ふろふき大根
「岬ちゃん、こういう日は、ふろふき大根だよ!」
瑠菜はいきなり言いだした環をぽかんと見つめた。
雪が降っていて……というか、積もっていて、かなり寒い。確かに熱いふろふき大根を食べるのは、暖かいかもしれない。だが。
「環ちゃん、こうい日だからこそ、すぐに温かいものを食べたいです」
要するに、コトコトと長時間煮ないと食べられないようなものは作りたくない、という意思表示だが、環はにっこりと笑ってみせた。
「うん、わたしも! ということで、我が家へレッツゴー!」
がしっと手首を掴まれた瑠菜は、引きずられるように田崎家に連れて行かれたのだった。
わざわざひきずって行くということは、すでに夕飯の用意が済んでいて、食べるだけ、ということだろうかという推理は外れていた。
「ただいま」と声をかけながら、開錠したばかりのドアを開けて入って行く環の後ろについて行きながら、イヤな予感はしたのだ。人の気配を感じられない。…そう思いながら、まっすぐに台所に入って行く友人に続いて中に入ると、果たして誰もいなかった。
「環ちゃん、もしかして、これから作るの?」
「うん、そうだよー」
環は軽く答えると、カバンを椅子の上に置き、また台所を出て行った。入口のところで振り返り、瑠菜を呼ぶのも忘れない。田崎家に来たときには必ずすることになっている、うがいと手洗いだ。それが済むと、エプロンを渡された。
「まず最初に大根を煮ます」
じゃーん、と食糧庫から大根を一本取り出した彼女は、流しに置いた。立派な葉っぱがしっかりとついているのを見て、瑠菜は珍しいと思う。スーパーマーケットなどで買うものは、短く切ってあるからだ。
「今日は、ふろふき大根と、菜飯、白菜と油あげのお味噌汁、鶏もも肉の焼いたのを作ります。で、一番時間が掛かりそうなのがふろふき大根なので、そこからかかりますよー」
田崎家でご馳走になるときは、瑠菜も大抵手伝う。手伝う際には、環がメニューをしっかり発表し、手順を伝えてくれるのだ。
「まずは、大根をさっと洗って、葉っぱをつけて上のところを切り落とします」
言いながら水道の水を出しながらタワシで白い部分だけを洗って、まな板の上に載せると、葉っぱの付け根から一センチくらい下で切り落とす。葉っぱ部分は、流しに落とし、大根とまな板はそこで再び軽く洗う。
「葉っぱに土がついてるかもしれないから、ここはちゃんと洗い直しておいたほうがいいの。なんたら菌だかが着いてるんだって」
というおおざっぱな説明付きだ。
「で、岬ちゃんは、これを三センチくらいにザクザクと切る!」
まな板、包丁、大根を置いて、環は場所を移動する。手にはいつの間にかボウルを一つ持っていた。
「わたしはご飯を炊く準備!」
米は、大きな袋に入った状態で、台所の隅に置いてある。計量カップもそちらに入っている。
瑠菜は大根が転がらないようにしっかり左手で押さえて、言われたように三センチ幅に切っていく。
「切り終えたら、皮だけ剥いてね。面取りはしなくていいから!」
「はーい」
言われたように、大根の皮をかつら剥きをするようにするすると剥いていく。
「皮はきんぴらにするから残しておいてねー」
指示しながら、計量した米の入ったボウルをカウンターの上に置いて、環は冷蔵庫へと向かう。取り出したのは、鶏もも肉。別のボウルに三枚ほどのもも肉を入れると、塩、胡椒をふりかけ、ニンニクを摩り下ろして揉みこんだ。
「ちょっと手を洗わせてね」
瑠菜が大根の皮剥きを終えたのを確認しながら手を洗い、流しの下から鍋を取り出す。
「ちょっとここにそれを入れて、かぶさるぐらいに水を入れて、塩を小さじ二分の一くらい入れて、火にかける。あ、蓋してね」
「はいはい」
言われたことをしているうちに、米の入ったボウルを持って帰ってきた環は研ぎはじめる。最初は急いで水を入れてざっとかき回してすぐに捨て、次からはひたひたくらいに入れて軽く押すようにしていく。それを水ですすいで白い色が出なくなったら、ザルに揚げ、水がこぼれないようにボウルに重ねてまたカウンターの上へ。
「じゃあ次は、お味噌汁。お出汁と油揚げは今出すからちょっと待ってね。岬ちゃんはいつもの鍋を出しておいて、食糧庫から白菜を出してきて、ええと、たしか大きかったから三枚くらい葉っぱを取ろうか」
「はーい」
言われたように、鍋を出し、食糧庫を覗くと、本当に巨大な白菜があった。
「大きい…」
「もらい物なんだけどねー。食べごたえがあるんだよ。あと、何も考えずに葉っぱを取ると、やたら多かったりするから気をつけなきゃなんだよね」
たしかに、と思いながら、三枚ほどちぎって、流しに置くと、戻す。白菜の葉っぱは自分の手を洗ってから確認しながら水で洗う。気を付けないと虫がいたり虫の糞があったりする。それにも随分慣れた。軽く水気を切って、まな板の上に載せると、まず縦に半分に切ってから、五ミリくらいの幅に切って鍋に入れていく。
「はい、油揚げ」
切り終わったところで、小さな真四角の油揚げをまな板の上に置かれる。
「適当に細くね」
三等分に切ったあと、二ミリくらいの幅に切っていく。環は作り置きしてある出汁を鍋に注いでいた。
「そしたら、油揚げも入れて、これも火にかける。蓋は必要!」
出汁の入った容器を冷蔵庫に戻した環は大根の鍋の方へといく。そろそろぐつぐつ言い出した頃で、様子を見た彼女は中火にした。そこでキッチンタイマーを十分間にセットする。と、今度は、ガスコンロ用の炊飯器を取り出して、水気の切れた米を移す。そしてそれを持って、流しの方に移動すると、そばに置いてあった計量カップで水を計って入れ、蓋をした。時計を確認するとカウンターの上へ戻す。
「よし、菜飯の用意だ」
環は、水を強めに出して、大根の葉っぱをぶちぶち千切って洗いながら、ザルに入れていく。どうしても砂が残るので、最初だけは丁寧に洗う。すべて千切り終えると、もう一度、今度はボウルに水を張ってその中で洗っていく。洗い終えたボウルの中には少し砂が残っていたが、あとは茹でるので問題ないとのことだ。こちらもザルにボウルを重ねて、入れておき、環はまたもや冷蔵庫へと向かった。
持ってきたのは、オレンジの物体の入った瓶とお味噌だ。
「梅ジャムとお味噌ね。今日のふろふき大根は梅味噌で行きます」
「おお…」
以前見せてもらった梅ジャムの写真を瑠菜は思い出す。そして、カウンターの上の瓶を見て首を傾げた。
「色、違ってる、よね?」
「うん。時間が経つと赤い色が濃くなってくみたい」
「へえ」
と、キッチンタイマーが十分経ったことを知らせた。
「あ、大根大根」
とか言いながらも、環は大鍋に水を入れる。
鍋つかみを両手に嵌めて鍋敷きをとってカウンターに置いて、大根の鍋を一旦鍋敷きの上へ。大鍋に蓋をしてコンロにかけて強火にし、ちらっと味噌汁の鍋をみて中火に替える。
「岬ちゃん、手伝って。こっちこっち」
環は大根の鍋を両手で持って、玄関の方へ行く。
「ドアを開けてー」
「はいはい」
どうやら外に向かっているらしいと気づいてくっついて歩く。と、環は、玄関脇の雪かきで積み上げられた雪山に鍋を置いた。
「………何してるの?」
位置が安定するように鍋を雪に押し付けている環に訊いてみると、彼女はふふふ、と笑った。
「急激に冷やしてるの」
「なんのために?」
「……細胞を壊すため、だったかな?」
答えたあと、あれ?なんて首を傾げている。
「ええと、……あ、戻ろう。これは放置してても大丈夫だから」
「あ、うん」
そんな庭先に置きっぱなしで大丈夫なんだろうか、と思いつつ、瑠菜はついて入る。
「大根に味をしみこませるためには、細胞を壊してやらないとダメなんだって。でも普通に煮てても細胞壁はなかなか壊れなくて?時間がかかってしまうから、お塩を入れて浸透圧の関係で?ちょっと煮てから急激に冷やすと、細胞壁が壊れる?とか?」
環は歩きながら説明するが、なんともアヤフヤな答えだ。
「うー、ちゃんと覚えてないから、イメージで! とにかくこれで柔らかくなるから!」
台所に戻る前に洗面所で手洗いだけを済ませる。
「お味噌汁はもうちょっとかな。あ、カットわかめも入れようっと」
言いながら戸棚から取り出したカットわかめをパラりと入れて、蓋を閉め、火からおろす。
「じゃあ、ご飯を炊こう!」
炊飯器をガスコンロにセットして、炊飯スイッチを押す。あとはこれは放置で良い。
「魚焼きグリルの余熱をして…」
「鶏もも肉?」
「うん。網を熱しておかないとくっつくから」
魚焼きグリルは魚を焼くためだけに使うのはもったいない、というのは瑠菜が環から教えてもらったことだ。パンをトーストするのにもよいし、こうやって鶏肉を焼くのもいい。一度ピザをごちそうになった時にはとても驚いたものだ。
「あ、大根大根。岬ちゃん、行こう!」
きっと一人でも大丈夫なのだろうが、ドア開け係として連れて行かれる。
鍋は素手で触れるくらいに温度が下がっていた。ちなみに、氷水で良いらしい。またもや台所に戻ってくると、大根は網杓子で丁寧に掬われて皿に移され、鍋の塩水を捨てると軽く濯いで、大根を戻す。そこに冷蔵庫からまた出汁をとってきて、そっと注ぐ。すぐにでも火にかけたいところだったが、丁度大鍋の湯が沸いたところだったので、大根の葉を先に茹でてしまう。茹で過ぎてぐにゃぐにゃになる前に火を止め、ザルに移す。空いたコンロに大根の鍋をかけ、まずは強火にする。ザルに移した大根菜は大きめのボウルに水を張りチャポンとつける。アクがそれほど強いわけではないので、これ以上火が通らないように冷ますためだ。箸で広げるようにして水の中を泳がせ、ザルを上げる。
それらの一連の作業を、瑠菜はただ見ていた。
環はザルの水を軽く切ると、ボウルの水を捨て、その上に重ね、茹であがった大根菜を手で揃えてぎゅっと絞る。何回かに分けて搾りおえると、まな板の上に置いて、小さく切り、ザルに重ねてあったボウルのみを取って不要な水を捨て、その中に入れた。
大根の様子を見て弱火にし、鶏肉を魚焼きグリルに二枚並べ、皿に水を足して中に入れる。
その様子を見て、瑠菜は洗い物を開始する。
「あとは待つだけー。あ、岬ちゃんありがとう」
「うん」
「じゃあ、わたしは食器の用意と……あ、梅味噌!」
梅ジャムを大さじ二杯くらい、味噌を大さじ四杯くらい、日本酒をどぼどぼーと大さじ二杯くらいを、小さな鍋に入れて混ぜる。
「大根どうかな?」
竹串を取り出すと大根に刺す。それはすーっと通っていく。
「よし、このままちょっと冷ます」
梅味噌の準備された小鍋を火にかけて木杓子でかきまぜる。全体が混ざって艶が出てきたところで火から下し、小さな器に入れて小さじを添えた。丁度その時、ピーと音がしてご飯が炊きあがったことを知らせた。十分ほど蒸らせば出来上がりだ。空いたコンロに味噌汁の鍋を置き、火にかける。温めて味噌を入れたら味噌汁は出来上がり。
と、今度は魚焼きグリルがピーと鳴って焼きあがったことを知らせた。
「ん? 出さないの?」
「うん、これはちょっと余熱で放置。このまま出しちゃうと、中まで火が通ってないことがあるんだ」
言って、味噌汁の鍋を火にかける。出しっぱなしだった味噌をお玉に掬って鍋に入れ、菜箸で溶く。味噌漉しを使うのが本当だけどねーと、環が言っていたことを瑠菜は思い出す。洗い物が増えるのがイヤなので使わないのだそうだ。
味噌汁は沸騰直前で火を止めて、大根の鍋と入れ替える。次に炊飯器の蓋を開けて大根菜を入れると、塩を振りかけて全体をふわっと混ぜる。
「よしっ、いいタイミング!」
どうも環にはこのご飯を混ぜるタイミングにこだわりがあるらしい。早すぎると米粒が潰れるし、遅すぎると米粒同士がくっついて、ほろっと崩れない。丁度水分を吸い、米同士がくっつかないタイミングで混ぜなければならないのだそうだ。
「岬ちゃん、座って座って。今日は悠ちゃんも円ちゃんもお父さんも遅いから、先に食べよう!」
言いながら環はお茶碗にご飯をよそい、あ、と小さく叫んだ。
「忘れてた、大根の皮のきんぴら!」
ちょっと待っててね、と言うと、まな板の上によけてあった皮をさっと洗って重ねて載せ、刻んでいく。全部切ったところで、フライパンを出して火にかける。温まったところでサラダ油を少し敷いて、まな板から細く刻んだ大根の皮を入れ、すばやくまな板を置くと、菜箸で炒めていく。少しの砂糖とみりんと醤油で味付けをし、白ゴマをふると、器に盛ったて瑠菜の前に置いた。それから味噌汁も汁椀によそい、大根を一切れ小さな器に入れ、梅味噌を載せる。魚焼きグリルから鶏肉を取り出すと、残った一枚を載せて火をつけた。取り出したのは、まな板の上に載せ、一枚を六等分くらいにする。平皿にそれを載せてから、小さ目の皿に二切れほどうつす。
「ちょっと寂しい…」
呟くと冷蔵庫へ向かい、保存容器を持ってきた。半透明の容器にはなにやら緑のものが入っている。
「ブロッコリーを足す!」
茹でたブロッコリーを冷蔵庫に保存してあるのだ。それをまた二切れほど鶏肉の皿に載せる。
満足げに頷いた環はブロッコリーを冷蔵庫に戻し、エプロンを外しながら自分も席についた。
と、窓の近くで寝ていた鉄子が爪の音を立てながら近寄ってきた。
「鉄子、おはよー」
まずは、環の元に。次に瑠菜の元にやってきて、くんくんニオイを嗅ぐ。
「こんにちは」
ニオイ終わったところで、そっと首すじを撫でてやる。と、満足したようにまた窓際に戻っていき、フセの姿勢になって顎を前足に載せて目を伏せた。
「あれでいいの?」
「うん、あれでいいみたい。ごはん欲しがったら食べさせようと思ってたんだけど、まだいいみたい」
十六歳だか十八歳だかの老犬は、ほとんど一日じゅう寝ているらしい。見た目もよぼよぼして年寄りだなあと瑠菜にも判るような姿になってきている。それを見て少し前に可愛いなと思った自分に驚いたのを覚えている。鉄子は、よぼよぼだけど、若い犬に比べたら毛艶も悪いけど、腰も曲がっているけど、とても愛されているのが判るのだ。そして、とても穏やかな顔をしている。それがいいな、と思うのだ。
「さて、じゃあ、いただきます」
「いただきます」
所要時間は一時間弱。米に給水させる時間がなければもっと早くできるけどね、と環は笑うが、充分だと思う。
まずは味噌汁を少し口にして、それからふろふき大根に向かう。箸先で少し切り取ると、上に載せてあった梅味噌をつけ口に運ぶ。
「はふ」
しっかりと出汁がしみこんで、そして柔らかい。そしてほのかに梅の酸味のある味噌が口の中にひろがる。
「……美味しいし、柔らかい…」
驚いて、飲みこんでから皿の上に残った大根を凝視してしまう。
「塩水と急速冷却がポイントなんだよ」
キリっと真面目な表情を作って環が言う。
「梅味噌も美味しいね」
「うん、これは悠ちゃんの趣味で作ってる梅ジャムだけど、一番おいしい使い方だと思う」
環はそう言ったが、スコーンにつけて食べても美味しかったのを瑠菜は覚えている。
鶏もも肉も、皮がパリっとして中はやわらかくておいしかったし、大根の皮のきんぴらも美味しい。すっかり満足した頃には陽が落ちて暗くなっていた。
「あ、そろそろ帰らないと」
「うん、もうちょっと待ってて? 円ちゃんが帰ってくるから、車で送ってもらおう」
「え、いいよ」
「よくないよくない。こんな暗い中、女の子を一人だけ帰せません」
気持ちは判るし、同じ立場なら自分も環に同じことを言うかもしれないが、実際問題として、これくらいの時間なら、ちょっと寄り道して帰ったら、普通に一人で外を歩くような時間だ。
「大丈夫だよ」
「ただいまー」
運悪く(運良く?)、円が帰ってきた。
「もう終わった? ケーキ持って帰ったから、食べたら送ってくよ」
白い紙の箱を渡される。
瑠菜は思わず、円さんのケーキ、と心の中で呟いて唾を飲みこんだ。
「おすすめは?」
「紅茶かな? 入れるから、環は後片付けをして」
「りょーかいですっ」
びしっと敬礼した、環は手早く汚れた食器を集めて流しに置くと、カウンターテーブルの上を台拭きでふく。そこにケーキ用の皿と、紅茶用のカップやポットを置くき、ヤカンを火にかけた。
「では、ご存分に」
芝居がかった仕草で言うと、さっさと片付けにかかった。ごはん茶碗などは少し水を溜めて横に置いて、それ以外のものから、洗剤をつけたスポンジで洗いはじめた。
円が持って帰ってきたのは、バターのたくさん使われたリンゴのケーキだった。
「おおぅ!」
皿を洗い終わった環が蓋を開けて叫んだ。
「今年はもう最後だな」
年を越えてしばらくすると、まだスーパーマーケットなどでリンゴが売られていても、円は使わなくなる。二月になるとチョコをメインに、三月になるとホワイトチョコや、生クリームを使ったり、四月になるとイチゴを使ったり。そういった季節感には妙にこだわるらしい。
「お店で残ったの?」
円はアルバイトしているカフェで、自作のケーキを作っている。製菓学校などには行っていないが、店長が円のケーキを気に入ってくれて、日々数種類作っているのだ。
「急に寒くなったせいか、お客が少なくてね。店長もほくほくしながらレモンパイを持って帰った」
「レモンパイ!」
「うん、それは店長が全部持って帰ったからな」
叫ぶ環に苦笑しながら答えて、皿に載せるように言う。そして紅茶を入れるために移動する。
「店長の奥さんが好きなんだって。円ちゃんのレモンパイ」
「俺のっていうより、母さんの、だけどなー」
レシピいじってないし、と小声で続ける。
「でも、円ちゃんのほうが、ちょっとホンカクテキだよ。母さんのは、家庭料理的だった」
環は皿に、正方形に近い形のリンゴのケーキを載せていく。断面にイチョウ型に切ったリンゴが見えている。薄い紅色と生地の黄色のコントラストが可愛らしい。そして、リンゴとラム酒の良い香りがする。
「うーん、俺としては、あの家庭的なほうが好きなんだけどね」
「技術が母さんより上だから仕方ないよ。それに、円ちゃんのほうが味が安定してる」
環が言うと、円は苦笑して、紅茶を入れる作業に集中した。おそらくそこには素直に頷けないものがあるのだろうと、瑠菜は思う。しばらくして、紅茶の香りがただよってきた。
「ほい、入ったよ。紅茶は悠ちゃんのが上手いけどね」
「でも、リンゴのケーキには、紅茶だもんね!」
ポットに移した紅茶をカップに入れていく。目の前にケーキの皿と共に置かれた紅茶のカップの中の濃い色を瑠菜は覗き込んだ。
「濃く見えるけど、渋くはないよ。でも、先にリンゴのケーキがおすすめ」
瑠菜が濃さを心配していたように見えたのだろう、環が一声かけてくる。
実は瑠菜はまったくそんなことは考えてなかったのだが、うなずいて、添えられた小さなフォークを手に取った。
四センチ四方くらいの小さなケーキの角にフォークを当てて小さくカットする。それをフォークで刺して、口に運ぶと、バターとリンゴの香りが口の中に広がり、遅れてシナモンを感じた。そして甘さと酸味。口の中のものが無くなってから、そっとカップに口をつけ、一口だけ紅茶を流し込む。
(ああ……)
紅茶の香りが、口の中のバターの味を洗い流しながら風味と混ざると、溜息しか出なかった。
「……すごく、美味しいです」
瑠菜は、ゆっくりと飲みこんでからうっとりとため息をついて、それから円を見て言った。
「ありがとう」
円は嬉しそうに微笑んで、自分もケーキに手を伸ばした。環はといえば、ぱくぱく食べて、ぐいぐい飲んでいる。なんとも残念な感じだが、これがきっといつものことなんだろうと思うと、瑠菜には微笑ましく感じられた。
「シナモン、少な目なんだね」
環がケーキと紅茶を平らげたあとそんなことを言った。
「うん、これは隠し味的に。効いてても美味しいんだけどね、好みもあるかもしれないからって、店長と相談して。ちなみに奥さんは効いているほうが好きらしい」
「確かになー。母さんはなんでも入れ過ぎな部分があったからなあ…」
「美味いって線は譲らなかったけど、好みは分かれるよな」
「これも、お母さんのレシピ?」
二人の会話から推測して聞いてみると、微妙な顔をされる。
「聞いたところによると、元レシピが本にあって、作ってみたら美味しくって、でも次作ろうと思ったらどれを作ったか判らなくなって――なんか、ぶ厚い本に載ってたレシピらしいんだけど、リンゴのケーキが二種類くらいあったらしくてね――記憶だけをたよりに紙に書きだして作ったら美味しくて、以後そのままっていう、謎のケーキ。ちなみに、そのレシピ本を見たけど、どちらも分量が違うんだよね」
「うん、あれは謎だった。だから母さんのレシピって言ってもいいと思うんだけど、違うって譲らないんだよね」
円と環が説明してくれる。確かに謎だ。
「さ、体も温まったし、そろそろ送ってくよ」
言われて瑠菜は、しっかり残ってしまったことに気付いた。なんだか今さら断ることもできずに、頭を下げる。
「すみません、ありがとうございます」
「どういたしまして」
(みんな、ふろふき大根とケーキが悪いんだ…)
何故か責任転嫁をしたくなった瑠菜だった。




