第6章:「キャンプの綻び」── パート10
ケイトがカスケード山脈の「神崎アカデミー」を訪れ、神崎猛とゲート越しに緊迫した心理戦を交わした翌日の午後。
KPL-TVの騒がしいニュースルームの一角で、ケイトは現像されて上がってきたばかりのモノクロ写真の束をライトボックスの上に並べ、ルーペを覗き込んでいた。
一昨日、彼女が鉄条網の外側から超望遠レンズで隠し撮りした、泥まみれの少年たちの姿。そこには、肉体の限界を迎えて虚ろな目で丸太を担ぐ少年たちの、生々しい「悲鳴」が定着していた。特に、激しい喘息の発作を起こしているように見えた小柄な少年──トビーの、胸をかきむしるような苦悶の表情は、神崎アカデミーが少年達の安全配慮に何ら関心がないことを示していた。
「全員が無事で済むはずがないわ……」
ケイトはルーペを覗いたまま、小さく呟いた。
昨日、ゲート前で自分を遮った神崎の、あのあからさまに取材を煙たがる警戒の態度。そして、彼の後ろでまるで悍ましいものでもみたかのように怯えきっていたビリーたちの視線。ケイトの記者としての知見は、あの檻の奥で、昨日まさに何かが決定的かつ取り返しのつかない事態が発生していたことを告げていた。
そのとき、ニュースルームの喧騒を切り裂いて、テレタイプがけたたましく印字音を刻み始めた。ガシャガシャと激しい金属音を立てて吐き出されるイエローペーパー(受信紙)。
「ケイト! コリンズはどこだ!」
オフィスのドアが乱暴に開き、デスクのフォスター(Foster)が興奮を隠せない様子でニュースルームになだれ込んできた。その手には、たった今テレタイプからちぎり取ったばかりの、インクの匂いも新しい受信紙と、そこに送信されてきた一枚のファックス用紙が握られていた。
「フォスター、どうしたの?」
ケイトがライトボックスから顔を上げると、フォスターは彼女のデスクに駆け寄り、その紙の束を叩きつけるように置いた。
「お前の読み通りだったぞ、ケイト! 神崎猛の事務所から、プレス向けの『公式声明』が全米の通信社へ一斉に配信された。たった今だ! これを見てみろ!」
「公式声明……?」
ケイトはデスクの上のイエローペーパーをひったくり、そこに印字された文字に目を走らせた。
そこには、以下の通りの緊急声明が記されていた 。
【神崎アカデミー・神崎猛より、報道関係者各位への緊急声明】
カスケード山脈にて少年自立更生施設「神崎アカデミー」を運営する神崎猛は、一昨日発生した不測の事態について、以下の通り公式に発表いたします。
去る十月某日の深夜、激しい暴風雨のなか、シカゴ出身の十六歳の訓練生、トビー・ジェンキンスが、宿舎の防犯窓を破り、単独で施設から脱走いたしました。
施設側は、直ちに全スタッフを動員し、夜を徹して周辺の山岳地帯の捜索を行いましたが、悪天候と深い霧に阻まれ、現時点において本人の発見には至っておりません。
我々はすでに地元の保安官事務所へ正式に『捜索願』を提出し、緊密な捜査協力を開始しております。また、捜索活動のために施設の所有するすべての資材と車両を提供し、カスケードの原生林における全力の救助活動をサポートしております。
トビー・ジェンキンス君が一日も早く無事に保護されることを、心から願っております。
「トビー・ジェンキンス……」
ケイトは、声明文に記された行方不明の少年の名前に目を留めた。
そして、フォスターが重ねて置いていった、ファックスの粗い画質で送られてきた「行方不明者捜索用のポートレート写真」に視線を移した。
そこには、シカゴの実家で撮影されたのだろう、小綺麗で育ちの良さそうな、仕立ての良いシャツを着た少年の無邪気な笑顔が写っていた。
ケイトは息を呑んだ。
彼女は手元にあるルーペを掴み、ライトボックスの上のモノクロ写真を覗き込んだ。
泥にまみれ、顔中を鼻水と泥水で汚し、今にも死にそうに白目をむいて喘いでいる、前日自分が撮影したあの瀕死の少年の横顔。
そして、今、フォスターが持ってきたファックスの「トビー・ジェンキンス」の笑顔。
骨格、鼻の形、眉の並び──。
「……彼だわ」
ケイトの指先が、驚愕で激しく震え始めた。
「フォスター、これを見て! この行方不明になったトビー・ジェンキンスという少年は、前日、私がカメラで捉えた、あの苦悶の表情をしていた少年そのものよ! 昨日私がゲートの前で神崎に直撃取材をしたとき、彼は憤って私のカメラを力ずくで遮った。あのとき、神崎はすでに、このトビーが施設内で行方不明になっていることをを隠そうとしていたんだわ!」
「その通りだ!」
フォスターは安物のシガーに火をつけ、興奮した面持ちで煙を吐き出した。
「神崎の奴、お前が嗅ぎ回っているのを知って、メディアにこれ以上隠し通すのは不可能だと判断したんだろう。警察に捜索願を出すと同時に、この声明を発表して先手を打ったんだ。『自分たちは全力で少年を捜索している、善良な更生施設だ』というカモフラージュのためにね。だが、世間は騙されん。お前が昨日撮ったあの『虐待の証拠』のフィルムと、この『少年の脱走事件』が結びつけば、これは地方ニュースの枠を超える。シカゴの心臓外科医の息子が、大自然の虐待キャンプから命がけで逃げ出し、嵐の山中で遭難した──全米が飛びつく超ド級のニュースだ!」
フォスターの言葉に頷きながらも、ケイトは、神崎が発表したその「偽りの声明」のさらに奥にあるトビーの痛ましい最後の瞬間をまだ想像すらしていなかった。
神崎猛がこの公式声明を発表したのは、虐待をごまかすためではなかった。
それは、自らの「殺人(指導死)」の痕跡を、地球上から完璧に隠滅するための時間稼ぎだったのだ。
昨日、ケイトがカメラとマイクを抱えてゲート前に突撃してきたとき、神崎は背筋に凍りつくような危機感を覚えていた。トビーの冷たくなった死体は、まだ敷地内の古い資材小屋のキャンバスシートの下に眠っている。もしメディアが警察や保安官を動かし、この敷地内に強制捜査が入れば、遺体は即座に発見され、自分は「サディストの殺人鬼」としてすべてを失う。
神崎は昨日夜遅くに、カスケードの深い闇のなか、手なずけたコーチたちとビリーを引き連れて、資材小屋からトビーの遺体を引きずり出したのだ。
彼らはトビーの死体を担ぎ、道なき急斜面を何マイルも登り、外界から完全に隔絶された、人跡未踏の原生林の深部へと運び込んだ。そして、シャベルでカスケードの黒い泥を深く掘り返し、トビーの遺体を埋め、その上に濡れた土とダグラスファーの太い根を被せて、森に溶け込むように偽装した。
遺体を原生林の深部へ廃棄したのを見届けた後に、神崎は地元の保安官事務所へ電話をかけ、この「公式声明」をマスコミへと一斉に配信した。
すべては、もし万が一、数ヶ月後にトビーの遺体が発見されたとしても、それは「脱走中に足を滑らせて転落し、頭部を強打した不幸な事故」として処理されるようにするための、自身への安全配慮に基づいた工作だった。
「ケイト、すぐにカスケードへ戻れ」
フォスターがデスクを叩き、ケイトの顔をぎらついた目で見つめた。
「地元の保安官事務所が捜索隊を組織している。お前はKPL-TVの看板記者として、その捜索活動の最前線に潜り込め。神崎の鼻を明かし、あの檻の中で何が行われていたのか、そして脱走したトビーがどこへ消えたのか、すべての真実を暴いてこい。これはお前にしか書けない最高の記事になるぞ」
「約束するわ、フォスター」
ケイトはライトボックスの電源を切り、自分のスチールカメラのレンズカバーを強くはめ直した。
「あのゲートの向こうにある神崎の正体を、私が暴き出して見せる」
彼女は自分のポータブルレコーダーとカメラをバッグに放り込み、オフィスを飛び出した。
愛車のシボレー・ベガのエンジンをかけながら、ケイトの胸は立身出世への予感で激しく脈打っていた。しかし、彼女はまだ知らなかった。
自分が向かうその深い森の谷底には、すでにクリスによって先に隠滅されたサラ・ジェンキンスの遺体が埋められており、神崎たちが昨夜隠したトビーの死体と結びつく準備を終えていること。そして、自分こそがその二つの「死」を結びつけ、神崎を連続殺人犯の身代わりに仕立て上げるための、クリスにとっての便利な小間使いに過ぎないということを。
シボレー・ベガは激しいエンジン音を立てて駐車場を滑り出し、再び深いカスケードの森へと向かって疾走していった。




