第2章:「断崖の檻」── パート2
肩に食い込むダグラスファーの丸太は、雨水を吸って濡れた墓石のように重かった。
「動け、ビリー! 遅れるな!」
後ろを歩くコーチが、ぬかるんだ泥を踏み鳴らしながら怒鳴りつける。だが、ビリーの耳にその罵声は届いていなかった。彼の意識は、己の肉体が上げる悲鳴と、前方を進む神崎猛の大きな背中にだけ集中していた。
太ももの筋肉が引き裂かれるように熱い。肺が氷のような冷気を吸い込んで、血を吐きそうなほど痛む。しかし、ビリーにとってその痛みは苦痛ではなかった。それどころか、自分が今、確かに「生きている」ことを証明する聖なる感覚だった。
二年前のサンフランシスコでの彼は、生ける屍に過ぎなかった。
ヘイト・アシュベリーの裏通り。ビリーは、安物のヘロインとLSDの煙が充満する廃屋の片隅で、汚れたマットレスにしがみついていた。爪の間は車のカーステレオを盗み出す際についた油汚れで黒く染まり、瞳は常に麻薬の安っぽい快楽で虚ろに濁っていた。
サンフランシスコで貿易商を営む高名なアジア系の父親と、品行方正な母親にとって、薬物に溺れて泥棒を繰り返すビリーは「家名の汚点」でしかなかった。親が彼に向ける目は、いつも軽蔑と落胆に満ちていた。ある夜、父親はビリーに冷たく言い放った。「お前を息子だと思ったことは一度もない」と。それが、彼が家族から受け取った最後の言葉だった。
数日後、寝ぐらに踏み込んできた二人の大柄な男たちによって、ビリーは目隠しをされ、ライトバンに押し込まれた。連れてこられたのが、このオレゴンの深い山奥だった。
最初の数週間は、地獄以外の何物でもなかった。
離脱症状(禁断症状)の激しい悪寒と幻覚にのたうち回るビリーを、神崎は容赦なく冷たい土間に放り出した。狂ったように叫び、暴れ、神崎の顔に唾を吐きかけたビリーに対し、神崎が返したのは言葉ではなく、骨の髄まで叩き直すような徹底的な物理の力だった。
「ここでは誰も、お前の泣き言など聞かない」
神崎は、泥まみれになったビリーの髪を掴み、その濁った瞳を冷たく覗き込んで言った。
「薬に溺れて死ぬか、ここで這い上がるか。お前が決めることだ。動かないなら、死ね。お前の親は、お前が死んでも誰も泣かないからこそ、俺に金を払ったんだ」
神崎の言葉には、世間の更生施設が並べるような、生温い「愛」や「慈悲」など1ミリもなかった。だが、その冷酷な一貫性が、かえってビリーの乾いた心に奇妙な重みとなって刺さった。彼にとって、父親の「落胆した偽善の目」よりも、神崎の「お前はゴミだが、叩けば変わる」という冷徹な現実主義の方が、はるかに誠実に思えたのだ。
決定的な転換期は、冬の初め、凍てつく渓谷の滝壺での「精神鍛錬」の夜に訪れた。
冷水に打たれ、体温を奪われ、幻覚と肉体の限界が交錯する極限のなかで、ビリーの脳は死を目前にしていた。指先が動かなくなり、意識が白濁していく。その時、彼の脳内で何かが決定的に壊れ、そして再配線された。
──もう、何も痛くない。
死を覚悟した瞬間、ビリーの脳内に、かつて味わったいかなる薬物をも凌駕する脳内麻薬が洪水のように溢れ出した。視界が鮮明にひらけ、あれほど彼を苦しめていた離脱症状の不快感も、孤独の恐怖も、すべてが氷が溶けるように消え去った。
気がつくと、彼は神崎の頑強な腕に抱き抱えられ、焚き火の前に横たわっていた。神崎は、凍えるビリーの肩を毛布で包み、彼の頬を叩いて言った。
「よく生き残った。お前はもう、ただのゴミじゃない」
その瞬間、ビリーの目から涙が溢れ出た。親からも、社会からも見捨てられ、生きる意味を見失っていた自分が、世界的な冒険家であるこの男に「生き残った」と、存在を認められたのだ。それは彼にとって、人生で初めて得た「神からの祝福」だった。
神崎に殴られ、肉体を極限まで追い詰められるたびに、ビリーの脳は快感と感謝を覚えるようになっていった。神崎が自分に暴力を振るうのは、自分を愛し、真に人間として再生させようとしているからだ──その歪んだ狂信が、ビリーの新しい骨格となった。
「そうだ……ボス。俺は、あなたの犬だ」
ぬかるんだ山道を登りながら、ビリーは息を荒くして微笑んだ。
肩の丸太が皮膚を破り、血が滲んでウールシャツを黒く染めている。だが、その痛みが深ければ深いほど、神崎への信仰はより純化していく。かつて自分を滅ぼしかけたサンフランシスコの薄汚い泥濘から、自分を力ずくで引きずり出してくれた唯一の神。ビリーは神崎のためなら、たとえ火の中だろうと、他人の血を流すことだろうと、喜んで引き受ける準備ができていた。




