第9章:「カルトの生贄」── パート2
クラカマス郡拘置所の地下取調室は、剥き出しのコンクリート壁に淡いグリーンの油性塗料が塗られ、換気扇の鈍い金属音だけが低く響いていた。
天井の中央に埋め込まれた二本の蛍光灯が、スチール製のテーブルと二脚のパイプ椅子を青白く照らし出している。テーブルの天板の中央には、あらかじめ溶接された直径五センチの鉄製アンカーリングが埋め込まれ、そこに神崎猛の左手首に巻かれた手錠の鎖が通されていた。右腕だけが自由を許された状態で、神崎は背筋を伸ばし、硬い金属の背もたれに体を預けていた。
灰色の厚手囚人服の袖口から覗く彼の手首には、昨日の逮捕時に食い込んだ手錠による赤紫色の鬱血痕が残っていた。無精髭が伸びた頬は土気色に沈んでいたが、その眼光だけは、暗闇の中で獲物を見据える猛禽類のように鋭利な光を失っていなかった。
「……録音を開始する。一九七四年十月十九日、午前十時十四分。オレゴン州クラカマス郡地方検察局、アーサー・バレット副検事による、神崎猛に対する予備尋問」
テーブルの向かい側で、三つ揃いの濃紺のウールスーツを着た男が、ポータブルのオープンリール式テープレコーダーの赤い録音ボタンを親指で押し込んだ。
アーサー・バレット。ポートランドの法曹界で「歩く法典」と渾名される、物証至上主義の若手検事だった。丁寧に切り揃えられた短い金髪、銀色のシンプルなタイピン、そして手元に広げられた黄色のリーガルパッド。彼の所作には、一切の感情の揺らぎがなかった。傍らには、メモを取るための州警察のデビス巡査部長が直立していた。
「被疑者は国選弁護人の立ち会いを拒否。シアトルの私選弁護人が到着するまでの間、事実確認のための供述録取に任意で応じる旨を事前に書面で同意した。……神崎氏、この理解で相違ないか」
バレットは万年筆を手に取り、抑揚のない声で確認した。
「相違ない」
神崎の英語は低く、喉の奥から絞り出すような重みがあった。
「俺は隠すことなど何もない。無実の人間が弁護士の背中に隠れる必要はないからな。……検事、昨夜も言ったはずだ。俺は敷地の外に埋まっていたあの二人の女など、爪の先ほども知らん」
バレットは表情を変えず、リーガルパッドの上に置かれていた茶色のクリアファイルを開いた。
中から滑り出たのは、鑑識が撮影したばかりの、八×十インチのモノクロ写真数枚だった。谷底の泥水の中に横たわる七人目の被害者の遺体。首の索条痕、そして背中や肩に刻まれた無数の広範囲な挫傷。
「被害者は身元確認中だが、推定年齢は十九歳から二十一歳。死因は頚部圧迫による窒息死だ」
バレットは写真を神崎の目の前へ滑らせた。
「法医学者の所見によれば、首を絞められる直前、あるいは絞殺と並行して、この女性は硬い鈍器で激しく殴打されている。皮膚の裂傷を伴わない広範囲な内出血は、平滑な面を持つ重量物──具体的には、貴方のアカデミーで押収されたダグラスファー製の訓練用丸太の角部によって加えられた打撃と、物理的に合致した」
「言いがかりだ」
神崎は吐き捨てるように言った。手錠の鎖が、テーブルのリングに当たってチャリと鳴る。
「カスケードの山に入れば、あんな木材など何百万本と転がっている。誰かが山で丸太を拾って女を殴ったとして、なぜそれが俺の仕業になる」
「ロープだ、神崎氏」
バレットは淡々と二枚目の写真を差し出した。遺体の細い手首に食い込んだ、太い結び目の痕跡。
「被害者の手首は、二分の一インチ径のマニラ麻ロープで、独特の三重巻きによって拘束されていた。そして、その繊維片は、貴方の宿舎の工具棚に保管されていた予備ロープと、撚り(ピッチ)も染料の配合も完全に一致している。……さらに、正門脇の工具小屋の床下からは、サラ・ジェンキンスのイニシャルが刻まれた十四金のペンダントが発見された」
バレットは万年筆を走らせる手を止め、冷徹な視線を神崎に向けた。
「遺留品が敷地内から出た。凶器が施設内のものと合致した。そして、遺体は貴方の敷地のすぐ裏の谷に遺棄されていた。……これが合衆国の司法において何を意味するか、貴方ほどの知性があれば理解できるはずだ」
神崎は奥歯を噛み締め、深く息を吸い込んだ。
額に青筋が浮かび上がっていたが、彼は自らを奮い立たせるように、背筋をさらに伸ばした。彼にとって、このアメリカの法執行官たちの態度は、極限の自然を想像できない軟弱な都市生活者の愚鈍さにしか見えていなかった。
「検事、お前たちは根本的なことを見誤っている」
神崎は、自らのサバイバル哲学を理路整然と説き明かすかのように、ゆっくりと語り始めた。
「俺がアカデミーでやっているのは、人殺しではない。『教育』だ。……現在のアメリカ社会を見ろ。若者たちはドラッグとヒッピー思想という甘えた泥沼に浸かり、親の金にあぐらをかいて、人間としての生存欲求を完全に退化させている。そんな腐った精神を治療するために、生ぬるいカウンセリングなど何の役にも立たん」
神崎は身を乗り出した。左手の手錠が限界まで引っ張られ、鉄の天板がきしむ。
「俺が極寒のシベリアやカラコルムの岩壁で学んだのは、自然の苛烈な掟だ。大自然は人間を甘やかさない。極限の寒さ、筋肉の断裂、そして骨の軋むような苦痛──その人間としての限界を肉体に叩き込んで初めて、甘やかされたひよっこが粉砕され、野生の生命力が覚醒するのだ。……ロープで縛るのも、丸太を担がせるのも、すべては彼らの腐敗した精神を叩き直すための『厳格な規律』の一環だ。痛みこそが、人間を再生させる唯一の治療薬なのだ」
神崎の瞳には、一切の躊躇もやましさもなかった。自らが信じる過酷なサバイバル哲学が、絶対的な正義であると確信している人間の、熱病のような高揚感が宿っていた。
だが、その言葉を聞きながら、バレット検事のペン先は、精密な機械のように滑らかにリーガルパッドを走っていた。
バレットの頭脳は、神崎の語る「気高き冒険家の哲学」など最初から聞いていなかった。彼が紙の上に書き留めていたのは、合衆国刑法における「第一級殺人罪」の構成要件への翻訳作業だった。
──『肉体的苦痛を与えることを意図的な指導手法として採用』=組織的かつ継続的な暴行の常習性。
──『甘やかされたひよっこを粉砕するためのロープ拘束』=監禁致傷、および重度肉体損壊の故意。
──『痛みこそが唯一の治療薬』=残虐な加害行為に対する明確な認識、およびサディスティックな嗜虐性の発露。
神崎が「サバイバル哲学の崇高さ」を主張すればするほど、バレットの手元では、それが「未必の故意による計画的加害行為」、そして「人命に対する著しい冷淡さ(Depraved-heart malice)」を立証するための、これ以上ない一級の自白調書へと仕立て上げられていった。
「……なるほど」
バレットは淡々とメモを取り終え、万年筆のキャップをカチリと閉めた。
「つまり貴方は、他者の肉体に耐え難い苦痛と損壊を与えることを自覚し、それを自らの意志で統制下において反復・継続していたわけだ。たとえ相手が呼吸困難に陥ろうと、骨折しようと、それは『覚醒のための必要なリスク』として容認していた、と」
「鎌をかけるな!」
神崎がテーブルを右手で叩いた。金属音が取調室に響き渡る。
「俺は死人など出していない! 限界を見極めるのが指導者の技量だ! あの二人の女を殺したのは俺ではないと言っているだろうが!」
バレットは神崎の怒声を完全に無視し、静かに次の資料を取り出した。
それは、前日神崎自身が作成し、マスコミ各社へ配信させた、あの緊急声明文のコピーだった。
「では、トビー・ジェンキンスはどうだね」
バレットの鋭利な刃のような声が、神崎の喉元を正確に切り裂いた。
「シカゴの医師の息子だ。重度の小児喘息の既往歴があることを、貴方は保護者からの預かり証で事前に把握していた。……にもかかわらず、貴方は彼に気管拡張剤の使用を禁じ、嵐の中で丸太を担がせて崖を走らせた。そして今、彼は『行方不明』だ」
神崎の喉仏が、ピクリと痙攣した。
それまでの怒涛の勢いが、一瞬にして止まった。
「彼は……自ら宿舎を抜け出し、脱走した。公式に発表した通りだ」
「捜索隊がアカデミー周辺の山林を十時間捜索したが、少年の痕跡は足跡一つ見つかっていない」
バレットは身を乗り出し、初めて神崎の目を正面から射すように見つめた。その眼差しは、法という名の巨大な万力で獲物を締め上げる処刑人のそれだった。
「女子大生二人の遺体が見つかったまさにその同じ森で、同じ手口の虐待を受けていた少年が、煙のように消え失せている。……貴方は『脱走』と主張するが、我々はそうは考えない。貴方の言う『人間としての限界』を超えて少年が死亡したため、貴方はその死体を山奥に隠し、時間を稼ぐために嘘の声明を出した。そして、以前から施設周辺に埋めていた女たちの死体が『脱走』じゃないと伝えてくれた。……違うかね、神崎氏」
神崎の唇が、乾いた音を立てて微かに開いた。
だが、声は出なかった。
言えるはずがなかった。
トビーの遺体は、すでに前夜のうちに原生林の奥深く、誰も辿り着けない深さの穴に埋めて隠蔽したなどと、この冷酷な検事の前に口を割れるはずがない。それを認めた瞬間、自らの「脱走」という大嘘が崩壊し、トビーに対する保護責任者遺棄致死、あるいは殺人の容疑が確定する。
トビーの死の隠蔽という自らの犯した罪を隠そうとすればするほど、目の前の二体の女性の死体という「身に覚えのない冤罪」が、自らの首に巻き付いたロープをギリギリと締め上げていく。
神崎猛の額から、脂汗がタラリと泥のついた顎を伝い落ちた。
バレット検事は、神崎のその思い詰めたような沈黙を淡々とに見届けた後、テープレコーダーの停止ボタンを押した。
ガチリ、という重いラッチの音が、取調室の静寂を切り裂いた。
「神崎氏。供述録取はこれで終了する」
バレットは立ち上がり、黄色のリーガルパッドを丁寧にブリーフケースに収めた。
「貴方の独自の『サバイバル哲学』は、大陪審にとって非常に分かりやすい殺人動機の証明になるだろう。……オレゴン州地方検察局は、貴方を複数件の第一級殺人、および死体遺棄の罪で起訴する。求刑は、ガス室による死刑だ」
バレットは一度も振り返ることなく、取調室の重い鉄扉を開けて去っていった。
重い鉄扉が閉ざされ、外側からデッドボルト(本締まり錠)が噛み合う乾いた金属音が響いた。
蛍光灯の低いハム音だけが残る室内で、神崎猛はアンカーリングに繋がれた左手を見つめたまま、動かなかった。検事が黄色のリーガルパッドに淡々とペンを走らせていた空のスチール天板を見つめながら、額から引いていく汗の冷たさを、彼はただ無言のまま肌で感じていた。




