第2章:「断崖の檻」── パート4
アカデミーの宿舎の屋根を、冷たい秋雨がドラムの連打のように叩いていた。
ビリーの腕には、神崎から直接手渡された黄色い腕章が巻かれていた。それは、一般の訓練生たちを監視し、指導を補佐する「班長」の証だった。わずか数ヶ月前まで泥濘の底でのたうち回っていた自分が、今やボスの「番犬」として他の若者たちを睥睨している。その事実が、ビリーの乾いた胸を満たしていた。
「何をぐずぐずしている! 丸太を担げ!」
ビリーは、土間に突っ伏して震えている小柄な少年の背中を、容赦なく泥まみれのブーツで蹴り飛ばした。
少年の名はトビー。シカゴの裕福な心臓外科医の息子で、不登校と軽度の薬物依存を理由に、二週間前にこのカスケードの山奥へと送り込まれてきた十六歳の少年だった。青白い顔に、細い手足。喘息持ちだと主張しては、過酷なシゴキのたびに「息ができない」と訴えるトビーの姿は、ビリーにかつての自分を思い出させ、強烈な反吐を催させた。
「動け、トビー。泣き言を言っても、パパもママも助けには来ないぞ」
ビリーはトビーの汚れた髪を掴み、力ずくで引きずり起こした。トビーの目からは涙と鼻水が溢れ、ぬかるんだ土の床に落ちた。
「息が……苦しいんだ。お願いだ、家に返してくれ。警察に言うぞ! こんなの違法だ、虐待だ!」
トビーの掠れた叫び声を聞いた瞬間、ビリーの脳裏を冷たい激情が支配した。
(違法? 法律だと?)
都会の温室でぬくぬくと育ったガキが、神崎の領土でそんなくだらない言葉を口にする。それ自体が、ボスへの、そして自分たちの神聖な「再生」への侮辱だった。
「法律がどうした」
ビリーはトビーの顔を泥の中に押しつけ、耳元で低く囁いた。
「この山では、ボスが法律だ。お前を人間にしてやるとボスが言っているんだ。その好意に泥を塗る奴は、俺が絶対に許さない」
ビリーの視線の先、宿舎の軒下に、腕を組んでこちらを見つめる神崎猛の姿があった。神崎は何も言わなかった。ただ、冷徹な、しかしすべてを値踏みするような視線で、ビリーの「指導」を観察していた。
ビリーは背筋に心地よい緊張感を覚えた。ボスに見られている。自分がどれだけ忠実な犬であるか、ここで証明しなければならない。
「トビー、立て」
ビリーは、水分を吸って鉛のように重くなった丸太をトビーの細い肩に無理やり押し付けた。トビーは苦しげに喉を鳴らし、膝を激しく震わせながら、どうにか立ち上がった。その関節がきしむ音が、雨音に紛れて聞こえたような気がした。
他の訓練生たちも、ビリーのその容赦のない姿を、恐怖に満ちた目で見つめていた。かつての仲間たちは、今やビリーを「神崎の忠実な手先」として恐れ、距離を置いている。だが、ビリーにとってそんな孤立など痛くも痒くもなかった。自分を泥沼から救い出してくれた神崎に認められることだけが、彼の世界のすべてだった。
もしボスが「走れ」と言えば、心臓が破裂するまで走る。
もしボスが「あいつを叩き直せ」と言えば、相手の骨が砕けるまで拳を振るう。
都会のぬるま湯で暮らす連中が作った「人権」だの「倫理」だのといったルールは、このカスケードの深い森には届かない。ビリーの心の中では、外界の常識や道徳といった壁は完全に瓦解し、神崎という名の絶対的な錨だけが特定の位置に突き刺さっていた。
「さあ、走るぞ。遅れた奴は飯抜きだ」
ビリーは冷たい雨の中に真っ先に飛び出し、泥を蹴って走り始めた。
トビーは丸太の重みに耐えかねて何度も転倒し、そのたびに泥水をすすりながら、悲鳴を上げて這い上がってきた。そのトビーの息遣いは、どこか不吉な喘鳴を帯びていたが、ビリーはそれを顧みることはなかった。
(ボス。見ていてください。俺はあなたのための、完璧な猟犬になります)
ビリーの狂信に満ちた背中を、雨脚がさらに激しく打ち据えていた。のちにキャンプ全体を、そして神崎の運命をも破滅へと導くことになる死の足音が、静かに、しかし確実に近づいていることなど、この時のビリーは知る由もなかった。




