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第7章:「裏切りの導火線」── パート5



嵐が去った深夜、カスケード山脈の原生林は、厚いベールのような濃霧に閉ざされていた。


神崎アカデミーの敷地境界線をなぞる錆びついた鉄条網のすぐ近くを、ビリーは一本の懐中電灯だけを手に、泥を踏みしめて歩いていた。

昼間にあのテレビ局の女リポーター(ケイト)が急襲してきたこと、そして前夜トビーの冷たい遺体を南の資材小屋から深い原生林へと隠し運んだこと。その凄まじい重圧に、神崎猛から「夜間の境界線のパトロール」を命じられたビリーは、一睡もできずにこの暗い森を彷徨(さまよ)っていた。


「ハァ……ハァ……」


雨水を吸った冷たい空気のせいで、ビリーの吐き出す息は白く濁り、霧の中に吸い込まれていく。夜のトビーの死体の隠蔽工作、そして先ほど匿名で「自殺予防ホットライン」へと掛けてしまったパニック寸前の通話。すべてが泥濘のように足元を絡め取り、彼の頭を狂わせようとしていた。


そのときだった。


林道から少し外れた、うっそうとした茂みの向こう側。本来なら誰も立ち入らないはずの硬い砂利の待避所に、ぼんやりとした薄暗い光が灯った。

ビリーは反射的に懐中電灯のスイッチを切り、身を低くしてダグラスファーの巨木の陰に隠れた。


(……車? こんな真夜中に、誰が?)




車のドアが開き、室内灯が点灯した。

その淡い光に照らし出されたのは、仕立ての良いウールコートを着た、非の打ち所のない端正な顔立ちをした白人青年だった。


(……ベネット……!)


ビリーは、泥の中に両手をついたまま、息をするのも忘れてその場に凍りついた。

テレビ画面の中で、あの女性リポーターにエスコートされながら、自らの無実を優雅に語っていたオレゴン大学のエリート法学生。なぜ、そんな「時の人」が、こんな山奥にいるのか。


クリスは、ダッジのトランクを開けた。

ガサ、ガサ、という防水シートが擦れ合う不快な音が、霧を透してビリーの耳に届く。クリスがトランクの奥から引きずり出したのは、一体の人間の「肉塊」だった。

額の真ん中で均等に分けられた栗色の長髪が、クリスの腕の間から不吉に垂れ下がり、濡れた泥の上に落ちた。それは紛れもない、若い女性の死体だった。


ビリーの心臓が、まるで肋骨を突き破らんばかりに激しく波打った。

声を上げそうになる口を、自分の泥まみれの手で必死に塞ぐ。


クリスは、冷酷なまでに慣れた手つきで、その少女の遺体を肩に担ぎ上げた。そして、先日トビーが転落した崖下の窪地へと、足音を殺して静かに運んでいく。

ビリーは、巨木の陰から、目を皿のようにしてその様子を見つめ続けた。


クリスは死体を泥の上に横たえると、その防水シートを丁寧に回収し、少女の衣服を整えた。

それだけではない。クリスは鉄条網の隙間を容易に潜り抜け、自分たち訓練生が毎日使っている木造の屋外工具小屋へと、気配を消して音もなく近づいていった。

カチャリ、と扉が開く微かな金属音が響く。

クリスは屋外工具小屋の中で何かの用事を済ませると、再び何事もなかったかのような顔で身を翻し、グリーンのダッジへと戻っていった。


ビリーは、ただ石のように硬直したまま、その死体遺棄を網膜に焼き付けていた。

トビーを死なせてしまった自分たちの秘密。そして、なぜかそのことを察知して、便乗するかのように、このアカデミーの境界線に「新たな死体」を手際よく仕込んでいく、あのテレビの中の有名人。


クリスはダッジのトランクを静かに閉め、エンジンを始動させた。ライトを消したまま、グリーンの車体は霧の林道をゆっくりと滑るように下り、やがて夜の闇の中に完全に消え去っていった。


ビリーは泥の中に這いつくばったまま、ただ激しく震えていた。

彼の瞳は、暗闇のなかで命懸けの形相を帯びていた。目撃した事実のあまりの恐ろしさに、彼の思考は完全に動転していた。



午前四時二十分。


ポートランドの静まり返ったハイウェイを駆け抜けたグリーンのダッジは、何事もなかったかのように、アパートの裏手の暗い共有ガレージへと滑り込んだ。

クリスは静かにエンジンを切り、シートに染み付いたバニラの香りを最後に深く吸い込んだ。


彼は、自分のウールコートに泥や草の破片がついていないかを暗闇の中で念入りに確認した。

そして、シンシアの車のキーと、ポケットに忍ばせていた彼女のヘアゴムを、元の引き出しへと音もなく戻した。


アパートの外では、いまだにマッケンジー刑事の薄汚れたシボレーが、クリスのフォードを見張り続けている。

マッケンジーは、標的(クリス)がこの夜、数マイル離れたカスケード山脈で、神崎猛を連続殺人犯に仕立てるための物証を仕込んで戻ってきたことなど、想像すらできていないだろう。クリスのフォードは、朝までこの駐車場から一歩も動いていないのだから。


クリスはシャワーを浴び、泥と死体の匂いを完全に洗い流すと、静かに寝室へと戻った。

薄暗いベッドの中に滑り込み、シンシアの暖かい身体を背後からそっと抱きしめる。


「……クリス?」


シンシアは微かに身じろぎをし、寝ぼけた声で呟いた。彼女は後ろから回された彼の腕を、自らの小さな手でそっと包み込んだ。


「おかえりなさい……。ボランティア、遅くまでお疲れ様。身体が、すごく冷えているわ……」


シンシアは、クリスの冷え切った胸に自らの暖かい背中をぴったりと寄せ、彼の腕をより強く引き寄せた。


「ああ、外はずっと冷気に覆われていたからね」


クリスは彼女の首筋に優しく顔を寄せ、その甘い髪の香りを嗅いだ。


「でも、君の暖かさのおかげで、一気に生き返ったよ。いつも僕を気遣って、待っていてくれてありがとう、シンシア」


「いいのよ。私は、あなたを守るためなら、何だってするわ。……愛しているわ、クリス」


シンシアは、自らの温もりの中で、クリスが安らかに眠りにつくのを愛おしく感じていた。

自分の愛車がたった今、山奥で女子大生の遺体遺棄に使われたことすら知らず、彼女はこれからもクリスを純真に愛し、彼を守るためのアリバイを吐き続けるのだ。


クリスは、その滑稽なまでの純真を揶揄しながら、暗闇の中で、静かに目を閉じた。

神崎アカデミーの境界線に配置された、サラの遺体と、手口を模倣した新たな遺体。そして、屋外工具小屋に仕込んだペンダント。

神崎に罪を擦り付ける準備は整った。後日、マッケンジー刑事とケイトの嗅覚が、この一目瞭然な物証に辿り着くことを、クリスは温もりの中で冷虎視眈々と伺っていた。



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