第10章:「マジックミラーの嘲笑」── パート5
クラカマス郡拘置所の一般待合ロビーは、薄暗い曇り空の下で、うっすら沈んだ空気に包まれていた。
床に敷かれた灰色のビニールタイルの上には、面会を待つ家族たちが持ち込んだ泥混じりの足跡が点々と乾きかけていた。公衆電話のブースでは、安物のスーツを着た保釈保証業者が、小銭を投入しながら早口で弁護士事務所と掛け合っている。壁際の自動販売機からは、冷却ファンが発する低い唸り声が絶え間なく響き、ロビー全体に薄い塩素消毒液と冷めたコーヒーの匂いが充満していた。
マッケンジーは、出入口から最も離れた、壁際に固定されたファイバーグラス製のベンチの端に腰掛けていた。
ヨレヨレのトレンチコートの襟を立て、両手を深くポケットに突っ込んでいる。コートの内側、右腰のあたりにあるはずのコルト・ディテクティブスペシャルのずっしりとした重みは、すでにそこにはなかった。胸ポケットを圧迫していた革ケース入りの身分証もない。停職処分を受け、武器も権限も剥奪された元刑事の肉体は、長年慣れ親しんだ金属の重みを失ったことで、奇妙なほど不均衡で、軽々しく感じられていた。
午前八時過ぎ、マッケンジーの自宅の固定電話を鳴らしたのは、この拘置所の受付係を務める古い知人の看守だった。
『ジェリー、あんたが停職になったのは知ってる。だが、一応伝えておいたほうがいいと思ってな。……あのテレビに出ていたオレゴン大の法学生、クリス・ベネットだ。あいつが今朝、ハリス議員事務所の調査員として、神崎猛の特別面会名簿にサインしていったぞ』
その連絡を受けてから、マッケンジーは一瞬も迷うことなくシボレーを走らせてきた。
だが、公的な身分を失った彼には、鉄格子の向こう側の面会室へ踏み込む権利などなかった。受付を通過しようとすれば、即座に不法侵入か司法妨害で拘束され、自分自身が地下の独房へ放り込まれるのが関の山だった。彼にできるのは、ただ一般市民の振りを装い、この簡素なロビーの片隅で、男が出てくる瞬間を待つことだけだった。
ブザーが鳴った。
面会エリアとロビーを隔てる重厚な金属ドアから、カン、という電子ロックの解除音が響いた。
ドアが押し開けられ、一人の青年が姿を現した。
クリストファー・ベネットだった。
チャコールグレーのツイードジャケットを乱れなく着こなし、小脇に黄色のリーガルパッドを抱えたクリスは、受付カウンターの前へと歩み寄った。その足取りには、先ほど奥の面会ブースで起きた激しい絶叫と流血の嵐──神崎が手錠を打ちつけ、反抗しながら床に組み伏せられた異常事態の影など、微塵も感じられなかった。
「ベネット君、ご苦労だったな」
受付の看守が、ロッカーの鍵と引き換えにクリスの革製ドキュメントケースを手渡した。
「酷い目に遭ったそうじゃないか。奥の騒ぎがここまで聞こえてきたよ。あいつは本当に手がつけられない野蛮人だな」
「ええ、少し驚きました」
クリスは静かに微笑み、カウンターの台帳に退館時刻をペンで記入した。その声は驚くほど滑らかで、穏やかな哀れみに満ちていた。
「ですが、彼の暴力的な行動パターンを直接確認できたことは、法医学的には貴重な資料になりました。看守の皆さんが迅速に対処してくださったおかげで、怪我もありません。ありがとうございました」
クリスはケースを受け取ると、軽く会釈をし、正面の出口に向かって歩き始めた。
その歩道の延長線上に、マッケンジーが座っていた。
ロビーを抜け、二重のガラス製自動ドアへと向かう通路。クリスの足音が、規則正しい革靴の乾いた音を立てて床を叩く。彼がドアの数メートル手前まで差し掛かったとき、ふと、その視線がベンチの端に向けられた。
二人の視線が、張り詰めたロビーの空気の中で、真っ向から衝突した。
マッケンジーは立ち上がらなかった。ただ、ベンチに深く腰掛けたまま、トレンチコートのポケットの中で拳を白くなるほど強く握りしめ、老眼鏡の奥の濁った瞳で、クリスの顔を睨み据えた。
クリスは、立ち止まらなかった。歩調を緩めることすらしなかった。
だが、マッケンジーの正面を通り過ぎるその一瞬、クリスはほんのわずかに立ち止まり、まるでキャンパスの講義室ですれ違った知人に挨拶するかのように、極めて礼儀正しく、小さく首を傾げて会釈をして見せた。
その仕草は、周囲の誰もが「品行方正な好青年による会釈」としか認識できない、正確な社会的作法に則っていた。
しかし──。
マッケンジーを捉えたその瞳の奥は、まったく違っていた。
アクリル板の向こうの神崎に向けられたのと寸分違わぬ、一切の温もりを持たない、獲物を吟味する眼差し。
そこには、神崎猛というはまり役を鮮やかに罠にはめ、警察を思い通りに操り、マッケンジーを停職に追い込んだことに対する、悠然とした勝利の余韻があった。言葉は交わされなかったが、その一瞥は、マッケンジーの頭蓋を貫くほど雄弁に真実を告げていた。
──お前の負けだ。お前は手も足も出せない。
マッケンジーの喉の奥から、焼け付いた息が漏れた。
コートのポケットの中で、爪が手のひらの皮膚に深く食い込み、鈍い痛みが走った。
無数に取調室で凶悪犯や虚言癖の人間と対峙してきたマッケンジーの経験則が、青年の淀みない挙動から、裏腹な事実を看取していた。アクリル板越しに男が暴れ回った直後であるにもかかわらず、乱れのない呼吸と歩調。その不自然なまでの平静さこそが、この男がカスケードの山林に死体を並べ、神崎猛を監獄へと追いやる罠を仕掛けた張本人であることの、何より動かしがたい証拠だった。
今すぐ飛びかかり、その細長い首を両手で締め上げ、この固い床に叩き伏せて自白を迫りたいという衝動が、マッケンジーの背筋を駆け上がった。
だが、彼にはできなかった。
彼にはバッジがない。
彼には令状がない。
彼の手元には、法廷でクリスを有罪にできるいかなる物質的証拠も存在しなかった。
もし今、自分がこの青年に手を上げれば、背後に控える保安官補たちが即座に銃を抜き、マッケンジーを暴行犯として取り押さえるだろう。そして、クリスは再び「粘着質な老刑事に襲われた哀れな被害者」として、全米の同情を一身に集めることになるのだ。
クリスは一度も振り返ることなく、自動ドアのセンサーを踏んだ。
シューという油圧の音とともに強化ガラスのドアが開き、外の冷涼な空気がロビーへと流れ込んできた。
オレゴンを数日間にわたって濡らし続けていた重い雨雲は、いつの間にかカスケードの山々の向こうへと退き、ポートランドの上空には、抜けるような秋の青空が広がっていた。湿ったアスファルトに反射する眩しい陽光が、クリスの仕立ての良いツイードジャケットの輪郭を白く縁取っていた。
クリスはドキュメントケースを抱え、軽やかな足取りで駐車場のアスファルトを踏みしめ、自分の車へと向かって歩いていった。
その背中は、一点の曇りもない勝利の残光に満ちあふれていた。
マッケンジーは、ガラス扉の内側に一人取り残されていた。
反射するガラスの向こうで遠ざかっていく青年の影を見つめながら、彼はただ、乾いた唇を噛み締め、両肩を落とすことしかできなかった。
二重ガラスの向こうでは、雨上がりのアスファルトが秋の陽光を浴びて白く乾き始めていた。
書類上の不備のない証拠の連鎖が、地下の冷たい独房に一人の男を縛りつけ、本物の殺人者を白日の街並みへとおめおめと送り出していた。マッケンジーは空になった右腰のホルスターの平たい感触をコート越しに確かめながら、遠ざかっていく青年の背中を、ただ言葉もなく見送るしかなかった。
(第10章「マジックミラーの嘲笑」・完)
物語は次に、いよいよ公判(裁判)が開廷し、追い詰められた神崎の弁護団とマッケンジーが、クリスを証人喚問して一発逆転の「ペンダントの罠」を仕掛ける、司法劇のクライマックス**第11章:猟犬の賭け




