小説『名もなき荒野のブッシュ』 第1章:「猟犬と美しき獣」── パート4
ベージュのフォード・セダンのフロントガラスを、雨に濡れたワイパーが左右に規則正しく撫でていた。ゴムがガラスを擦る不快な高音が、深夜の車内に響く。
クリストファー・ベネットは、片手でハンドルを緩やかに握りながら、バックミラーに映る自分の顔を見つめた。暗がりの街灯に照らされたその表情には、カフェで見せた柔和な微笑みの破片すら残っていなかった。ただ、冷徹で、平坦な、陶器の仮面のような無表情があるだけだった。
「ジェリー・マッケンジー」
クリスは声に出してその名を呟いた。口元が、わずかに歪む。
刑事のあの哀れなほどに充血した目。無精髭に覆われた、焦燥しきった顔。自分を犯人だと確信していながら、法という名の透明な壁に阻まれて手も足も出ない猟犬。その滑稽な姿を思い出すだけで、クリスの背筋には甘美な震えが走った。
クリスにとって、殺人とは単なる肉体的な破壊ではなかった。それは、社会のルール、道徳、そして法という巨大なシステムを自分の知性によって欺き、ひれ伏させるゲームだった。マッケンジーが執念深く追ってくればくるほど、ゲームの難易度は上がり、勝利した時の脳髄を焦がすような万能感は高まる。マッケンジーは、彼が極上のゲームを楽しむために用意された、最高の観客だった。
車はポートランドの静かな住宅街に入り、古びたアパートメントの前に滑り込んだ。エンジンを切ると、車内は一瞬にして静寂に包まれる。
助手席のグローブボックスを開けると、中には一冊の小さな革の手帳と、一本の真鍮製のキー、そして細い金色のペンダントが収められていた。失踪したリンダ・カーターの首元に飾られていたものだ。クリスは指先でその冷たい金属に触れた。指先から、あの夜の彼女の恐怖に満ちた悲鳴と、体温が失われていく感触が蘇ってくる。
「……僕の、小さなコレクション」
彼は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。胸の奥に眠る獰猛な獣が、次の獲物を求めて低く唸り声を上げているのを感じた。だが、まだ焦る必要はない。ゲームは慎重に進めなければならない。
クリスは手帳とペンダントをグローブボックスの奥深くに隠し、鍵をかけると、車を降りてアパートの階段を上った。
ドアを開けると、オレンジ色の温かい照明と、焼き上がったばかりのチキンパイの香りが彼を出迎えた。
「おかえりなさい、クリス」
キッチンから現れたのは、シンシアだった。豊かなブロンドの髪を後ろでまとめ、エプロンをつけた彼女は、天使のように無垢な笑顔をクリスに向けた。彼女はオレゴン大学の事務員で、クリスが図書館で声をかけて以来、彼の「完璧な恋人」として寄り添っている。
「遅かったのね。また図書館で憲法の勉強?」
「ああ」
クリスは一瞬にして「恋人を愛する誠実な青年」の仮面を被り、彼女の額に優しくキスをした。
「判例の研究が長引いてしまってね。マッケンジー刑事にも会ったよ。彼はまだ、あの可哀想な失踪事件の捜査を一人で続けているらしい。本当に気の毒なことだ。誰もが諦めかけているのに、彼だけが夜を徹して走り回っている」
「本当に……でも、クリス。あなたまでその事件のことで無理をしないでね。最近、警察の人があなたを何度も呼び止めているって聞いて、私、少し心配なの」
シンシアはクリスのジャケットを預かりながら、不安そうに眉をひそめた。
「心配いらないよ、シンシア」
クリスは彼女の両肩を優しく包み込み、その澄んだ瞳をじっと見つめた。
「僕はただの目撃者の一人として、できる限りの協力をしているだけだ。マッケンジー刑事は少し熱心すぎるだけさ。僕には何一つやましいことなんてない。君という世界で一番大切な存在が、ここにいてくれるんだから」
その甘い言葉に、シンシアの瞳から不安が消え去り、陶酔したような色彩が戻ってきた。彼女はクリスの胸に顔を埋め、彼を強く抱きしめた。
クリスは彼女の背中を優しく撫でながら、窓の外の暗闇を見つめていた。
シンシアのこの絶対的な盲信。それこそが、彼の最強のアリバイであり、マッケンジーの牙を防ぐ強固な盾だった。もし警察が自分を疑っても、この清廉で誰からも愛される女性が、涙ながらに「クリスはあの夜、ずっと私と一緒にいました」と証言すれば、陪審員も世論もすべて味方につけることができる。
シンシアの髪に鼻を寄せ、その甘いシャンプーの香りを嗅ぎながら、クリスの脳内ではすでに、六人目の獲物を狩るための冷徹なシミュレーションが始まっていた。




