第10章:「マジックミラーの嘲笑」── パート2
クラカマス郡拘置所の独房棟から面会室へと続く地下通路は、冷え切ったコンクリートと石炭酸系消毒液の刺激臭が淀んでいた。
「足を止めろ。手すりに掴まれ」
背後を固める二名の看守の指示に従い、神崎猛は灰色のツイル地(綾織り)の囚人服の裾を引きずりながら、壁際の金属パイプに手を掛けた。
彼の手首に嵌められたスミス&ウェッソン製の手錠は、腰回りを一周する頑丈なスチール製ベリーチェーン(腰鎖)の前面中央に固く溶接されたリングに連結されていた。両手は臍の高さから上へは十センチほどしか動かせず、足首に巻かれたレッグアイアンの短い鎖が、歩幅を一歩につき足底一つ分に制限していた。
拘置所に入ってから二日が経過していた。
薄いアルミ製のトレイで給餌される冷めたオートミールと、油の浮いたキャベツのスープは、世の最果てへの遠征で鍛え上げられた神崎の代謝を維持するにはあまりにも粗末だった。無精髭が不揃いに伸びた彼の頬は削げ落ち、目の下には黒ずんだ鬱血の隈が沈んでいる。
何より彼の気力を摩耗させていたのは、面会や移送のたびに義務付けられる、徹底した身体検査だった。
冷え切ったタイル張りの検査室で衣服をすべて脱がされ、両手を頭上に上げ、舌を出し、尻の肉を両手で押し広げて直腸の内部まで懐中電灯で照らされる──その徹底的で手加減のない屈辱の儀式は、かつて数々の未踏峰を制覇し、極限の死線を超えてきた元冒険家の誇りを、根底から粉砕するために設計された司法の手法そのものだった。
だが、その肉体的な疲弊の底にあっても、神崎の双眸の奥に宿る野生の獰猛さだけは失われていなかった。
顎の骨をきつく噛み締め、呼吸を一定に保つ。ここで心を折られれば、あの二体の女の死体という身に覚えのない汚名を着せられたまま、ガス室の冷たい椅子へと直行させられる。それだけは、彼のサバイバル哲学が決して許さなかった。
「入れ。椅子に座れ」
突き当たりの鉄扉が鍵で開けられ、神崎は狭い面会ブースの囚人側へと押し込まれた。
部屋の中央を、床から天井まで完全に遮断する厚さ一インチのアクリル板が仕切っていた。板の表面には、過去の収容者たちがつけた無数の爪痕や硬貨の擦り傷が白く濁って残り、中央の通気孔には金網が二重に張られている。
看守が神崎の腰の鎖を壁のアンカーリングに繋ぎ直すと、重い足取りでブースを出て、背後の鉄扉を施錠した。
カチャリ、と外側から閂が下りる乾いた音が室内に反響する。
神崎は、金属の冷たい丸椅子に深く腰を下ろした。
拘束された両手を棚の上に置き、アクリル板の向こう側へと視線を上げた。
面会を求めてきたのは、シアトルの弁護士事務所から派遣された調査員か、あるいはハリス議員の事務所関係者だと看守から聞かされていた。だが、向かいの来客用シートに座っていた人物の姿を捉えた瞬間、神崎の思いもよらない有名人と突然出くわした。
そこに座っていたのは、仕立ての良いチャコールグレーのツイードジャケットを着こなした、二十代半ばの白人青年だった。
完璧に整えられたブロンドの髪、剃り跡の青さすら感じさせない清潔な肌、そして膝の上に広げられた黄色のリーガルパッド。その姿は、いかにも名門大学のキャンパスを闊歩していそうな、洗練された知識階級の好青年そのものだった。
(……こいつは)
神崎の網膜に、拘置所のデイルーム(共用広場)の天井に吊るされていた、小型テレビの白黒画面が鮮烈に蘇った。
KPL-TVの臨時ニュース。あの女性リポーター──ケイト・コリンズのマイクの前で、不当捜査の犠牲者として優雅に無実を語りかけ、カメラの向こうへ甘やかなウインクを投げてみせた男。
──クリストファー・ベネット。
なぜ、あのポートランドの「疑惑の美青年」が、クラカマス郡拘置所の最深部にあるこのブースに座っているのか。
神崎の全身の毛穴が、危険を察知した野生動物のように一瞬で引き締まった。
アクリル板の向こう側で、クリス・ベネットは静かに神崎の観察を続けていた。
傷だらけのプラスチック越しに見る神崎猛の姿は、以前『ワールド・エクスプローラー』誌のグラビアで見た精悍な冒険家の面影を、見事に剥ぎ取られていた。
粗末な囚人服の襟ぐりからは、過酷な取り調べによる精神的疲労が色濃く滲み、腰鎖に繋がれた手首には、生々しい内出血の輪が刻まれている。司法の絶対的権力によって「がんじがらめにされる弱者」へと成り下がった男の急降下の転落劇。
(誠に、滑稽としか言いようがない)
クリスは心の中で、自らが仕組んだ冤罪トラップの成功に、静かな舌鼓を打っていた。
数日前までカスケードの山奥で強権的な専制君主として君臨し、若者たちに死と隣り合わせの訓練を強要していた巨漢が、今や数本のボルトと鉄の鎖によって完全に無力化され、自分の目の前でパイプ椅子に固定されている。自らの邪知が、この男の世界的名声と肉体的自由を容易に奪い去ったのだ。
クリスは右手を伸ばし、壁のフックに掛けられていた黒い電話受話器──旧式のウェスタン・エレクトリック社製モデルを、静かに持ち上げた。
受話器のスピーカーから、回線が開通したことを示す微かな「ジー」という低周波のノイズが耳に届く。この回線は、奥の警備室でオープンリールによって録音されているはずだった。
神崎は、アクリル板の向こうのクリスを射抜かんばかりの鋭い視線で見つめたまま、動かなかった。
だが、数秒の硬直の後、彼は腰の鎖をジャラリと軋ませながら、不自由な両手で自分の側の黒い受話器を掴み取った。
受話器が耳に当てられる。
二つの受話器が同時に持ち上がったことで、微小な電気回路が結ばれ、互いの呼吸音がスピーカーを通じて直接、鼓膜へと流れ込んできた。
神崎の、喉の奥に痰が絡んだような重く荒い鼻息。
クリスの、流暢に制御された、静かで規則正しい吐息。
アクリル板を隔てた二人の間に、張り詰めた真空のような沈黙が流れた。
通気孔の金網を通して漏れ聞こえるのは、通路の向こうの蛍光灯が発するジーというハム音と、壁に埋め込まれた換気扇が回転する鈍い振動だけだった。
どちらも、最初の一言を発しようとはしなかった。
クリスは唇の端に微かな、優越感が滲む微笑みを湛えたまま、相手が沈黙に耐えかねて口を開くその瞬間を、じっと見つめ続けていた。




