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第9章:「カルトの生贄」── パート5


クラカマス郡裁判所の第二法廷には、古いオーク材のニスと、傍聴人たちが持ち込んだ湿ったレインコートの湿気が立ち込めていた。


午前十一時。法廷の奥の鉄扉が開き、神崎猛が廷吏(ベイルオフ)に付き添われて姿を現した。

彼の手首には手錠が嵌められ、それがさらに腰回りに巻かれた太いスチール製のベリーチェーン(腰鎖)に連結されていた。両足首には三〇センチほどの鎖で繋がれた足枷(レッグアイアン)が嵌められており、大理石の床を踏み出すたびに、ジャラリ、ジャラリと規則正しい金属の擦れ合う音が静まり返った法廷に響いた。


神崎の隣には、シアトルから今朝方到着したばかりの私選弁護人、ロバート・グリーンが立っていた。弁護士は書類鞄から出した資料を手早くめくっていたが、その表情は極めて硬く、依頼人である神崎と視線を合わせようとはしなかった。


「……事件番号七四──二八九九。オレゴン州対神崎猛」


法壇の中央に座る初老の予審判事が、眼鏡の奥から書類を見下ろしながら、乾いた声で読み上げた。


「クラカマス郡大陪審は、検察局から提出された証拠物件および証言録取に基づき、被疑者神崎猛に対する正式起訴状(トゥルー・ビル)を受理した。罪状を読み上げる。……第一訴因、サラ・ジェンキンスに対する加重第一級殺人。第二訴因、身元不詳の女性に対する加重第一級殺人。第三訴因、死体損壊および遺棄罪。ならびに、保護観察下の少年トビー・ジェンキンスの不法拘禁および過失致死の疑い」


法廷内の記者席から、一斉にペンの走る乾いた音が響いた。

大陪審の起訴決定は、神崎の逮捕からわずか二十四時間余りで下されていた。通常なら数週間を要する審理がこれほど迅速に通過したのは、検察側が提示した「被害者のペンダント」「ロープと丸太の物理的鑑定一致」という物証の連鎖に、大陪審員たちが何一つの疑問の余地も見出さなかったことを示していた。


「被告人、罪状に対する認否は」


判事の問いに対し、弁護人のグリーンが一歩前へ出た。


「無罪を主張します。検察側の証拠はいずれも状況証拠に過ぎず、被告人は被害者らと何らの面識もありません。また、被告人の社会的地位および逃亡の恐れがない点に鑑み、適切な保釈保証金の設定を求めます」


法廷の向かい側で、アーサー・バレット副検事が音もなく立ち上がった。

仕立ての良いスリーピースのポケットに片手を入れ、もう一方の手で起訴状の束を軽く指差す。


「検察側は保釈に断固反対します。二件の加重殺人に加え、被疑者の更生施設からはさらに複数の未解決失踪事件との関連が疑われる証拠が押収されつつあります。また、施設内で行方不明となった少年の行方についても、被疑者は虚偽の届出を行っており、証拠隠滅および逃亡の恐れは極めて顕著です。公判開始まで、保釈なしの身柄拘束の継続を求めます」


判事は書類に万年筆を走らせ、一度も躊躇することなく木槌(ガベル)を硬い台座に叩き落とした。


コン、と乾いた打撃音が法廷の天井に抜けた。


「保釈の申請を却下する。被告人はクラカマス郡拘置所において、公判期日まで身柄を拘禁される。次回の罪状認否は来月四日とする」


「異議がある!」


神崎が腰の鎖を鳴らしながら声を張り上げた。

足枷のために一歩も前に踏み出せないまま、彼は法壇の判事に向かって太い首を伸ばした。


「俺は誰も殺していない! あのペンダントは誰かが俺の小屋に落としていったものだ! 俺にはシカゴやニューヨークに何千人もの支持者がいる! こんな不当な拘束が──」


「被告人を退廷させろ」


判事は神崎の顔を見ようともせず、次の書類へと視線を落とした。

左右に控えていた二人の武装廷吏が、神崎の太い両腕を背後から極め、容赦のない力で後方の鉄扉へと引きずっていった。神崎の重い足取りが、大理石の上に鈍い擦過音を残していった。


***


裁判所の重厚な石造りのポルティコ(車寄せ)の外には、どんよりした霧雨のなか、数十人の報道陣と大声を上げる群衆が押し寄せていた。


「バレット検事! コメントを!」

「神崎は容疑を否認しているのか!」


階段の上に姿を現したアーサー・バレットの前に、無数のマイクが突き出された。KPL-TVの腕章を巻いたケイト・コリンズが、十六ミリカメラを担いだカメラマンを従え、最前列で小型テープレコーダーを差し向けていた。彼女のジャケットの肩は雨に濡れていたが、その瞳には、自らの追跡取材が司法の駆り出しへと結実したことへの、極めて痛快な職業的興奮が宿っていた。


警察の黄色い規制線テープの向こう側では、地元の市民や被害者と同年代の若者たちが、手書きのプラカードを掲げていた。

『殺人施設を解体しろ』

『サラに慈悲を』

傘も差さずに集まった群衆の叫び声が、殺伐とした空気の中で反響している。


バレットは階段の中段で立ち止まり、マイクの群れを見下ろした。

彼の表情には、メディアに迎合するような笑みも、過度な昂ぶりもなかった。ただ、計算し尽くされた検察官としての外面だけがあった。


「本日午前、クラカマス郡大陪審は、神崎猛を二件の加重第一級殺人罪、および死体損壊罪で正式に起訴することを決定しました」


バレットはメモを見ることなく、明確な発音で記者団に語りかけた。


「押収された動かぬ物質的証拠に基づき、我々は公判において被告人の有罪を完全に立証できると確信しています。大冒険家という社会的肩書も、大自然による精神鍛錬という名目も、法廷においては一切の免罪符にはなり得ません」


「検事!」


ケイトが勢いよく声を上げた。


「トビー・ジェンキンス少年の遺体は見つかったのですか? 神崎が他にも被害者を山中に埋めている可能性は?」


バレットはケイトに視線を向け、わずかに頷いた。


「捜索活動は現在も保安官事務所によって継続されています。少年の失踪に関しても、過失致死罪に留まらず、証拠の進展次第で追起訴を行う方針です。……そして、オレゴン州地方検察局は、本件の犯行が極めて計画的かつ残虐なサディズムに基づいている点に鑑み、被告人に対して法の許す限りの最高刑──極刑の適用を視野に入れて公判に臨みます」


極刑という単語が出た瞬間、フラッシュの白い光が一斉に焚かれ、群衆から地鳴りのような歓声が上がった。

バレットはそれ以上質問に答えることなく、待機していた公用車の黒いセダンへと乗り込み、ドアを閉めた。窓ガラスの向こうで、記者たちを取り押さえる警官たちの姿が遠ざかっていく。



裁判所の地下階にある一時保護房。


厚い鋼鉄の格子扉が、ガチャンと耳障りな金属音を立てて閉まり、外側から巨大な鍵が回された。

カチリ、という重い閂(かんぬき)の落ちる音が、冷たいコンクリートの空間に反響した。


神崎猛は、壁にボルトで固定された硬い木製ベンチに腰を下ろした。

手錠と足枷は外されていたが、手首と足首には、数時間にわたる拘束によって皮膚が擦り切れ、赤黒い鬱血が環状に残っていた。


部屋の中には、剥き出しの便器と、小さな洗面台があるだけだった。

暖房のない地下室の冷気が、囚人服の薄い生地を通り抜けて、彼の皮膚の毛穴を収縮させていく。天井の金網の奥で、小さな換気扇がカタカタと乾いた異音を立てて回り続けていた。


神崎は、自らの両手を膝の上に置いた。

掌には、かつてカラコルムの鋭利な岩肌を掴み、シベリアのブリザードの中でピッケルを握り締めてきた、分厚く硬いタコが刻まれている。凍傷で先を失った左手の薬指の傷跡。それは、彼が地球上のいかなる極限の地にあっても、己の強靭な肉体と不屈の意志さえあれば必ず生き残れると確信してきた、誇り高き歴史そのものだった。


だが今、その肉体は何の役にも立たなかった。


壁を殴りつけても、跳ね返ってくるのは硬いコンクリートの鈍い衝撃だけだ。

無実を叫ぶ自分の声は、判事が次の事件記録へと機械的にペン先を走らせる音にかき消され、何の波紋も広げなかった。弁護士は神崎の訴えに視線すら合わせず、証拠物件目録の鑑定書番号に淡々と青いチェックを入れ、地下の通気孔から微かに漏れ込んでくる群衆の怒号は、被告人の実像など知る由もなく、滑舌よく活字通りの「死刑」を求めて低く響いていた。


神崎猛という一人の人間は、警察の調書と、科捜研の鑑定報告書と、地方紙の見出し活字によって、すでに紛うことなき「連続殺人犯」として組み立て直されていた。

彼が生涯をかけて築いてきた冒険家としての名声も、極限の大自然のサバイバル哲学も、このアメリカの司法という圧倒的な権力機構の前では、単なる「残虐な殺人鬼のパーソナリティ」という分類項目のひとつに過ぎなかった。


神崎は頭を抱え、冷え切った指先でこめかみを押さえた。

彼がこれまでの人生で戦ってきたのは、猛吹雪やクレバスといった実体的に目に見える大自然の脅威だった。そこには敵意も策謀もなく、耐え抜けばいつかは嵐が去った。


だが、この目に見えない正体不明の相手への脅威は違っていた。

誰が自分をハメたのかも分からない。なぜ敷地の裏から女の死体が出たのかも分からない。ただ、自分自身が犯した「トビーの死体の隠蔽」という命取りになり得る後ろめたさが、この得体のしれない冤罪の歯車に噛み合わされ、自分を確実にガス室の椅子へと運ぼうとしている。


神崎はゆっくりと顔を上げた。

薄暗い保護房の隅、冷たいコンクリートの床に、地下の排水溝から這い上がってきた微かな泥の染みがあった。

その黒い染みを見つめながら、世界を制覇したはずの男は、生まれて初めて、底の知れない暗黒の深淵に向かって、なす術もなく滑り落ちていくような強烈な悪寒に、身を震わせるしかなかった。


(第9章「カルトの生贄」・完)


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