第7章:「裏切りの導火線」── パート3
深夜十一時四十分。アパートの裏手にある、外灯の届かない暗い階段を、クリス・ベネットは音もなく静かに降りていった。
シトシトと降る雨が彼のウールコートの肩を濡らし、深夜の湿気を帯びた冷たい風が頬をかすめる。彼はフードを深く被り、アパートの角からそっと表通りを見通した。
街灯の薄暗いオレンジ色の光の中に、ジェリー・マッケンジー刑事の薄汚れたシボレーが停まっているのが見えた。フロントガラスの奥で、刑事は両手をこすり合わせ、クリスの「ベージュのフォード」に視線を固定したまま、寒さに耐えている。彼にとって、あのフォードが動かない限り、クリスはアパートの中で大人しく眠っているはずだった。
クリスは闇の中で静かに笑った。
(間抜けな見張り役め。冷たい車内で、せいぜい朝まで凍えているといい)
クリスは身を翻し、アパートの裏路地に面した、共有のコンクリートガレージへと向かった。
ガレージの奥には、シンシアの愛車であるグリーンのダッジ・セダンが、静かに佇んでいた。彼女が自らの手で彼に差し出してくれた、あのダッジだ。
キーを鍵穴に差し込み、静かにドアを開ける。シートに身を沈めると、シンシアが好むバニラの甘い芳香剤の香りが、雨の匂いと混ざり合って漂ってきた。エンジンを始動させると、排気音は低く、深夜の住宅街に溶け込んでいく。
クリスはライトを消したままダッジをバックさせ、裏路地から大通りへと滑り出していった。バックミラーを覗き込む。マッケンジーのシボレーは、アパートの表通りに留まったまま、小さくなり、やがて闇の中に消え去っていった。
見事な脱出だった。シンシアがくれた「女神のご加護」が、マッケンジーの粘り強い見張りを、実にあっけなく突破させてくれたのだ。
クリスはヘッドライトを点灯させ、ポートランドの市街地から外れた、寂れた工業地帯へとダッジを走らせた。深夜の工業地帯は、錆びついた鉄錆とヘドロの臭いが漂い、人っ子一人いない。
クリスは、偽名で借りている、並びの古いレンタルガレージの前に車を停めた。シャッターを静かに開け、ダッジを中へと滑り込ませてから、内側から鍵を閉めた。
ガレージの天井から吊り下げられた、わずか四十ワットの白熱電球が、コンクリートの殺風景な床をぼんやりと照らし出す。その床の上に、彼が数日前に拉致し、命を奪った「七人目の犠牲者」が、冷たく横たわっていた。彼女の髪は豊かな栗色で、額の真ん中で均等に分けられていた。クリスのお気に入りであり、サラやリンダと同じ髪型だった。
クリスは、その冷たくなった少女の遺体の前にしゃがみ込み、自らの労作である傷跡の模倣を満足そうに確認した。
トビー・ジェンキンスという喘息持ちの少年が、神崎のアカデミーで受けた過酷な「指導(虐待)」の痕跡。それを、彼はこの少女の肉体の上に、極めて精緻に模倣していた。
彼女の細い手首には、太い麻ロープが幾重にも巻き付けられ、皮膚が擦り切れて生々しい赤紫色のロープ痕(擦過傷)が残されている。さらに、背中や肩には、神崎たちが丸太を担がせたときにつくであろう、重い鈍器で殴打したような広範囲の内出血(打撲痕)が加工されていた。使用したロープの切れ端と、神崎のアカデミーの林道から以前に採取しておいたダグラスファーの濡れた樹皮の破片は、すでに彼女の爪の間や、乱れた衣服の繊維の中にしっかりと擦り込んである。
(これで、模倣は完成した)
解剖医や鑑識がこの遺体を見つけたとき、彼らはトビーの遺体と共通の残痕に気づき、この犯行を「神崎猛の教育という名の虐待による死亡事故、あるいは神崎の性的サディズムによる猟奇殺人」として神崎に結びつけるだろう。神崎が世界的大冒険家の威信にかけてトビーの脱走からの行方不明を表明しても、この遺体に刻まれた「共通の残痕」が、神崎の世間的信用を紙くずの如くにまで暴落させてくれる。
クリスは、ガレージの棚の奥の金属ケースから、サラ・ジェンキンスの遺品である細いゴールドのペンダントを取り出し、自らのコートのポケットに忍ばせた。これも、神崎の敷地の境界線に「仕込む」ための大切の物証だった。
クリスは、少女の遺体を防水シートに包むと、ダッジの広いトランクへと丁寧に運び込んだ。
カチャリ、とトランクの蓋が閉まる音が、コンクリートの壁に反射して重く響いた。
──その瞬間、数マイル離れたアパートのベッドで、シンシアは唐突に目を覚ました。
「……クリス?」
寝室の扉を開け、静まり返ったキッチンへと飛び出す。
しかし、先ほどまで彼がいたキッチンには人影はなく、ただ静かな闇だけが広がっていた。すでに彼は、ボランティアの深夜シフトへと出かけてしまったのだ。
先ほど頭の中で響いたような、硬い金属が噛み合う「カチャリ」という不審な音が、ただの睡眠時の空耳なのか、それとも古い窓枠が風で軋んだ音なのか、彼女には判別がつかなかった。
シンシアは誰もいない暗いキッチンに立ち、小さく身震いをした。
まさか自分の愛車ダッジのトランクが、たった今、若い女性の死体を孕んで閉じられたことなど夢にも思わず、彼女は自室に戻り、愛しい恋人の無事だけを、暗闇の中でただ祈り続けるのだった。




