夏の日
コップを手に持ち軽くゆすると、カランと、氷がぶつかる音がする。
環は、中の液体を口に含んだ。
青梅の強い酸味と甘さが口に広がり、蒸し暑さが一瞬遠のく。
「な……つ、だなぁ…」
ずるずると、座椅子に寄り掛かり、滑り、床に寝そべると、そこはひんやりとして気持ちいい。
寝そべったままの視線の先に、鉄子が壁際で腹を上を向けて寝ている。それはそれで気持ちよさそうだ。
田崎家では、クーラーはほとんどつけない。世の中の犬飼いの家では、夏はクーラーが必需品という家が多いが、気温と室温と風通しに気を付けて、なるべく冷房に頼らないようにしている。
もちろん、窓の位置をチェックして、扇風機で空気を流し、熱気がこもらないようにかなり気を付けているし、鉄子ひとりを残して出かける時には、クーラーに任せている。
そんな話を犬飼いの知り合いにすると、驚かれるので、最近はあんまり口にしないようにしている。……クーラーを使わないようにするために、かなりの注意を払っていることは、どんなに言葉を重ねても伝わらないことが多いし、それが伝わらない場合、犬の命に直結するからだ。
(でもさ…)
クーラーを使わないためにそれなりの労力を使っているのはいいと思う。環も素直に思う。実際、クーラーをつけても、鉄子はその部屋よりは、風通しの良い廊下を好んだりするし、田崎家的には結果オーライなのだと思う。
(暑いのは暑いんだよ…)
半袖のシャツから出ている腕が汗でベタついてフローリングにくっつくのが気持ち悪い。
田崎家的にはオーケイかもしれないが、環にはオーケイじゃない。それが田崎家の夏なのだ。
よいしょと、掛け声をかけながら、体を起こし、ミニテーブルの上のコップに手を伸ばす。氷と一緒に入っているのは、青梅の砂糖煮。悠の梅仕事の一つで、一度茹でこぼした梅を同量の砂糖で煮たものだ。梅と煮汁少量に水と氷を入れて、爽やかな梅ドリンクの出来上がりだ。
(これが無ければ、夏は超せないよなあ…)
グラスをテーブルに載せると、少しずれた場所に寝転ぶ。自分の体温で温まった床は正直遠慮したい。
ベタつく太ももが床に貼り付く。
(うー)
唸りはするが、環は別にクーラーをかけたいわけではない。ただ単に、暑い夏が嫌いなだけだ。
額にじんわりと汗が浮かんでくるのが判る。
判るが、もう、それを拭うのも面倒くさい。
環は眠りに落ちた。
ぺた、と頬に貼り付く冷たいものに、環は眠りから覚めた。
「うーん?」
うっすらと目を開けると、円が見下ろしていた。頬に当たっていたのは、水の入ったビニール袋。そして、中を泳ぐ赤いものと黒いもの。
「……金魚?」
「具合は?」
心配そうな顔で見下ろしている。どうやら、熱中症にでもなったと思ったらしい。
「大丈夫。暑くて眠くなっただけ」
気が付けば、ほんの少し空気がひんやりしてきている。
「せめて、扇風機をかけろよ」
呆れ顔でそう言って、金魚の入ったビニール袋を持ち上げる。
「うん。それも面倒だなーと思って。……ね、金魚どうしたの?」
「金魚すくいで」
言って、円はキッチンへと歩いていく。金魚を移すものを探しているのだろう。
「え? 珍しいね」
よいしょと起き上がる。床にヨダレの跡を発見。慌てて床と口元を拭った。
Tシャツが変に貼り付いてきもちわるい。シャワーを浴びようと心に決めて立ち上がり、チラリと鉄子を見ると、少し姿勢を変えてやはり熟睡の様子。
(私より日本の夏に適応している犬ってどーなのよ…)
しかもシェルティは、北国仕様の犬種だ。原産国がとても寒い国で、被毛がとても厚いのだ。日本のような蒸し暑い国は苦手ともいえる犬種だ。ハスキーのような北方犬種と比べれば格段に厚さに強いが、腹側の毛を梳くなどして、できるだけ涼しくなるようにしたほうがいい。背中側の毛は、田崎家では刈らない。散歩も、夕方などではまだアスファルトが焼けるように熱いので、悠が朝早く行っている。
冷静に考えると、田崎家……というか母は、犬にものすごく手間暇をかけている。
(ま、仕方ないか)
飼うということは、その命を預かるということ。
母の口癖で、環もその意見に賛成しているのだ。
「友達がね、すくったんだけど、いきなり実家に帰るから二日ほど預かってくれって」
環がキッチンに辿り着くと、円はガラスのボウルに金魚を移していた。
カウンターテーブルの上には、金魚の餌がちょこんと置かれている。
「なんだ、そうだったの」
円は、流しの下から、バケツを取り出して、水を入れた。汲み置きをするためだ。
「飼いたかった?」
訊かれて、環は首を横に振る。
「円ちゃんが飼うつもりかと思って驚いたの」
ガラスのボウルの中の金魚は、ひらひらと楽しそうに泳いでいる。それはそれでキレイだけど、金魚を飼うためのノウハウはないし、そこまで情熱もない。金魚を飼うのなら、自分の犬が欲しいと、環は思うのだ。
「……涼しそうだね」
「だね」
二人して、しばらくゆらゆらと揺れるように泳ぐ金魚を見つめる。
水の中でゆらめいているのを見るだけで、なんか涼しくなったような気がしてくるから不思議だ。
「こんな時のためだけに、金魚鉢があってもいいね」
「金魚が泊まりにくるって、めったにないけどね」
環の突飛な言葉に、円は苦笑しながらそう返した。
さんざん二人で金魚を眺めたあと、夕飯の支度前にさっとシャワーを浴びてしまおうとしたところで、悠が帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりー」
声だけで返事をして、そのまま服を脱ごうとしたところで、「ん?」などという声がした。不思議に思って戸を開けて覗いてみる。と、悠はひまわりを抱えていた。
「悠ちゃん、それどうしたの?」
薄暗い廊下なのに、そこだけ光を放っているように見えるような花が、数本。
しかも、大きなひまわりだ。
「玄関に置いてあったけど」
悠自身、不思議そうな顔をしている。
「あ、それ!」
円の声と足音がした。
姿を現した彼に、環と悠の視線が集中する。
「金魚の宿代」
「なるほど」
「……は?」
意味の判らないのは悠だ。
「じゃ、円ちゃん、あとよろしくー」
別に面倒な話ではないが、それよりは早くシャワーを浴びたい。パタンと閉めた扉の向こうで、円が説明するのを聞きながら、環は服を脱いだ。




