第10章:「マジックミラーの嘲笑」── パート4
受話器の向こうから伝わってきた、沈黙と口元のわずかな歪み。
その微細な変化が意味するものを理解した瞬間、神崎猛の頭蓋の中で、堪忍袋の緒が音を立てて断裂した。
全身の毛細血管が一気に拡張し、視界の縁が暗赤色に染まる。
それは、単に無実の罪を着せられたことに対する素朴な怒りではなかった。神崎という一人の男が、これまでの全生涯を賭けて築き上げてきた努力の結晶そのものを、泥靴で踏みにじられたことに対する、根源的な激昂だった。
神崎は、自らがカスケードの山奥で課してきた過酷な訓練──丸太を担がせ、ロープで縛り、寒気と筋肉の断裂に耐えさせる「シゴキ」を、現代アメリカの軟弱な若者を救うための、唯一の手立てだと本気で信じて疑っていなかった。大自然の猛威に身を晒し、無意識にかけられたブレーキを打ち砕くことによってのみ、人間は本来の耐久性と規律正しさを取り戻すのだと。
だが、目の前の男は何をしでかしたのか。
この清潔な服を着た、育ちの良さそうな白人青年は、あろうことかその唯一の手立ての痕跡を、自らの薄汚い快楽殺人を覆い隠すための、都合のよいの道具として利用したのだ。
女たちの細い手首にマニラ麻を巻きつけ、丸太の角で殴打し、その死体を神崎の領地の境界に並べた。それは、神崎がカラコルムやシベリアの極地で生き抜き、体得してきたサバイバル哲学を、ただの「変質者のサディズム」という凶悪犯罪の汚名に引きずり落とし、全世界の侮蔑の的に仕立て上げる行為に他ならなかった。
(貴様……! 俺の、俺の魂を……!)
「ぐああああッ!」
言葉を忘れたかのような猛獣の咆哮が、神崎の喉から炸裂した。
彼は手にした黒い受話器を、ステンレスの棚板に向かって全力で叩きつけた。
バチン、と硬質プラスチックが粉砕される鈍い破壊音が、狭いブース内に轟いた。フックの金具が弾け飛び、スチール製のコードがちぎれんばかりに跳ねる。
神崎は椅子を蹴り倒すようにして立ち上がった。
腹回りに巻かれたスチール製のベリーチェーン(腰鎖)がジャランと限界まで張り詰め、背骨の位置に固い鉄輪がめり込んだが、アドレナリンに沸騰した彼の肉体は痛覚すら麻痺させていた。
「このペテン野郎がッ! 貴様、何をしたか分かっているのか!」
神崎は手錠で固定された両拳を振り上げ、厚さ一インチのアクリル板に向かって、自重のすべてを乗せて叩きつけた。
ドガン!
鈍く重い打撃音が、防音ブースの壁を震わせた。
ニッケルメッキのスミス&ウェッソン製手錠が、アクリル板の表面に激しく激突する。白濁した無数の細かい擦り傷の奥に、ピシリと新たなクモの巣状の亀裂が走った。
「俺のサバイバル哲学を……俺の更生施設を、貴様の快楽殺人の隠れみのに使いやがったな! ぶっ殺してやる! この手で貴様の首の骨をへし折ってやるぞ!」
神崎は額に太い青筋を浮き上がらせ、中央の通気孔に向かって唾沫を飛ばしながら怒鳴り声を浴びせ続けた。
再び、両拳がアクリル板を乱打する。
ガン、ガン、ガン──!
鉄とプラスチックが衝突する金属的な衝撃波が、狭い空間に反響し、神崎の擦り切れた手首の傷口から、滲み出た赤い血がアクリル板の内側にべっとりと擦り付けられた。
だが──。
アクリル板の向こう側で、クリス・ベネットは微動だにしなかった。
彼は椅子に座ったまま、背筋をわずかに正し、外れた黒い受話器を耳に当て続けていた。受話器から流れる割れたノイズと、ガラス越しに届く神崎の怒鳴り声を、まるで雑音交じりのラジオ放送でも聞くかのように、平然と受け止めている。
クリスの眉は、一ミリたりとも動いていなかった。
両手は清潔なウールのスラックスの膝の上に整然と重ねられ、その瞳は、普段通りの静寂を保っていた。
彼にとって、目の前で手錠を鳴らし、ガラスを割らんばかりに暴れ狂う神崎猛の姿は、警戒に値する対象ではなかった。
厚さ一インチの防音アクリルという越えられない壁の向こうで、ジタバタと体力を消耗させている男の姿は、クリスにとっては脅威ですらなく、あらかじめ仕組んだ刺激に対して被験体が見せる、最も順当な反応を黙々と点検しているに過ぎなかった。
神崎が暴れれば暴れるほど、神崎の凶暴性は眼前での目撃情報となって印象づけられてゆく。
面会室の監視カメラ、そして奥の警備室からこのブースを覗き込んでいる看守たちの目には、今この瞬間、何が映っているか。
それは、「不当な捜査に耐えて学術調査に訪れた礼儀正しいエリート法学生」に対して、反省の色すらなく、凶暴性を剥き出しにしてガラスを叩き割ろうとする、「典型的な連続殺人犯」の姿そのものだった。神崎が殴りつけたアクリル板の亀裂も、そこに擦り付けられた鮮血も、暴れた跡は神崎猛という男が「更生不能の常態化した暴力中毒者」であることを、公的な記録として刻み込むための有力な証拠物件となるのだ。
「そこまでだ! 離れろ!」
囚人側の重い鉄扉が乱暴に開け放たれた。
警棒を手にした二名の看守が、慌てたようにブース内へと突入してきた。
「伏せろ、神崎! 」
神崎は背後から警官の一人に飛びつかれながらも、驚異的な膂力でそれを振り払おうとした。
「放せ! この男だ! この男が山に死体を持ち込んだんだ! 話を聞け!」
「動くな!」
もう一人の看守が、樫の木で作られた太い警棒を、神崎の膝裏へと容赦なく叩き込んだ。
ゴキリ、と鈍い音が響き、神崎の巨体がバランスを崩してコンクリートの床へと崩れ落ちる。
看守二人が神崎の背中に飛び乗り、膝を彼の首筋と腰にめり込ませて体重をかけた。床に押し付けられた神崎の顔面が、冷たいリノリウムの床に擦り付けられる。
「おい、拘束具を持ってこい! 足を固めろ!」
「俺じゃない……! そいつだ……そいつが……!」
床に額を押し付けられ、口の中に埃を含みながら、神崎はなおもアクリル板の下の隙間に向かって叫び続けた。だが、看守の太い腕が彼の顎を背後から力任せに絞め上げ、その声は苦しげな呻き声へと変わっていった。
神崎は両足を交差させられて別のチェーンで固定され、まるで屠殺場の家畜のように、埃で汚れた床の上を引きずられながらブースの外へと排除されていった。重い鉄扉がバタンと閉ざされ、錠前が回される金属音が、廊下の奥へと消えていく。
ブースの中には、再び薄暗い静寂が戻っていた。
クリスはゆっくりと立ち上がった。
手元のリーガルパッドとパーカーのボールペンを丁寧に拾い上げ、コートの袖口の埃を軽く払う。
彼の目の前のアクリル板には、神崎が手錠で叩きつけた無数の打撃痕と、擦り付けられた赤黒い血の筋が、抽象画のような痕跡となって残されていた。
通気孔の向こう側から漂う、男の汗と唾液の混ざり合った酸っぱい悪臭。
来客側のドアが開き、心配そうな表情を浮かべた案内役の看守が飛び込んできた。
「ベネット君! 大丈夫か!? 怪我はないか!」
クリスは振り返り、わずかに驚いたように目を見開いたあと、いつもの、完璧に制御された優しい微笑みを浮かべた。
「ええ、私は無事です。アクリル板が頑丈で助かりました」
クリスは乱れたタイの結び目を指先で整え、穏やかな声で答えた。
「……彼のような激しい凶暴性を抱えた人物と直接対話できたことは、法を学ぶ者として、極めて有意義な経験になりました。ご配慮に感謝します、看守さん」
看守は心底から感心したように首を振り、クリスの肩を労うように軽く叩いた。
「大したものだ。あんな野蛮人を目の前にして、よく取り乱さずにいられたな。……さあ、出よう。君のような前途ある青年が長居する場所じゃない」
クリスは看守に促され、静かにブースを後にした。
背後で閉ざされたドアの向こうには、自らの栄光をズタズタに引き裂かれ、真実を誰にも信じてもらえないまま檻の底へと沈んでいった男の、無残な血の匂いだけが取り残されていた。




