愛とお金と
公園のベンチに座って、環は近寄ってきた猫をかまっていた。
白地に茶虎のブチの猫は、環の隣に座り、しっぽの先だけをパタパタと動かして、撫でられるがままになっている。
「おまたせー……あ」
遅れてやってきた瑠菜が、思わず足を止めた。猫が慌てて逃げて行ったからだ。
「ごめん、逃げちゃったね」
「ううん、いいよ」
環はバッグを肩にかけ、立ちあがった。
「行こうか」
「うん」
向かう先は、いつものコーヒーショップだ。今日のオヤツは胡麻クッキーだ。ざくざくと食べやすいのがお気に入りで、最近はこれが多い。
「環ちゃんて、猫も好きだったんだね」
瑠菜が少し驚いたように言う。環は苦笑した。過去の知り合いのすべてがそう言うのだ。よほど犬だけが好きなように見えるらしい。
「うん。動物はみんな好きだよー。猫も好きなんだけど、飼うのは犬ってきめてるから」
「やっぱり、犬と猫って仲が悪いの?」
「そんなことはない、ってうちの母は言ってたな。母は猫と犬と飼ってたらしいから。…私が犬って決めてるのは、犬は絶対に飼いたいことと、余力があったらもう一頭飼いたいから」
瑠菜は首を傾げる。
「単純に、お金の問題。うちは、犬を飼うのにお金をかけてるから」
「……え、そんなに?」
「うん。医療費はほとんどが予防医療に、あとはご飯とかオヤツだけど」
ぱっと聞くだけではそんなに多く使っているようには思えないかもしれない。だが、まず医療費に結構使うのだ。
「医療費は、毎年ワクチンとフィラリアの駆虫薬、それから検診、ノミ・ダニ予防」
ワクチンは、毎年接種しないほうが良いという説もあるが、田崎家では気にしない。…というのはあくまでも今のところは母の説を採用しているだけなのだが。ワクチンを接種すると、犬の体内にその病気に対する抗体ができる。この抗体がしっかり働いていたら、病気に罹っても、軽く済む、というのがその効力だ。接種から約一年で抗体がなくなるので、だいたい年に一回の接種をする。
……が、そのワクチンというのは混合ワクチンと言って、何種類かの病気に対応するようになっていて、その病気によって、抗体の減り方が違うのだ。だから人によっては、抗体価を調べて、足りなくなっている病気のワクチンのみを追加接種する、という選択をしている人もいるらしい。過剰になることによる弊害を避けるためだという。
母がそちらを選択しない理由は、要約すれば、面倒だから、といったものだった。
なんだかんだと言うのだが、どうもハッキリとした理由があるわけではないようで、あとで兄たちとそういう結論に至ったのだった。
面倒と言っても、手間やお金を惜しんでいるわけではない。実際、十歳を超えるあたりからは健診は年に二回にするし、薬を受け取りに行く程度でも、動物病院へ連れていく。だが、まめに血液検査をして、ピンポイントで摂取をするという、そういうことに労力を使いたくない。どうもそんな感じらしい。
「あとは、ペットシーツかな」
これが意外と地味にお金がかかる。洗って何度でも使えるものもあるが、田崎家では使い捨てを選択。これは、いちいち洗う手間をお金で買っているのだ、と母が威張っていた。何かがおかしいとは思ったが、深く追求はしなかった。
「散歩でするんじゃないんだ」
瑠菜は小さく首を傾げる。
そういう飼い主はまだ多いだろうと、環も思っている。もちろん、鉄子もまったく排泄をしないわけではない。
「なるべく、外ではさせないようにしてる。……だってさ、もし自分の家の玄関先でオシッコされたらどう思う?」
「……それは、イヤかも」
「道端だって同じだよね。公園の土手とか、犬がオシッコしたようなところで座りたくはないよね」
ウンチをちゃんと拾ったとしても、だ。そこにあったのを知っていたら、やはり嫌な気持ちになるだろう。
「だから、なるべく、排泄させてから出かけるようにしてます」
「……犬を飼うって大変なんだね…」
瑠菜は嘆息する。
「大変だよ。犬でも、その他の動物でも。……だって、絶対に飼わないといけないようなものじゃないんだから」
犬にしろ猫にしろ、飼うのは個人の自由なのだ。誰かに飼えと強制されているわけではない。要するに、ただの趣味なのだ。趣味である以上、そして人間が他の人間と関わって生きて行く以上、それにより多大な迷惑をかけるようなことはするべきではない、それが、母の教えなのだ。できれば、多くの人に可愛がられるように。それが結局は、彼ら自身の身を守ることになる。
「動物愛護、とか」
瑠菜が呟く。
「ん?」
「生き物の命を大切にしましょうとか」
瑠菜は真剣に何か言葉を探すように視線を彷徨わせている。
「上っ面の言葉だけでは、理解できないんだなって」
ため息を一つこぼして、正面から環をみつめてくる。
「環ちゃんは、愛があればお金がなくても、って思ってないってことだよね」
環は表情を改めて、しっかりとうなずいた。
「愛がなくても、知識と義務感があれば、犬も猫も育てられるもの」
愛があれば、幸せだなんて嘘だと思う。お金がなければ、美味しくて健康に良いものを食べさせてやることもできない。アタリマエの健康を維持することができない。
――何も、過剰にお金をかけて裕福な暮らしをさせるべきだ、という話をしているのではないのだ。
飼育動物が当たり前に健康を維持できるだけのお金と、飼い主が動物を飼い続けるのに必要なだけのお金が最低限必要だと考えているのだ。
「でも、愛って、最低限持ってないとダメなんじゃないの?」
「愛があれば、犬に必要なことを考えて、飼うことができるって、思うよねえ…」
実は環もそんなふうに思っていた。でも、愛があっても知識を必要としていない人は多いのだ。
「あのさ」
目的地であるお店のドアを開ける。
「愛とお金を持っている人が、飼っている犬に毎日松坂牛のステーキを食べさせている、ってどう思う?」
店内を見渡して、奥の二人掛けの席を目指す。
「えっと、松坂牛?」
「うん。A5ランクの霜降り。ちなみに、焼いてあります。あ、さすがに味付けはしてないよ」
自分は奥の席に座って、カバンを床のカゴの中に入れ、持っていた手提げバッグから、プラスチック容器を取り出して蓋をあける。胡麻クッキーは今日も美味しそうだ。
「もしかして、それだけ?」
「うん。肉だけ。犬だから、って」
「もしかして、栄養素が足りないの?」
環は苦笑した。こういう聞き方をすれば、瑠菜がそう思ってしまうのは無理もない。
「うん。足りない。犬は肉食だけど、肉……たんぱく質と脂肪だけを食べてるわけじゃないもの。肉食獣……ライオンとかトラとかもね、一番のごちそうは、内臓なんだ。それから、半消化された植物」
水とともに注文を聞きにきた店主に、環はカプチーノを、瑠菜はブレンドをブラックで頼む。
「肉だけでは、栄養失調になってしまう。せめて生だったらいいんだけど」
「でもそれは、本当の愛じゃないよね、犬のことを大切に考えてたら知識を得るよね?」
「うん、私はそう思う。でも、本人には区別つかないのよ。お金をかけた贅沢こそが、愛情だと思ってる人って多いの。あとは、可愛い可愛いって可愛がっていたら、愛情を注いだことになってるとか。その犬がどんなに吠えて、どんなに家族以外の人を怖がっていても」
考え込むように黙ってしまった瑠菜に、環は追い打ちのように笑いかける。
「犬も、猫も、その他の動物も、まだまだ、個人の所有物でしかないの」
人間の子供の場合も、自分の所有物のように育てる人はいる。が、多くの人は、いずれ社会に出て独り立ちできるように育てる。でも、犬も猫も、自分にとって可愛ければ良いという育てかたをすることが多い。それでも良いのが、犬や猫を飼う理由なのかもしれないと思ったりもする。
「環ちゃんが、飼育環境にうるさい理由が少し判った気がする…」
瑠菜が椅子の背もたれに背中を預けたところで、コーヒーが届いた。
良いタイミングだ、と環は思いながら、テーブルの真ん中に置いた胡麻クッキーを一つつまむ。胡麻が入っているせいかざくざくと歯で崩れていく食感と、口の中に広がる胡麻の香りが楽しい。コーヒーに合うかといえば、必ずしもそうではないが、食べやすいのが気に入っている。
「犬を飼うなら、まず犬のことを勉強しようよ、って思うだけだよ。だって、熱帯魚とか飼う時は、ちゃんとその熱帯魚に合う環境を調べて整えるでしょ? 犬や猫って、身近過ぎて、自分がほとんどなんにも知らないことに気付きにくいんだよね。どっちも順応性高いし」
「順応性、高いの?」
「うん。でなきゃ、こんなにも人間の傍で繁栄してないよ」
「そうか…」
瑠菜の表情を見ながら、今日はこのくらいにしようと環は心に決めた。
何かというと、犬話につきあわされている瑠菜はなかなかの忍耐力を持っているとは思うが、さすがにちょっと可哀相に思ってしまうこともある。環も別に犬を飼ってもいない人に力説したいわけではないのだが、瑠菜は話を聞いてくれるために、つい力説してしまう。
「犬や猫は、人間と出会わなければ、野生だった、ってことなのかな」
瑠菜の質問に、環は腕を組んで唸ってしまう。そのアタリは専門外だ。だが。
「私はよく知らないけど、多分、人間と出会ってなかったら、犬も猫も存在してなかったと思う。多分、家畜化されたオオカミと、家畜化された山猫などの小型猫類が、犬と猫になったんだと思う」
環は正確なところは知らない。多分、兄の悠なら知っているのだろうが、あまり興味がないので、結構適当なことを言っていたりする。環の知る限り、野生の犬というのは存在しない。野生化した犬、というのは存在するが。
「え…」
瑠菜は目を見開いた。
「それって…」
「犬と猫は、人間の傍で繁栄することを選んだ、ということ。……だから、今世界中にこんなにたくさんの犬や猫がいる、ってこと」
でも、と環は続ける。
「だからといって、犬や猫に、その順応性の高さに甘えることが良いとは思えないんだ」
そう、問題はそこだ。
今までそれで良かったから、これからもいい、そういう話ではないのだ。
今までが悪かったなら、悪い部分があったなら、改善していくべきなのだ。問題が起こらなければ変えなくても良いと考えるのではなく、より良い方向へ向かうべきなのだと思う。
「ああ、うん。そうだよね」
瑠菜は安心したように表情を緩めた。
どうやら、瑠菜は思いのほか犬や猫の味方になってしまったようだった。そのことに環は苦笑する。
「そのために」
環はにっこりと笑う。
「悠ちゃんが頑張ってるんだなー」
瑠菜は吹き出した。
「環ちゃんはー?」
「私は、悠ちゃんほどの知識も話術もないもの」
「わー、ずるいー」
「いいのいいの。お母さんの遺志は、悠ちゃんが継いだから。きっと悠ちゃんが、もっと人数を増やすのよ」
知識は武器になる。正確な知識を持つ人間を増やせば、きっとより良い状況になる。そう、悠は言っているが、環はあまり信じていない。時折、古臭い既に誤りだったと言われつつある説が新説としてセンセーショナルに取り上げられ、ブームになることがあるからだ。だからと言って、同じ手法を使う気にはならないのだが。
「だから、私は、犬と楽しく遊ぶんだな」
悠曰く、環の犬扱いはまるで参考にならないらしいのではあるが。環にできることと言えばそれくらいしかない。
――それでいいと思っている。
(困ったら悠ちゃんに相談したらいいんだもんね)
お気楽なことを考えながら、環はカップに手を伸ばした。




