第2章:「断崖の檻」── パート5
カスケード山脈を揺らす暴風雨は、天を衝く黒い針葉樹の海を、まるで荒れ狂う波のように波打たせていた。
断崖の縁に立つ神崎猛の重いウールコートが、強風に激しく煽られてはためく。眼下には、雨水を吸って激流と化した渓谷の濁流が、飢えた獣の咆哮のような轟音を上げて白泡を立てていた。
「進め! 絶対に手を離すな! 一歩でも足を踏み外せば、下の濁流に呑まれるぞ!」
神崎の野太い声が、暴風の音を切り裂いて響き渡る。
訓練生たちは、岩壁に打ち込まれた命綱一本を頼りに、激しい雨で滑りやすくなった垂直の岩壁に必死にしがみついていた。彼らの顔は泥と雨水にまみれ、指先は鋭い岩肌に擦れて血が滲んでいる。
ビリーは班長として彼らを怒鳴りつけ、足のすくんだ者を力ずくで引っ張り上げていた。トビーは、過呼吸のような引き攣った喘鳴を漏らしながら、泣き叫びつつ岩壁にしがみついている。
神崎は、その地獄絵図のような光景を、冷徹な満足感とともに見つめていた。
「大自然は一切の妥協をしない。だが、この極限の恐怖を克服した者だけが、真の強さを手にするのだ」
神崎は、己の絶対的な支配を確信していた。
この断崖の檻の中では、彼こそが支配者であり、絶対的な法だった。都会の生温い法律も、甘やかされた親の泣き言も、この荒れ狂う嵐の原生林には一切届かない。ポートランドの警察や行政が介入しようとしても、この人跡未踏の山奥で行われている「高名な冒険家による教育プログラム」に口を挟む正当な法的根拠は、当時のアナログな司法制度の隙間では容易に得られなかった。親たちが自ら高額な契約を結び、我が子を預けているのだ。
神崎は冷たく笑った。彼はアメリカという豊かで軟弱な社会が生み出した「歪み」の隙間に、誰にも侵されない完璧な王国を築き上げたのだ。
やがて訓練が終わり、若者たちが震えながら宿舎へと引き上げていくのを見送った後、神崎は一人、アカデミーの境界線である林道のゲートへと向かった。嵐はさらに激しさを増し、落雷が夜空を不気味な紫色に染めていた。
ふと、神崎は足を止めた。
彼の鋭い視線が、雨水が川のように流れる林道の泥濘の一点に固定される。林道の脇、アカデミーの敷地を隔てる鉄条網のすぐ外側に、奇妙な痕跡があった。
(タイヤの跡……?)
アカデミーが所有する大型トラックや四輪駆動車の、深く太いブロックパターンの溝ではない。それは、軽量な乗用車の細いタイヤが、泥の中で激しくスリップした痕跡だった。泥の崩れ具合からして、ほんの数時間前──嵐が本格化する直前に付けられたものだ。
この暴風雨の日に、都会の乗用車がこんな山奥の、行き止まりの林道に迷い込むはずがない。神崎はしゃがみ込み、冷たい雨に打たれながらその跡を指でなぞった。
さらに、鉄条網の支柱の根元に、濡れた白い紙切れが落ちているのを見つけた。雨水を含んでふやけていたが、それはポートランド市内のガソリンスタンドで配られる、安価なブックマッチの燃え殻だった。
(誰かが、ここにいた)
神崎の脳裏に、かつてシベリアの高地で猛獣に狙われた時の、あの肌が粟立つような独特の感覚が蘇った。
何者かが、この激しい嵐の前に車を停め、鉄条網越しに自分たちを、このアカデミーをじっと観察していたのだ。
神崎は立ち上がり、暗闇に包まれた原生林の奥へと鋭い視線を投げかけた。風に揺れる木々の軋みと、渓谷の轟音だけが響いている。姿は見えない。だが、確かに「侵入者」の冷たい視線が、この完璧な檻の隙間から滑り込んできている。
神崎猛。極地を生き抜いた男。
彼はまだ知らなかった。自分たちが築いたこの絶対的な檻が、ポートランドを震わせる稀代のサイコパスにとって、自らの罪を塗りつぶすための、この上ない「キャンバス」として選ばれたということを。
神崎はマッチの燃え殻を握り潰し、ポケットにねじ込むと、足早に宿舎へと戻っていった。
カスケード山脈を揺らす暴風雨は、全ての足跡を消し去るかのように、ただ激しく降り続いていた。




