頭が中に入って多少余裕がある程度の大きさで子犬には充分な広さだ。
「甲斐犬っぽい色合いだよね」
いつの間にかヘソ天になっている子犬を見ながら環が言う。
「うん、でももう少し大きくなりそうな感じもあるんだよな」
「秋田…」
「見えなくはないけどね。長毛タイプはいるし」
熊熊しい状態から推理をする。
耳の状態から考えると、垂れ耳系とはちょっと考えにくい。大型の黒っぽいブリンドルの長毛タイプで環が思い浮かべられるのは秋田犬くらいだ。日本犬の場合は虎毛と呼ばれるが。
「ちなみに悠ちゃんの意見は?」
「雑種一択」
「うぅむ。成長したら絶対に熊だよね」
「どうだろうね」
寝ている子犬を見ているとまったく飽きない。と、鉄子が箱と二人の間に割って入って、じっと悠を見上げた。
「ごはんが欲しいって言ってるね」
環は即座に通訳した。決して嫉妬ではない。おそらく悠的には寂しいだろうが。
「うん、時間だね」
微妙な顔つきで立ち上がると、そっと頭を撫でて食餌の用意に向かった。
環は飽きずに子犬を見ながら、鉄子の背中を撫でる。先程は子犬から飼いたいわけではない、とは答えたが、鉄子の子犬の頃というのはやっぱり興味はあった。トライと呼ばれる、マロ眉持ちの黒と茶と白のシェルティの子犬の写真をネットで見たことがあるが、のたうちまわりたいくらい可愛らしかった。可愛らしい犬が好きだという話ではなく、そんな頃から大切に幸せに育ててやりたかった、と思うのだ。
「ただいまー」
次兄の円が帰ってきた。
「おかえりー」
返事だけをして、鉄子を撫で続ける。と、子犬が目を覚ましたようだった。ワタワタともがくように動いて、なんとか立ち上がり、きょとんと環を見上げた。
「おお、熊がいる」
自分と同じ発想の発言に、環は思わず笑ったのだった。




