第6章:「キャンプの綻び」── パート9
カスケード山脈の麓にある小さな町、ウェルチェズのガソリンスタンド。
土砂降りの雨のなか、錆びついた公衆電話ボックスのガラスは、ビリーの荒い呼吸で白く曇っていた。
「ハァ……ハァ……」
ビリーの指先は激しく震え、ダイアルを回すコインを二度も泥の中に落としかけた。アカデミーの宿舎に監禁された訓練生たちの食料を調達するための、真夜中の買い出し。コーチがトラックの助手席で居眠りをしているわずか数分間の隙を突き、彼はこの電話ボックスへと駆け込んだのだ。
トビーの、あの頭部が割れた冷たい死体の感触。神崎の「単独脱走にしろ」という事実をねじ曲げる命令。そして今日、ゲートの前に突如現れたテレビ局の女リポーター(ケイト)の、具体的な情報を知っているような物言い。
(もう駄目だ。俺は豚箱に入れられる。ボスのために、俺は人殺しの共犯になったんだ……)
極限の恐怖と罪悪感に押し潰されそうになったビリーの脳裏に、かつて神崎のデスクの上の書類で見かけた、ある番号が閃いた。
──『ポートランド自殺予防ホットライン』。
匿名で、誰も自分を知らない相手に、この胸を切り裂きそうな「秘密」を吐き出したい。そうしなければ、自分の頭が狂ってしまいそうだった。ビリーは震える手でダイアルを回した。受話器の奥から、カタカタというアナログな接続音が響く。
同じ頃、ポートランド市街の静まり返ったホットライン事務所。
午前二時四十分。壁の掛け時計がチクタクと規則正しく時を刻むなか、クリス・ベネットは、誰もいない事務室のデスクで穏やかにコーヒーをすすっていた。
テレビ出演(生放送)で知名度が上がって以降、彼はホットライン(相談センター)の「模範的な特別相談員」として、周囲の職員たちからさらに絶大な信頼を寄せられるようになっていた。。だが、クリスは慢心することなく、週に一度のこの深夜の当直シフトに、模範的な相談員として真面目に出席し続けていた。自分の「善なるペルソナ(仮面)」を社会に維持するためには、この地味な社会的弱者の話し相手が、今なお最高の隠れみのだった。
チリリリリン──。
机の上の黒い電話機が、静寂を破って鋭い金属音を響かせた。
クリスは優雅に受話器を取り上げ、訓練され尽くした、温かく澄んだ声を吹き込んだ。
「はい、ポートランド・クライシスホットラインです。お辛いことがあったのですね。僕はここにいますよ。あなたの声を聴かせてください」
『ハァ……ハァ……誰か……助けて……』
受話器の向こうから、極度のパニックに陥った、ひどく掠れた若い男の声が聞こえてきた。背景には、激しい雨音と、時折通過する大型トラックの重いエンジン音が混ざり合っている。公衆電話からのようだ。
「落ち着いてください。ゆっくりでいい。何があったのですか?」
『僕、大変なことをしちまったんだ……。わざとじゃない。でも、あいつが死んじまって、ボスがそれを隠せって……。山奥の古い小屋に、トビーを隠したんだ……』
クリスは微笑んだまま、その瞳の奥の光を鋭く細めた。
彼の優秀な頭脳が、これが退屈な「社会的弱者の愚痴」などではないことを瞬時に察知した。
「トビー、ですね。彼はどうして亡くなったのですか?」
『崖から……崖から落ちたんだ。頭を強く打って……血が凄くて……。ボスが、あいつは脱走したことにしろって言った。でも、今日、テレビ局のカメラを持った女がゲートの前に現れて……。僕、怖くて、もう狂いそうだ!』
(──カメラを持った女)
そのキーワードが、クリスの脳内で、精巧に作り上げられた舞台の歯車として上手に噛み合った。
先日、彼はケイト・コリンズに「神崎アカデミーの少年虐待」の噂を教えた。そして今日、ケイトはカメラを持ってカスケードの森へ向かった。そして今、カスケードの公衆電話から「ボスがトビーの死体を山奥の小屋に隠した」「今日カメラを持った女が来た」と泣き叫ぶ少年が、自分の電話にかかってきている。
(神崎アカデミーの、非行少年の1人か……!)
これほどの運命の符合が、この世にあるだろうか。
クリスは、自分の喉の奥から湧き上がるような、狂おしいまでの歓喜を必死に抑え込んだ。受話器を握る指先が、興奮で熱くなる。だが、彼の声はどこまでも穏やかで、同情に満ちた相談員のままであり続けた。
「……それは、本当にお辛い経験をされましたね。あなたは悪くない。すべては『ボス』の命令に従っただけです。安心してください。……ねえ、君がいるのはどこですか? 君を今すぐ、その『ボス』の脅威から救い出してあげたいんだ。場所を教えてくれませんか?」
クリスの、あまりにも優しく、そして「核心」へと踏み込んでくる静かな声。
受話器の向こうのビリーは、その声のトーンに、咄嗟に身構えた。
自分は、言ってはならないボスの秘密を、見知らぬ他人にすべて喋ってしまったのだ。もしこれがボスに知られたら、自分もあの資材小屋の床に転がされることになる。
『あ……違う、僕は、そんなこと言ってない……!』
「待ってください。君の名前は?」
『いやだ! 忘れてくれ!』
ガチャリ、と一方的に通話が切れる乾いた金属音が響いた。
受話器からは、虚しいツーツーという発信音が流れるだけになった。
クリスは受話器を置き、しばらくの間、静まり返った事務室の中で直立不動のまま佇んでいた。窓の外の雨音を聞きながら、彼の胸には、天が自らに与えてくれた思わぬ僥倖に対する、驚嘆すべき歓喜が満ちていた。
神崎のアカデミーで、ついに死人が出た。それも、神崎自身が自らの保身のために「脱走」と偽って死体を隠蔽したのだ。そして、神崎の敷地のすぐ隣の谷底には、クリスがすでに遺棄したサラ・ジェンキンスの遺体が眠っている。
自分が仕組んだ計画すらも遥かに凌駕する、この奇跡的な偶然。神崎猛という極上な身代わり(スケープゴート)が、自ら首を括るためのロープを持って、クリスの用意した舞台へ躍り出てくれたのだ。クリスはコーヒーを一口飲み、受話器を見つめ、歓喜の中で、自らの罪を代わりに背負って監獄へと誘われてくれるその偉大な冒険家に対し、心からの「感謝」を捧げるのだった




