第8章:「沈黙の目撃者」── パート1
カスケード山脈の鬱蒼とした針葉樹林を縫うように走る国道は、迷宮へと誘うかのように乳白色の濃霧に閉ざされていた。
泥を跳ね上げながら山道を登る古いシボレーの車内で、ジェリー・マッケンジー刑事は煙草の煙を吐き出した。ワイパーがガラスの結露を鈍い音を立てて拭い去るたび、視界の先には黒々としたダグラスファーの巨木群が、まるで巨大な墓標の列のように現れては後方へと流れていく。
ダッシュボードに備え付けられた警察無線のスピーカーからは、雑音混じりの緊迫した音声が途切れ途切れに響いていた。
『──クラカマス郡保安官事務所より各局。カスケード北部、神崎アカデミー周辺の山岳地帯における失踪少年捜索活動について、州警察の支援要請を受理。合同現地対策本部をアカデミー正門前林道に設置する……』
マッケンジーは、無精髭に覆われた顎を撫でながら、苦い唾を飲み込んだ。
ヨレヨレのトレンチコートのポケットの中には、今朝の朝刊が小さく折り畳まれて入っている。紙面には、行方不明になったシカゴ出身の十六歳の少年、トビー・ジェンキンスの顔写真とともに、神崎猛が発表した「暴風雨の中での単独脱走」という公式声明が大きく掲載されていた
(この件は何かとぴったりと繋がっている気がする)
マッケンジーの刑事としての嗅覚が、激しい警鐘を鳴らし続けていた。
テレビの生放送以来、ポートランド市警の上層部はクリス・ベネットの扱いに慎重になっていた。クリスがカメラの前で披露した「哀れな好青年」のペルソナと、全米から寄せられる熱狂的な擁護の声によって、警察組織はもはやお手上げ状態だった。マッケンジーに対しても、分署長から「これ以上ベネット周辺を嗅ぎ回るなら、即座にバッジを剥奪して停職にする」という問答無用の最後通牒が突きつけられていたのだ。
だが、その直後に起きたのが、この「神崎アカデミーでの少年失踪」だった。
KPL-TVのあの野心的な若い女性記者──ケイト・コリンズが突如として神崎の更生施設を嗅ぎ回り始め、その直後に少年が森へ消えた。そして何より、マッケンジーが追っていた女子大生の失踪現場の一つである州道九号線は、このカスケード山脈の山麓へと真っ直ぐに伸びているのだ。
クリスという殺人鬼の周辺で、メディアが騒ぎ、世論が踊り、そして今、人跡未踏の山奥の更生施設で死の匂いが漂い始めている。
マッケンジーには、この一連の出来事が単に偶然に時期が重なっただけだとはどうしても思えなかった。組織の命令を無視し、停職のリスクを冒してまで彼が単身シボレーを走らせてきたのは、この山奥の檻まで、クリスの仕掛けたずる賢い誘引に導かれているという、確信めいた予感があったからだった。
林道の終点、神崎アカデミーの頑強な鉄ゲートの前には、すでに十数台の車両が集結していた。
赤と青の回転灯を不気味に明滅させるクラカマス郡保安官事務所のパトカー、州警察の四輪駆動トラック、そしてボランティアの山岳救助隊員たちを乗せたバン。湿った冷気のなか、荷台からは数頭のブラッドハウンド(警察犬)の低く野太い唸り声が響き、隊員たちの足元ではぬかるんだ地面が激しく踏み荒らされていた。
マッケンジーが車を降り、ヨレヨレのトレンチコートの襟を立ててぬかるみの中を歩いていくと、大型の保安官車両の傍らに立っていた巨漢の男が振り返った。
「マッケンジーじゃないか。ポートランドの殺人課が、こんな山奥の家出人捜索に何の用があるんだ?」
声をかけてきたのは、クラカマス郡の保安官、バーンズだった。革の防寒ジャンパーを着込み、鍔の広い帽子を被ったその顔には、都会の刑事に対する明らかな疑問の色が浮かんでいた。
「管轄外なのは承知の上だ、バーンズ」
マッケンジーは掠れた声で応じ、胸ポケットから煙草を取り出した。
「だが、女子大生が消えた州道九号線はこの山脈までずっと繋がっている。行方不明になったトビーという少年について、何か新しい手がかりは?」
「まだ何もない」
バーンズは吐き捨てるように言った。
「一昨日の夜、猛烈な嵐のなかで窓を破って逃げ出したらしい。この霧だ、崖から滑り落ちて動けなくなっているか、寒さで凍えている可能性が高い。……だがマッケンジー、お前が考えているような事件性などここにはないぞ。神崎氏は世界的な冒険家であり、この山を知り尽くした男だ。彼の厳しい指導に耐えかねたひ弱なガキが、無謀な脱走をやらかしただけの話だ」
バーンズの口調には、神崎に対する揺るぎない信頼が滲み出ていた。地元の法執行機関にとって、神崎猛は「問題児を更生させてくれる頼もしい教育者」であり、雲の上の存在だったのだ。
そのとき、頑強な鉄ゲートの鍵が重々しい音を立てて開いた。
霧の向こうから現れたのは、分厚い登山用ウールコートを身にまとった神崎猛本人だった。
その後ろには、数人の頑健な体つきをしたコーチたちとともに、湯気を立てる大きな金属製のコーヒーポットと紙コップを抱えた少年たち──その先頭には、黄色い班長の腕章を巻いたビリーの姿があった。
「保安官。そして、捜索隊の皆さん」
神崎は、威厳に満ちた、しかし深く心を痛めているような重々しい英語で語りかけた。その表情には、極寒の雪原で遭難した仲間を案じる隊長のような、自らの重い責任を全うする意志が湛えられている。
「悪天候のなか、我がアカデミーの生徒のために集まっていただき、心から感謝します。トビーは……精神的に極めて脆く、保護が必要な少年でした。嵐の夜、我々の制止を振り切って森へと飛び出してしまった。この過酷なカスケードの大自然のなかで、一刻を争う事態です。どうか、彼を生きて救い出してやってほしい」
神崎は深々と頭を下げた。
そして、コーチたちに合図を送り、凍える捜索隊員たちに温かいコーヒーを配らせ始めた。
「アカデミーが所有する山岳捜索用の地図と無線機は、すべて任意に使ってください。敷地内の施設も、捜索本部として全面的に開放します。我々も総出で、裏手の尾根から捜索を支援します」
その徹底した低姿勢。その非の打ち所のない「愛情深い教育者」としての振る舞いに、集まった捜索隊たちやバーンズ保安官の表情からは、真剣モードに入ったことが見受けられた。
神崎は、紙コップを受け取る捜索員たちを温かい眼差しで見つめながら、内心では安堵の吐息を漏らしていた。
(ふぅ、チョロいものだ)
彼らの視線は一心に「行方不明になった哀れな脱走少年の救出」に向けられている。
トビーの遺体は前夜のうちに、ビリーたちと共にアカデミーの敷地から遥か遠く、人跡未踏の深い原生林の奥底に掘った穴へ埋め、ダグラスファーの太い根と濡れた黒土で手際よく隠匿してある。どれほど警察犬を動員しようとも、この広大なカスケード山脈の奥深くで、あの埋められた遺体を探し当てることなどほぼ不可能なはずだった。
仮に数ヶ月後、あるいは数年後に白骨化して発見されたとしても、それは「脱走中に足を滑らせて崖下で死亡した不幸な事故」として処理される。神崎の築き上げた冒険家としての名声も、神崎アカデミーの存続も、微塵も揺らぐことはない。現情勢は彼の想定通りに、首尾よい統制の範囲内に収まっていた。
だが、神崎が満足げに視線を巡らせた瞬間、彼の目の動きがある一点に止まった。
隊員たちの群れの端、泥まみれのシボレーのボンネットに寄りかかり、ライターの火を煙草へと近づけている一人の男。
ヨレヨレのトレンチコートを着たその中年の刑事──ジェリー・マッケンジーが、紙コップのコーヒーには手をつけず、濁った疑い深い眼光で自分をじっと見つめ返していたのだ。
神崎の背筋を、シベリアのブリザードを浴びたときのような、猛烈な悪寒が走り抜けた。
あの男の目は、他の保安官たちのような「信頼の目」ではない。混濁したお沼の底に潜む獲物の臭いを嗅ぎ取ろうとする、老練な猟犬の目だ。
「……捜索を開始してください」
神崎は表情を崩さぬまま、静かに号令を下した。
「神崎アカデミーの敷地境界線から、谷底の沢沿いにかけて、重点的に捜索をお願いします」
神崎は自らの手で、捜索隊を境界線の深い森へと誘導した。
彼はまだ知らなかった。自らが捜索隊を送り込んだまさにその谷底のブッシュの中に、クリスが仕掛けた「七人目の犠牲者」と、サラ・ジェンキンスの遺体が、彼を虜にしてきた功名利禄を跡形もなく粉砕するために眠っているということを。
警察犬の鋭い咆哮とともに、驚天動地の山狩りが、今、幕を開けた。




