ある日のひとコマ
とある昆虫Gほどではないですが、わりと嫌われ要素のある陸生貝類Nがちょっと可哀相な状態になる話です。というかそんなエピソードがあります。
そんなの嫌だ!って人は、回れ右してください。
環
出刃包丁を握りしめ、目の前の大きな魚に向かった。近所の人が釣ってきたというスズキの子のセイゴだ。子と言っても、五十センチほどもあるなかなかに大きな魚だ。
魚料理と言っても、ウロコをうって、内臓を出して、飾り切りを入れる程度だ。あとは、塩胡椒をしてホットプレートで焼く。一緒にジャガイモやタマネギも焼けば、立派なおかずが完成だ。
スズキの刺身も捨てがたいが、刺身の一品では腹は膨れないし、今の環ではまだ時間がかかる。時間をかけない方が良いものだし、今日は夕飯の時間まではそれほど時間がない。総合的に考えて本日は刺身でないほうが良いと判断した。
まな板の上に魚を置くと、しっかりと左手で抑えて尾びれのほうに包丁を当てた。
悠
「ほい、そこ気をつけて」
悠は傍らを歩く鉄子に声をかける。おそらくほとんど聞こえていない耳には届いてないが、それでもちゃんと声に出すことにしているのだ。鉄子はチラリと視線を向けて、側溝の蓋の上をとことこと歩いた。ところどころにある穴に足を落とすのではと少々怖いが、車道側を歩かせるのと比べればまだこちらのほうが安全だ。
車通りの少ない道ならば車道側を歩かせるのだが、そうもいかない道もある。とにかくフォローして、過保護になりすぎないことを心がけてはいるが、その加減が難しい。
悠も、そしてもちろん環も円も、犬といるときは、他に意識を向けることは少ない。常に、視界のどこかに鉄子を置くように心がけている。そうでないといざという時に対処できないからだ。
鉄子のほとんどの行動は信頼できる。多少目を離しても大きな問題にはならないと、言い切れると言ってもいい。それは、どういった行動が好ましいか、ずっと教えてきて、鉄子自身がシチュエーションに合った行動をとれるようになったからだ。
円
実は円は環とスズキの闘いのことは気付いていなかった。というか、その程度のことは環にとっては別に苦でもないので、知っていても気にしたりはしない。円はひたすら、先日からのサツマイモパウンドのレシピをどうするか、悩んでいたのだ。
チラシの裏に殴り書きしされた分量と手順には、何度か訂正した跡がある。オイルの量、おからに混ぜる酒の種類、カラメルを作る際の砂糖と水の割合などなど。少しずつ改良して、分量と味はほぼ決定だ。あとは、出来上がりをどうするかで、それにより、分量の変更はあるかもしれない。
問題は、切った時にどう見えるかで、それにより混ぜ方が変わっていくので悩んでいるのだ。
濃い目のカラメルを混ぜた生地がアクセントになるからこそ、美味しいと感じると円は考えている。つまり、カラメル生地が全体に散ってしまうのは避けたいのだ。そして、賽の目に切ったサツマイモも捨てがたい。
「うーん」
先日からはこの混ぜ方を試行錯誤しているばかりで、前進の兆しが見えないのだ。
あーでもない、こーでもない、とレシピメモを見ながら考える。ふっと思いついたことを書きこもうとして、止める。そんなことを繰り返して数十分、考えていても仕方ないと諦めようとした時、
「なーめーくーじー!」
環の叫び声が聞こえた。
「……はい?」
頭の中は疑問符でいっぱいになった。
環 2
スズキの料理は思いのほか順調に進んだ。飛び散るウロコ、突き刺さるヒレ、ギザギザのエラなど、想定外のことはもちろんあったが、それはそれで楽しい作業だ。
取り出した内臓は新聞紙の上に載せる。スズキは水洗いをして、大きめの平たいザルに載せ、流しもキレイに水で流す。まな板も水で流そうとして、ふと手を止めた。
田崎家では、ぶ厚い重いまな板の上に、薄いペラペラのプラスチックのまな板を載せて作業をしている。野菜などはそのまま鍋に移すのに便利なのだが、今日のような魚料理の場合はあまり利点はない。滅多に魚料理をしない環は深く考えずにいつものようにまな板をセットしたのだった。
そして、その薄いまな板を洗う時、裏側に何やら透明のねばねばした液体がついていることに気が付いた。何せ魚料理に不慣れな環は、そのねばねばがスズキから出てきたなんらかの液体なのかと一瞬思いながら、水で流した。次にぶ厚い重いまな板を洗う時に、何やら潰れた物体を発見した。
なめくじに似ているような、似てるけど何か変だよね、潰れたような、潰れたような……
「!」
次の瞬間、何が起こったのかを悟ったのだった。
悠 2
「じゃ、今度はこっちに来てね」
車通りが少なくなる道になったところで、位置を変える。犬は左側を歩かせるものだ、と言われるが、悠は別にどちらでも良いと思っている。要は、邪魔にならなければ良いのだ。その時々に応じて、臨機応変に位置を変えられるのがベストだ。
そういえば、首を傾げたことがある。
動物病院で一緒になった、小型犬の飼い主だ。足元にはこちらに興味を示しながらも飼い主の足元からは離れたくなさそうな仕草をしている犬がいた。飼い主さんに挨拶をして、待合室の椅子に腰を下しながら鉄子にはフセをさせる。それから、犬の方に向かって挨拶をすると、この子すぐ吠えるんですよ、と飼い主さんは言うのだ。そして、置いてある雑誌を手に取って読み始めた。犬は、こちらを気にしたまま興奮状態にあるのに。
悠も、犬連れてカフェなどに行くことはある。それも犬の社会勉強の一つと思っているし、訓練にもなるからだ。だが、その場合は、足元にフセをさせて落ち着かせてから、ゆっくりとお茶時間を楽しむ。時には本も読む。だが、必ず、意識は鉄子に向けている。
興奮して吠えるのなら、まずはオスワリをさせる練習からすればいいし、目を離したりしないで、動きを観察して何かしようとする前に止めればいいと思う。もう諦めたのか、はなからそんなことに興味はないのか、悠には不思議でならない。自分の犬が他者に向かって吠えることを嫌だと思っていないのか。
思っていないんだろうな、という結論に行きつきつつある今日この頃なのだった。
円 2
謎の叫び声で一瞬固まった円は、すぐには立ち上がらずに自室のドアを凝視してしまった。
何をあの妹は叫んでいるのか。龍はあれのどこがいいのか。黙ってたらなかなかの美少女なのに。
などなど微妙に失礼なことなども頭に浮かび、立ち上がろうかどうしようか判断する前に今度は笑い声が聞こえてきて、更に出遅れる。
でも、行ってみたほうが良さそうだよなあ…
ようやくそこに辿り着き、腰を上げたのだった。
果たして台所に着いてみると、環は笑いながらまな板をごしごし洗っていた。
「どうしたの」
「あ、円ちゃん。今ね、ナメクジがねえ」
「うん、叫んでたね」
「まな板の間に挟まってたんだよ」
言いながら笑う。
それは、笑うべきことなのか? と円は思わず考える。
「もー、びっくりしたびっくりした。でも、可哀相なことしちゃった」
はー、と息を吐く。
「気付かずに、まな板の間に挟んで、魚の料理をしちゃったの。思いっきり魚を押さえつけて。そりゃ、潰れるよねえ…」
「……ああ…」
確かに可哀相かもしれないが、塩をかけるのと大差はなかろう。
「きっと、白菜についてたんだね」
これまたもらい物の白菜が、キッチンカウンターの上に置いてある。よく見ると、ナメクジが通ったような筋がついている。
「ええと、ただいま?」
そこへ悠が帰宅した。
「何笑ってるの?」
「あ、悠ちゃん!」
環は笑いながらことの顛末の説明をした。だが、それほど笑える話ではなく、テンションの高い環とは違い、円も悠も微妙な様子で返事をするしかない。たとえ、結局は同じ道をたどることになるのだとしても、生物の生き死にを笑い話にはちょっとできない、というところだ。
環自身は、話したらそれで満足したようで、微妙な様子の二人のことは無視して料理を再開する。
円は悠と目を合わせ、軽く肩をすくめた。
「ま、お茶にでもする?」
悠もうなずいたのだった。




