↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/61

第10章:「マジックミラーの嘲笑」── パート1


オレゴンシティの丘陵地に建つクラカマス郡拘置所は、雨風に晒されて黒ずんだ打ち放しコンクリートの平屋建てだった。

午前九時三十分。敷地を囲む二重の金網フェンスの外側には、朝露に濡れた芝生が広がり、送迎用の公用車数台がアスファルトの駐車場に規則正しく並んでいた。ポートランドの市街地から車で四十分ほどのこの静かな司法施設は、冷たい秋の朝気の中で、工場のバックヤードのような無機質な静寂を保っていた。

クリス・ベネットは、砂利の敷かれたアプローチを落ち着いた足取りで歩いていた。

チャコールグレーのツイードジャケットに、プレスされたウールのスラックス。襟元には清潔なオックスフォードシャツと控えめなニットタイを合わせ、手には茶色の革製ドキュメントケースを抱えている。彼の身なりは、格式ある法律事務所のジュニア・アソシエイトか、熱心な大学院生の出で立ちと何ら変わるところがなかった。

重いアルミ製の玄関ドアを押し開けると、暖房の熱気とともに、床用ワックスと古いコーヒー、そして安煙草のフィルターが混ざり合った特有の匂いが鼻を突いた。

正面の受付カウンターは、厚さ二インチの防弾ガラスで仕切られていた。その奥で、カーキ色の郡保安官補の制服を着た中年の看守が、書類にスタンプを押す手を止め、ガラス越しに視線を上げた。

「面会の手続きかね」

看守の口調は事務的だったが、クリスがドキュメントケースから取り出した書類を小さな受け渡しトレイに滑り込ませると、その視線はすぐに警戒を解いたものへと変わった。

「オレゴン大学法学部のクリストファー・ベネットです」

クリスは、低く落ち着いた、聞き取りやすい声で名乗った。

「刑法判例演習の一環として、加重第一級殺人容疑で拘禁されている被疑者の初期弁護環境、および勾留手続きの適正性に関する実地調査を行っています。こちらは大学院法学部長の添え状と、ロバート・ハリス州議会議員事務所からの身元保証書です」

トレイの上に置かれたのは、オレゴン大学の学生証、公印の押された演習調査計画書、そしてハリス議員の筆記署名が入った公式レターヘッドだった。

看守は書類を一枚ずつ指先でめくり、学生証の顔写真とクリスの顔を見比べた。その眉が、ふと微かに上がった。

「……ベネット? ああ、君があのベネット君か」

看守の顔に、明確な認識の色が広がった。

「テレビを見たよ。KPL-TVの生放送インタビューだ。ポートランド市警の老いぼれ刑事にいわれのない嫌疑をかけられ、毅然と無実を訴えていた青年だな。……うちの家内も君の肩を持っていたよ。真面目にボランティアをやっている学生を犯人扱いするなんて、警察の横暴も甚だしいってね」

「恐縮です」

クリスは小さく顎を引き、恥じらうように穏やかな笑みを浮かべた。

「あの件では市民の皆様にご心配をおかけしました。ですが、法を学ぶ身として、制度全てに対する信頼を失ったわけではありません。だからこそ、今回起訴された神崎氏がどのような手続きの下で権利を保障されているのか、学術的な観点から客観的に記録しておきたいのです」

「感心だな。将来は優秀な法曹になれるだろうよ」

看守はボールペンを走らせ、来訪者記録簿(ビジター・ログ)にクリスの名前と所属、入館時刻を素早く記入した。そして、引き出しから赤いインクの浸透印を取り出し、特別面会許可証の用紙に力強く印を押した。

「神崎猛は、第一級殺人の罪状認否を終えたばかりの最重要勾留者だ。通常の面会は親族と担当弁護士に限られているが、議員事務所の推薦状と大学の承認があれば問題ない。……ただし、持ち込めるのは筆記用具と用紙だけだ。ドキュメントケースはここのロッカーに預けてもらう」

「承知しています。規則に従います」

クリスはケースから黄色のリーガルパッドと一本のパーカー製ボールペンだけを抜き取り、ケースをカウンター脇のスチール製コインロッカーへと収めた。鍵を抜き、ポケットへ滑り込ませる。

その一連の動作の最中、クリスの脈拍は平時と何ら変わることなく、一定のリズムを刻み続けていた。

彼にとって、この拘置所への訪問は、義憤に駆られたゆえの使命感でも、無実の罪を着せられた男への憐憫でもなかった。

それは、自らの閃きと入念な下調べによって組み上げられた「神崎猛に似つかわしい冤罪」という作品が、この司法という晴れの舞台でどれほど見応えのある出来栄えになったかを、特等席から見物するための最上級の娯楽だった。

自分が深夜にカスケードの森に埋めたサラ・ジェンキンスの遺体。

トビーの傷痕を模倣して配置した七人目の遺体。

そして、工具小屋の床下に滑り込ませた十四金のペンダント。

それら自らが配置したあからさまな仕掛けの数々が、警察の鑑識を通過し、大陪審の起訴状となり、今やこの堅牢なコンクリートの建物の奥で、一人の男を厳正に社会から隔離している。その濡れ衣の影響力を、事件の黒幕としての優越的な位置から直接確かめること──それこそが、クリスにとっての至上の悦楽をもたらす儀式だった。

「金属探知ゲートをくぐってくれ」

看守がカウンターの横の鉄扉の電子ロックを解除した。

バチリ、と重い電流の切れる音が響き、ラッチが外れる。

クリスは枠組みだけの探知ゲートをくぐり、ポケットの中身──ロッカーの鍵、ハンカチ、数枚の硬貨──を木製のトレイに載せて係官の検査を受けた。衣服の裾を軽く叩かれる形式的な身体検査(パットダウン)を終えると、もう一人の若い看守が彼の前へと進み出た。

「案内する。ついてきてくれ」

看守の腰に下げられた大型の真鍮製キーリングが、歩行に合わせてジャラリと鈍い音を立てた。

重い防火扉を二枚くぐり抜けると、廊下の空気は一段と冷え込み、外界の光は完全に遮断された。壁面はクリーム色のエナメル塗料で塗られたコンクリートブロックで、頭上には頑丈な鉄格子で保護された白熱灯が等間隔に並んでいる。遠くの独房棟から、金属食器の擦れ合う音と、換気ダクトが吐き出す低周波の振動が、絶え間なく伝わってきた。

突き当たりにある重厚なスチール製のドアの前で、案内役の看守が足を止めた。

ドアの小窓には金網入りの強化ガラスが嵌め込まれ、黒いステンシル文字で『特別面会室・第二ブース』と印字されていた。

看守が鍵を差し込んで回し、ドアノブを押し下げた。

「神崎は弁護士以外の面会を一切拒否していたが、議員事務所と大学の調査員だと伝えたら、渋々承諾したよ。……あいつは気が動転している。入った初日から『俺をハメた奴がいる』だの『警察の陰謀だ』だの、喚き散らして手がつけられん。気をつけろよ、ベネット君」

「助言をありがとうございます。慎重に対話を進めます」

クリスは丁寧に会釈し、狭いブースの中へと足を踏み入れた。

部屋の床面積は四畳半ほどしかなく、中央を床から天井まで達する分厚いアクリル製の透明な間仕切りが完全に遮断していた。アクリル板の表面には無数の細かい擦り傷があり、中央部分には音声を伝えるための小さな通気孔が蜂の巣状に穿たれている。その脇には、壁から伸びたスチールコードで繋がれた、旧式の黒い電話受話器が二つ、それぞれの側のフックに掛けられていた。

クリスは来客側の硬いパイプ椅子を引き、静かに腰を下ろした。

黄色のリーガルパッドをアクリル板の前の狭い棚に置き、ボールペンのキャップを外す。

準備はすべて整っていた。

数分後、あの防弾ガラスの向こう側に、自らの連続殺人の重荷をすべて背負わされた「命の恩人」が引きずり出されてくる。クリスは背筋を伸ばし、唇の端に微かな、誰にも気づかれないほどの薄い笑みを浮かべながら、鉄の扉が開くその瞬間を、静かに待ち受けるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。