小説『名もなき荒野のブッシュ』 第1章:「猟犬と美しき獣」── パート3
州警察本部の三階にある分署長室は、安物の葉巻の煙と、長年蓄積された古い暖房の焦げた臭いが混じり合っていた。
「正気か、ジェリー」
机の向こうで、ハーヴェイ・ルイス分署長は眼鏡を外し、疲れた手で目頭を押さえた。彼の手元には、マッケンジーが今朝提出したばかりの捜査令状の請求用報告書が置かれている。
「クリストファー・ベネットの自宅、および彼の車の捜索令状だと? いったい何を考えている」
「奴が犯人です、署長」
マッケンジーは掠れた声で言った。彼は一晩中、クリスの身辺調査資料と犠牲者のアリバイを照らし合わせていた。目の下には黒い隈が浮かび、無精髭が顎を覆っている。
「リンダ・カーターが消えた夜、奴の行動には数時間の空白がある。さらに奴は昨日、東側駐車場の街灯が切れていたことを私に仄めかした。警察がまだマスコミに発表していない、リンダの拉致現場を奴は正確に知っていたんだ。これが動かぬ証拠でなくて何です」
「証拠だと?」
ルイスは報告書を乱暴に放り投げた。
「ただの偶然の符合だ。奴は毎日あのキャンパスに通う法学生なんだぞ。どの街灯が切れていて、どの駐車場が暗いかくらい、夜間に歩いていれば誰だって気づく。それを理由に令状を請求してみろ、判事から大笑いされて突き返されるのがオチだ」
「しかし──」
「お前が令状を突きつけようとしている相手が誰か、本当に理解しているのか?」
ルイスは身を乗り出し、人差し指で机を叩いた。
「クリス・ベネットは、次期市長候補であるハリス議員の選挙事務所で最も信頼されているボランティアだ。ハリスは警察の予算権を握る委員会のトップでもある。そんな政治的な『秘蔵っ子』を、何の物証もなく、ただの『刑事の勘』だけで家宅捜索してみろ。ハリスの陣営が黙っていると思うか? 人権侵害、警察の横暴、不当な嫌がらせ──あらゆる容赦ない言葉で、我々は新聞に叩き潰される。お前一人の問題じゃない。この分署全体の首が飛ぶんだ」
マッケンジーは拳を握りしめた。
「政治的な配慮など、被害者の命の前には無価値です。奴が次の獲物を狙っているのは間違いない。今動かなければ、六人目の犠牲者が出る」
「ならば物証を持ってこい」
ルイスは冷酷なトーンで言い放った。
「リンダの遺体、あるいは奴の車から彼女の血痕、髪の毛、指紋。どれか一つでもいい、裁判に耐えうる物理的な証拠をだ」
「それが簡単に手に入れば苦労はしません。一九七四年の今、我々が持っている鑑識技術では──」
「言い訳をするな!」
ルイスの声が響き、部屋が一瞬で静まり返った。
「技術が足りないなら足で稼げ。だが、ベネットへの直接の接触は当面一切禁じる。奴を刺激して、選挙事務所や大学から抗議文が届いたら、私はお前をバッジ剥奪の上で停職処分にせざるを得ない」
ルイスは再び眼鏡をかけ、手元の別の書類に目を落とした。それは、マッケンジーに対する「これ以上の対話の拒否」を意味していた。
「……下がっていいぞ、ジェリー。少し休め。お前の奥さんが家を出てから、もう一ヶ月近くだな。少しは頭を冷やした方がいい」
マッケンジーは何も言わず、分署長室を後にした。
重いドアが閉まる音を背中で聞きながら、彼は長い廊下を歩いた。廊下の壁に貼られた「模範警察官」のポスターが、彼をあざ笑っているように見えた。
署の外に出ると、雨は一段と激しくなっていた。ポートランドの冷たい空気が、彼の熱くなった頭を容赦なく冷やしていく。
マッケンジーは、駐車場に停めた自身のシボレーのシートに深く身を沈めた。
「物証……」
彼が求めているものは、クリスという完璧な怪物の前ではあまりにも遠い存在だった。当時の科学捜査は、カーペットの繊維を照合することすら一苦労で、仮に同じ繊維が見つかったとしても「同型の車ならどこにでもある一般的な繊維」として弁護側に容易に論破されてしまう時代だった。
クリスは、社会のルール、法律の限界、そして人間の心理的バイアスを完全に把握し、それらを自らの防壁として武装している。
マッケンジーはハンドルを強く叩いた。クラクションが雨の夜に寂しく響く。
「誰も奴を止められないというのか」
システムの内側にいる限り、クリスには触れることすらできない。マッケンジーは、自分が正義の執行者でありながら、法という名の巨大な檻に閉じ込められているような強い無力感に襲われていた。
それでも、彼は諦めるつもりはなかった。引き出しの奥にある、クリスの写真。あのガラスのような瞳が、暗闇の中から自分を見つめている。
マッケンジーはエンジンをかけ、雨の中、大学キャンパスの方向へと車を走らせた。彼にはまだ、やるべきことがあった。




