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第2章:「断崖の檻」── パート3

神崎猛の執務室は、丸太小屋の荒々しい外観とは裏腹に、驚くほど秩序立っていた。

壁には、彼が極地遠征の際に使用したピッケルや、厳しい寒さでひび割れた革製の登山靴が美しくディスプレイされている。そして本棚には、『ワールド・エクスプローラー』のバックナンバーや、英語で書かれた精神医学、行動科学の学術書が整然と並んでいた。

ビリーは、執務室の木扉のすぐ外で、直立不動の姿勢で待機していた。中からは、低く響くような、洗練された英語の会話が漏れ聞こえてきている。

「神崎氏。率直に申し上げよう。このカスケードの山奥で、過剰な体罰が行われているという噂を小耳に挟んだのだ。いくら息子の更生のためとはいえ、人道的に問題がある指導なら、私はここに彼を預けるわけにはいかない」

語りかけているのは、シアトルの名士であり、自身も高名な弁護士であるリチャード・トンプソンだった。彼は、ドラッグと窃盗を繰り返す不肖の息子を連れて、昨日このアカデミーを訪れていた。我が子の惨状に絶望しながらも、世間の「行き過ぎたシゴキ」への批判を恐れ、二の足を踏んでいるのだ。

扉の隙間から、神崎が静かに紅茶のカップを置く音が聞こえた。

「トンプソン氏」

神崎の英語は、わずかに東洋のアクセントを残しながらも、文法的に非の打ち所がなく、格調高かった。その声には、聞く者をいつの間にか納得させてしまう、奇妙な包容力がある。

「私がカラコルム山脈の絶壁で暴風雪に捕まった時、大自然は私に一度も妥協を求めませんでした。氷点下四十度の冷気は、私の意志を問うことなく、ただ肉体を引き裂こうとした。大自然とは、人間が作った甘い法律や、人道主義といった言葉が1ミリも通用しない『絶対的な現実』なのです」

神崎は、ゆっくりと椅子から立ち上がる気配を見せた。

「今、アメリカの都市部は頽廃に満ちています。若者たちはドラッグやヒッピー思想という甘い泥沼に浸り、自分たちが社会のシステムに守られていると錯覚している。お宅の息子さんも同じです。彼は『親の愛』や『人権』という言葉を盾にして、自分の弱さから逃げ続けている。彼に必要なのは、カウンセラーの生温い言葉ではありません。大自然という、妥協を一切許さない『現実』の重みです」

神崎の言葉は、トンプソンの胸を正確に射抜いていた。我が子の非行に疲れ果て、誰かに「力強い解決策」を委ねたがっていた父親の心理を、神崎は完璧に見抜いていた。

「私がここで教えているのは、暴力ではありません。大自然のルールです。丸太を担ぎ、山を走り、冷水に耐える。それは、自分の肉体が上げる悲鳴を通じて、現実と対話する作業なのです。彼らはここで、初めて自分の限界を知り、自分を支えてくれる他者の存在に感謝する。それを、都会の人間は『体罰』と呼ぶのかもしれません。ですが、これは私が極地で学んだ、生きるための唯一の哲学なのです」

沈黙が流れた。やがて、トンプソンが深くため息をつく音が聞こえた。

「……あなたを信じよう、神崎氏。息子を、預けます。どうか、彼を『人間』にしてください」

「お任せください。彼は必ず、あなたの誇りとなる男に生まれ変わります」

扉の外でそれを聞いていたビリーは、胸の奥から湧き上がるような畏敬の念を抑えきれなかった。

(ボスは、やっぱりただ者じゃない……)

ビリーは、神崎が中庭で若者たちを蹴り飛ばし、泥まみれにして怒号を浴びせる姿を知っている。だが、こうして都会の知識人や権力者を前にした時の神崎は、極めて知的で、理性的な「教育哲学者」であり、「気高き冒険家」そのものだった。

神崎は単なる野蛮な指導者ではなかった。彼は、アメリカの裕福な親たちが抱く「子供を更生させたいが、自分の手は汚したくない」という欺瞞と罪悪感を完全に理解し、それを自分のビジネスと支配の燃料に変える計算高さを持っていた。

地元の保安官や郡の査察官が「虐待の疑い」でアカデミーを訪れた時も、神崎はこの洗練された英語と、冒険家としての輝かしい経歴、そして巧みなロビー活動で彼らを完全に手懐けてきた。彼らにとって神崎は、「アメリカの若者の非行問題を、東洋の厳格な精神論で解決してくれる、頼もしい国際的指導者」だったのだ。

ガチャリ、と扉が開いた。

トンプソンが安堵した表情で執務室から出てくる。神崎は彼の肩に手を置き、温かい微笑みで見送っていた。トンプソンが去った後、神崎の表情から即座に「善き指導者」の温もりが消え去るのを、ビリーは見逃さなかった。

神崎はビリーに冷たい視線を向け、顎で中庭を指した。

「トンプソンのガキを、Dクラス(最も厳しい班)に入れろ。泣き言を言ったら、容赦なく冷水を浴びせろ。都会の毒が抜けるまでな」

「イエス、ボス」

ビリーは深く頭を下げた。言葉を、法律を、そして人間の心を意のままに操るこの支配者に、自分は一生逆らえない。ビリーの胸の内で、神崎への恐怖を伴った忠誠心は、さらに深く、強固に根を張っていくのだった。


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