日日是練習
「ん? これ」
さっくりした衣のチキンカツを口に入れて、瑠菜は行儀悪くも呟いた。
慌てて口を閉じ、ゆっくり味わって飲みこんてから、不思議そうな顔をしている環を見る。
「この味噌って、梅味噌?」
訊ねると、納得したように頷いた。
「うん、ふろふき大根の時の梅味噌とおんなじ」
「やっぱり! カツにも合うんだね」
「おにぎりにも合うよ。中にちょこっと入れてにぎっちゃうの」
「へえ~」
瑠菜は思わず想像して、ヨダレが出そうになった。梅の酸味がほどよくきいた甘い味噌は、確かにごはんにも合いそうだ。それに。
「これ、鶏の胸肉でしょう? 柔らかいね。ぱさぱさしてなくて」
と、何故か環は眉をしかめた。
「今、悠ちゃんが凝ってるんだよね。円ちゃんのおからブームといい、この凝り性は母譲りなんだと再確認中なんだよ」
「……ええと、鶏胸肉ばかり?」
訊いてみると、環は大きく頷いた。
ちなみに今は、環の家でお昼をごちそうになっているところだ。瑠菜としては、こんないつもいつもお邪魔してごちそうになってて良いのかどうか悩むのだが、円のケーキがあるよと言われるとつい足を向けてしまう。断れない自分の弱さと闘うのであった。
「蒸したり、焼いたり、揚げたり、茹でたり、油で煮たり。今のところのあたしのお気に入りは薄くそぎ切りにしたものを焼いたり上げたりするものかな。塩麹につけてあるとけっこう柔らかいし」
「なるほど」
「なんか、厚さと時間のコツをつかみたいらしいんだよね。判らないでもないけど、そろそろ飽きた…」
田崎家では、食事の用意は当番制だそうだ。だから、毎日悠が作っているわけではないのだろうが、そろそろ別の料理が恋しくなってきた、というところなのだろう。
「ところで…」
瑠菜は極力そちらを見ないように、環に声をかける。
そちら……足元に、黒と白のシェルティがきちんとオスワリしてキラキラの眼差しで瑠菜を見上げているのだ。
「この子、いつまで無視したらいいの…」
名を黒子と言う、田崎家の新入りさんだ。鉄子は窓際の指定席で静かに寝ているのに、そばでじっと座っているだけのこの存在は、激しくうっとうしい。
「食べ終わるまで。もちろん、円ちゃんのケーキを、だよ」
黒子は、鉄子と違って、目の上のマロ眉もない、口のまわりや足先の白い部分と黒い部分の間にも茶色がない、本当に黒と白だけの犬だ。とはいっても、白いのは鼻筋と胸、四肢の先くらいだが。形は鉄子と似ているが、言われなかったら瑠菜はシェルティだと気づかなかったかもしれない。
「ううう、ガンバリマス…」
正直、犬の無言の圧力がこんなにスゴイものだとは思いもしなかった。
黒子はほんの一か月ほど前に田崎家の一員になったそうだが、現在五歳くらいだと言う。
瑠菜が引き合わされたのは一週間ほど前だが、犬扱いの上手い環と、躾のメインを担っている悠には慣れているが、円にはまだ慣れていないような様子だった。環は、環境が変わって戸惑ってるだけだから、と言うが、どう接するのが良いのかが判らない。なにしろ鉄子は自分から距離を空け、瑠菜が何かをしでかす隙すら与えてくれなかったのだから、やることなすこと確認をしないとなにもできやしない。
環が言うには、黒子は、経験値がとても低いのだと言う。おそらく、一般家庭で飼われたのはいいが、室内でのトイレの躾ができず、結局、ケージ飼いで、散歩は、排泄程度。多くのものを恐がりはしないが、コミュニケーション能力の低さや、車や自転車が横を通っただけで驚くことを考えると、ほとんど出会ったことがないように見えるとのこと。
「悠ちゃんがすごく頑張ったから、吠えるのは止んできたの。今はあたしが見張ってるし。最初の頃は五分と我慢できなかったけど、最近はオスワリして待ってたら貰えるって覚えてきたから、次は人間の食後まで待ってると良いことがあることを教えなきゃなの」
などと環は言うが、ごくごく自然に食べている。その状態で一体どうやって押さえているのか瑠菜には不思議だ。
「でもまだ一か月、だよね?」
黒子が田崎家に来るまでに置かれていた状況は、推測でしかない。なぜなら、保健所から引き出された犬だからだ。そんな犬にいきなり難しいことを教えなくても、と瑠菜は思ってしまう。
「生活のルールと、精神のケアは別なんだよね。あと、この子の場合はほとんどネグレクト状態だったけど、子供の頃はむちゃくちゃ可愛がられてたみたいだし、ごはんと、一日に一回の散歩はあった。ごく短い時間だけど。こういう子の場合は、だいたいは大丈夫だと思う。あと、この子限定でも大丈夫。食べ物にタマシイ売ってるし」
つまるところ、瑠菜はお菓子で犬の躾に駆り出されているのだ。家族が食事の間に何もくれないことは理解しつつある黒子に、よその人も同じだと教えているのだと言う。
「もし、恐ろしいほどの虐待をされてたとか、人との接触も限られていて外に出たこともないとか、極度の恐がりだとかだと、もっと対応は変わってくるんだけどね。この子、基本的にまっすぐなんだわ。素直でとても明るい。悠ちゃんとそのへんの意見も合ってるから大丈夫」
とはいえ、足音も聞こえるし(立ち上がっていたら環が即座に座るように言うから座ったままなのは間違いないだろうに、そこのところが不思議でならない)、刺さるような視線が痛い。と思っていたら、
「しーずーかーに」
環の低い声が聞こえた。とたんに足音が止んだ。
「ん、良い子。もう少し待っててね」
今度は普通の声だ。
「犬の躾って、日々の積み重ねなの。まあ、犬に限らないんだけど。ダメなものはダメなの。一回でも例外を作ったら、また例外があるんじゃないか、って犬のほうは思ってしまう。さっきは、吠えようとしたから黙らせたけど、吠えてしまってたら、サークルに入れるのがウチのルールなの。でもって、食後のオヤツのお裾分けもなし」
「き、キビシイ……」
「でも、日々の積み重ねだからね、我慢なの。……んーとね、例えばレストランで食事してて、五歳くらいの子供が走り回ってたら、岬ちゃんは気にならない?」
「まあ、気になるけど」
「ただ走ってるならまだ許せるよね。埃は舞うけど。でも奇声を上げていたら?」
それは我慢できないかもしれない。
「周りでそういうのを叱ったり止めたりする大人がいないと、子供って、そういうのが悪いことなんだって覚えないでしょ? そこは犬もおんなじなんだよ。それに、この子は、今までちゃんと段階を踏んで、今、ここで待つまでできるようになったの。一足飛びに難しいことを教えてるんじゃないんだよ。だから大丈夫。岬ちゃんは頑張って居ないようにふるまってね」
「……ううう。……はい」
ようやく食事を終え、円のホワイトチョコのブラウニーにありつけてお茶を飲んでほっとしていると、環に小さなビスケットを渡された。一センチ角程度のものだ。
「それを、二つに割って、二回に分けて褒めながら食べさせて」
言われた通り半分に割ると、環が手本を見せてくれた。
「黒子、よく待てたね、偉いね」
褒めるというより、どこか励ますような調子の声だ。そして小さくなったビスケットを二回に分けて食べさせる。
「岬ちゃんもくれるって」
「黒子、偉いね」
環と同じような調子になるように気をつけながら言い、同じように二回に分けて食べさせる。
「よかったねえ。じゃあもういいよ、あっちで寝てなさい」
環が窓際を指すと、黒子は立ち上がったが、なかなか動こうとはしない。
「ん? 眠くはない? ならそのへんにいてもいいよ」
そして背を向ける。瑠菜も環の真似をした。
「なんで二回に分けるの?」
「悠ちゃんが言うには、犬は同じ量でも二回に分けて貰うと、貰う度に嬉しいから二回嬉しいって気持ちになって、沢山もらった気になるんだって」
「へえー。じゃあ、大げさに褒めるとかってよく言うじゃない。でも環ちゃんはなんか静かに褒めてたよね?」
「ああそれは、この子の場合、大げさにすると嬉しすぎて走り回っちゃうから。褒め方とか叱り方は、犬の様子を見ながら変えないと、伝わらなかったり、違う問題を起こしたりするの」
「そのへんにいてもいいってのは?」
続けざまに訊くとさすがに環は苦笑した。質問をしている瑠菜に対してというよりは、自分を嗤っているような感じだ。
「自由に過ごしていいってこと。もし絶対にサークルに入って欲しかったら、コマンドで言うんんだけど、そうじゃなくて、好きなところで寝てていいよってこと。オスワリして待ってても今度は何ももらえないよってことを伝えるのもアリだから、傍にいてもかまわないよってこと。……ごめんね?」
「ううん。面白いな、って思って。……ねえ、今みたいなことは、来た当初にはしなかったんでしょ? どうしてたの?」
「基本的に目が届かない時とか、犬に無理をさせそうなときは、サークルとかクレートへ。別室に移動させたほうがいいこともあるけど、黒子の場合は、同じ部屋でも充分それで落ち着いてたから、そのままだったかな。室内でのトイレを覚えてから、室内をある程度自由に動けるようにしたの。それでも夜とか、犬たちだけでお留守番をしなきゃいけないときはクレートに入れるようにして。オスワリとかフセとかを教えながら人間とコミュニケーションをとる方法をいろいろ教えていったら、今度はキッチン周りから食べ物が出てくるのを覚えて、バタバタを始めたのね。人が食べている間じゅう。だから、オスワリで待たせることにしたの」
「ちゃんと、順番に、なんだね」
「そりゃそうだよ。小学校入ったばっかりの子供にいきなり因数分解しろなんて言えないでしょ?」
「まあ、そうだよね」
「人間の赤ちゃんと一緒だよ。教えてもダメな時期は危険な物を手の届かない位置に移動させるでしょ? 覚えられるようになってきても、根気強く何度も教えるでしょ? おんなじだよ。トイレだって、いきなりここで、って言われたってできなくて当たり前。特に人間のルールに合わせて貰うわけだし。根気強く一つ一つ教えるの。出来たら褒めて、出来なかったら工夫して。やってはいけないことも教えて。でも、生活っていうのは毎日一つずつってわけにはいかないから、同時進行で、ここではこういうふうにふるまいなさい、ここではこういうふうにって、毎日毎日伝え続けるの。で、そこを楽しまないと、犬を飼うのってとたんに辛くなっちゃうんだよね。もうオムツでいいやって思ったり」
「……楽しむ…?」
環の言い方だと、躾を楽しむ、ということになる。瑠菜にはそれがなんだか不思議に感じられた。
「うん、大きく言えば、犬との生活を楽しむの。人によっては、そこに犬がいて、気が向いた時に呼んで撫ぜたり抱っこしたりオヤツをあげたりっていうのが楽しむことなのかもしれないけど、もっと全体的にいろんなことを楽しむの。……うーん、ちょっとサドっぽい?」
「……そうかも…」
瑠菜の返答に環は腕組みをして唸った。そういうことなのか、と呟いてため息までつく。
「あのね、今まで言ったことはほとんど悠ちゃんの受け売りなの」
「……?」
「あたしは、犬と暮らすのにあんまり苦労しないんだよね、悠ちゃんに言わせると」
「……?」
「犬と暮らしてて、特に何も意識しなくても良い子に育てちゃう人と、すんごく苦労して意識して知識を溜めこまないと良い子に育てられない人がいるらしいのね。で、あたしは、特に意識しないでできちゃうタイプで、悠ちゃんは苦労してるタイプなんだって」
似たようなことを以前聞いたことがある、と瑠菜は思う。
「まあ、犬の性格でも変わるらしいんだけど。たとえば、さっき話した中で言えば、オスワリとかフセとか、別に教えなくてもいいじゃんってあたしは思うのね。でも、苦労するタイプの人は、まず、犬の褒め方から勉強しないとダメなんだって」
「……上手に褒められないってこと?」
「うん。犬が褒められたって思えるような褒め方ができないんだって」
環は何やら小難しい顔をして言う。
が、瑠菜にはちょっと衝撃的な発言だった。
「……そりゃそうだよね、犬語と人間語は違うもんね。そりゃ、判らないよね…」
呆然と呟くように言葉にすると、環がちょっと驚いたような顔をした。
「岬ちゃんは、ソコが判るんだ」
「ってか、今判った」
「あたしは、ソコが判らないんだ。だって、人間の赤ちゃんだって、最初っから人間の言葉が判ってるわけじゃないでしょ? 一緒に生活して、笑顔になったら周りの大人たちが『笑った』とか『可愛いね!』とか言って一緒に笑ったり喜んだりして、そういうのを積み重ねて、喜怒哀楽を表現することを覚えるわけじゃない。犬だって同じなんだから、ちょっとずつ伝えていけばいいんだし、まあそれ以前に、犬の考えてることはだいたいあたしには判るんだけど」
「むしろそっちだよね。環ちゃんは特に苦労しなくても犬と意思の疎通ができるってことだよね。そりゃ、判らないよ」
「うん、そうらしい。でも、大抵の犬は、人間の表情を読んだり、声の調子で感情を読み取ることに長けてるから、人間よりも早く、どう接したらいいのか学習するの。ああ、褒められてるんだなとか、怒られてるんだなとか、ね。でも、褒めるのも怒るのもポイントがずれてたら、犬は何を褒められたのか怒られたのかが判らないの。で、見当違いのところを褒めて、問題行動を起こしたり、逆に見当違いのときに怒って問題行動を止められなかったりするんだって」
「なるほどなー」
「で、あたしにとっては、ここがトイレでここでするんだよとか、たくさん吠えないこととか、わりと簡単に伝えられることなの。だから、……ん?」
きょとんと目を丸くする瑠菜に環は首を傾げた。
「何か変なこと言った?」
「簡単に伝えられること…?」
「うん。排泄したそうだなーとか、吠えそうだなーとか見てれば判るもん」
いとも簡単に環は言う。
「排泄のタイミングが判れば誘導すればいいだけだし、吠えそうだなと思ったら気をそらせばいいでしょ?」
「……ああ、そうか。そういうことなのか…」
瑠菜にもようやく環の言っていることが理解できた。なんとなく判っているつもりで話を聞いてはいたが、根本が違うのだ。
「つまり、悠さんとか普通の人は、犬をよく見て……観察して、何をどうしたいか知る努力をして、それに応じた対応をしてるんだ」
「うん、そう。逆も言えて、あたしが褒めていることとか叱っていることとか、犬には伝わってるんだけど、悠ちゃんが真似しようとしても出来ないんだって」
まあそれで、と環は言葉を継ぐ。
「あたしみたいになんの苦労もなく犬を躾けられる人にとっては、犬との生活って、ホントに散歩に行って、撫でて、ごはんをあげて、たまに遊んで…っていうそれだけなのね。……って悠ちゃんは言うのね。で悠ちゃんみたいな人たちは、トイレの躾も生活のルールを教えることも、みんな楽しいんだって。一つ一つ教えていくことも、それを覚えていくことも楽しいんだって。で覚えたらその先に散歩に行くとか撫でるとか遊ぶっていう楽しみがあるんだって」
「あ、それで、楽しめないと辛いって話に繋がるんだ」
「うん」
環は頷く。
「例えば犬の訓練士って職業があるじゃない。そういう人たちって、どんな犬にもトイレを教えられるし、無駄吠えなんかも止めさせられるのね。それってつまりね、どんな犬も教えればトイレを覚えるし、無駄に吠えることなんかしないってことなのね。……ならね、教えられないなら、プロの手を頼るのも方法だと思うんだよね」
ふう、と息をつく。
「犬に生活を教えるのって一年かからないんだよね。子犬から飼ったとして長くて二十年。短くても十年。そのうちのたった一年を人によっては苦労するだけで、その後の生活はずいぶん楽になるのにね」
環は振り返る。つられて瑠菜も振り返ると黒子は床に伸びて寝ていた。
「今日はありがとね」
玄関先で小さなケーキの箱を渡される。
「え? いいのに。お昼ごちそうになったし、ブラウニーも美味しかったし」
ホワイトチョコにナッツ類とドライいちごとベリー系のジャムの混ざったものだ。まだ試作品段階らしいが、ちょっと甘いことを除けば充分美味しいものだった。
「レモンパイのお裾分け。また今度よろしく、ってことで」
中身を聞いたら断れない。また今度と言われてしまったらなおさらだ。
「円ちゃんも、試作品だけを食べさせるわけにはいかないって」
変なプライドだよねえ、と環は笑う。
瑠菜も思わず笑いながら受けとった。
「でも、あんなので本当に役に立ったの?」
正直なところ瑠菜には半信半疑だ。
「黒子のこと? すっごい役に立ってるよ! 犬は基本的に飼われた家族としか接しないからね、意図的によその人と触れ合わせないと、どう行動していいかが判らないんだ。でも、いきなり知らない人だと刺激が強いでしょ? ちょっとずついろんな世界に慣れていけたらって思うんだ」
日々が勉強なんだよ、と環は笑った。




